はじめに「MANO」17号の反響について、いくつかのことを書きとめておきたい。
「詩客」の「俳句時評50回」(5月4日)に湊圭史が拙論「筒井祥文における虚と実」にふれて、次のように書いている。
「川柳にしろ、落語にしろ、説明ができるかどうかは別として、読み終え(話し終え)たところで、すとんと落ちるかどうかが重要である。さらに言えば、すとんと落ちて、しかも説明しようとするとその面白さが逃げてゆくようなものが上質なのだ。こうした句を紹介しようというのは、評者にとってはじつに厄介である」
その上で、湊は「弁当を砂漠にとりに行ったまま(筒井祥文)」についての小池の読みを引用したあと、次のように述べている。
「こうした一種の解題はじっさいの読みで起こる過程の引き延ばしでしかない。『弁当を~』の句が分かる読み手には、一読ですとんと、小池が丁寧になぞっている心的過程が過ぎて、やられたな、とニヤっと笑みが浮かぶはずだ。また、その読みとられの『速さ』こそが魅力の一端、いや大きな部分を占めているのだ。(もちろん、小池はそれを分かったうえで、あえてスローモーションで過程を見せている。)」
湊の言うように、川柳作品の読みの過程において、了解は一瞬の出来事である。同じことは選の過程についても言える。選者は一瞬で句を理解する。あるいは採る・採らないという理解(判断)をする。その過程をスローモーションのように解読してみせることが、果たして読みの作業に価するかどうか。とはいえ、「選は批評なり」と以心伝心の腹芸ですませるわけにもいかず、何らかの言語化は必要となる。このあたりがジレンマである。
湊の文章を受けて、山田耕司は次の週の「詩客」・「俳句時評51回」(5月11日)で「MANO」を取り上げている。
「川柳とは、さて、どのようなものなのかを説明しようにも、それはなかなかムズカシイ。いや、俳句とはなにか、ということだって語りきれない。実のところ、短詩型ということのシバリを踏まえた上で、さて、ソコから先をどう分別したものか、それはやっかいなことなのである。
やっかいなこととどう向かい合うか。
A やっかいだから、かかわらないでおく
B やっかいだけど、白黒つけなくちゃならないので、境界線にこだわる
C やっかいだなぁといって面白がる 」
その上で、山田は次のように述べる。
「ひとつの境域と別の境域とのかかわりあいの場においては、私たちの批評はその性質を露見させがちであるように思われるのであり、奇しくも『俳句時評』における湊さんの川柳評に、メカニックとオーガニックがほどよく融合している視線を感じるところがあり、それでことさら面白く拝読したのであった。」
やっかいだなぁといって面白がる人々が徐々に増えてきているのは心強い。
さて、川柳誌「ふらすこてん」21号の「一刀凌談」のコーナーで、石田柊馬は川柳の「一章に問答」について触れている。「一章に問答」とは、呉陵軒可有の川柳観として有名で、石田も引用している『川柳総合大事典(用語編)』の「問答の構造」に次のようにある。
「『一章に問答』は、附句独立の基本理念であり、構造としての川柳性そのものを指している。一章の中に、問と答というかたちで二つの概念を対立させ、その矛盾、葛藤にアイロニーを求めようとするもので、取合せ、配合と同義。また現代的な二物衝撃やモンタージュのもとをなす原理念として受け継がれている」
この「問答構造」について、石田は次のように言う。
「さては一ところに川柳人を止める制度であったかと、頷いたり反発したりするのだが、それが好きだったのだろうとの自問に、その通りでありましたと認めるよりない。句会のシステムなど問答体そのものだが、川柳の近代化の過程で、『問い』に一句の主意、『私の思い』が置かれると、他の文芸との差異が不透明、拘らなくてもなどと、自らの中途半端さが浮上する。さらに、問答体が、象徴性、象徴語を重用する文芸に仕向けていたかと、反芻に及ぶ」
石田柊馬一流の屈折に満ちた文章であるが、私なりに言葉を置き換えてみると、
①問答体は川柳が一句独立したときの基本だが、規範として作用すると反発を感じる。
②しかし、川柳人はけっこう問答体が好きである。
③題をテーマとして作句するという句会のシステムは問答体そのものである。
④問答構造の「問い」に「私の思い」を置き、「私の思い」が作品の意味性であるとすると、他ジャンル(たとえば「短歌」)との差異が不明確になり、「川柳が川柳であるところの川柳性」が曖昧になっていく。
というようなことになるだろうか。
この問答体からの逸脱・展開として、石田は湊圭史の作品を取り上げている。
虹をあおぐ前頭葉に残る足あと 湊圭史
滑舌のわるさ遮断機が降りるまで
頂点のあたりで赤んぼうが叫ぶ
倉庫のなか麦ひとつぶずつの影
「虹をあおぐ」の句について、読み解きたい誘惑も感じるが、湊は嫌がるだろう。石田は「発想の散文性が残っていると読むか、問答体の生煮えと見るか、意図的なものであれば、一句の構造とか問答体を揺さぶっているのかと思われる」と評している。また「問答体の途中で作句を止めた感」とも。
石田は最後に「問答体の相対化」という言葉を使っている。
問答体は「問」→「答」(解答付の問題集)というような単純なものではない。問答構造を基本として、さまざまなヴァリエーションが可能である。答えを出さずに途中で止めておく(読みを読者にあずける)やり方もある。多様な書き方は問答構造を揺さぶり、超克することによって表現の新たな地平を切り開いてゆくことができる。石田柊馬の批評はそういう射程距離をもっている。
訃報。5月16日、加藤郁乎が亡くなった。83歳。
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