2016年8月26日金曜日

川柳カード12号―筒井祥文と瀬戸夏子に触れて

「川柳カード」12号が発行されて一か月がたつが、これといった反響もない。反響がないのは仕方がないのだが、今号には問題性を含んだ作品や文章が掲載されているので、このまま何も問題にされないまま終わってしまうのも寂しいから、ここであえて取り上げることにする。
問題点はふたつある。ひとつめは同人作品のうち筒井祥文の作品である。筒井の10句をまず引用しておく。

選抜のアホが百人寄ってホイ
凧ゆけば頭の隅に月も出て
端正な鬼語辞典もあるこの世
サバンナの象のうんこよ聞いてくれ
自然薯を育てる脳と暮らしつつ
正体がもしもバレたらコンと鳴く
コロとあれ外れた音とハーモニカ
蚯蚓鳴く天王寺村の水準器
亜補陀羅野湿原通り真っ昼間
アホが百人せせらいで行きよった

一読して気づくように、四句目は穂村弘の有名歌をもとにしている。もとにしているというより穂村の短歌の上の句をそのまま使っている。念のために『シンジケート』から引用しておく。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい   穂村弘

私は最初、穂村の短歌のパロディかと思った。パロディなら一部を他の言葉に置き換えるはずだが、元歌の上の句が変更なしにそのまま使われている。だから、これはパロディではなくて引用なのだ。
では、祥文はなぜそんなことをしたのだろうか。私はこんなことをしても別におもしろくも何ともないと思っているが、彼は意識的にこれをやったはずだから、何らかの意図があったことになる。本人に聞いてみたわけではないから推測するしかないが、読者のさまざまな受け取り方を作者は期待したのではないだろうか。
まず、これが引用だということに気づかない読者がいると仮定して、おもしろい句を祥文が書いたと読者が誤解する場合。川柳人のなかには短歌や俳句などの他ジャンルの作品を勉強していない人もいるから、もっと短歌も勉強しなさいよと読者をからかっているのだろうかと私はまず考えた。けれども、これほど有名な短歌を知らない読者は、もしいたとしても少数だろう。
次に、穂村の短歌の上の句はこれで立派に川柳じゃないかと祥文が思っているという場合。元歌の一部を勝手にカット・アップしたことになる。
先例がないわけではない。
寺山修司が「チエホフ祭」で短歌研究新人賞を受賞したとき、盗作問題が起こったことはよく知られている。

人を訪はずば自己なき男月見草     中村草田男
向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男   寺山修司

わが天使なるやも知れず寒雀      西東三鬼
わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 寺山修司

これは俳句を短歌に引きのばしてリミックスした場合だが、寺山が俳句を短歌にリライトしたのなら、オレは短歌を川柳にして発表してやろうと祥文は思ったのかも知れない。
ここで川柳の盗作問題について触れておく。
最近ではあまり耳にしないが、川柳ではときどき盗作問題が起こる。
本歌取りというようなことではなくて、ベタな盗作である。
パロディとか本歌取りというのは立派な文芸上の技法なのであるが、盗作をする人(無意識的な場合を含めて)がいてそれを見抜く選者が少ない以上、川柳でパロディや本歌取りはあまりすべきではないと私は思っている。
さて、祥文の句に戻ると、これだけの有名歌である以上、盗作にはならないと私は思うが、ではこの句の引用がはたして効果的であったかどうかが問われなければならない。
10句のタイトルは「行きよった」となっているが、一句目「アホ」ではじまり10句目「アホ」で終るので統一テーマがあるのだろう。
関西弁で「アホ」というのは相手の人格を否定するのではなくて、やんわりとした揶揄と愛情表現のニュアンスがある。だから関西人は「アホ」と言われても怒らないが、「バカ」と言われると腹を立てる。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれ

こんなことを言うのはアホなやつやなあ、というニュアンスで祥文はここに引用したのかもしれない。そういう意味なら効果的といえないこともないが、いずれにせよ、ややこしいことは止めてほしいというのが私の正直な感想である。
(この件については、荻原裕幸と八上桐子がツイッター、ブログで少し触れている)

二つ目の問題点は瀬戸夏子の「ヒエラルキーが存在するなら/としても」という文章についてである。
歌人である瀬戸が川柳という他ジャンルに接したときの感想が率直に書かれている。ベースにあるのは「文芸ジャンルにおいて、ヒエラルキーは存在する」という認識である。「ほとんどの人がうすうすはそう思っていて、それを無視して、あるいはないという前提で話しあっていても埒があかないのではないか」と瀬戸は述べている。

小説―現代詩―短歌/俳句―川柳

というのがそのヒエラルキーである。小説が上位のジャンル、川柳が最下位のジャンルである。
私はこの文章を読んだ川柳人が誤解するのではないかと危惧していた。川柳が最下位のジャンルというのは認めたくない現実である。一部の川柳人が怒り出すのではないかと。
もちろん、瀬戸の文章の真意はそんなところにはない。
作家や詩人が歌人に対して上から目線で接するという体験について瀬戸は語っている。私は瀬戸以外の歌人からも「歌人は詩人から批判され、いじめられる」という話を聞いたことがある。詩人のなかにも優れた詩人もいれば、それほどでもない自称詩人がいるのはどのジャンルでも同じことだ。「ジャンルヒエラルキーが上なだけだろう」と瀬戸は言う。
それでは、上位のジャンルから軽視された表現者が下位のジャンルに接するときには、どのような態度をとるのだろうか。
私の経験では、上位ジャンルから受けた屈辱を下位のジャンルに向かって晴らすような態度をとる人が多い。具体的には歌人・俳人が川柳人に対して軽視する態度をとるということだ。
瀬戸は「正直、川柳や柳人と接するときにどうすればいいのかわからなかった」と書いている。確かに正直な感想である。瀬戸の凄いところは上述のようなヒエラルキー意識をともなった態度を川柳に対して絶対にとりたくないと思っている点だ。そのことが逆に彼女を緊張させていたらしいのだが、いずれお互いに肩の力を抜いたありのままの交流ができるようになればいいなと思っている。
さて、川柳人は瀬戸の文章の真意を読み取ったからか、それとも川柳が下位のジャンルと世間から見られているという認識をそもそも持っていないからか、特段の反応はなかった。私も「上位」「下位」という言い方を便宜上使ったが、必ずしもそれを認めているわけではない。川柳界が閉鎖的なままなら安全無事だが、他ジャンルとオープンに交流しようとする際にはいろいろな問題が生じてくるのだ。
川柳の自虐ネタのひとつに「第二芸術論のときに川柳は何をしていたのか」というのがある。桑原武夫が俳句・短歌を批判・否定したときに、川柳は批判対象に含まれていなかった。川柳は問題にもされていなかったのだ。だから、第二芸術論に対する川柳側の対応というものも当然なかった。無視こそ権威者の対応のなかで最大のものなのである。

2016年8月20日土曜日

川合大祐句集『スロー・リバー』

「明後日、句集が届くことになっているんですよ」
8月はじめ、伊那駅前の喫茶店で話しているときに、川合大祐がそう言った。川合の第一句集『スロー・リバ―』(あざみエージェント)が発行されることは聞いていたが、伊那行に間に合わなかったのが残念でもあり、句集が発行されるまでの数日がいっそう待ち遠しいことでもあった。
その後届いた句集を開くと、期待を裏切らない清新な句集に仕上がっていた。ネットに書きこまれたいくつかの感想を読んでも好評のようだ。「Ⅰ.猫のゆりかご」「Ⅱ.まだ人間じゃない」「Ⅲ.幼年期の終わり」の三章に分かれていて、特に実験的なのは第Ⅰ章である。
実験的でチャレンジ精神にあふれているといっても、それがどのように実験的なのかが問われなければならない。
句集のなかにはこれまで評判になった句もちらほら見られる。たとえば次の句。

中八がそんなに憎いかさあ殺せ   川合大祐

川柳入門書にはよく「五七五の真ん中の七音(中七)が八音(中八)になってはいけない」と書かれている。上五は字余りになっても許容されるが、中七は厳密に守らないといけないというのだ。それは韻律上の理由だろうが、必ずしも明確な根拠が示されているわけではない。川合は「中八の禁」に対して川柳作品のかたちで疑義を提出しているのだ。しかも「そんなに憎いか」と意識的に中八を使っている。ここでは一句が川柳論そのものになっていて、「中八」を語るときにはよく引き合いに出される作品である。

…早送り…二人は…豚になり終
(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい)

「川柳カード」誌上大会(「川柳カード」7号、2014年11月)に投句された作品である。前者の兼題は「早い」、後者の兼題は「世界」。
前者はビデオの早送りの画像を表現した句のようだ。映像的であり、スピード感があるなかに皮肉もすこし混ざっていて批評性がある。
後者は(   )を多用している。この(   )にどのような意味があるかは一概に言えないが、たとえば(   )に任意の言葉を代入していると考えてみよう。

(   )(    )(    )たぶん(     )

確定しているのは「たぶん」という語だけであり、 (世界は)という部分は兼題だから置き換えは難しいけれど、他の部分はどのような言葉でも嵌め込むことができる。とくに最後の(うつくしい)という部分は、たとえば(おそろしい)などとすることもできるかもしれないが、これを(うつくしい)としたのは世界に対する肯定的な感覚が作者にあるからだ。その場合でも「たぶん」という保留付きとなる。「目を開け世界はたぶんうつくしい」というある意味で陳腐な言述を(  )を付けて揺さぶることによって一句が成立している。
そもそも、第一章のaには「…は…の…を見るか?」というタイトルが付けられていて、私などはフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を代入して読んでしまう。

「雪に名を与えて言いたかったのは

こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」

第Ⅰ章のc「檻=容器」から。この作品は「週刊俳句」(2016年2月7日)に掲載されたもの。10句連作で、カッコにはじまってカッコで終っている。この二句に挟まれた8句にもそれぞれカッコが使用されている。
ここではカッコ記号として「   」が使われている。「  」が「檻」に見立てられているのだ。「定型」を「檻」と見ることは、単なる機知的表現ではなくて、この作者の実存から来るものだと思う。ルーティンや定型は有用なものである半面、一種の桎梏でもあるからだ。
句集『スロー・リバー』の第Ⅰ章が実験的な印象を与えるのは、句のかたちで「川柳とは何か」を問うものとなっているからだ。「メタ川柳」といっていいかもしれない。

第Ⅱ章に移ろう。ここでは主として固有名詞を使った句が集められている。
中でも「ドラえもん」の句はこれまでも注目されてきた。

二億年後の夕焼けに立つのび太
ドラえもん右半身が青色の

「川柳カード」11号に飯島章友は「川合大祐を読む―ドラえもんは来なかった世代の句―」という文章を書いている。飯島は川合大祐を「第二次ベビーブーム世代」ととらえ「この世代は『ドラえもんは必ず来る』と大人たちから言われ続けたにもかかわらず、『ドラえもんは来なかった』世代なのである」と述べている。
川柳にはドラえもんを詠んだ句がときどき出てくるが、特に川合の場合はキイ・イメージとして読み取ることができる。

さて、句集の第Ⅲ章は「幼年期の終わり」。
おやおや、今度はアーサー・C・クラークなのか。
引用はもうやめておくが、川合大祐句集『スロー・リバー』は新しい世代の川柳を提示しようとする意欲的な句集である。川柳にもようやくニュー・ウェイブがあらわれたのだ。

気をつけろ奴は単なる意味だった   川合大祐

2016年8月5日金曜日

天国へいいえ二階へ行くのです(飯田良祐)

「ユリイカ」8月号の特集「あたらしい短歌、ここにあります」が話題になっている。
「ユリイカ」はかつて(2011年10月)「現代俳句の新しい波」で俳句を取り上げ、そのときも私は書店に買いに走ったが、今度は短歌ということになる。
予想していたものとは少し違っていたが、それなりにおもしろいものだった。
まず、穂村弘と最果タヒの対談がある。
次に「短歌/イラスト」として雪舟えまの10首が掲載。雪舟えまがここにくるのか。
さらに「新作5首」として15人の作品が掲載されている。
ネットなどですでにいろいろ感想が書かれているが、歌人でない人の作品が多く載っている。歌人からは俵万智・斉藤斎藤・瀬戸夏子など、歌人以外の人では戸川純・ミムラ・壇蜜・ルネッサンス吉田などが名前を連ねている。
「あたらしい短歌、ここにあります」と言いながら、どこがあたらしいの?と首をかしげる作品もあって、玉石混淆。知らない人も多く、プロフィールが一切付いていないのは、15人を同一平面上に置いて「短歌」として読めばいいという意図だろうか。「ユリイカ」は短歌誌ではないから、「歌壇」とか「短歌界」などというものはここにはなく、一般読者の視点で編集されているとも言える。
評論は現代短歌の世界でよく名前を見かける人が担当していて、ある意味で順当な感じ。その中で新鮮だったのは、梅﨑実奈の「純粋病者のための韻律」である。梅﨑は書店員だが、短歌や短詩型文学に理解のあるカリスマ店員として知られている。彼女はこんなふうに書いている。

〈「歌集、売れてほしくないんですか」
イベントの打ち上げで同席した歌人にずっと気になっていた疑問をぶつけてみたことがある。ずいぶんぶしつけで失礼な質問だけれど、どうしてもきいてみたかったのだ。歌集というのは売るための仕組みがきちんと整っておらず、実際に現場で扱っている側としては本当のところどう考えているのか知りたかった〉

〈「文学です。どうぞ」と差し出すのでは今、マスは受け取ってくれない。店でも詩歌コーナーに迷い込んでしまって「なにここ、ポエムじゃん」と笑いながら人が立ち去っていく姿を今まで何度も見てきた。そのたび思う。文学じゃ、だめなのか。詩じゃ、だめなのか。ことばそのものじゃ、だめなのか〉

本を売るという現場で日々戦っている人の思いがここには述べられている。

短歌の発信については加藤治郎が「短歌の新しさ」を、荻原裕幸が「インターネットと短歌」を書いている。加藤はツイッター「サイレンと犀」(岡野大嗣の短歌と安福望のイラスト)について、フォロワーが11886人にのぼることを紹介したあと、次のように述べている。

〈短歌雑誌・結社誌は、歌壇のコアである。そことは別のところに短歌の読者がいる。短歌の実作者ではない読者が多いと想定する。その読者層の獲得は、長年のテーマなのである。少なくとも「サイレント犀」は、地滑り的な変動を起こす契機となったのではないか〉

そして加藤は〈「サイレント犀」のようなオープン化に短歌の未来はある〉と言うのだ。
いかに私たちがクローズドな世界の狭い視野のなかで生きているかを改めて意識させられる。

さて、7月30日、大阪・上本町の「たかつガーデン」で「飯田良祐句集を読む集い」が開催された。
良祐は2006年7月29日に亡くなったから、ちょうど没後10年になる。川柳は句会がなければ人が集まらない。ただ作品を読むためだけに川柳人が集まるのは稀有のことである。10年が経過して良祐の作品がどう読まれるのか。
ゲストに岡野大嗣を招いた。良祐とは何の面識もないのに、句集『実朝の首』を購読してくれた純粋読者のひとりである。句集の中からいくつかの句を選んで読みを語ってもらった。
岡野大嗣が選んだのは次の句である。

下駄箱に死因AとBがある
バスルーム玄孫もいつか水死体
ポイントを貯めて桜の枝を折る
母の字は斜体 草餅干からびる
吊り下げてみると大きな父である
百葉箱 家族日誌は発火する
当座預金に振り込めと深層水
言い訳はしないで桶に浮く豆腐
沸点ゼロで羽化 名前のない鳥
きっぱりとことわる白い白い雲

外を歩いているうちに死因が靴の裏に貼りついてくることがある。それを下駄箱という空間に入れておく。死因にはAとBがあるのがおもしろい。
二句目の場所はバスルーム。子孫として「玄孫」が出てくる。そんな未来の時間での死を思い浮かべている。
三句目の作中主体はポイントを貯めるのが嫌いな人なのだろう。持ちたくもないカードをいつの間にか持たされている。ポイントが貯まったらふつうはいいことをするのに、ここでは桜の枝を折るというよくないことをしてしまっている。
正確に再現できていないが、岡野はこんな感じで10句を丁寧に読んでいった。

小池正博は次の5句を選んだ。

パチンコは出ないしリルケ檻の中
ハハシネと打電 針おとすラフマニノフ
二又ソケットに父の永住権
自転車は白塗り 娼婦らの明け方
げそ天のひとり立ち滂沱の薄力粉

固有名詞、父母に対する感情、大阪の雰囲気の三点が指摘された。
良祐が読んだ本そのものかどうかは分からないが、永田耕衣や定金冬二の句集、寺山修司『書を捨てよ、町に出よう』、実朝の『金槐和歌集』、リルケ『マルテの手記』、西脇順三郎『詩学』など、良祐の句に出てくる文学者の本が会場に展示された。
第二部は、くんじろうの司会で参加者ひとりひとりが良祐の思い出や作品について語った。

『実朝の首』は飯田良祐の句集としては不完全なもので、未収録作品の中にもいい句がいくつかある。当日「補遺」として配布されたが、その中から紹介しておく。

天国へいいえ二階へ行くのです
前みつをつかんだのに何故泣いている
うむを言わさない魚屋のゴム長
イージーリスニングな時計屋のオヤジ
何ですかという虫を食べている
イットウォズマイマザー鉢を割っていた
線条痕がある等伯のふすま絵
あてどない春を炒めるゆりかもめ

私たちはもう飯田良祐の新しい作品を読むことができないが、彼の残した作品の読みを深めていくことができる。飯田良祐の川柳がこれからも読み継がれ語り継がれてゆくことを望んでいる。

2016年7月29日金曜日

今夜は連句の話をしよう

連句はふだん脚光を浴びる機会が少ないが、折にふれて顕在化してくることがある。
佐藤文香編『俳句を遊べ!』(小学館)に「打越マトリックス」というゲームが出てくる。俳句の取り合わせにおける二物の距離感を把握するための練習である。たとえば、「月」という語から連想する単語を「月」の周りに書いてゆく。「うさぎ」「夜」「団子」など、いろいろ出てくるだろう。次に今書いた単語からさらに思いつく言葉を二周目に書いてゆく。そうすると「月」→「うさぎ」→「耳」とか「月」→「夜」→「歌舞伎町」とか「月」→「団子」→「串」とかいうセットが出来てくるだろう。このとき「月」→「夜」→「星」とかいうように、元に戻ってしまってはいけないというのだ。
佐藤も述べているように、「打越」とは連句用語である。
打越→前句→付句という「三句の渡り」において付句は打越に戻ってはいけない。なぜなら「変化」こそ連句の生命線であるからだ。
佐藤がやろうとしていることは、連句の要諦を俳句一句の取り合わせに応用する技術である。

今年前半に上梓された本のうちで、注目すべき連句書が二冊ある。
鈴木漠『連句茶話』(編集工房ノア)と浅沼璞『俳句・連句REMIX』(東京四季出版)である。
最初に紹介した「打越」について、浅沼の本から改めて例示しよう。

 鞘走りしをやがて止めけり 北枝 (打越)
青淵に獺の飛び込む水の音  曽良 (前句)
 柴刈こかす峰の笹路    芭蕉 (付句)

「山中三吟」からの引用である。
北枝の句は、鞘の口がゆるくて刀がひとりでに抜けたのを即座に止めたということ。「やがて」は即座にという意味である。曽良の句は、青々とした淵にカワウソが飛び込む音を詠んでいる。鞘走った刀を止めた静寂感を破って獺が水に飛び込む音がしたのである。芭蕉の「古池や」の句を連想させる。次の芭蕉の句は、柴刈の人が険しい峰の笹路で転んだというのである。水の音とオーバーラップして地上で人が転ぶ音がするわけだ。
このような「三句の渡り」を一句の中で試みている例として浅沼は次の句を挙げている。

目には青葉    (打越)
山ほととぎす   (前句)
初鰹       (付句)

梅           (打越)
若菜          (前句)
まりこの宿のとろろ汁  (付句)

前者は山口素堂、後者は芭蕉の有名句である。
水平方向の「三句の渡り」を発句(俳句)の垂直方向に変換するとどうなるか、というのが浅沼の問題意識である。

俳句形式や連句形式で言葉と言葉の関係性をどう処理するか。ことは日本の詩歌に通底する問題であり、詩歌を「関係性の文学」ととらえたときに見えてくる光景なのだ。
そのような連俳史を読みやすいかたちで提供するのが鈴木漠の『連句茶話』である。
本書は雑誌「六甲」に連載された文章を主としている。「連句協会報」などにも転載されたから、連載時に読まれた方も多いことだろうが、こうして一書にまとめられると繰り返し読むことができて便利。
李賀や万葉集・後鳥羽院の連歌・宗祇・芭蕉・蕪村・子規・虚子などから現代連句まで、古今東西の付け合い文芸について肩の凝らない文章で語っているが、その内容は広範かつ深い。根底にあるのは「連句文芸が二十世紀のわずか百年の間に急速に衰退したのはなぜか」という問題意識である。
鈴木漠は詩人として著名であるが、連句人としても現代連句の牽引者のひとりである。連句集もすでに13冊を数える。川柳においても言えることだが、連句の世界で「詩性」というのは連句革新の契機となってきた。連句と詩との接触から新鮮な刺激が生まれるのだ。

浅沼璞の著書に戻ろう。
浅沼は西鶴の研究者として知られているが、本書に収録されている「昭和の西鶴、平成の西鶴」は高柳重信や平畑静塔の文章を引用しながら、高浜虚子と西鶴の句、攝津幸彦と西鶴の句を並べて見せる刺激的な論考である。私は浅沼の文章はおおかた雑誌で読んでいるつもりだが、これは読んだ覚えがなかった。初出を見ると「書き下ろし」ということだった。
浅沼璞は川柳誌とも交流がある。「発句の位/平句の位」(原題「それぞれの『潜在的意欲』」)は「バックストローク」4号に掲載されたものだし、「小池正博の場合」(原題「連句への顕在的意欲」)は「川柳木馬」110号に掲載されたものである。後者では次の二句が並べられていた。

切られたる夢は誠か蚤の跡      其角
昼寝から目覚めたときのかすり傷   正博

浅沼の眼力は恐るべきものだなと思う。

さて、鈴木漠や浅沼璞、あるいは別所真紀子などの少数の連句人の活躍は別として、連句に対する無理解・無関心はしばしば経験するところだ。
鈴木や浅沼の本にはともに書かれていることだが、高浜虚子が「連句論」(「ホトトギス」明治37年9月)で連句を称揚し、高浜年尾には雑誌「俳諧」で連句研究をさせ、阿波野青畝にも連句実作を命じたのに、連句がいまだにマイナーな文芸であり続けているのはなぜだろうと考えてしまう。
大阪では毎年10月に「浪速の芭蕉祭」という連句イベントを大阪天満宮で開催している。
今年は10月9日(日)に行われるが、これは連句の実作会である。翌日の10月10日(月・祝)に関連行事として「短詩型文学の集い」を計画している(たかつガーデン)。この日は連句実作ではなくて、各地の連句グループの雑誌や連句本を展示してみたい。あと、四ツ谷龍氏をゲストに迎えてお話を聞くことになっている。詳細は未定だが、連句に少しでも関心をもつ方があれば、その入り口のところを広げるイベントにしたいと思っている。

2016年7月22日金曜日

蝉羽月雑記

7月3日
玉野市民川柳大会。
第67回というから歴史ある川柳大会である。私は2003年の第54回から毎年参加している。
この大会が岡山県外からも参加者が多いのは、選者が魅力的だからである。現代川柳の清新な動向に触れることができ、印象的な川柳作品がいくつもこの大会で生まれた。
今年の選者は酒井かがり・石田柊馬・草地豊子・きゅういち・榊陽子など、「川柳カード」同人が多い。酒井かがりの披講は見事だった。

前方後円墳の後ろに潜むわたしたち  正博

同じ大会に毎年参加していると、参加者の顔ぶれがしだいに変わってゆくことに気づく。現代川柳も世代交代してゆくのだろう。

7月9日
奈良県連句協会主催の「わかくさ連句会」に出席。
来年開催される国民文化祭・奈良に向けて、奈良県連句協会が昨年発足した。毎月一回、奈良と八木でそれぞれ連句会が開催されている。私が行くのは奈良の方。
今年の10月1日(土)には国民文化祭のプレ大会が奈良県文化会館で開催されることになっている。

7月某日
「川柳カード」12号、最終校正。
今号の特集は「現代川柳と現代短歌」。山田消児・小池正博の対談「短歌の虚構・川柳の虚構」と瀬戸夏子の特別寄稿「ヒエラルキーが存在するなら/としても」の二本。
考えてみれば私自身、現代短歌からいろいろな刺激を受けてきた。「ユリイカ」8月号の特集は「新しい短歌、ここにあります」、7月27日発売らしい。楽しみだ。

7月15日
祇園祭宵々山。
いまは前祭と後祭にわかれているが、前祭の方である。
見物をする前に、京都御苑の拾翠亭にゆく。九条池のほとりに百日紅が咲いている。
御苑の中にアオバズクがいるスポットがあるので行ってみた。いた、いた!カメラを持ったバードウォッチャーがアオバズクのとまっている枝を教えてくれる。二羽いるはずなのだが、一羽だけしか発見できない。それでも嬉しい。
まだ時間があるので、京都マンガミュージアムへ。
壁にはぎっしりと漫画本が並んでいる。来館者はみんな椅子に座ってリラックスしてマンガを読んでいる。私はふだん読む機会のない少女漫画を一時間ほど読んだ。
さて、いよいよ山鉾を見て回る。私のお気に入りの山鉾は菊水鉾である。他の山鉾はいつもいいかげんに見て回るのだが、今年は山と鉾をひとつひとつ見ていった。京都のことはおおかた知っているつもりだったが、まだまだ知らないことがある。

7月16日
「第30回連句フェスタ宗祇水」に参加するため郡上八幡へ。
郡上八幡へは三度目になるので、この町のことがだいたい分かってきた。
名古屋から高山行きの高速バスで郡上八幡インター下車。町の中心部からは少し外れているが、道は知っているので、宗祇水まで歩く。博覧館では郡上踊りの実演を見て踊りの予習。「かわさき」と「春駒」のふたつはほぼマスターできたと思う。
午後四時に、おもだか屋に集合。バスで「古今伝授の里」に向かう。宗祇に古今伝授をした東常縁(とうの・つねより)の館があったあたりにミュージアムができていて、鶴崎裕雄さんの講演を聞く。連歌研究の逸話など、おもしろかった。
夜は八坂神社の天王祭へ。この神社は郡上踊りの発祥の地と言われている。インターネットで紹介されているのを見て楽しみにしていたが、川辺や神社の階段にろうそくの灯りが揺らめいて幽玄な雰囲気だった。
翌朝は宗祇水の前で発句献納。

はじまりは古今伝授の夏野かな   正博

印象的だったのは郡上の人の「私たちはこの町で生まれ育ったので、郡上の良さが自分では分からない。郡上の良さをお気づきになったら教えていただきたい」という言葉。確かにそういうものだろうなと思う。

2016年7月15日金曜日

北田惟圭句集『残り火』

北田惟圭(きただ・ただよし)は大阪の川柳人。
句文集に『四角四面』(2011年)があるが、今回は今年3月に上梓された句集『残り火』を紹介したい。
この句集には2010年から2016年までの作品が収録されているが、この間、日本では東日本大震災や福島の原発事故、安保関連法の成立などの様々な出来事があった。この句集ではそれらの出来事と正面から取り組んでいる。
巻頭に置かれているのは次の句である。

蝶が舞う新月でしたあの日です   北田惟圭

「あの日」とはいつだろう。
新月だから月の出ていない夜である。夜飛ぶのは蛾であって、蝶が舞うのは幻想的な風景と受け取れる。とにかく「あの日」何かが起こった。
恋句とも読めるし、社会的な事件を詠んでいるようにも思える。
私は最初「フクシマ」のことかなと思ったが、2010年の作品として収録されているから、時が合わない。けれども、あとの句を読んでゆくと、福島の作品が多いから、この巻頭句は予言的なものとしてここに置かれているような気がした。

国ざかい消したはずですエラスムス

エラスムスは宗教改革期の人文学者で、『愚神礼賛』『平和の訴え』などで知られている。国際的な知識人だった。
2011年作品から。

メルトダウンに煮え滾る腸
咲き初めにひらひらひらと舞う核種
良くご存知ですね犠牲のシステム
巣作りの鳥が取り込む核のごみ
フクシマの灰次々と化けている
姉弟待つピアノは堪えて朽ちるまで

原発事故をテーマとした作品は現代詩や短歌・俳句で繰り返し創られているが、川柳で記憶に残るような作品は案外少ない。表層的な事件として詠まれることはあっても、自己のテーマとして正面から引き受けた作品が少ないのである。また、時事句として詠まれるだけで、作品が文芸的にも優れたものになることは簡単ではない。北田は社会的な素材と文芸性とのあいだで苦闘しながら、この大きなテーマと取り組んでいることがうかがえる。しかも、それは一過性の営為ではなく、持続的なものだった。
次にあげるのは2012年の作品である。

すべて木が騙されていて深みどり
花が咲く核種を吸って喜びの彩
幾万年の覚悟があるかと盧舎那仏
ウランが光る蟻塚の闇
被曝に嘘はないムラサキツユクサ
三万年 目覚めの悪い眠り姫
一本の柱だったか炉心だったか

北田は自らの川柳技術を駆使して、原発の主題に向かい合っている。
ここでは原発の時間的・空間的影響に視線が広がっている。風刺や反語、七七というリズム(五七五よりも圧縮されて引き締まった表現にすることができる)などが使われている。
さらに、2013年の作品を見ていこう。

廃炉の蔕に蛆がうじゃうじゃ
蟹のいた小島の磯や再稼働
事後処理として複式呼吸する
2号炉の抗がん剤はないのです
トーデンのデスクに廃炉の絵巻物

怒りは直接的になったり深化されたりする。
次は2014年の作品。

阿修羅には凍てた吐息の布告状
春の海核弾頭を隠し持ち
紫蘭ふたたび陣地ひろげる
何気なく置かれたものが化けている
もっともっと光を 過去を掘り返す
軍神が削除キー押す第九条
ウランがはしゃぐ君のポケット
首塚の位置がずれてる 再稼働

ここではもう一つのテーマ、安保法案の問題があらわれてくる。戦後の日本人が共通認識として持っていた戦争放棄の理念が揺らぎつつある。
続いて2015年。

銃を手にしたら外せなくなる的
輪唱の途中で重くなる廃炉
みかえりの阿弥陀如来が念を押す
原発の電気は使いたくないのです
情報に上手にハサミ入れたがる
シュート回転しないピストルの弾
喃語にて力説してる平和論

北田惟圭の句集『残り火』は社会詠に正面から取り組んだ、今どき珍しい川柳句集である。川柳は諷刺を得意とするものの、批評性と文芸性を兼ね備えることは至難の業である。ひとつの主題を持続的に取り上げ、深化させていくという姿勢も貴重なものだ。
最後に2016年作品から次の句を挙げて終わりたい。

黄蝶舞う一基一基と急き立てて   北田惟圭

2016年7月9日土曜日

「川柳の仲間 旬」

伊那で発行されている川柳誌「旬」。
創刊はけっこう古くて1992年3月、この7月で206号を数える。
代表・丸山健三、編集・樹萄らき。
私自身はしばらく交流が途絶えていたが、昨年の「川柳カード」大会や今年の「川柳フリマ」などで「旬」のバックナンバーが配布され、関西でも読者が増えつつあるようだ。

さて、「旬」7月号を紹介すると、まず表紙裏に「相乗りをお願いされる観覧車」「知りあいらしい人と乗るジェットコースター」(大川博幸)の句がそれぞれ観覧車とジェットコースターのイラストに重なるかたちで描かれている。毎回、前号作品からピックアップしたものをイラスト入りで紹介されている。
続いて「せせらぎ」の欄で前号からの推奨句がピックアップされている。
同人作品は各10句。

特技などない方がいいかまわない   池上とき子
数ミリのズレに気づかぬふり二人   桑沢ひろみ
ひと呼吸ほうら世界とつながった   千春
唐突に首狩りに出て帰る道      川合大祐
音質を変えたいために風邪をひく   柳本々々
ようカラス君等の歴史強いねえ    樹萄らき
鳥もまた横切っている空のもと    小池孝一
病院はビジネスの顔しています    竹内美千代
本能のままに生きたいけれど眠い   大川博幸
愛の手を避けてあさがお伸びてゆく  丸山健三

千春の作品には「再生」の主題があり、回復のあと再び「世界」とつながってゆく喜びが感じられる。
川合大祐には作者の実体験とは次元の異なる「言語作品」を作りあげようという意識が顕著だ。「泳いだかトリケラトプスだった夏」など異なった時間・空間を一句のなかで重ねあわせる書き方がある一方、「檻がある町のラーメン屋の格子」など「檻」という川合のこだわり続けているテーマが詠まれてもいる。「川柳カード」11号に飯島章友が「ドラえもんは来なかった世代」として川合大祐論を書いているなど、川合はいま注目されている若手川柳人である。句集を出す予定があるそうだから、上梓が楽しみだ。
柳本々々はこのところ「啄木忌」「ベーダ―忌」など「忌日シリーズ」を続けている。今回は「カフカ忌」。俳句では忌日は季語となるが、川柳で季語ではない忌日を詠むとどうなるか、興味深い試みだ。忌日と何かの取り合わせというのではなくて、「カフカ」からの連想で自由に作品を作っている。「グリーンのよしだ・よしおが止まらない」という句もあって、カフカならぬ「よしだ・よしお」(誰なんだ?)という人名が使われていたりする。川合大祐は「旬」5月号で、柳本が柳俳混合のそしりを受けるリスクを冒してまで、なぜ「忌」にこだわるのか、という問題提起をしたうえで、意味のない(逆に言えば「無限に意味の可能性を秘めた」)言葉を起点とすることによって、「無限」へと解放すると述べている(このときの柳本作品のタイトルは「コンビニ忌」という偽季語だった)。
樹萄らきは啖呵を切るようなスタイルでフアンが多い。「杜人」250号誌上句会には「いま朝を連れてくるから待ってろよ」という句が掲載されていた。
丸山健三は10句の頭文字をつなげると一つの意味になる仕掛けになっていて、今回は「あさがおとなつのかぜ」。掲出句、「愛」と「あさがお」という言葉の出自はここから。折句ではないが、いろいろな作句法があるものだ。

同人作品以外に、6コマ漫画やエッセーなど、バラエティに富んだ誌面構成になっている。
最後に、今年の5月に伊那公民館のロビーに展示された「旬」の作品の写真が掲載。この展示は「川柳の仲間 旬」のブログにも写真が掲載されているので、検索すればご覧になることができる。
「旬」は同人作品の掲載と相互の交流を主として、地域に川柳を根付かせようという姿勢もうかがえる。川柳作品の読みについては、前号掲載作品を例会や次号で丁寧に読んでゆくというスタイルのようで、「私の一句推薦」や「ストリーム」の欄が充実している。川柳を楽しんでいることが誌面から伝わってきて、クローズドではないがオープンでもない、中間的な同人誌の在り方なのかなと思った。同人の中では川合大祐と柳本々々が「川柳スープレックス」に参加している。また、川合と樹萄は「裸木」(発行・いわさき楊子)で作品を見かける。伊那という地域に根ざしつつ、元気に川柳発信を続けているグループである。