2011年12月23日金曜日

『俳コレ』のことから川柳アンソロジーに話は及ぶ

今年も残り少なくなってきたが、この時期になって注目すべき俳句集・俳書が立て続けに刊行されている。
一昨年の『新撰21』・昨年の『超新撰21』に続いて、俳句アンソロジー『俳コレ』が発行され、話題になっている。出版社は同じ邑書林であるが、今回の特徴は「週刊俳句」による編集であるということ。入集作家の選定のほか、掲載作品についても編集部がかかわって、各作家の自撰ではなくて他撰となっている。各作家が自撰した作品をもとに編集部から依頼した選者が100句を選出したということだ。〈作品を他撰とした理由は「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます〉(「はじめに」)と上田信治は書いている。年齢制限もなく、19歳から77歳までに渡っている。「この人の作品をまとまった形で読みたい」「俳句はどこまでも多面的であっていいし、もっと紹介されていい作家や、もっとふさわしい価値基準があるはずだ」「同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること」など編集部のスタンスは徹底して「読む側の立場」に立っている。
全部は紹介しきれないので、5人だけピックアップさせていただく。

襟巻となりて獣のまた集ふ     野口る理
おつぱいを三百並べ卒業式     松本てふこ
白壁に蛾が当然のやうにゐる    矢口晃
エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ
マンゴーを紙の力士は縛りけり   岡村知昭

野口る理は「spica」で名前は知っていたが、これまできちんと読んだことがなかった。吟行のときにカマキリの卵を見つけて不思議そうに見入ったあと、「これ潰したらどうなりますか」と手を伸ばしたという、関悦史が小論に書いているエピソードは印象的だ。プラトンのミュトス(神話)について論文執筆中というのもおもしろい。掲出句では眼前の襟巻をただ襟巻としてではなく獣としても見ている。「串を離れて焼き鳥の静かなり」でも「串にさされた焼き鳥」と「串を離れた焼き鳥」を複合的にみる目がある。「初夢の途中で眠くなりにけり」では夢の中に夢が入れ子構造になっているのだし、「走り出す人の呼吸に蜂がゐる」「蝶の足四、五本触れて電話切る」でも日常の中に別のものを見ている。「虫の音や私も入れて私たち」。
松本てふこは『新撰21』で北大路翼の小論を書いた人。今回は実作者として登場している。解説は筑紫磐井。巻末対談で池田澄子が「磐井さんにしてはめずらしい情のある文章」と発言している。100句のうち91句は磐井選だが、残りの9句は「自分で選んでみたら、と言われて選んだ句」という。ちなみに自撰句のひとつは「春寒く陰部つるんとして裸像」。
矢口晃はこれまで知らなかったが、「あと二回転職をして蝌蚪になる」「鷹鳩と化すや嫌われてもいいや」などおもしろい句があると思った。
太田うさぎは「雷魚」をはじめ幾つかの俳誌の同人らしいが、私は「豆の木」で彼女の作品を読んでいる。「西日いまもつとも受けてホッチキス」「遠泳のこのまま都まで行くか」「一種爽やか空腹のはじまりは」「念仏踊り必ずうしろ振り返る」。
岡村知昭は「豈」の同人で、川柳人・俳人の合同句会でもたびたびいっしょになったことがある。選句のときに私はつい岡村の句を選んでしまうのだった。句に飛躍感があり、言葉と言葉との関係性が常套的でないので心地よいのである。彼は「バックストロークin名古屋」にも出席していたから、川柳の知人も多いことだろう。小論を書いている湊圭史は「詩客」の「俳句時評」(12月16日)でも岡村作品を取り上げている。「きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで」「ねんねんころりよ朝顔の震えるよ」「マフラーをして本名でやってくる」。

昨年の『超新撰21』には清水かおりが参加していたが、今回は100%俳句のアンソロジーなので、読んでもピンとこないだろうと思っていたけれども、いろいろな俳人がいて退屈しなかった。巻末対談で池田澄子が「私は、俳句はいろんな俳句がないと嫌なんですね。たとえば、このいちばん若い人たちがみんなお互いに似ていたら、すごく嫌でしょう?だから、この本の若い人たちが、それぞれ全部違ったのが、とてもよかった」と述べているのが、すべてを言い尽くしている。
ちょうど本日(12月23日)、東京で「俳コレ」竟宴が開催される。私は出席できないが、その様子はいずれあちこちのブログで報告されることだろう。

それでは、川柳のアンソロジーはどのような状況であろうか。
川柳では純粋なアンソロジーそのものが少なく、川柳入門書に付随してドッキングした形が多い。私が川柳に関心を持ち始めたころに利用して便利だったのは、山村祐・坂本幸四郎著『現代川柳の鑑賞』(たいまつ社・昭和56年)だった。巻末の「作家別、鑑賞句・引用一覧」には「近代編」「現代編(東日本・西日本)」として60人の川柳人の作品が一覧できる。古本屋でもときどき見かけるからお勧めの一書である。ちなみに、山村祐の発行した『合本・現代の川柳』(復刻版・森林書房・昭和59年)は必読の文献だが、ベテランの川柳人にねだって借り受けるしか方法がない。
あと『現代川柳選集』(芸風書院)は全5巻で、「北海道・東北・東京篇」「関東・北陸編」「中部・近畿編」「関西編」「中国・九州編」と地域別に作家を集めている。私が持っているのは「関西編」で、亀山恭太から時実新子まで20人の作品が収録されている。
川柳に季語はないのだが、川柳作品を歳時記的な切り口でまとめたものに奥田白虎編『川柳歳時記』(創元社・昭和58年)がある。
アンソロジーではなく、川柳作家全集としては構造社の「川柳全集・全15巻」がある。六大家をはじめ当時の主な川柳人をカバーしているが、これは今では手に入らない。バラ本でたまに古本で見かけるので、そのつど購入するようにしている。ちなみに、かつて構造社から「川柳」という雑誌が出ていたが、つぶれてしまったようである。
どうも昔話ばかりしているようで気がひけるが、現在ただいまのアンソロジーを提示できない以上やむをえない。今手に入るものとしては田口麦彦が三省堂から出した『現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代女流川柳鑑賞』の3冊がある。
結社のアンソロジーとしては『番傘川柳一万句集(正)(続)』が有名だが、今はあまり読まれないようだ(私も持っていない)。『川柳・その作り方・味わい方』(創元社・1993年)では巻末に番傘同人の句が一句ずつ掲載されている。川柳ではこういうやり方が多い。
また、「現代川柳・点鐘の会」では毎年『点鐘雑唱』のタイトルでアンソロジーを発行している。
私を最初に川柳に導いてくれた「堺番傘」の大久保孟美さんがよく言っていたのは、「川柳の読者になるためには川柳界に入らなければ本が手に入らない。自分はもともと川柳を読みたかったから川柳の世界に入った」ということだった。書店の店頭で手に入る川柳書が多少は増えたものの、そういう状況は現在でも変わらないのだ。

「読む側の立場」「読者の欲求」という立場に立った川柳のアンソロジーは可能だろうか。川柳の場合は基本的に「作者の立場」に立ったアンソロジー・句集である。即ち、作者がお金を出し合ってアンソロジーを作り、読者に読んでもらうというやり方である。極端に言えば、読者は一人(作者自身)であってもよいことになる。そのような状況から一歩先へ踏み出したのが『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)だった。
「バックストロークin名古屋」でもアンソロジーの必要性は唱えられていた。
復本一郎は『俳句と川柳』(講談社現代新書・1999年)で

 この人の欠点はただ自慢ぐせ    仲川たけし
 ご意見はともかく灰が落ちますよ  野里猪突
 A4で四五枚ほどの恋ごころ    今川乱魚
 しあわせはグリコのおまけ転がして 樋口由紀子
 倒れないように左右の耳を持つ   佐藤みさ子
 しあわせのほころびを縫うもめん針 大西泰世
 あなたとのままごと道具整理する  広瀬ちえみ

の7句を紹介したあと、「句集や単行本、雑誌、年鑑類から任意に選んだ七句であるが、選びつつ、川柳の分野でも、俳句のように、若い世代の川柳作者をも含めての信頼し得るアンソロジーが欲しいと思ったことであった。俳句の分野では、時々、結社を越えてのアンソロジーが編まれているが、川柳のほうは、寡聞にして知らない。流派を越えての川柳作品のアンソロジーの出現が、切に望まれるのである」と書いている。
復本の川柳観については川柳側からの批判もあったが、アンソロジーを待望するこの指摘自体は間違ってはいない。
若い川柳人の作品がアンソロジーに収録され、川柳の若手と俳句の若手とがともに五七五定型について語り合いながら未来の短詩型文学を創造していく、というのは夢にすぎないだろうか。正月にはまだ早いが、そのような初夢をしばし見ても川柳の神様は許してくれるのではないだろうか。

来週(12月30日)は年末につきお休みさせていただきます。次回は1月6日にお目にかかります。では、みなさま、よいお年を。

2011年12月16日金曜日

川柳・2011年回顧

今年も残り少なくなり、一年を振り返ってみる時期となった。「俳句年鑑」「短歌研究年鑑」「現代詩年鑑」など各ジャンルの年鑑も発行されているが、多くの書き手が大震災のことから始めている。やはり3・11を抜きにしては今年を語ることはできないのだ。
「今まで隠されていたものが震災によって一挙に顕現した」(岩成達也・「現代詩セミナーin神戸・2011」)という言い方を借りれば、原発安全神話などいかに根拠のないものであったかが今にしてわかる。
茨城在住の被災者である関悦史は「バックストロークおかやま大会」(4月)に選者として参加した際に、関西の大地が揺れもなく平穏であることに対する違和感・ギャップを語っていた。大会の翌日、関を案内して訪れた山科の毘沙門堂では満開の桜が咲きほこり、人々は花に酔い痴れているのだった。それは非難されるべきことではなく、関東と関西の実感の違いであり、そのこと自体は当然であるとも言える。
川柳人の震災に対する対応はさまざまである。川柳誌における「応援の一句」などの企画が目についたが、くんじろうは「応援絵手紙」を3月24日以来毎日描き続けネットを通じて発信している。
「3・11以後、表現は変わったか」というテーマについても、さまざまな言説が見られた。
3・11以後、表現は変わった、変わらざるをえないというのが一つの立場。
自己確立した表現者にとって、表現が変わるはずがないというのが別の立場。
表現が変わったのではなくて、それを見る側のものの見方が変わったのだという言い方もある。
「震災句を書くべきか」についても、「自分は書く」「自分は書かない」の両者は分かれる。どちらがよいというのではなく、それぞれの選択であろう。
震災に関して聞いた言葉のうちでもっとも衝撃的だったのは「津波てんでんこ」という言葉である。津波がきたときはそれぞれてんでに逃げなければならない。人を助けようとしていると、いっしょに津波にのまれてしまう。この言葉を提唱・普及させた山下文夫さんの訃報が先日の新聞に載っていた。

さて、川柳の世界では今年どのようなことが起こっていたか。
それぞれの川柳人が作品を書き続けていたのはもちろんだが、川柳を「かたまり」として発信する営為が目立ってきた。
今年上梓されて好評だったものに樋口由紀子著『川柳×薔薇』(ふらんす堂)がある。樋口本人は本書をエッセイと言っているが、現代川柳についての評論として読まれる向きもあったようだ。
「大人の判断で書かない方がいいと思われることや暗黙の了解で触れないことになっているものも、川柳では堂々と書いていくことができる。読み手の中にずかずかと入っていき、わざと居心地悪くし、うっとうしく、とんがらせて、強引に意味でねじ伏せていくのも川柳の醍醐味のひとつである」(「はじめに」より)
樋口は「週刊俳句」の裏ヴァージョン「ウラハイ」に毎週「金曜日の川柳」を連載している。相子智恵の「月曜日の一句」と対になるもので、けっこう読んでいる人が多いようだ。ネットというツールを使っての情報発信の在り方のひとつだろう。次に挙げるのは「金曜日の川柳」の第一回で取り上げられた作品。

  人間を取ればおしゃれな地球なり   白石維想楼

新家完司著『川柳の理論と実践』(新葉館)はどちらかというと川柳の初心者を対象に書かれていて内向きの印象があるが、入門書から一歩先へ踏み込んだものとして一般読書人にも有益だろう。
句集では渡辺隆夫第五句集『魚命魚辞』、小池正博第一句集『水牛の余波』がともに邑書林から発行された。句集発行と連動して、7月には句集の批評会が開催され、句集の読みが深められた。批評会は俳句・短歌では珍しいことではないが、川柳では出版会というと儀礼的な祝賀会であって、きびしい読みの視線にさらされることはあまりない。今後、句集の発行と批評会の連動が望まれる。

   亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む   渡辺隆夫

田口麦彦の『アート川柳への誘い』(飯塚書店)は前著『フォト川柳への誘い』をさらに発展させたもので、川柳とアート(絵画・写真・切り絵・書)とコラムのコラボレーションとして一つの方向性を打ち出している。その際、写真やアートに頼るのではなく、川柳作品自体が自立していなければならないのは言うまでもない。

   手を見せてごらんあなたの透明度  田口麦彦

イベント・大会関係では、「バックストロークおかやま大会」、「玉野市民川柳大会」「全日本川柳大会」「バックストロークin名古屋」「国民文化祭・京都」などが開催された。「バックストロークin名古屋」では「川柳が文芸になるとき」というテーマでシンポジウムが開催され、歌人の荻原裕幸を迎えて活発な議論が展開された。
川柳誌「バックストローク」は11月に36号を発行して終刊したが、同人・会員のネットワークの中から新たな展開が生まれることが期待される。
今年も川柳人の訃報が続いた。物故されたのは、中田たつお氏、岩井三窓氏、大友逸星氏、添田星人氏、岸下吉秋氏などである。

  夏バテの胃をやわらげる嵯峨豆腐  中田たつお
  飲みながら話そうつまり恋なんだ  岩井三窓
  泡立草のまっただ中の大丈夫    大友逸星
  かぎ裂きのままの八月いまも着る  添田星人
  魚いずれ木に登る日を憂うべし   岸下吉秋

今年活躍が目立った川柳人のひとりが清水かおりである。
昨年の『超新撰21』に参加した清水は、「豈」52号にも「新鋭招待作家」として作品を発表している。また、インターネット「詩客」の「戦後俳句を読む」のコーナーではさまざまな角度から戦後川柳を紹介している。

  夢削ぎの刑かな林檎剥くように  清水かおり

個々の川柳人が作品を書く営為が根底にあるのは当然だが、それを外部に発信することによって川柳はいっそう鍛えられる。内輪でしか通用しない作品と短詩型文学全体のフィールドで読まれていく作品とに峻別されていくのである。そういえば、ウチとソトについて若干の議論があったのも今年だった。
川柳はようやく他者と向き合い、他者によって傷つけられたり理解されたりする段階に入ってきたと言えるだろう。

2011年12月10日土曜日

「バックストローク」の終刊について思うこと

「バックストローク」が36号(11月25日発行)で終刊となった。2003年に創刊されて以来、丸9年、川柳界に一石を投じ続けてきた川柳誌がひとつの役割を終えたことになる。今回は時評の枠からは外れるかも知れないが、「バックストローク」にかかわってきた同人の一人として若干の感想を記しておきたい。
一般に雑誌というものは永遠に続くものではなく、状況の変化にともなってどこかで終焉を迎えることは俳誌・短歌誌でも同様である。川柳誌の場合、古くは「川柳ジャーナル」「平安」「ますかっと」などのことが思い浮かぶ。「川柳ジャーナル」は同人の意見によって1975 年に終刊した。「川柳平安」は1978年創立20周年大会直後に解散宣言を出した。岡山の「川柳ますかっと」は1998年に「終刊の辞」を出して解散した。
一誌が終刊する理由は、発行人の高齢化・経済的事情・後継者不足・内部対立など、いろいろな場合が考えられる。「バックストローク」の場合は別に内紛があったわけではなく、その他の事情についても皆無とは言えないが決定的なものでもなかった。「伝統」対「革新」という図式はもう無効になったと私は思っているが、「革新系の川柳誌は短命に終わってしまう」という受け取り方があるとすれば、不本意なことだ。
発行人の石部明は36号の巻頭言で次のように書いている。
「その志はまだ半ばに過ぎないが、さらなる飛躍を期して、石田柊馬と私が中心の『バックストローク』はここに終刊とさせていただく」「次の世代のバトンタッチも考えたが、彼らは、彼らの自由な思考によって、本誌を超えていかなければならないと考えての終刊である」
終刊の理由は石部のこの文章に尽くされている。
石部明・石田柊馬の二人体制にはいったん幕をひき、次世代は「バックストローク」を乗り越える川柳活動を展開せよ、と述べているのだ。
「バックストローク」は結社というより、全国に点在する川柳人のネットワークのようなものであった。雑誌は終刊したが、ネットワークは残っていると私は受け止めている。石部明、石田柊馬も健在だから、どのようなかたちであれ今後も川柳活動は続いていくだろう。私が「バックストローク」に求めていたものは「文学運動としての川柳」であり、石部明のいう「行動する川柳人」として雑誌の発行とイベントを連動させて展開していく方法はその理念にかなっていたのだ。
とは言え、雑誌がなくなることは痛手には違いない。同人・会員の多くは別の結社または川柳誌に所属している方も多く、作品発表の場がなくて困るということは当面ないだろう。他の柳誌に属さない方、川柳の場を探し求めて「バックストローク」にたどり着いた方には終刊はショックだろうが、「バックストローク」がなくなったらすぐ次を探そうという短絡的なことではなく、今後の川柳活動をどうしていくかじっくり考える機会ととらえたらどうだろうか。
支持するにせよ反発するにせよ「バックストローク」は存在感のある雑誌だったから、終刊は大きなことである。けれども、燃え尽きるように終わるのではなくて、可能性を残したままの終刊には花があり、今後生れてくるはずの川柳の展開につながるのではないか。とりあえずそう思いたい。

2011年12月2日金曜日

現代詩セミナーin神戸2011

現代詩については詳しくないが、毎年11月に神戸女子大学で開催される「現代詩セミナー」は詩人たちの姿に接することのできる貴重な機会である。2007年の「中原中也生誕百年記念セミナー」が第1回目で、第2回は「現代詩の現在を語ろう、読もう、聞こう」(初めて岩成達也さんの詩学に接して衝撃を受ける)、第3回は「詩の危機を生きる」(吉田文憲氏の講演を聴いた)、昨年の第4回は「詩のことばと定型のことば」というテーマで吉増剛造・野村喜和夫・夏石番矢・荻原裕幸などの顔ぶれがそろった。私が参加するのは第2回と第3回に続き3度目だが、今年は「今、詩に何ができるか」というテーマで、「2011年、東日本大震災と、原発事故により放射能汚染がこの国を見舞うなかであらためて現代詩の主題を問いかける」とある。神戸は16年前に阪神大震災を経験しているので、この神戸でこのテーマで討議する場をもつことに意義があるという主催者の考えである。

まず講演(基調報告)「生命を語る言葉―3・11以後」で佐々木幹郎は、3月以来さまざまなことを考えたこと、昨日考えたことが今日は通用しなくなること、詩を書く人間としてではなく一人の人間として問い詰められていることを述べ、被災地を訪れた体験をふまえて以下のように報告した。

「無くなるものを
追いかけるということ
それは
未来からの記憶を
とどめようとすること」

それを佐々木は「未来からの記憶」だという。
また、「私というパーソナルな感情を/いっさい表に出さずに/表現する方法があるとして―/3・11はそれを許さなくした」「どこに『私』を隠す場所があるか?」ともいう。
3・11のあと佐々木は本能的に詩を書いた。発表する気持もなく、ただ本能的に書く。「それは詩が生まれるとき誰もが常に経験していることではないのか?」

佐々木はインターネットに投稿された津波の映像を会場のスクリーンに改めて投影した。7分余りのその映像は現地の人がその場で撮影したものだが、佐々木はそこから聞こえる声に耳を傾けようと言う。そこには
「夢みたい」
「何なんだ、これは。何なんだ、これは」
などの生なましい声が録音されていた。

「人は恐怖とゆっくり親しんでいく」

佐々木は鷲田清一の『「聴く」ことの力』を援用しながら、「東北の声を聴く」ということを語った。鷲田の本には次のように書かれている。
「聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場をひらくということであろう。じっと聴くこと、そのことの力を感じる。かつて古代ギリシャの哲学者が《産婆術》と呼んだような力を、あるいは別の人物なら《介添え》とでも呼ぶであろう力を、である」「わたしがここで考えてみたいこと、それがこの〈聴く〉という行為であり、そしてその力である。語る、諭すという、他者にはたらきかける行為ではなく、論じる、主張するという、他者を前にしての自己表出の行為でもなく、〈聴く〉という、他者のことばを受けとる行為のもつ意味である」

レヴィナスを引用しながら、佐々木は、他者の声を聴くことは他者と関係をもつこと、高所において見下すような視点は成立しえない、という。
そのような東北の声のひとつとして彼は毎日新聞7月9日朝刊に掲載された「93歳の女性の遺書」を挙げる。自殺を選んだこの女性は「私はお墓にひなんします」と書いている。また、被災地のポスターのひとつ「被災地じゃねえ正念場だ」が紹介された。「被災地」ではなくて「正念場」なのだ。
言葉による声以外の場合もある。
写真家・畠山直哉は陸前高田市の出身で、震災後、本能的にカメラを積んで故郷へ向かったという。
発表するつもりもなく撮影した写真には、あの「奇跡の一本松」がロングショットで映っていた。
「表現者の表現が3・11以後に変わるのではなく、それ以前の作品がよりくっきりと鮮明に見えてくるのだ」と佐々木はいう。

佐々木の講演を受けて、シンポジウムに移る。パネリストは岩成達也・高階杞一・高塚謙太郎・細見和之。そこに佐々木幹郎も加わり、司会は倉橋健一。

岩成達也は「大災害によって詩的言語は一夜にして変貌するか」という仮のテーマを立てる。大災害とは「黙示録的事態の発生」であり、ハイデガーのいう「アレーティア」である。「アレーティア」とは非隠蔽性ということで、それまでおおわれていたものが見えてくることである。大災害によって今まで隠されていたものが一挙に現れてくるのだ。
それでは、蔽われていたものを一挙に言語化することは可能なのか。阪神大震災の場合でも、詩的言語化は遅れた、と岩成は言う。
a 「地面が割れ建物が崩壊する」と書くこと
b 「地面が割れ建物が崩壊した」処で書くこと
この二つは違うと岩成は考える。阪神大震災のあと、aの作品はたくさん書かれたが、bの作品はほとんど書かれなかった。「私」がアレーティアにさらに震撼しない限り、詩的言語が変貌することはない。以上が岩成の発言の要約。

高階杞一は「現代詩は他者の声を聴くことを怠ってきた」という。
何かの出来事で言葉があふれでる体験はある、として高階は彼の個人的な体験を述べ、しかし、それを自分は発表しようとは思わないと言う。ここから彼は和合亮一のツイッター『時の礫』に対する疑問を投げかける。和合は発表を前提として書いているというのだ。

細見和之は震災後の状況について「悪い意味の倫理的雰囲気」があるのではないか、と指摘する。彼は「戦後文学」という言い方で、文学と災いは切っても切れない関係にあると述べる。第一次世界大戦、第二次世界大戦に限らず、「戦後文学」は生れてきたのであって、「普仏戦後文学」「日露戦後文学」などが挙げられる。
「自分は震災を語る資格があるのか」などの倫理的なスタンスではなくて、何が起こったのかという「好奇心」がきっかけとして重要なのだと細見は言う。それが「震災便乗型文学」になっては困るけれども、出発点は好奇心であっていいし、そこからさらに深まってゆけばいいというのが細見の立場だったようだ。

「現代詩手帖」5月号に高塚謙太郎は「文化化」という用語を使って次のように書いている。
「9・11以降に詩はどうあるか、といった大上段の言説があったとしたならば、3・11以降の詩はこうあるべきだ、といった言葉が出てくることに激しい不快感を先回りして示しておく」「今回のような事態に対してある種の文化化がもたらされることに完全に背を向けたいと思う。これほどの不埒さはなかろうと思うからだ」「未曾有の事態を文化と化すことに詩を荷担させないこと。むしろそれに抗うこと」
「文化化」とは分かりにくい言葉だが、高塚は別のところで、アドルノをひきあいに出しながら次のように書いている。「アドルノはアウシュビッツの悲劇を『文化』の賜物と捉え、同じ『文化』的営為である詩作を野蛮である、と指摘した」「『文化』が場の詐取とその特権的振る舞いとするならば、『3・11以後』というフィクションを作り出し、特権的に振る舞うことは、たとえ当人の無自覚に伴うケースであろうが、これは明らかに『文化』的営為であり、それは野蛮であるということになる。これを事態の『文化』化とも言いかえられる」

さて、川柳の場合はどうであろうか。
震災に向き合うということ、東北の声に耳を傾けるということ、他者の苦しみを「よそごと」としてではなく受け止めること、事態を詩的言語のレベルで表現すること、そのような次元での川柳作品はまだ生まれていない。
「高所から見下すような視点はもう成立しない」と佐々木幹郎は述べたが、誤解を恐れずに言えば「高所から見下す視点」こそ川柳の視点だと言える。レヴィナス的な他者の受苦を引き受けてしまうと、もう言葉を紡ぐことができないのだ。スローガンや励ましの言葉でいいななら、どんなに気が楽なことだろう。

書くという態度もあれば、書かないという態度もある。書くけれども発表しないという姿勢もある。どれがいいとか悪いとかは言えない。

斎藤美奈子は朝日新聞の「文芸時評」(2011年11月30日)で文芸誌にも「3・11」を取り込んだ作品が増えてきたことに触れている。「書くか書かぬか」、書くという「寒い選択」を寒くなく感じさせるには、たとえば「異形の者」の力を借りる、と斎藤は言う。津島祐子「ヒグマの静かな海」におけるヒグマ、鈴木善徳「髪魚」における人魚。「ヒグマも人魚も思いは一緒。どれも寓話なんかじゃない。非常時を描くには人間じゃ足りない場合もある。『寒い選択』を恐れちゃダメなのさ」と斎藤美奈子は言う。

今のところ、書かないという選択をしている私だが、震災をめぐるさまざまな言説はたとえ耳をふさごうとしても入ってこざるをえないのだ。

2011年11月25日金曜日

川柳の読み方・俳句の読み方

「川柳の読み方」「俳句の読み方」というようなものがあるだろうか。
どんな読み方をしようと読者の自由だとも言えるが、形式の差が読み方の差につながるとすれば、短歌や俳句の読み方とは異なる川柳の読み方というようなものが考えられないこともない。
「豈」52号掲載の「〈答え〉からの逸脱」で吉澤久良は「川柳的な読み」について述べている。吉澤は川柳の基本的発想を問答体ととらえ、既存の問答体の超克・逸脱に現代川柳のおもしろさを認めているようだ。(川柳の問答構造については、尾藤三柳に川柳の発生史をふまえた論考があり、川柳界でも広く認められている。)
吉澤は「A はBである」という問答体のうち、答えとしてのBに「落とす」という川柳の感覚について述べたあと、『超新撰21』から次のような句を引用している。

新緑や全国犀の角協会        田島健一
フジツボは小さき地蔵夏の月     柴田千晶
温和しい犬のゐる家たうがらし    上田信治
モザイクタイルの聖母と天使夏了る  榮猿丸
実のあるカツサンドなり冬の雲    小川軽舟
黄落や肉煮る鍋のふきこぼれ     山田耕治

吉澤はこれらの俳句の表現としてのおもしろさを認めつつ、特に1句目から4句目までの俳句に「違和感」を感じるという。それは「新緑」「夏の月」「たうがらし」「夏了る」などの季語と季語以外の部分との関係性(ギャップ・唐突感など)に対する違和感であるらしい。その上で彼は「そういう違和感を持つ理由は明らかで、私が川柳人であり、季語に関する歴史的な蓄積を知らず、季語についての共感を持っていないからである」と述べている。即ち、彼は川柳人として俳句に向き合っていて、川柳の眼で俳句を読んでいる、ということになる。はたして、「川柳的読み」「俳句的読み」というものがあるのだろうか。

私が「川柳と俳句の読みの違い」を意識したのは、「バックストロークin仙台」(2007年5月)のときの渡辺誠一郎の発言による。渡辺は俳句の場合、解釈の手がかりとして「季語」がひとつの安心材料になっているが、川柳の場合は自由な反面、どう読んでいくのだろうという疑問を提起した(「バックストローク」19号)。俳句の場合でも読みが変わってくることがあり、次の句が例に挙げられた。

空蝉の軽さとなりし骸かな  片山由美子

渡辺が「人間の亡骸がもはや空蝉の軽さとなってしまったという思い」と解釈したのに対して、作者は「骸」は蝉の死骸であって、「もの」からは離れないと述べているという。
「もの」にこだわるのが俳句の伝統的な読みかどうかは別にして、物から離れて別のイメージを重ねる読みも可能だということだろう。季語というベースがある俳句でも解釈が分かれることがある。では、川柳ではどうなのか。私が連想するのは次の川柳である。

かぶと虫死んだ軽さになっている   大山竹二

この句を「かぶと虫」自体を詠んだ句だと受け取る川柳人はいないだろう。生きている間は掌の上で力強く動いているかぶと虫も死ぬとあっけないほどの軽さになる。ここには病涯の作者自身のイメージが重なってくる。死んだかぶと虫と作者が一体化しているのだ。

ここで問い方を少し変えて、俳人が俳句を読むときの読み方と、川柳人が俳句を読むときの読み方には違いがあるのだろうか、という問いを立ててみることにしよう。また、川柳人が川柳を読むとき、俳人が川柳を読むときはどうか。
俳人であろうと川柳人であろうと、読者として作品に対しているなら、読み方に差異はないともいえるが、それぞれ背負っているものの違い、ふだん見慣れているフィールドの違いによって読みに微妙な差が生まれることも考えられる。

これも過去のことになるが、「五七五定型」3号(2009年2月)掲載の「五七五定型をどう読むか」という特集では、次の俳句が例に挙げられている。

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す    正木ゆう子

この句について小池は次のように発言している。
「『飼ひ殺す』がインパクトの強い言葉で、川柳人の場合は飼い殺される鷹の方に感情移入する場合が多いと思います。飼い殺す人間と飼い殺される鷹との関係ですね。弱者の立場に自己同一化すれば、飼い殺される檻の中の鷹という自由を奪われたルサンチマンの表現になってしまいます。この句の場合は飼い殺す方に視点があるので、これを爽やかさと見るか、悪意と見るかですね。鷹に『風』という名を付けていて、風は本来自由なものですから、皮肉とも取れるわけです。皮肉と取ると句が陰湿になるので、爽やかさと取るのがいいかも知れませんね」
野口裕は「句はマニュアルなしで読んでいるような気がする。読みという作業はマニュアル化しにくい。結局、一句一句読んでいかないと仕方がない」と述べている。これに対して石田柊馬は「川柳の読みでマニュアルのあった時代があったんです。たとえば、正木ゆう子のこの句を『ナルシシズム』というマニュアルで読めば、飼い殺しというのは、自分の中にある実現できない鷹、という感じ、自分の一生を書いているというような読み方がかつてあったんです」と発言した。
「読みのマニュアル」とは聞き慣れない言葉だが、そのようなマニュアルが具体的にあったというのではなくて、一時期の川柳界の風潮として、「一句の中のどの言葉に作者がいるのか」「作者の言いたいことが句のどの言葉に反映されているか」という読み方が一般的だったということだろう。石田の発言に対して、野口がさらに「(マニュアルは)あるんでしょうけど、それには乗っかりたくないという気分があります。読むときに無意識に外して読んでいます」と述べているのは、読み巧者の野口であるだけに興味深い。

読みのマニュアル化とマニュアル外し。なかなか微妙な問題である。
読みは句会で鍛えられるのが一般であるが、川柳の句会では作品の読みにまで踏み込んで十分な時間をとることがあまりない。
俳句の読み、川柳の読み、それらを越えたところに成立する五七五定型としての一句の読み。それぞれの読者が作品と対峙しながら深めていくべきことであろう。
「一句のどこに作者がいるか」が問われた時代の作品を挙げておく。

人形の瞳をくりぬいて得た情事    飯尾麻佐子
風百夜 透くまで囃す飢餓装束    渡部可奈子

2011年11月18日金曜日

井上一筒・イメージのコラージュ

関西に井上一筒(いのうえ・いーとん)という不思議な川柳人がいる。「一筒」という号はたぶん麻雀から来ているのだろう。ピンズの1は「イーピン」というが「イートン」という呼び方もあるらしい。私の父はこの牌がでると「浅草の芸者・一丸(市丸)さん」と言っていた。井上一筒は「川柳瓦版の会」という結社に所属しているが、あちこちの句会に出没している。川柳句会では選者が句を読むと、すかさず作者が名のることになっていて、これを「呼名」というが、句会で「イートン」という呼名があると、もうそれだけで笑いが起こるようだ。
「川柳木馬」130号の「作家群像」のコーナーでは、この一筒が取り上げられている。一筒の経歴が何か分かるかと期待したが、プロフィールを読んでも具体的なことは何も書かれていないし、「作者のことば」も同様である。作者についての情報は伏せて、作品だけを読んでほしいということだろう。
湊圭史と古谷恭一が作家論を書いている。湊は一筒作品を読むキーワードとして「生真面目さからくるロマンティシズム」と「意表をつくスピード」を挙げている。ふつうは裏腹の関係にある二つの要素が微妙に配分されているところにおもしろさがあるというのだ。古谷は一筒作品を「笑い」の面からとらえ、秋竜山のナンセンス漫画を見るようだと述べている。そういえば、『秋竜山の江戸川柳と一勝負』(池田書店)という本を先ごろ古本で見つけた。
以下、一筒の作品をいくつか紹介してみよう。

雅楽頭殿めしつぶがついています   井上一筒

伝統川柳の書き方である。「酒井雅楽頭(うたのかみ)」をはじめ、時代劇では幕閣の一員としてよく登場する。権力ある武士が不用意にも口のあたりに幼児のような飯粒を付けているというのだ。私が川柳をはじめたときに、次のような句を知って、おもしろいなと思った。

ご意見はともかく灰が落ちますよ   野里猪突

やんわりと相手を風刺する、伝統川柳の一つの手法だろう。作中主体である「私」と相手との関係性が目に見えるようである。「雅楽頭」は時代を江戸時代にしているが、現代における雅楽頭のような存在を揶揄しているとも読める。
けれども次のような句になると、単なる時代劇の一こまではすまされなくなる。

殿中でござるカピバラの残像    一筒

忠臣蔵の世界であろうか。松の廊下あたりをカピバラが横切った。南米原産で世界最大のネズミと言われている。最近はいろいろキャラクターにもなっているようだ。時空があわない。その落差による滑稽感。不条理演劇の一場面を見るようだ。
なぜ殿中にカピバラがいるのかという問いは無効なのだ。「残像」だから本当は存在しないのだという解釈も理に落ちてしまう。「殿中」と「カピバラ」のふたつの像が一句のなかで共存しているおもしろさを感じとればいいのだろう。「雅楽頭殿…」では時間のズレだったものが、ここでは時間・空間のズレへと手が込んできている。
絵画でコラージュという技法がある。別々の断片を糊で一つの画面に張り合わせる。たとえば忠臣蔵の画面にカピバラを貼り付ける。本来関係ないものである方が衝撃力は大きくなる。けれども、眺めているうちに、カピバラが殿中にマッチしはじめてきたならば、この句は成功なのだろう。

膝の水を抜く空海的な意味
ネストリウス派のどくだみの煎じ方

一筒はさらにエスカレートする。「膝の水を抜く意味」に「空海的」という言葉を挿入する。「どくだみの煎じ方」に「ネストリウス派の」という修飾を付けてみる。「空海」「ネストリウス派」という記号が投げ込まれることによって日常的文脈は変容する。
湊圭史は「慣れていない読者は戸惑うかもしれないが、技法的にはそれほど複雑ではない」と述べ、「ひとつの文脈にまったく文脈が異なるものを導入したり、ある文脈に通常は考えられない限定を与えたりすることで、言葉の世界が曲げられるパターン」と指摘している。
「空海」や「ネストリウス派」が単なる記号なのか、それともこの単語が選ばれていることに意味があるのかどうかは微妙である。「最澄」ではなくて「空海」であり、「アリウス派」ではなくて「ネストリウス派」というところに語の選択は当然あるだろうが、記号的なものとしてそこで読みをとどめるか、密教的世界や三位一体の教義までイメージを広げていくかは読者に任されている。
古谷恭一は「己の体験以外の言葉には、なかなか感動は生れない」と述べている。また、湊圭史は時代的連関は句語の外で「一種のおもり」として機能するものとして、一筒作品に「一種のロマンティシズム」を読み取っている。

8時にはこむらがえりになる予定

「こむらがえり」の句は、60句の冒頭に据えられている。しかし、この句を冒頭句にして、しかも「こむらがえり」というタイトルまで付けたのが成功だったのかどうか。意味性の強い言葉であるだけに、精神のこむらがえりを笑うとか、文脈にこむらがえりを起こさせるとかの表現意図を見透かされることになってしまうからだ。

天竺を越えて来た銀の前置詞

絵画と言葉のコラージュである。
天竺を越えて来たのは三蔵法師などの取経僧のイメージであろうか。ヒマラヤを越える鶴のイメージかも知れない。これを「前置詞」という言葉の世界へつないでいる。

御手付き中﨟ジオラマを掠める

「木馬」に掲載された60句の中で、私がもっとも好む作品である。
私は最初、ジオラマの中を御手付き中﨟が走り過ぎるのかと思ったが、それだとつまらない。御手付き中﨟がジオラマを持ち去ったのだろう。それは殿さまの大切にしているジオラマだった(と私は勝手に読んでいる)。
ジオラマは明治時代に日本に入ってきたようだから、もとより時代があわない。あまり大きなジオラマだと持ち去るのにたいへんだから、箱型の風景画程度のものだろう。殿さまはフィギュアなども愛好していたかもしれない。家宝ではなくジオラマを盗んだ中臈の気持は、その後顧みられなくなったことに対する憎しみだろうか、それとも皿屋敷のお菊の場合のような愛情の試しだろうか。あるいは、新奇なジオラマそのものに対する少女じみた好奇心だろうか。
どうやら一筒の術中に陥ったようだ。

2011年11月11日金曜日

「豈」52号における「ジャンルの越境」

「ジャンル越境時代」と言われて久しいが、ジャンルの垣根というものは今も厳然として存在する。個々の作家が作品を書く場合の根拠としてジャンルとか形式が背後にあることがやはり有効なのであろう。
音楽ではかつて「クロスオーバー」という言葉があった。ジャンルの存在を前提として、それを乗り越えようという発想である。やがて「フュージョン」という言葉が出来て、垣根を溶かして融合させようという発想になった。だが、「ジャズ」が「フュージョン」になることによって、本来のジャズらしさが失われていったという見方をすると、ジャンルの融合はジャンルの解体・変質につながってゆく。石田柊馬が一時よく言っていた「川柳が川柳であるところの川柳性」が見失われ、川柳が終焉するという文脈はここから出てくる。
ジャンルはそれを支えている人間の量と質によって優位が決まるという考え方もできる。英語の優位はそれを語る人間の量によって保障され、日本語を語る人間が減少してゆくことで日本文芸は衰退することになる。日本の短詩型文学の世界において、俳句・短歌がジャンルのヘゲモニーを握っているのは、量的保証があるためだとも言える。
「他者」という言葉を使えば、文芸にとっての他者とは他ジャンルの作品ということになるだろう。俳句にとっての短歌・川柳。川柳にとっての狂句・俳句。自由詩にとっての定型詩・短歌・俳句…等々。
これらの文芸諸ジャンルが上位・下位のヒエラルキーではなくて、正面から向き合うような状況がいま少しずつ生まれてきている。

「―俳句空間― 豈」52号の特集「ジャンルの越境」は、『超新撰21』や「詩客」ホームページの開設などを踏まえた企画であろう。本誌巻頭の「新鋭招待作家」には、生駒大祐・冨田拓也などと並んで清水かおりや種田スガルの作品が掲載されている。

夢削ぎの刑かな林檎剥くように    清水かおり
手に入るものなら日盛り空の腕
過呼吸の嘴細烏は見ないふり

「詩客」を運営している森川雅美は「三詩型交流の現場から」で次のように書いている。

「今までの詩歌の多くの雑誌やウェブマガジンは、一つの詩型に特化するか、いくつかの詩型が載っていても、一つの詩型に重点が置かれていた。しかし『詩客』では同じページに、三詩型の作品の表示が並んでいて、クリックすると見られるようになっている。『短歌』『俳句』『自由詩』の表記はあるので、まったく並行というわけにはいかないが、他と比べると境界の壁は低い」

ここに「川柳」がなぜないのだというクレームはもう無用である。森川の視野に「川柳」はきちんと入っているし、「詩客」のホームページにも実質的に川柳人が参加していることはすでにみなさんがご存じのことだろう。

さて、谷口慎也は「内なる越境」で次のように書いている。
「確かに、俳柳それぞれの作品がクロスオーバーする領域というものがある。またそこはこのふたつのジャンルにとって豊かな可能性を暗示する場所でもある。だがその領域から俳柳を超えた何かを、例えば新しいジャンルの成立などを夢みるとすれば、それはしょせんかなわぬ夢と言うしかない。俳柳それぞれの書き手が一句を成そうとするとき、その発想の内的契機は、同時的にそれぞれの領域を背負ってしまうからだ」
こうして谷口は「越境」について「内なる越境」(ジャンル内の越境)という観点から、「本流」に対峙する「反流」というとらえ方をしている。
また、谷口が種田スガルの句になつかしさとともに苦い感情をもったと述べていることも興味深い。かつて山村祐の「短詩」が長音派と短音派に分裂して拡散していったことをふまえての発言である。ちょうど本誌には「新鋭招待作家」として種田スガルの作品が掲載されている。

顔のない世界で遠い過去を生きる       種田スガル
摘み木の上から眺める格差の最果て
暖かい鳥かごの中 無下にする才能の孤独

これを「短詩」誌に掲載された作品と比べてみる。「短詩」は1966年9月創刊、1970年3月休刊。山村祐によって43冊刊行されている。

告白のあとのブランコに朝顔が巻いている    道上大作
石神逆光に目覚め千年目の欠伸         谷口慎也
吊輪ぶらさげ夕陽の中を帰る類人猿       吉田健治
ふはは どこまでを道化おおせる 骨の笛    石津恵造

私は何も種田の作品が先行作品の繰り返しだと言っているのではない。若い表現者は自己の実感と言葉に基づいて表現する権利をもっている。それが表現史のうえでどのような意味をもつかは後の話である。

また、関悦史は「越境に関する断章」で次のように書いている。

「『超新撰21』におけるジャンルの越境は、川柳や自由律俳句をアンソロジーに同列に取り込むことにより、有季定型俳句を読むのと同じ目でそれらの作品を読ませようとする、いささか強引ともいえる誘い込みだった」
「越境して他のジャンルに移ってしまうのではなく、いわば有季定型に対して脱中心化をしかけようという挑発であり、外よりも、俳句というジャンルの内側へと主に注意が向いたアクション。脱領土化の浮遊ではなく、周辺領域の再属領化による撹乱」

関の認識は谷口の指摘と対応している。

『超新撰21』にも『詩客』にもまったく触れずに、恩田侑布子は「鷹女と短歌とロックンロール」で三橋鷹女にとっての短歌からの影響、特に若山牧水の影響を「眼のなき魚」の例をあげて論じている。いまこれに川柳における「眼のなき魚」の作例を私が付け加えて三作品を並べると、次のようになる。

海底に眼のなき魚の棲むといふ眼のない魚の恋しかりけり   若山牧水『路上』
颱風の底ひ眼のなき魚が棲む                鷹女『向日葵』
眼のない魚となり海の底へと思ふ              中島紫痴郎

「ジャンルの越境」とは実際、大変なエネルギーのいることである。それは他者と向き合うことであり、ひるがえって自己を問われることでもある。短詩型文学のヒエラルキーの中で自足しているなら問題はないが、広い視野から短詩型文学の表現史を見渡そうとすると、形式の恩寵に安住できない事態に直面せざるをえないだろう。幸いなことに、ジャンルのヘゲモニーを越えて、作品自体と誠実に向き合うような読み手が俳句のフィールドにおいても増えてきているのだ。それに応えうるような川柳作品が書かれることがますます望まれるのである。