7月6日(土)
連句協会・理事会に出席のため東京へ。
朝、家を出るとき郵便受けに「川柳カード」3号の校正刷が届いていた。鞄に入れて出発。
新幹線の中で校正する。特集「2010年代の川柳」、飯島章友・湊圭史・きゅういち・兵頭全郎の四人がそれぞれ異なる切り口で書いていて、立体的に仕上がっている。何箇所か訂正。(しかし、結果的には重大な誤りをスルーしてしまっていた。校正はコワイ。)
千駄ヶ谷で降りて、会場の日本青年館へ向かう。国立競技場ではサッカーの試合があるようだ。
連句協会の法人化、山梨の国民文化祭などについて話し合い、夕刻に終了。
いつもは理事会のあと近くの蕎麦屋に有志が集まるのだが、本日は体調不良のため出席せずに大阪へ帰ることにする。先日の「大阪連句懇話会」のあと夏風邪をひいて、なかなか治らない。このときご参加の連句協会会長も風邪をこじらせているし、大阪のバイ菌は強力なようだ。
7月7日(日)
玉野市民川柳大会へ。
新幹線で岡山へ。岡山から高知ゆきのマリンライナーに乗り、茶屋町で乗り換え宇野へ到着。
投句後、会場近くのお好み焼き屋へ。二軒あるが、冷房の効かない方は敬遠する。わけあってビールはノンアルコールにする。
会場へ戻ると、一階ロビーで海地大破さんはじめ高知の「川柳木馬」の方々と出会い、歓談する。高知組はバスをチャーターして来ていて、とても元気である。来年は「木馬35周年」だ。
兼題4(兼題は同じ題で男性選者と女性選者の共選)、席題1。大会では成績が悪く、3句抜けただけだった。特に「キリン」の題で抜けなかったのが残念である。もう少し実作に力をいれなければ。
兵頭全郎が特選を三つ受賞したので、岡山駅前でお祝いをする。玉野の帰りに毎年立ち寄る居酒屋である。昨年は二階の座敷いっぱいの参加者だったのに、今年はいるべき人がいない。明日は職場検診でバリウムを飲むので、ノンアルコール・ビールで通した。あまり気勢が上がらない。
7月×日
五木寛之・梅原猛対談集『仏の発見』読了。
途中で川端康成の話になって、五木がデビューしたてのころ、川端に誘われて「絨毯バー」というところに行く話がおもしろい。
バーの近くに小物を売っている店があって、川端は安物のアクセサリーか何かをたくさん仕入れていく。バーに着くと、来ている女の子に向かって五木が「あのおじさんがこんなものをくれると言っているから、こちらへ来て話さない?」とか言う。女の子に取り巻かれて川端はとても嬉しそうだったという。
仏界入りやすく、魔界入りがたし。
7月×日
俳誌「里」7月号が届く。
毎号楽しみにしている佐藤文香選句欄「ハイクラブ」のページを開く。
蛸の目のきろりと動くだいぶ嫌 上田信治
ほんたうのみづ満ちてゐる枇杷の中 中山泡
小さき人やはりちひさき夏木立 山田露結
駒鳥や太陽は西に向かった 日高香織
行くも帰るも世界の夏の生足よ 高山れおな
「成分表」で上田信治が「説得力」と「納得力」について書いている。
その中で上田は施川ユウキの長編4コマ漫画『オンノジ』に触れている。この漫画は読んだことがないけれど、「どういうわけか世界にただ一人とり残された小学生の女の子が、うだうだ冗談を言いながら生きていく」という話らしい。上田はこんなふうに言う。
「おどろくべきことに、この作品はハッピーエンドで終わる」「そんな世界をつくっておいて、作者はその少女が不幸になることが、自分に許せなくなったにちがいない」
もちろんこのハッピーエンドは辻つま合わせなどではなくて、考え抜かれたものなのである。最後に上田は次の句を引用している。
死顔のやうにやすらか汗ながら 田中裕明
7月×日
「猫蓑通信」92号が届く。
巻頭、青木秀樹が「連句の座のマナー」について書いている。
東明雅「二条良基の序破急論」は昭和40年に書かれた文章の再録。こういう文献の掘り起こしは読者にとってありがたい。良基の「築波問答」では百韻について、「一の懐紙は序、二の懐紙は破、三・四の懐紙は急」に相当するとしている。序破急の「急」の部分が後半全部となり、ここに一巻の興味がおかれていることになる。
「急」が他の二倍もあるという良基の連歌論はおもしろいとも言えるが、後代の人はこれを修正して、発句から十句目までが序、十一句目から二・三の懐紙全部を破、四の懐紙が急となった。連句の歌仙では表六句が序、裏と名残の表の二十四句が破、名残の裏六句が急である。
編集人の鈴木了斎は、東明雅の文章に並べて芭蕉の「柴門ノ辞」(現代語訳・解題付)を置き、次のように問題提起している。
「もし、歴代の連歌師、俳諧師が常に古人の跡だけを求めていたら、出発点である二条良基の論は今日に至るまで、まったくそのままの形で通用していたに違いない。では、師の求めたところを求めるにはどうすればいいのだろうか。私達も真剣にそれを考え、模索することを通して、豊かな師恩に報いて行かねばならない」
7月×日
「川柳・北田辺」第33回句会報が届く。
くんじろうの長屋ギャラリーで開催される句会である。くんじろうの手料理付きで、この日は「らわん蕗のシーチキン炒め」「牛ステーキ夏野菜ソース」「パプリカの肉詰めチーズ焼き」をはじめ17品が出たもよう。
席題1、兼題3のほか2順目の席題が12題。
「いつまでも気の済むまでやってたらええねんとお帰りになった方もいる中で…」
さらに封筒まわしが7題。くんじろうと榊陽子が絶好調である。
「陽気」 ライオンの棺で父を送り出す くんじろう
「こだわる」三行目からは漢字を使わない くんじろう
「零す」 おしょうゆをこぼしておとなになっていく 陽子
「失言」 ねえさんは一日2回ひげを剃る 陽子
9月15日には同所で「第5回朗読会」が開催される予定。
7月×日
久保純夫の個人誌「儒艮」(じゅごん)第2号が届く。
個人誌ではあるが、11名の招待作品が並ぶ。
蟋蟀や解熱作用が見つからず 城貴代美
ジョバンニとアナベラがいる氷頭膾
直系は芍薬にあり打擲す
すれ違ひざまの耳打ち黄鶺鴒 岡田由季
人間は電気を通す秋の暮
蝌蚪じっと見ているそしていなくなる 小林かんな
くちなわのだんだん左寄りとなり
天文部一名遅刻ホタルブクロ
戦争のかたちで並ぶ裸かな 久保純夫
後朝や伏目のラマに愛されて
陰毛や遺品のように持ち歩き
桔梗ごと近づいてくる左の手
刈田かないつも乳首のふたつみつ
7月×日
「川柳カード」第3号が届く。
わあ~。校正ミスがあった。立ち直るまで、しばしの時間。
同人・会員・購読のみなさまには近日中に届くはずである。
9月28日(土)には「第2回川柳カード大会」が大阪・上本町で開催される。
この酷暑を乗りきれるだろうか。
2013年7月26日金曜日
2013年7月20日土曜日
「現代詩手帖」から大沼正明句集『異執』まで
「現代詩手帖」7月号の特集は「藤井貞和が問う」である。
巻頭に藤井自身の「声、言葉―次代へ」を据え、巌谷國士・川田順造・佐々木幹郎など20人近い論考を並べている。読みどころはいろいろあるが、昨年11月3日に神戸女子大学で開催されたシンポジウム「現代詩セミナー」が収録されているのが嬉しい。例年開催されているこのシンポジウムは何度か聞きに行ったことがあるが、昨年は参加できなかったからである。
パネラーは藤井貞和・金時鐘・たかとう匡子・細見和之、司会・倉橋健一であるが、金時鐘は次のように発言している。
「3月11日まで、日本の現代詩は外に向かって開かれていた詩だったとは思えないんです。生気を失った、内向きに逼塞した詩であったと私には見えていました。ために、これまでの現代詩の内実を明かしていくことが、いまから始まらねばならない。幸か不幸か、時代の変遷を驚愕の実相でもって露わにしたのが一昨年の東日本大震災だったと思うんです」
「この20年、日本では、短歌、俳句が跋扈しました。日本人誰しもが歌人、俳人の観を呈して久しいのですが、それにひきかえて現代詩はどうでしょう。言い換えれば、日本の言葉に関わる芸術は全部、現代詩の衰退のうえに成り立っている芸術なんです」
ここだけ引用すると誤解されそうな発言だが、インパクトがあり印象に残った。
細見和之は震災のあとCMで延々と金子みすゞの詩が流されたことについて、なぜ俳句や短歌ではなくて詩だったかと問題提起して「一番当たり障りのないものとして詩が選ばれたところもあったんじゃないか」と発言している。これも誤解を受けそうな発言だが、「大状況とふれ合わないという意味での詩、どこか自分の気持を逸らして別の何かを現実と違うものとして提示してくれるような詩、そういう生々しくないものとして詩が選ばれたところがあったのではないか」と細井は述べている。
シンポジウムのほか、和合亮一と藤井貞和の対談なども興味深いが、『東歌篇―異なる声 独吟千句』が再録されているのに注目した。藤井はこの本を2011年に出しているが、2012年には竹村正人がドキュメンタリー『反歌・急行東歌篇』を撮っている。
藤井の独吟千句は長句と短句を繰り返しているが、連歌・連句とは異なり、式目や季語を意識していない。こみ上げてくる言葉を吐き出したというものだろう。冒頭部分は「少年」と題されて、こんなふうに始まっている。
幼くて、われ走るなり。きれぎれに
返る記憶の少年の夏
特集のページ、原子の力もて
何をなせとか―ありし その記事
回し読みする「少年」誌、わが記憶
汚れていたる緑の表紙
はるかなるわれら 科学の夢を継ぐ
明日と思いき。はかなきことか
十年をわずかに越えつ。人類の
核分裂を手に入れてより
いもうとのウラン、名前に刻みつつ
あやうき虚偽となる 半世紀
あこがれの未来を、ラララ科学の子
戦後に誇る 産業ののち
鉄腕アトムの妹はウランちゃんだった。アニメの主題歌を作詞したのは谷川俊太郎。そういうところから藤井はうたいはじめている。いま、どんなに遠いところへ来てしまったことだろうか。
さて、「現代詩手帖」の俳句時評では関悦史が大沼正明句集『異執』(ふらんす堂)を取り上げている。句集の著者略歴によると、大沼正明(おおぬま・まさあき)は昭和21年、旧満州生まれ、仙台で育つ。『大沼正明句集』(海程新社、昭和61年)。現在「DA俳句」所属。「後記」を読むと『異執』という句集名は「正論から外れた見解を立ててこれに執着すること」で仏教語であるらしい。
関悦史は『異執』について、「大抵の句集が二次元もしくは三次元の枠内で表現に努めているとすれば、この句集は四次元といえようか」と述べている。「新しい表現自体のために新しい表現が探られるのではなく、己の生を句に成そうとすると、その表現が異形のものへと変貌していくのである」
『異執』については外山一機も「ブログ俳句空間・戦後俳句を読む」(5月31日)で取り上げている。
http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/05/jihyo0531.html
関や外山に付け加えることは何もないのだが、『異執』はとても刺激的な句集なので、いくつかの句を紹介してみたい。
寧よ冬鳥戒厳令まだ解かぬ街に
寧よ行こう冬鳥を連れもっと北へ
長春手前で霧ふり寧の生理知りし
異物か無か寧の故郷に寧とひそみ
異物か明か三年半前少女の寧
寧の生家はあの解放大路の暗帰りぬ
「寧」にはニン、「明」には「みょう」、「解放大路」には「ジエファンダールウ」、「暗」には「あん」とルビがふられている。
「1991年(平成)秋からの足掛け四年は、中国東北部の長春にて現地の人々と寝食を共にした。旧満州生まれのおそらく最年少引揚者であろう己が原点を探る旅であり、句作りの継続には不可避との思いがあっただろう」と後記にある。
「杜人」238号に広瀬ちえみが「含羞と傲岸について」と題して『異執』の鑑賞を書いている。大沼は「『杜人』のみんなで来れば(長春を)案内するよ」とよく言っていたというが、実現しなかったらしい。
掲出句は1991年より以前の、1989年冬に北京から長春を旅したときの句のようだ。寧(ニン)という少女を詠んでいて抒情的だ。
われは反メディア派でいるンゴロンゴロ
貧貪と鳴らし半馬鹿派で行こう
僕もいつか紙おむつバックストローク派かな
「貧貪」には「ヒンドン」、「半馬鹿派」には「パンパカパ」のルビが。
「~派」という句が何句か見られる。むかし「漫画トリオ」なんてあったな。
阿Qいれば吽Qいるはず冬ざれ行く
ソウ太とウツ介この双頭の夏を行く
ぎざぎざ背鰭のオーヌマサウルス六十路らし
諧謔とか俳諧性を感じる句も多い。諧謔は自画像にも向かう。
次に挙げるのは批評性のある句。
しぐれとお金は大人の生き物こりこりす
自爆テロ地球にトンボ浮いてるのに
羽化まえのエノラゲイなら指でつまむ
民族浄化して粥に梅さがす広さかな
テキ屋きて社会の窓からいわし雲
ザリガニ尺もて祖国嫌度は脛から測る
天皇制のむこうの豚舎もまずは健康
渡辺隆夫が喜びそうな作品ではないか。
口腔(こう)派口腔(くう)派どっちも原発に口あいていた
この句について広瀬ちえみは次のように書いている。
「どう読もうと、そもそも原発ははじめから口腔を見せてあの日を待ちかまえていたのだという痛烈な批判は、新聞の見出しのような震災句の中で光を放っている」
最後に、句集のなかで最も抒情的だと思った句を挙げておこう。
白旗少女の白きは夏花なり摘むな
巻頭に藤井自身の「声、言葉―次代へ」を据え、巌谷國士・川田順造・佐々木幹郎など20人近い論考を並べている。読みどころはいろいろあるが、昨年11月3日に神戸女子大学で開催されたシンポジウム「現代詩セミナー」が収録されているのが嬉しい。例年開催されているこのシンポジウムは何度か聞きに行ったことがあるが、昨年は参加できなかったからである。
パネラーは藤井貞和・金時鐘・たかとう匡子・細見和之、司会・倉橋健一であるが、金時鐘は次のように発言している。
「3月11日まで、日本の現代詩は外に向かって開かれていた詩だったとは思えないんです。生気を失った、内向きに逼塞した詩であったと私には見えていました。ために、これまでの現代詩の内実を明かしていくことが、いまから始まらねばならない。幸か不幸か、時代の変遷を驚愕の実相でもって露わにしたのが一昨年の東日本大震災だったと思うんです」
「この20年、日本では、短歌、俳句が跋扈しました。日本人誰しもが歌人、俳人の観を呈して久しいのですが、それにひきかえて現代詩はどうでしょう。言い換えれば、日本の言葉に関わる芸術は全部、現代詩の衰退のうえに成り立っている芸術なんです」
ここだけ引用すると誤解されそうな発言だが、インパクトがあり印象に残った。
細見和之は震災のあとCMで延々と金子みすゞの詩が流されたことについて、なぜ俳句や短歌ではなくて詩だったかと問題提起して「一番当たり障りのないものとして詩が選ばれたところもあったんじゃないか」と発言している。これも誤解を受けそうな発言だが、「大状況とふれ合わないという意味での詩、どこか自分の気持を逸らして別の何かを現実と違うものとして提示してくれるような詩、そういう生々しくないものとして詩が選ばれたところがあったのではないか」と細井は述べている。
シンポジウムのほか、和合亮一と藤井貞和の対談なども興味深いが、『東歌篇―異なる声 独吟千句』が再録されているのに注目した。藤井はこの本を2011年に出しているが、2012年には竹村正人がドキュメンタリー『反歌・急行東歌篇』を撮っている。
藤井の独吟千句は長句と短句を繰り返しているが、連歌・連句とは異なり、式目や季語を意識していない。こみ上げてくる言葉を吐き出したというものだろう。冒頭部分は「少年」と題されて、こんなふうに始まっている。
幼くて、われ走るなり。きれぎれに
返る記憶の少年の夏
特集のページ、原子の力もて
何をなせとか―ありし その記事
回し読みする「少年」誌、わが記憶
汚れていたる緑の表紙
はるかなるわれら 科学の夢を継ぐ
明日と思いき。はかなきことか
十年をわずかに越えつ。人類の
核分裂を手に入れてより
いもうとのウラン、名前に刻みつつ
あやうき虚偽となる 半世紀
あこがれの未来を、ラララ科学の子
戦後に誇る 産業ののち
鉄腕アトムの妹はウランちゃんだった。アニメの主題歌を作詞したのは谷川俊太郎。そういうところから藤井はうたいはじめている。いま、どんなに遠いところへ来てしまったことだろうか。
さて、「現代詩手帖」の俳句時評では関悦史が大沼正明句集『異執』(ふらんす堂)を取り上げている。句集の著者略歴によると、大沼正明(おおぬま・まさあき)は昭和21年、旧満州生まれ、仙台で育つ。『大沼正明句集』(海程新社、昭和61年)。現在「DA俳句」所属。「後記」を読むと『異執』という句集名は「正論から外れた見解を立ててこれに執着すること」で仏教語であるらしい。
関悦史は『異執』について、「大抵の句集が二次元もしくは三次元の枠内で表現に努めているとすれば、この句集は四次元といえようか」と述べている。「新しい表現自体のために新しい表現が探られるのではなく、己の生を句に成そうとすると、その表現が異形のものへと変貌していくのである」
『異執』については外山一機も「ブログ俳句空間・戦後俳句を読む」(5月31日)で取り上げている。
http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/05/jihyo0531.html
関や外山に付け加えることは何もないのだが、『異執』はとても刺激的な句集なので、いくつかの句を紹介してみたい。
寧よ冬鳥戒厳令まだ解かぬ街に
寧よ行こう冬鳥を連れもっと北へ
長春手前で霧ふり寧の生理知りし
異物か無か寧の故郷に寧とひそみ
異物か明か三年半前少女の寧
寧の生家はあの解放大路の暗帰りぬ
「寧」にはニン、「明」には「みょう」、「解放大路」には「ジエファンダールウ」、「暗」には「あん」とルビがふられている。
「1991年(平成)秋からの足掛け四年は、中国東北部の長春にて現地の人々と寝食を共にした。旧満州生まれのおそらく最年少引揚者であろう己が原点を探る旅であり、句作りの継続には不可避との思いがあっただろう」と後記にある。
「杜人」238号に広瀬ちえみが「含羞と傲岸について」と題して『異執』の鑑賞を書いている。大沼は「『杜人』のみんなで来れば(長春を)案内するよ」とよく言っていたというが、実現しなかったらしい。
掲出句は1991年より以前の、1989年冬に北京から長春を旅したときの句のようだ。寧(ニン)という少女を詠んでいて抒情的だ。
われは反メディア派でいるンゴロンゴロ
貧貪と鳴らし半馬鹿派で行こう
僕もいつか紙おむつバックストローク派かな
「貧貪」には「ヒンドン」、「半馬鹿派」には「パンパカパ」のルビが。
「~派」という句が何句か見られる。むかし「漫画トリオ」なんてあったな。
阿Qいれば吽Qいるはず冬ざれ行く
ソウ太とウツ介この双頭の夏を行く
ぎざぎざ背鰭のオーヌマサウルス六十路らし
諧謔とか俳諧性を感じる句も多い。諧謔は自画像にも向かう。
次に挙げるのは批評性のある句。
しぐれとお金は大人の生き物こりこりす
自爆テロ地球にトンボ浮いてるのに
羽化まえのエノラゲイなら指でつまむ
民族浄化して粥に梅さがす広さかな
テキ屋きて社会の窓からいわし雲
ザリガニ尺もて祖国嫌度は脛から測る
天皇制のむこうの豚舎もまずは健康
渡辺隆夫が喜びそうな作品ではないか。
口腔(こう)派口腔(くう)派どっちも原発に口あいていた
この句について広瀬ちえみは次のように書いている。
「どう読もうと、そもそも原発ははじめから口腔を見せてあの日を待ちかまえていたのだという痛烈な批判は、新聞の見出しのような震災句の中で光を放っている」
最後に、句集のなかで最も抒情的だと思った句を挙げておこう。
白旗少女の白きは夏花なり摘むな
2013年7月12日金曜日
佐藤みさ子は怒っている
短歌誌「井泉」52号の連載「ガールズ・ポエトリーの現在」で喜多昭夫が「ロスジェネ世代の共感と連帯」と題して佐藤晶歌集『冬の秒針』を取り上げている。喜多はこの歌集を「ロスジェネ歌集として位置づけることができる」とした上で、次のように説明している。
「ロストジェネレーションとは、1970~80年代前半にかけて生まれた世代をさす」
「1991年3月にバブルは崩壊し、状況は一変する。有効求人倍率がついに1を下回った1993年以降、この世代は就職氷河期に見舞われることになったのである。企業は正社員の採用をできるだけ押さえて、派遣社員や契約社員といった非正規雇用を増やす方向へ大きく舵を切り、その憂き目を一身に浴びることになったのが、ロスジェネ世代というわけである」
内面にかかわりそうな話題には興味ないってふりが礼儀で 佐藤晶
触れあえばその傷跡が残るだろう桃のようなるわれらのこころ
このブログ(6月21日)でも「失われた20年をどう詠む」という飯島章友の問題意識について述べたことがあるが、ロスジェネ世代の川柳人がほとんど存在しないのはやはり気がかりなことである。
「MANO」18号が発行された。
佐藤みさ子・加藤久子・樋口由紀子・小池正博の同人作品のほかに、佐藤が「『冬の犬』を読む」、加藤が「明さんへの旅」、樋口が「石部明という存在」を書いて、昨年10月に亡くなった石部明を追悼している。小池の「現代川柳の方法」は木村半文銭の新興川柳と現代川柳を重ね合わせながら、固有の川柳メソッドがありうるかを問う。
巻頭作品は佐藤みさ子の「探す」20句である。
宮城県柴田町に在住の佐藤みさ子は震災をテーマに作品を書くことが多くなっている。
震災から二年以上が経過して、佐藤は依然として怒っているのだ。その怒りは内面化され、射程距離の長い作品として結実しつつある。
今回は佐藤の句を中心に取り上げるが、刺身のツマとして小池の句を取り合わせることによって若干の立体化をはかってみることにしたい。
ゲンパツを抱くとポタポタ雫する 佐藤みさ子
ネオリベも躑躅も妙に生きづらい 小池正博
1年前の「MANO」17号で佐藤は「祈るしかないのだ水を注ぎこむ」と詠んでいた。
いま佐藤は「ゲンパツを抱く」と詠んでいる。2年経過しても事態は収束しないし、将来の見通しもはっきりしない。そんなことは誰も望んでいないはずなのに、私たちはゲンパツを抱きかかえたまま生きていくほかはないのかも知れない。ポタポタ落ちる雫にはもちろん放射能が混じっているのである。
ネオリベはネオリベラリズム(新自由主義)である。この用語の厳密な意味を承知しているわけではないが、「ネオリベ」と省略して使う場合は揶揄の気持ちが込められている。男女機会均等法以後、女性も男性と同じように職場で活躍することを求められている。また、「市場原理」優先の時代の中で日本全体に何ともいえない閉塞感が漂っているのだ。
和を以て地震津波の国である みさ子
なぜ髭を生やさぬと鞭打ちの刑 正博
聖徳太子の制定した「十七条の憲法」の第一条は「和を以て貴しと為し」である。太子は地震や津波まで想定しなかっただろうが、地震があろうと津波が来ようと和をもってことにあたる国だというのは皮肉である。
イスラム圏に鞭打ちの刑がある。
アフガニスタンは多民族国家であるが、ハザラ人というモンゴル系の人々がいる。
テレビのニュースでよく見る長い髭を生やした典型的な男性とは異なって、ハザラ人は体質的に髭が伸びないのである。タリバン時代、髭を生やさない成人男子は鞭打たれることがあったという。髭を生やしていることがイスラムの象徴であったのだ。「いや、私たちは髭を生やしたくても生えないのだ」と言っても、聞き入れてもらえない。
千年に一度のゆめの遺族です みさ子
木漏れ日に混じって劣化ウラン弾 正博
千年に一度の地震、千年に一度の津波だったという。
津波の映像はUチューブなどに投稿されたが、撮影しながら「夢みたい」と呟いている撮影者がいたのは印象的だった。実感だっただろう。人は信じられない現実を目の前にして、夢のようだと感じる。けれども、人の死は夢ではないのである。
アフガニスタンには不発弾が大量に残っている。
子どもたちは不発弾を玩具にして遊ぶ。
たくましいとも言えるが、ほかに遊び道具が何もないのだ。もちろん彼らはそれが危険な遊びであることを知っている。どうすれば爆発しないかを知っているのだ。
けれども、どんなに注意深く扱っても、爆弾は不意に爆発してしまう。
劣化ウラン弾というものもある。戦車や装甲車を撃ち抜くために使われたらしいが、放射能の影響が指摘されている。劣化ウランは原発の廃棄物だということだ。
頼むから口には花を詰めないで みさ子
憤怒でしたか牡丹の手入れ怠って 正博
口に花を詰めるのは善意だろうか悪意だろうか。
花で飾るのだから善意かというと、本人は嫌がっていたりするから、無意識の悪意になってしまう。どういう状況が詠まれているかを考えると、作中主体はすでに死者であるのかもしれない。
一方、牡丹の手入れに余念のない人がいる。
何よりも大切な牡丹なのに手入れができないのは、憤怒にうち震えているからである。それほど怒るようなことがあったのだろう。
竹の子と木の子と人の子を探せ みさ子
パートナー蜘蛛に噛まれた者たちの 正博
魯迅の『狂人日記』の最後は確か「子どもを救え」だった。みさ子は「人の子を探せ」と言う。
タランチュラに噛まれた者が狂ったように踊っている。噛まれた者は何人もいるから、彼らは仲間たちのように見える。
見あげると千手観音やまざくら みさ子
神さびの森に尿意は谺する 正博
救済は人知を越えたところにしかないのかも知れない。
千手観音や神さびの森。
しかし、佐藤みさ子は怒っている。
何のための川柳なのか銃乱射 佐藤みさ子
「ロストジェネレーションとは、1970~80年代前半にかけて生まれた世代をさす」
「1991年3月にバブルは崩壊し、状況は一変する。有効求人倍率がついに1を下回った1993年以降、この世代は就職氷河期に見舞われることになったのである。企業は正社員の採用をできるだけ押さえて、派遣社員や契約社員といった非正規雇用を増やす方向へ大きく舵を切り、その憂き目を一身に浴びることになったのが、ロスジェネ世代というわけである」
内面にかかわりそうな話題には興味ないってふりが礼儀で 佐藤晶
触れあえばその傷跡が残るだろう桃のようなるわれらのこころ
このブログ(6月21日)でも「失われた20年をどう詠む」という飯島章友の問題意識について述べたことがあるが、ロスジェネ世代の川柳人がほとんど存在しないのはやはり気がかりなことである。
「MANO」18号が発行された。
佐藤みさ子・加藤久子・樋口由紀子・小池正博の同人作品のほかに、佐藤が「『冬の犬』を読む」、加藤が「明さんへの旅」、樋口が「石部明という存在」を書いて、昨年10月に亡くなった石部明を追悼している。小池の「現代川柳の方法」は木村半文銭の新興川柳と現代川柳を重ね合わせながら、固有の川柳メソッドがありうるかを問う。
巻頭作品は佐藤みさ子の「探す」20句である。
宮城県柴田町に在住の佐藤みさ子は震災をテーマに作品を書くことが多くなっている。
震災から二年以上が経過して、佐藤は依然として怒っているのだ。その怒りは内面化され、射程距離の長い作品として結実しつつある。
今回は佐藤の句を中心に取り上げるが、刺身のツマとして小池の句を取り合わせることによって若干の立体化をはかってみることにしたい。
ゲンパツを抱くとポタポタ雫する 佐藤みさ子
ネオリベも躑躅も妙に生きづらい 小池正博
1年前の「MANO」17号で佐藤は「祈るしかないのだ水を注ぎこむ」と詠んでいた。
いま佐藤は「ゲンパツを抱く」と詠んでいる。2年経過しても事態は収束しないし、将来の見通しもはっきりしない。そんなことは誰も望んでいないはずなのに、私たちはゲンパツを抱きかかえたまま生きていくほかはないのかも知れない。ポタポタ落ちる雫にはもちろん放射能が混じっているのである。
ネオリベはネオリベラリズム(新自由主義)である。この用語の厳密な意味を承知しているわけではないが、「ネオリベ」と省略して使う場合は揶揄の気持ちが込められている。男女機会均等法以後、女性も男性と同じように職場で活躍することを求められている。また、「市場原理」優先の時代の中で日本全体に何ともいえない閉塞感が漂っているのだ。
和を以て地震津波の国である みさ子
なぜ髭を生やさぬと鞭打ちの刑 正博
聖徳太子の制定した「十七条の憲法」の第一条は「和を以て貴しと為し」である。太子は地震や津波まで想定しなかっただろうが、地震があろうと津波が来ようと和をもってことにあたる国だというのは皮肉である。
イスラム圏に鞭打ちの刑がある。
アフガニスタンは多民族国家であるが、ハザラ人というモンゴル系の人々がいる。
テレビのニュースでよく見る長い髭を生やした典型的な男性とは異なって、ハザラ人は体質的に髭が伸びないのである。タリバン時代、髭を生やさない成人男子は鞭打たれることがあったという。髭を生やしていることがイスラムの象徴であったのだ。「いや、私たちは髭を生やしたくても生えないのだ」と言っても、聞き入れてもらえない。
千年に一度のゆめの遺族です みさ子
木漏れ日に混じって劣化ウラン弾 正博
千年に一度の地震、千年に一度の津波だったという。
津波の映像はUチューブなどに投稿されたが、撮影しながら「夢みたい」と呟いている撮影者がいたのは印象的だった。実感だっただろう。人は信じられない現実を目の前にして、夢のようだと感じる。けれども、人の死は夢ではないのである。
アフガニスタンには不発弾が大量に残っている。
子どもたちは不発弾を玩具にして遊ぶ。
たくましいとも言えるが、ほかに遊び道具が何もないのだ。もちろん彼らはそれが危険な遊びであることを知っている。どうすれば爆発しないかを知っているのだ。
けれども、どんなに注意深く扱っても、爆弾は不意に爆発してしまう。
劣化ウラン弾というものもある。戦車や装甲車を撃ち抜くために使われたらしいが、放射能の影響が指摘されている。劣化ウランは原発の廃棄物だということだ。
頼むから口には花を詰めないで みさ子
憤怒でしたか牡丹の手入れ怠って 正博
口に花を詰めるのは善意だろうか悪意だろうか。
花で飾るのだから善意かというと、本人は嫌がっていたりするから、無意識の悪意になってしまう。どういう状況が詠まれているかを考えると、作中主体はすでに死者であるのかもしれない。
一方、牡丹の手入れに余念のない人がいる。
何よりも大切な牡丹なのに手入れができないのは、憤怒にうち震えているからである。それほど怒るようなことがあったのだろう。
竹の子と木の子と人の子を探せ みさ子
パートナー蜘蛛に噛まれた者たちの 正博
魯迅の『狂人日記』の最後は確か「子どもを救え」だった。みさ子は「人の子を探せ」と言う。
タランチュラに噛まれた者が狂ったように踊っている。噛まれた者は何人もいるから、彼らは仲間たちのように見える。
見あげると千手観音やまざくら みさ子
神さびの森に尿意は谺する 正博
救済は人知を越えたところにしかないのかも知れない。
千手観音や神さびの森。
しかし、佐藤みさ子は怒っている。
何のための川柳なのか銃乱射 佐藤みさ子
2013年7月5日金曜日
星座という組織にはいれないでください(山田喜代春)
「川柳塔」7月号が届いた。7月は麻生路郎忌である。
巻頭言に主幹の小島蘭幸が「自由律俳人 橋本夢道」を書いている。
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 橋本夢道
句集『無礼なる妻』の一句である。
夢道は徳島の出身。小島蘭幸は徳島県立文学書道館で『橋本夢道物語』を手に入れる。著者の殿岡駿星は夢道の次女の夫である。同書には次のように書かれているという。
「夢道は妻に対して『無礼なる妻』といいながら、実は世の中を批判している。必死になって飢餓食を作る妻を愛し、同時にこんな世の中にしてしまった戦争に対して怒りをぶっつけたのだろう」
蘭幸の巻頭言に刺激を受け、『短歌俳句川柳101年』(新潮臨時増刊号・1993年)の夢道のページを開けてみた。そこには次のような自由律俳句が掲載されていた。
戦争ゴッコの鎮台様がおらが一家の藷畑をメチャメチャにして呉れやがった
世界危機の正月の朝湯の身一つを愛する
夏の夢冬の夢春暁とても夢地獄
政治を信じられない日は青年青葉の塔を描く
発熱下痢愚痴内職三百六十日むしゃくしゃくしゃ
貧乏桜よ戦争いや強制労働ああ水爆真平だね
半人半獣のさばる邦の春風のみぴかぴかす
夢道は治安維持法違反で投獄され、獄中生活を送った。本物のプロレタリア俳人であった。
さて、川柳塔」7月号には拙稿の「春風をXに切る―高鷲亜鈍と詩川柳」も掲載されている。高鷲亜鈍は詩人の藤村青一。独自の詩川柳論で知られている。
また「川柳塔」には木津川計が「川柳讃歌」を連載していて、すでに百回を越える。
無駄なもの省けば私消えている 上田紀子
この句について木津川はこんなふうに書いている。
「岸田国士は高等で上等な人でしたから、『苦闘と闘ひ得ない人間は人間の屑だ。文学はさういふ人間の為に在るのではない』と傲然でした。ですが太宰治は自らを人間の屑と思い続け、『文学はさういふ人間の為に在る』と考えていたのでしょう。紀子さんも自らを人間の屑視されていますが、そんな紀子さんの為に川柳は在るのです。あなたの詠む『中心をずらしゆったり生きていく』現代川柳的感覚が光ります」
木津川計の『言葉の身づくろい』(上方芸能出版センター)はまだ読んでいないが、『人生としての川柳』(角川学芸ブックス・2010年)は川柳に対してエールを送る書である。
この本では六大家などの伝統川柳に多くのページが割かれているが、現代川柳にもきちんと目配りがされている。樋口由紀子や石田柊馬・石部明などの作品も引用されている。ただ、それは難解句の例として挙げられているのだが、分からないから駄目だというような偏狭な扱いはしていない。「川柳―近付き難い別世界にしないために」の章に木津川の考えがよく表れていて、私の考えとは異なる部分もあるが、川柳を大切なものとするスタンスはよく感じとれるのである。
そして本書の中には版画家・山田喜代春の名が登場する。
先日、京都で山田喜代春の個展を見る機会があった。三条通りのギャラリーである。
猫の絵が多く、欲しいなと思う作品がいくつかあった。
版画は手が出ないので絵日記『万歩のおつかい』を買い求めた。
木津川計が序文を書いている。
「もしも思いのままに絵を画けたら、人生どんなに楽しかろうと、僕はずーっと思いつづけてきたのです。
その絵に感心させたり、にこっとさせる詩をさらに添えられたら、人生は薔薇色になる、と夢見ながら僕は晩年に至りました。
そんな僕の無念を喜代春さんは全部叶えておいでです。どれほども幸せで、面白い人生であろうかと思えば、羨ましくて仕方がありません。しかし、天稟の持ち主の筈が、そうではないと言われるのです。
『たのしいことを山ほど築け苦しいことも山ほどつくれこれで山が二個できた』。そうだったのか、喜代春さんは好きな画業と詩作を楽しみながらも、やはり苦しみつづけて画家と詩人の山の二個を築かれたのです」
次に山田の詩をいくつか紹介しよう。句読点がなく、どこで行分けするかもわからないので、一行書きにしておく。
人の疲れをとるような詩をかきたいそのまえに自分の疲れをとらなくっちゃ
お前が世間にでられないようにしてやるとある人に言われたもともとでてないんです
いちばん大切にしているものは幼きときのかなしみ
死んでもし星になるのならけっして星座という組織にはいれないでください
蕗子よおまえには手を貸せないよだけどこころならいつでも借りにおいで
意欲のない人よっといでみんなそろってゴロ寝しよう
ぼくのひとことでよめさんないたさあしゅうしゅうがたいへんだ
悔いのない人生なんかおもろないわ
これらのことばは絵が添えられたときにいっそう強力な表現となって立ち上がってくる。こういう人が京都にいるんだなと思う。
巻頭言に主幹の小島蘭幸が「自由律俳人 橋本夢道」を書いている。
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 橋本夢道
句集『無礼なる妻』の一句である。
夢道は徳島の出身。小島蘭幸は徳島県立文学書道館で『橋本夢道物語』を手に入れる。著者の殿岡駿星は夢道の次女の夫である。同書には次のように書かれているという。
「夢道は妻に対して『無礼なる妻』といいながら、実は世の中を批判している。必死になって飢餓食を作る妻を愛し、同時にこんな世の中にしてしまった戦争に対して怒りをぶっつけたのだろう」
蘭幸の巻頭言に刺激を受け、『短歌俳句川柳101年』(新潮臨時増刊号・1993年)の夢道のページを開けてみた。そこには次のような自由律俳句が掲載されていた。
戦争ゴッコの鎮台様がおらが一家の藷畑をメチャメチャにして呉れやがった
世界危機の正月の朝湯の身一つを愛する
夏の夢冬の夢春暁とても夢地獄
政治を信じられない日は青年青葉の塔を描く
発熱下痢愚痴内職三百六十日むしゃくしゃくしゃ
貧乏桜よ戦争いや強制労働ああ水爆真平だね
半人半獣のさばる邦の春風のみぴかぴかす
夢道は治安維持法違反で投獄され、獄中生活を送った。本物のプロレタリア俳人であった。
さて、川柳塔」7月号には拙稿の「春風をXに切る―高鷲亜鈍と詩川柳」も掲載されている。高鷲亜鈍は詩人の藤村青一。独自の詩川柳論で知られている。
また「川柳塔」には木津川計が「川柳讃歌」を連載していて、すでに百回を越える。
無駄なもの省けば私消えている 上田紀子
この句について木津川はこんなふうに書いている。
「岸田国士は高等で上等な人でしたから、『苦闘と闘ひ得ない人間は人間の屑だ。文学はさういふ人間の為に在るのではない』と傲然でした。ですが太宰治は自らを人間の屑と思い続け、『文学はさういふ人間の為に在る』と考えていたのでしょう。紀子さんも自らを人間の屑視されていますが、そんな紀子さんの為に川柳は在るのです。あなたの詠む『中心をずらしゆったり生きていく』現代川柳的感覚が光ります」
木津川計の『言葉の身づくろい』(上方芸能出版センター)はまだ読んでいないが、『人生としての川柳』(角川学芸ブックス・2010年)は川柳に対してエールを送る書である。
この本では六大家などの伝統川柳に多くのページが割かれているが、現代川柳にもきちんと目配りがされている。樋口由紀子や石田柊馬・石部明などの作品も引用されている。ただ、それは難解句の例として挙げられているのだが、分からないから駄目だというような偏狭な扱いはしていない。「川柳―近付き難い別世界にしないために」の章に木津川の考えがよく表れていて、私の考えとは異なる部分もあるが、川柳を大切なものとするスタンスはよく感じとれるのである。
そして本書の中には版画家・山田喜代春の名が登場する。
先日、京都で山田喜代春の個展を見る機会があった。三条通りのギャラリーである。
猫の絵が多く、欲しいなと思う作品がいくつかあった。
版画は手が出ないので絵日記『万歩のおつかい』を買い求めた。
木津川計が序文を書いている。
「もしも思いのままに絵を画けたら、人生どんなに楽しかろうと、僕はずーっと思いつづけてきたのです。
その絵に感心させたり、にこっとさせる詩をさらに添えられたら、人生は薔薇色になる、と夢見ながら僕は晩年に至りました。
そんな僕の無念を喜代春さんは全部叶えておいでです。どれほども幸せで、面白い人生であろうかと思えば、羨ましくて仕方がありません。しかし、天稟の持ち主の筈が、そうではないと言われるのです。
『たのしいことを山ほど築け苦しいことも山ほどつくれこれで山が二個できた』。そうだったのか、喜代春さんは好きな画業と詩作を楽しみながらも、やはり苦しみつづけて画家と詩人の山の二個を築かれたのです」
次に山田の詩をいくつか紹介しよう。句読点がなく、どこで行分けするかもわからないので、一行書きにしておく。
人の疲れをとるような詩をかきたいそのまえに自分の疲れをとらなくっちゃ
お前が世間にでられないようにしてやるとある人に言われたもともとでてないんです
いちばん大切にしているものは幼きときのかなしみ
死んでもし星になるのならけっして星座という組織にはいれないでください
蕗子よおまえには手を貸せないよだけどこころならいつでも借りにおいで
意欲のない人よっといでみんなそろってゴロ寝しよう
ぼくのひとことでよめさんないたさあしゅうしゅうがたいへんだ
悔いのない人生なんかおもろないわ
これらのことばは絵が添えられたときにいっそう強力な表現となって立ち上がってくる。こういう人が京都にいるんだなと思う。
2013年6月28日金曜日
芭蕉に聞きたいこと―橋閒石と非懐紙連句
白燕濁らぬ水に羽を洗い 荷兮
燕が街を低く飛んでいるのを見かける。掲出句は芭蕉七部集の『冬の日』のうち「炭売の巻」にある付句である。白燕は瑞鳥である。
橋閒石が創刊した俳誌「白燕」は苛兮の句に拠っている。「白燕(しろつばめ)」を音読みして「びゃくえん」としたようだ。「白燕」は昭和24年5月に創刊、平成21年6月に終刊した。私の手元にあるのは終刊号(425号・創刊60周年記念号)だが、創刊号の復刻が挟み込まれているので、創刊当時の雰囲気を知ることができる。特に寺崎方堂・橋閒石による両吟の百韻と歌仙が収録されているのが嬉しい。閒石の「方堂先生と連句のことなど」では次のように述べられている。
「方堂とは義仲寺に住む無名庵十八世寺崎方堂宗匠のことである。私が俳諧文学の原理に通暁することの出来たのは、長年先生の膝下にあって連句の実作に精進した御蔭である。今日連句に於いても俳句に於いても、みづから信ずるところのあるのは、全くその間に於ける修業の賜である。方堂先生は、連句にかけては当代最高峯の一つである。二十年の昔、図らずも先生との間に縁の糸の結ばれたことから、今日の私が生れ出たと云っても過言でない」
閒石は寺崎方堂に嘱望されながら、結局は無名庵を継がなかった。そういう形式的な継承関係を嫌う気持が閒石にはあったのかも知れない。「白燕」の創刊は方堂との距離を決定的にしたことだろう。
「白燕」の三本柱は俳句と連句と随筆である。閒石の本業は英文学者であり、チャールズ・ラムの研究者であった。エッセイに力を入れるのは当然であった。彼の文学の中には日本的な俳諧の伝統と西洋文学の教養が渾然一体となっているのである。
まず俳句であるが、閒石には十の句集があり、『橋閒石全句集』(沖積社)に収録されている。『雪』『朱明』『無刻』『風景』『荒栲』『卯』『和栲』『虚』『橋閒石俳句選集』『微光』の十句集である。『全句集』から10句を抽出してみよう。
故山我を芹つむ我を忘れしや
遠回りして夕顔のひらきけり
空蝉のからくれないに砕けたり
階段が無くて海鼠の日暮かな
三枚におろされている薄暑かな
椿の実瀧しろがねに鳴るなべに
たましいの暗がり峠雪ならん
蝶になる途中九億九光年
露の世に吉祥天女在しけり
銀河系のとある酒場のヒヤシンス
閒石が俳壇的に有名になったのは『和栲』が第18回蛇笏賞を受賞したことによる。上掲の句も『和栲』収録の句が多い。「階段が無くて海鼠の日暮かな」は閒石の中でもよく知られている作品だろう。閒石は孤高の俳人なので、『和栲』が受賞したとき、選考委員のうち閒石の顔を知っている者が一人もいなかったという話が伝わっている。
私が最も愛唱するのは「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」で、『微光』に収録されている。「銀河系の」という宇宙的なスケールからはじめて酒場のヒヤシンスをクローズアップさせるところが心地よいのである。
先日、「大阪連句懇話会」で橋閒石について話をする機会があった。「大阪連句懇話会」は関西連句人のネットワークの構築と連句の研鑽を目的として2012年2月に発足し、今年6月に第6回目の例会を開催することができた。関西連句人の遺産の継承という意味で橋閒石のことは当初から私の頭の中にあったが、俳諧は人から人へ伝わるという面が強く、本を読んで研究しただけではなかなか真髄に迫ることができない。けれども、だからといって敬遠したままでは閒石が創始した「非懐紙」という形式が廃れていってしまう。思い切って取り上げてみることにしたのだ。
当日はテクストとして橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(秋山正明・澁谷道共編)を読むことにした。澁谷道の序文によると、閒石は「僕は芭蕉に会ったら聞きたいことがある」としばしば語っていたという。閒石の真意はどこにあったのだろうか。
芭蕉七部集『ひさご』の歌仙「花見の巻」は問題性を孕んだ一巻である。その全部を引用することはできないが、問題となるのは次の箇所である。
木のもとに汁も膾も桜かな(発句)
千部読花の盛の一身田( 裏十一句目)
花薄あまりまねけばうら枯て( 名残の裏一句目)
花咲けば芳野あたりを欠廻 ( 名残の裏五句目)
発句に「桜」とあるが、これは花の座ではなく、裏十一句目が花の座となる。
また、名残の裏の一句目「花薄」は秋の季語で、名残の裏五句目が花の座なのである。しかし、文字としては名残の裏に「花」という字が二箇所出ることになり、このようなことは避けるのが普通である。この点について芭蕉はどのように考えていたのだろうか。更に橋閒石はどのように解釈していたのだろうか。
澁谷道は次のように書いている。
「閒石先生の胸中には、先生独自の解釈があり、詩の真実に生きようとすると古式に則りつつも泥まぬことを旨とし、それはまた背馳の部分がそのままに矛盾の尾を引き、時代の文芸の中心人物としては大いなる悩みとなりつつ、形式に対してつとめて自由であろうとした芭蕉が、どうしても解決しきれず又実行もし得なかった、と洞察された、芭蕉の懊悩の行きつく先を、先生はある程度の推測の域にまで達しておられたのではないか、と私はおもう。
芭蕉の軽みのあとにくるものが、閒石先生には見えていたのではないか。『僕は芭蕉に会ったら聞きたいことがある』という先生の呟きを、私は何度耳にしたことか、しかしそのあと必ず口籠って、『聞きたいこと』の中味を話してはくださらなかった」
そして、澁谷は次のように推測するのだ。
「『花見の巻』の名残の裏に花の字が二つ見えることを気にしなかったのだろう、との先生の言葉を聞いた時から、もしかしたらこの辺りが非懐紙形式への思考に繋がるところかも知れないと私はおもった。『非』懐紙であるから懐紙は用いない。従って当然折はなく、表も裏もない。つまりこれは巻物形式なのだ。それが本来の姿だったのだから、或る意味では原始にかえる、ということになる」
敷衍して言えば、非懐紙という形式は連句精神と連句形式の相克から生まれたことになる。連句形式による制約と連句精神とがぎりぎりのところで抵触した場合、歌仙形式ではなく、非懐紙形式であれば、矛盾は解消される。けれども、形式の制約がないということは、逆に連句精神の強度が試されることでもあるのだ。非懐紙実作の困難さがそこに生じる。
当日は閒石の次の句を発句として非懐紙を巻いてみた。実作によってしかわからないことがいろいろあるものだ。
人になる気配も見えず梅雨の猫 橋閒石
(余談)
閒石が作ったという「ありがたぶし」なるものが伝わっている。酔余の戯れと見えるけれども、けっこう閒石は本気だったようだ。
わたしゃ冥利に生きながらえて
今日もお酒で暮れまする
低いまくらを高くもせずに
あなたまかせの仮枕
細いからだを軽みというて
やがて消えます春の雪
燕が街を低く飛んでいるのを見かける。掲出句は芭蕉七部集の『冬の日』のうち「炭売の巻」にある付句である。白燕は瑞鳥である。
橋閒石が創刊した俳誌「白燕」は苛兮の句に拠っている。「白燕(しろつばめ)」を音読みして「びゃくえん」としたようだ。「白燕」は昭和24年5月に創刊、平成21年6月に終刊した。私の手元にあるのは終刊号(425号・創刊60周年記念号)だが、創刊号の復刻が挟み込まれているので、創刊当時の雰囲気を知ることができる。特に寺崎方堂・橋閒石による両吟の百韻と歌仙が収録されているのが嬉しい。閒石の「方堂先生と連句のことなど」では次のように述べられている。
「方堂とは義仲寺に住む無名庵十八世寺崎方堂宗匠のことである。私が俳諧文学の原理に通暁することの出来たのは、長年先生の膝下にあって連句の実作に精進した御蔭である。今日連句に於いても俳句に於いても、みづから信ずるところのあるのは、全くその間に於ける修業の賜である。方堂先生は、連句にかけては当代最高峯の一つである。二十年の昔、図らずも先生との間に縁の糸の結ばれたことから、今日の私が生れ出たと云っても過言でない」
閒石は寺崎方堂に嘱望されながら、結局は無名庵を継がなかった。そういう形式的な継承関係を嫌う気持が閒石にはあったのかも知れない。「白燕」の創刊は方堂との距離を決定的にしたことだろう。
「白燕」の三本柱は俳句と連句と随筆である。閒石の本業は英文学者であり、チャールズ・ラムの研究者であった。エッセイに力を入れるのは当然であった。彼の文学の中には日本的な俳諧の伝統と西洋文学の教養が渾然一体となっているのである。
まず俳句であるが、閒石には十の句集があり、『橋閒石全句集』(沖積社)に収録されている。『雪』『朱明』『無刻』『風景』『荒栲』『卯』『和栲』『虚』『橋閒石俳句選集』『微光』の十句集である。『全句集』から10句を抽出してみよう。
故山我を芹つむ我を忘れしや
遠回りして夕顔のひらきけり
空蝉のからくれないに砕けたり
階段が無くて海鼠の日暮かな
三枚におろされている薄暑かな
椿の実瀧しろがねに鳴るなべに
たましいの暗がり峠雪ならん
蝶になる途中九億九光年
露の世に吉祥天女在しけり
銀河系のとある酒場のヒヤシンス
閒石が俳壇的に有名になったのは『和栲』が第18回蛇笏賞を受賞したことによる。上掲の句も『和栲』収録の句が多い。「階段が無くて海鼠の日暮かな」は閒石の中でもよく知られている作品だろう。閒石は孤高の俳人なので、『和栲』が受賞したとき、選考委員のうち閒石の顔を知っている者が一人もいなかったという話が伝わっている。
私が最も愛唱するのは「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」で、『微光』に収録されている。「銀河系の」という宇宙的なスケールからはじめて酒場のヒヤシンスをクローズアップさせるところが心地よいのである。
先日、「大阪連句懇話会」で橋閒石について話をする機会があった。「大阪連句懇話会」は関西連句人のネットワークの構築と連句の研鑽を目的として2012年2月に発足し、今年6月に第6回目の例会を開催することができた。関西連句人の遺産の継承という意味で橋閒石のことは当初から私の頭の中にあったが、俳諧は人から人へ伝わるという面が強く、本を読んで研究しただけではなかなか真髄に迫ることができない。けれども、だからといって敬遠したままでは閒石が創始した「非懐紙」という形式が廃れていってしまう。思い切って取り上げてみることにしたのだ。
当日はテクストとして橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(秋山正明・澁谷道共編)を読むことにした。澁谷道の序文によると、閒石は「僕は芭蕉に会ったら聞きたいことがある」としばしば語っていたという。閒石の真意はどこにあったのだろうか。
芭蕉七部集『ひさご』の歌仙「花見の巻」は問題性を孕んだ一巻である。その全部を引用することはできないが、問題となるのは次の箇所である。
木のもとに汁も膾も桜かな(発句)
千部読花の盛の一身田( 裏十一句目)
花薄あまりまねけばうら枯て( 名残の裏一句目)
花咲けば芳野あたりを欠廻 ( 名残の裏五句目)
発句に「桜」とあるが、これは花の座ではなく、裏十一句目が花の座となる。
また、名残の裏の一句目「花薄」は秋の季語で、名残の裏五句目が花の座なのである。しかし、文字としては名残の裏に「花」という字が二箇所出ることになり、このようなことは避けるのが普通である。この点について芭蕉はどのように考えていたのだろうか。更に橋閒石はどのように解釈していたのだろうか。
澁谷道は次のように書いている。
「閒石先生の胸中には、先生独自の解釈があり、詩の真実に生きようとすると古式に則りつつも泥まぬことを旨とし、それはまた背馳の部分がそのままに矛盾の尾を引き、時代の文芸の中心人物としては大いなる悩みとなりつつ、形式に対してつとめて自由であろうとした芭蕉が、どうしても解決しきれず又実行もし得なかった、と洞察された、芭蕉の懊悩の行きつく先を、先生はある程度の推測の域にまで達しておられたのではないか、と私はおもう。
芭蕉の軽みのあとにくるものが、閒石先生には見えていたのではないか。『僕は芭蕉に会ったら聞きたいことがある』という先生の呟きを、私は何度耳にしたことか、しかしそのあと必ず口籠って、『聞きたいこと』の中味を話してはくださらなかった」
そして、澁谷は次のように推測するのだ。
「『花見の巻』の名残の裏に花の字が二つ見えることを気にしなかったのだろう、との先生の言葉を聞いた時から、もしかしたらこの辺りが非懐紙形式への思考に繋がるところかも知れないと私はおもった。『非』懐紙であるから懐紙は用いない。従って当然折はなく、表も裏もない。つまりこれは巻物形式なのだ。それが本来の姿だったのだから、或る意味では原始にかえる、ということになる」
敷衍して言えば、非懐紙という形式は連句精神と連句形式の相克から生まれたことになる。連句形式による制約と連句精神とがぎりぎりのところで抵触した場合、歌仙形式ではなく、非懐紙形式であれば、矛盾は解消される。けれども、形式の制約がないということは、逆に連句精神の強度が試されることでもあるのだ。非懐紙実作の困難さがそこに生じる。
当日は閒石の次の句を発句として非懐紙を巻いてみた。実作によってしかわからないことがいろいろあるものだ。
人になる気配も見えず梅雨の猫 橋閒石
(余談)
閒石が作ったという「ありがたぶし」なるものが伝わっている。酔余の戯れと見えるけれども、けっこう閒石は本気だったようだ。
わたしゃ冥利に生きながらえて
今日もお酒で暮れまする
低いまくらを高くもせずに
あなたまかせの仮枕
細いからだを軽みというて
やがて消えます春の雪
2013年6月21日金曜日
失われた二十年をどう詠むか
短歌誌「かばん」6月号で編集人の飯島章友が川柳人・やすみりえと対談している。
飯島章友は短歌と並行して川柳も書いていて、「川柳カード」の同人でもある。やすみりえは昨年『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書』(土屋書店、坊城俊樹・東直子と共著)を出して川柳の普及につとめている。
掲載されている参考資料のうち「やすみりえの好きな川柳五句」を紹介する。
悲しみはつながっているカーブする 徳永政二
こどもの日母の日 五月って嫌い 庄司登美子
うばうことうばわれることがかがやけり 大西泰世
三月に死ねたらしばらくは春ね 時実新子
くちびるの哀しいまでの記憶力 川上富湖
「川柳と俳句」「川柳と短歌」などについて対談が続くが、飯島の「川柳は五七五の形式こそ俳句と同じなんですが、実は短歌と親和性があるのではないか」という発言に対して、やすみは「そうですね。短歌をやっている友人からも川柳に対してそんな風に言ってもらうことが度々ありますよ。それは本当にうれしい意見です」と答えている。
このあたりが川柳人と歌人が交流する際の出発点だろう。「私性」の表出という点で短歌と川柳には確かに共通性があるが、「私性」をめぐる議論にはそれぞれのジャンルにおける経緯があるから、ここから先にどう対話を進めていくかが今後のテーマとなるだろうと思う。
飯島の問題意識がよく表れているのは、「川柳に若手がいない」「失われた二十年をどう詠む」などの部分である。飯島はこんなふうに発言している。
「罵倒されようが無視されようが、川柳人としては若い世代が、同人誌をどんどん出していかないと駄目かなと。そして偉い方々も、若い世代に『場』を作ってあげることくらいはしたほうがいいと思います」
「僕もやすみさんも第二次ベビーブーマー(昭和46年~昭和49年生まれ)です。ここがバブル以後の最初の世代なんじゃないかと思います。氷河期世代とも言いますよね。で、結社川柳界には第二次ベビーブーマー以降がほぼいません」
「失われた二十年をどう詠む」という飯島の問題意識は重要である。先行世代が今を詠んでも新聞の見出しみたいに見えてしまうと飯島はいう。今をとらえる実感が異なるのである。
4月20日に開催された「石部明追悼川柳大会」の記録誌が届いた。
石田柊馬の「石部明を語る」は当日の話の再録である。石田は映画の話からはじめている。
「若い頃に社会性川柳にあこがれていた私は、何事によらずリアリズムを大切なものとしていましたので、勧善懲悪のチャンバラ映画で、生白くて腰の据わらない青年俳優のふにゃふにゃのチャンバラが大嫌いでした」
ところが石部明は「白塗りの美青年でいいのだ、勧善懲悪の主人公は非現実、リアリズムから離れている方がいいのだ」という見方だったという。
「勧善懲悪だけの思想をチャンバラでつくることは、それなりに人間や世界を抽象化して善と悪とのストーリーを単純化することと、手法として白塗りの美剣士を造ることが必要でした。明さんはこれをよく認識していたから、白塗りの美青年でいいのだという見方をしていたのです。勧善懲悪のヒーローは非現実の存在でなければならないこと。リアリズムと勧善懲悪の思想とはズレルことを明さんは知っていたのでした」
このことから石田柊馬は「石部明の川柳は、常に、現実と造り物との関係をわきまえて書かれていたのでした」と結論する。石部明は「造り物と現実との違い、そのあいだ、距離、をよく知って居なければ、創作行為が虚しくなることを心得ている川柳人だった」というのである。石部明のことをもっともよく理解するひとりである柊馬の石部明論である。
追悼大会の際に、各選者が特選に選んだ句を挙げておく。
柴田夕起子選 三日月はガーゼを掛けてから握る 本多洋子
前田一石選 ひめやかに湾の崩れゆく真昼 内田真理子
松永千秋選 いつまでも山羊であなたはオルガンで 徳永政二
徳永政二選 遮断機の向こうへ顎がはいります たむらあきこ
広瀬ちえみ選 潜水艦の中のポルノグラフィー 安原博
筒井祥文選 妖怪は字幕とともに現れる 徳永怜子
樋口由紀子選 ポケットの指は鯨が噛んでいる 兵頭全郎
あと、第32回「川柳北田辺」の句会報より、川柳性を発散させる女性たちの作品を紹介しておきたい。
たがが外れて鰓呼吸はじまる 酒井かがり
瓜売りが瓜売りに来て大嫌い 酒井かがり
ぶらんこのきしみ気管に押しあてる 榊陽子
仲良しクラブにひげが生えてくる 榊陽子
閂をかけてよくないことします 久保田紺
東大阪のぎらぎらの水たまり 久保田紺
飯島章友は短歌と並行して川柳も書いていて、「川柳カード」の同人でもある。やすみりえは昨年『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書』(土屋書店、坊城俊樹・東直子と共著)を出して川柳の普及につとめている。
掲載されている参考資料のうち「やすみりえの好きな川柳五句」を紹介する。
悲しみはつながっているカーブする 徳永政二
こどもの日母の日 五月って嫌い 庄司登美子
うばうことうばわれることがかがやけり 大西泰世
三月に死ねたらしばらくは春ね 時実新子
くちびるの哀しいまでの記憶力 川上富湖
「川柳と俳句」「川柳と短歌」などについて対談が続くが、飯島の「川柳は五七五の形式こそ俳句と同じなんですが、実は短歌と親和性があるのではないか」という発言に対して、やすみは「そうですね。短歌をやっている友人からも川柳に対してそんな風に言ってもらうことが度々ありますよ。それは本当にうれしい意見です」と答えている。
このあたりが川柳人と歌人が交流する際の出発点だろう。「私性」の表出という点で短歌と川柳には確かに共通性があるが、「私性」をめぐる議論にはそれぞれのジャンルにおける経緯があるから、ここから先にどう対話を進めていくかが今後のテーマとなるだろうと思う。
飯島の問題意識がよく表れているのは、「川柳に若手がいない」「失われた二十年をどう詠む」などの部分である。飯島はこんなふうに発言している。
「罵倒されようが無視されようが、川柳人としては若い世代が、同人誌をどんどん出していかないと駄目かなと。そして偉い方々も、若い世代に『場』を作ってあげることくらいはしたほうがいいと思います」
「僕もやすみさんも第二次ベビーブーマー(昭和46年~昭和49年生まれ)です。ここがバブル以後の最初の世代なんじゃないかと思います。氷河期世代とも言いますよね。で、結社川柳界には第二次ベビーブーマー以降がほぼいません」
「失われた二十年をどう詠む」という飯島の問題意識は重要である。先行世代が今を詠んでも新聞の見出しみたいに見えてしまうと飯島はいう。今をとらえる実感が異なるのである。
4月20日に開催された「石部明追悼川柳大会」の記録誌が届いた。
石田柊馬の「石部明を語る」は当日の話の再録である。石田は映画の話からはじめている。
「若い頃に社会性川柳にあこがれていた私は、何事によらずリアリズムを大切なものとしていましたので、勧善懲悪のチャンバラ映画で、生白くて腰の据わらない青年俳優のふにゃふにゃのチャンバラが大嫌いでした」
ところが石部明は「白塗りの美青年でいいのだ、勧善懲悪の主人公は非現実、リアリズムから離れている方がいいのだ」という見方だったという。
「勧善懲悪だけの思想をチャンバラでつくることは、それなりに人間や世界を抽象化して善と悪とのストーリーを単純化することと、手法として白塗りの美剣士を造ることが必要でした。明さんはこれをよく認識していたから、白塗りの美青年でいいのだという見方をしていたのです。勧善懲悪のヒーローは非現実の存在でなければならないこと。リアリズムと勧善懲悪の思想とはズレルことを明さんは知っていたのでした」
このことから石田柊馬は「石部明の川柳は、常に、現実と造り物との関係をわきまえて書かれていたのでした」と結論する。石部明は「造り物と現実との違い、そのあいだ、距離、をよく知って居なければ、創作行為が虚しくなることを心得ている川柳人だった」というのである。石部明のことをもっともよく理解するひとりである柊馬の石部明論である。
追悼大会の際に、各選者が特選に選んだ句を挙げておく。
柴田夕起子選 三日月はガーゼを掛けてから握る 本多洋子
前田一石選 ひめやかに湾の崩れゆく真昼 内田真理子
松永千秋選 いつまでも山羊であなたはオルガンで 徳永政二
徳永政二選 遮断機の向こうへ顎がはいります たむらあきこ
広瀬ちえみ選 潜水艦の中のポルノグラフィー 安原博
筒井祥文選 妖怪は字幕とともに現れる 徳永怜子
樋口由紀子選 ポケットの指は鯨が噛んでいる 兵頭全郎
あと、第32回「川柳北田辺」の句会報より、川柳性を発散させる女性たちの作品を紹介しておきたい。
たがが外れて鰓呼吸はじまる 酒井かがり
瓜売りが瓜売りに来て大嫌い 酒井かがり
ぶらんこのきしみ気管に押しあてる 榊陽子
仲良しクラブにひげが生えてくる 榊陽子
閂をかけてよくないことします 久保田紺
東大阪のぎらぎらの水たまり 久保田紺
2013年6月14日金曜日
第4回兼載忌記念連句会With八重の桜
会津がいま注目されている。
NHKの大河ドラマの影響は大きなものがあるが、会津ゆかりの連歌師に猪苗代兼載(いなわしろ・けんさい)という人がいる。2009年は兼載の生誕500年だったが、会津在住の連句人・俳人の田中雅子さんによって「兼載忌記念連句会」がスタートしてから今年で4回目になる。6月8日(土)に「学びいな(猪苗代体験交流館)」で開催された連句会にはじめて参加することができた。
兼載について少し触れておくと、『新撰莵玖波集』に兼載の句がある。岩波古典文学大系39『連歌集』から恋句を紹介しよう。
わすれがたみになれる一筆
かりそめのとだえをながきわかれにて
かりそめの一時的な別れだと思っていたのに、そうではなかったのである。
とはむとおもふこころはかなさ
この世だにかれぬるものを草の原
恋しい相手を訪れようと思う心もはかないことである。草原もやがて枯れてしまうこの世の中ではないか。
うづみ火きえてふくる夜の床
人はこでほたるばかりの影もうし
埋火は冬だから、火が消えた夜の床は寒々としていることだろう。恋人は来ないので、蛍のような影というのは恋人の影ではなくて作中主体の影になる。「うし」は「憂し」。
兼載は宗祇とともに『新撰莵玖波集』を編纂し、京都の北野天満宮連歌会所の宗匠をつとめた連歌人である。
「学びいな」でもらった『猪苗代兼載のふるさとを訪ねて』というパンフレットによると、兼載は亨徳元年(1452)、小平潟(こびらかた)村に生まれた。兼載の母は小平潟天満宮に祈願して兼載を生んだという伝承がある。父は猪苗代盛実と言われる。
兼載は六歳のとき現在の会津若松市、自在院に引き取られ連歌の会で頭角をあらわしてゆく。自在院に隣接していた諏訪神社には連歌会所があり、月次連歌会が催されていた。兼載の才能は他を寄せ付けず、その才能を嫉妬されたために彼が来るのを拒んで一室に閉じ込めたとか門扉を閉じようとして指を折ってしまったとか伝えられている。やがて関東に来ていた心敬や宗祇との出会いを経て、連歌師として大成する。晩年は会津に帰ったが、戦乱を避けて那須野に移り、古河に没した。
句会前日の8日(金)の夕方、新幹線で東京に出て、夜行バスで会津若松に向かう。午前5時に若松駅前に到着。雨が降り出して、早朝の会津は少し寒い。喫茶店もまだ開いていないので、街を歩きながら鶴ヶ城へ向かう。
人気もなく、静かな雰囲気を味わうことができた。土井晩翠の「荒城の月」の詩碑がある。荒城の月のモデルになった城は会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城がミックスされたものだと言われる。さらにお城近くの山本覚馬・八重の生誕の地に向かう。生誕の地は駐車場になっていた。
8時になって喫茶店が開く時間だ。野口英世青春通りにある英世記念館の一階の喫茶店に入る。ガイドブックに載っているレトロな喫茶店のひとつで、こういう喫茶店をいくつも回るのを楽しみにしていたが、会津滞在中に結局2軒しか行けなかった。
会津若松から磐越西線に乗る。午前11時20分に磐越西線の猪苗代駅に集合。連衆のみなさんと合流して貸切バスで兼載ゆかりの地へ向かい、兼載の母・加和里の墓、旧天満宮跡の幹の梅、小平潟天満宮などを回る。
「猪苗代の偉人を考える会」の方のガイドも楽しく、猪苗代の三偉人として猪苗代兼載・保科正之・野口英世の三人が挙げられている。
山は雲海は氷をかがみかな
この句碑は平成22年、没後500年記念に建立された。
明治20年に建立された「葦名兼栽碑」(猪苗代兼載碑)の横にある。猪苗代氏は葦名氏と同族。小平潟の人々はかつては「葦名兼載」の名で呼んでいたという。
さみだれに松遠ざかるすさきかな
兼載が小平潟天満宮で詠んだ発句である。
小平潟は湖につき出た洲崎になっていた。かつて天満宮の社前には湖の波が打ち寄せていたという。今は樹木が遮っていて見えないが、猪苗代湖がよく見えたのだろう。
この句碑は昭和34年(1959年)の猪苗代兼載没後450年記念の際に建立された。このときの記念行事の記録が自在院に残っているというが、確認されていない。また、記念句会が会津若松の御薬園・重陽閣で開催されたともいう。具体的な連衆の名も不明なので、何か情報をお持ちの方はご教示いただければありがたい。
兼載ゆかりの地を巡ったあと、「学びいな」で連句会。5座に分かれ、約30名の参加。私の座では次の発句で、歌仙を巻き上げた。
夏燕連歌の徳を慕い飛ぶ 正博
連句会の翌日は貸切バスで観光した。まず午前8時30分から大河ドラマ館に入館。人気があるので、朝一番の予約になったという。ここで大河ドラマのセットや衣装、映像などを体験。その後、鶴ヶ城、会津酒造歴史館などを回る。作家の早乙女貢は毎年の会津まつりには必ずやって来て、西郷頼母に扮していたという。
午後は日新館へ。
会津藩の藩校・日新館は司馬遼太郎が『街道を行く』の中で、当時としてはもっとも進んだ学校であったかもしれないと述べたものである。入口を入って正面にある大成殿が湯島聖堂とよく似ている。
天文台のあとからは磐梯山がよく見えた。以前は日新館は閑古鳥が鳴いていたそうだが、大勢の観光客が詰めかけている。やはりドラマの影響は大きい。
水練池に泳ぐ夥しいあめんぼをしばらく見ていた。
日新館のあとは、恵日寺の金堂と資料館を見学。
恵日寺を創建した徳一(とくいつ)については関心をもっていた。
30年以前に勝常寺を訪ねたことがある。勝常寺も徳一の創建した寺である。薬師三尊には迫力があった。京都・奈良の古寺巡礼をひととおり終わったあと地方仏に興味があったのだ。
会津を旅してみて、会津と関西との関係が深いことを知った。
たとえば、会津と京都との関係。
山口昌男の『敗者の精神史』(岩波現代文庫)に山本覚馬のことが出てくる。
「会津の敗者たちの中でひときわ際立っているのは山本覚馬の場合である。維新後、遷都の際、京都の能力ある人士は挙げて東京に移ったあと、京都は人材という点では全く空虚になってしまった。このとき京都を再建し、西欧的近代化に適応するのを助けたのは、外ならぬ敗者の会津藩の生き残り、山本覚馬であった」
私はこの本を鞄に入れて会津へ行ったのだが、会津の立場にしてみれば、逆にこの時期に人材は会津から去ったということになるのだろう。
私が事務局をしている「浪速の芭蕉祭」は大阪天満宮を拠点としており、今回、会津の「兼載忌記念連句会」との交流ができて嬉しかった。7月には郡上八幡で「連句フェスタ宗祇水」が開催され、こちらにも出席したいと思っている。
心敬・宗祇・兼載などの連歌は短詩型文学の遺産である。そこには俳句の取り合わせや川柳の詩的飛躍の遠源をなすLinked Poetry(付合文芸)の精神がある。
NHKの大河ドラマの影響は大きなものがあるが、会津ゆかりの連歌師に猪苗代兼載(いなわしろ・けんさい)という人がいる。2009年は兼載の生誕500年だったが、会津在住の連句人・俳人の田中雅子さんによって「兼載忌記念連句会」がスタートしてから今年で4回目になる。6月8日(土)に「学びいな(猪苗代体験交流館)」で開催された連句会にはじめて参加することができた。
兼載について少し触れておくと、『新撰莵玖波集』に兼載の句がある。岩波古典文学大系39『連歌集』から恋句を紹介しよう。
わすれがたみになれる一筆
かりそめのとだえをながきわかれにて
かりそめの一時的な別れだと思っていたのに、そうではなかったのである。
とはむとおもふこころはかなさ
この世だにかれぬるものを草の原
恋しい相手を訪れようと思う心もはかないことである。草原もやがて枯れてしまうこの世の中ではないか。
うづみ火きえてふくる夜の床
人はこでほたるばかりの影もうし
埋火は冬だから、火が消えた夜の床は寒々としていることだろう。恋人は来ないので、蛍のような影というのは恋人の影ではなくて作中主体の影になる。「うし」は「憂し」。
兼載は宗祇とともに『新撰莵玖波集』を編纂し、京都の北野天満宮連歌会所の宗匠をつとめた連歌人である。
「学びいな」でもらった『猪苗代兼載のふるさとを訪ねて』というパンフレットによると、兼載は亨徳元年(1452)、小平潟(こびらかた)村に生まれた。兼載の母は小平潟天満宮に祈願して兼載を生んだという伝承がある。父は猪苗代盛実と言われる。
兼載は六歳のとき現在の会津若松市、自在院に引き取られ連歌の会で頭角をあらわしてゆく。自在院に隣接していた諏訪神社には連歌会所があり、月次連歌会が催されていた。兼載の才能は他を寄せ付けず、その才能を嫉妬されたために彼が来るのを拒んで一室に閉じ込めたとか門扉を閉じようとして指を折ってしまったとか伝えられている。やがて関東に来ていた心敬や宗祇との出会いを経て、連歌師として大成する。晩年は会津に帰ったが、戦乱を避けて那須野に移り、古河に没した。
句会前日の8日(金)の夕方、新幹線で東京に出て、夜行バスで会津若松に向かう。午前5時に若松駅前に到着。雨が降り出して、早朝の会津は少し寒い。喫茶店もまだ開いていないので、街を歩きながら鶴ヶ城へ向かう。
人気もなく、静かな雰囲気を味わうことができた。土井晩翠の「荒城の月」の詩碑がある。荒城の月のモデルになった城は会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城がミックスされたものだと言われる。さらにお城近くの山本覚馬・八重の生誕の地に向かう。生誕の地は駐車場になっていた。
8時になって喫茶店が開く時間だ。野口英世青春通りにある英世記念館の一階の喫茶店に入る。ガイドブックに載っているレトロな喫茶店のひとつで、こういう喫茶店をいくつも回るのを楽しみにしていたが、会津滞在中に結局2軒しか行けなかった。
会津若松から磐越西線に乗る。午前11時20分に磐越西線の猪苗代駅に集合。連衆のみなさんと合流して貸切バスで兼載ゆかりの地へ向かい、兼載の母・加和里の墓、旧天満宮跡の幹の梅、小平潟天満宮などを回る。
「猪苗代の偉人を考える会」の方のガイドも楽しく、猪苗代の三偉人として猪苗代兼載・保科正之・野口英世の三人が挙げられている。
山は雲海は氷をかがみかな
この句碑は平成22年、没後500年記念に建立された。
明治20年に建立された「葦名兼栽碑」(猪苗代兼載碑)の横にある。猪苗代氏は葦名氏と同族。小平潟の人々はかつては「葦名兼載」の名で呼んでいたという。
さみだれに松遠ざかるすさきかな
兼載が小平潟天満宮で詠んだ発句である。
小平潟は湖につき出た洲崎になっていた。かつて天満宮の社前には湖の波が打ち寄せていたという。今は樹木が遮っていて見えないが、猪苗代湖がよく見えたのだろう。
この句碑は昭和34年(1959年)の猪苗代兼載没後450年記念の際に建立された。このときの記念行事の記録が自在院に残っているというが、確認されていない。また、記念句会が会津若松の御薬園・重陽閣で開催されたともいう。具体的な連衆の名も不明なので、何か情報をお持ちの方はご教示いただければありがたい。
兼載ゆかりの地を巡ったあと、「学びいな」で連句会。5座に分かれ、約30名の参加。私の座では次の発句で、歌仙を巻き上げた。
夏燕連歌の徳を慕い飛ぶ 正博
連句会の翌日は貸切バスで観光した。まず午前8時30分から大河ドラマ館に入館。人気があるので、朝一番の予約になったという。ここで大河ドラマのセットや衣装、映像などを体験。その後、鶴ヶ城、会津酒造歴史館などを回る。作家の早乙女貢は毎年の会津まつりには必ずやって来て、西郷頼母に扮していたという。
午後は日新館へ。
会津藩の藩校・日新館は司馬遼太郎が『街道を行く』の中で、当時としてはもっとも進んだ学校であったかもしれないと述べたものである。入口を入って正面にある大成殿が湯島聖堂とよく似ている。
天文台のあとからは磐梯山がよく見えた。以前は日新館は閑古鳥が鳴いていたそうだが、大勢の観光客が詰めかけている。やはりドラマの影響は大きい。
水練池に泳ぐ夥しいあめんぼをしばらく見ていた。
日新館のあとは、恵日寺の金堂と資料館を見学。
恵日寺を創建した徳一(とくいつ)については関心をもっていた。
30年以前に勝常寺を訪ねたことがある。勝常寺も徳一の創建した寺である。薬師三尊には迫力があった。京都・奈良の古寺巡礼をひととおり終わったあと地方仏に興味があったのだ。
会津を旅してみて、会津と関西との関係が深いことを知った。
たとえば、会津と京都との関係。
山口昌男の『敗者の精神史』(岩波現代文庫)に山本覚馬のことが出てくる。
「会津の敗者たちの中でひときわ際立っているのは山本覚馬の場合である。維新後、遷都の際、京都の能力ある人士は挙げて東京に移ったあと、京都は人材という点では全く空虚になってしまった。このとき京都を再建し、西欧的近代化に適応するのを助けたのは、外ならぬ敗者の会津藩の生き残り、山本覚馬であった」
私はこの本を鞄に入れて会津へ行ったのだが、会津の立場にしてみれば、逆にこの時期に人材は会津から去ったということになるのだろう。
私が事務局をしている「浪速の芭蕉祭」は大阪天満宮を拠点としており、今回、会津の「兼載忌記念連句会」との交流ができて嬉しかった。7月には郡上八幡で「連句フェスタ宗祇水」が開催され、こちらにも出席したいと思っている。
心敬・宗祇・兼載などの連歌は短詩型文学の遺産である。そこには俳句の取り合わせや川柳の詩的飛躍の遠源をなすLinked Poetry(付合文芸)の精神がある。
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