2011年8月26日金曜日

川柳の震災句は軽いのか

和合亮一著『詩の礫』(徳間書店、2011年6月発行)、まえがきとして「言葉の中の〈真実〉」という文章がある。

3月16日の夕暮れ。最も放射線数値の高い福島市の部屋で一人きり、パソコンの画面を睨んでいた。アパートの二階に位置しているが、隣近所に人の気配がない。直前の数日前に原子力発電所が白い煙をあげたから、一時的にでも避難をしていたのだろう。私は父や母や、職場があるから、福島に残ることを決意した。そして絶望していた。「これで、福島も、日本も終りだ」

この絶望感を誰かに伝えたい、書くということにだけ没頭したい、という気持ちから和合はツイッターに投稿を続ける。その最初の部分。

震災に遭いました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。みなさんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。
(2011年3月16日4:23)

本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。(2011年3月16日4:29)

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。
(2011年3月16日4:30)

放射能が降っています。静かな夜です。(2011年3月16日4:30)

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。(2011年3月16日4:31)

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。(2011年3月16日4:33)

凄いなと思う。その時その場の当事者として発せられた言葉にはまぎれもない真実性がある。その夜、和合が発したメッセージは40数個になった。ツイッターにはフォローという機能がある。全国から171人のフォローの申し込みがあり、翌朝には550人に増えて5月現在では14000人を超えるという。和合の言葉は震災について詩人が発信したもっとも切実なメッセージとして知られている。

「バックストローク」35号「アクア・ノーツ」の巻頭は横澤あや子の作品である。

密室のすぐれた月をくれませんか    横澤あや子
満ち潮から空の沖から御用聞き
瓦礫という花かんざしができあがる
きまじめな抽象画だと海は言う
棺のなかのみちのく光合成中

石田柊馬はこんなふうに書いている。

〈 多くの人が「詩の礫2011.3.16―4.9」(和合亮一、「現代詩手帖」5月号)を読んで、おろおろとしたことだろう。八戸の横澤あや子は川柳を書いた。無慈悲に命を奪い、人間が生きるには不可欠の「密室」を破壊したちからを、天然自然の荒々しさが恨めしい 〉

和合亮一は前掲書で「余震はひっきりなしに私の〈独房〉を襲ってきた」「何も考えなかった。〈独房〉の中で私が想つたのは、言葉の中にだけ自分の真実がある、ということだった」と述べている。横澤の「密室」はこの「独房」に通じるかも知れない。「瓦礫」を「花かんざし」にたとえ、新緑の東北を「棺のなか」と見立てる。ここにあるのはモラルや標語を越えた、横澤の表現者としての言葉である。

関悦史はブログ「閑中俳句日誌(別館)」(8月9日)で「バックストローク」35号を紹介しながら、横澤の句と柊馬の評に触れ、「川柳から震災への反応がここに出てきていた」と述べている。「ただし岡山に本拠を置く雑誌であるせいもあろうが、同人全体としては震災の影響が直接見える作は多くない。」
確かに関の指摘するように、震災を直接的に詠んだ句は本誌にはそう多くはない。けれども、直接・間接を問わず震災の影響を受けた句はけっこう見られる。

今宵あたり13ベクレルの月夜かな  渡辺隆夫
二号機に入っていったうさぎ跳び  湊圭史
嘔吐する海天も地も捩れ      松永千秋
ふくろうに千年前の闇が来る    広瀬ちえみ
生き延びよ仏の首をすげ替えても  松本仁

渡辺の「13ベクレルの月夜」は俳句の季語「十三夜」を意識している。広瀬の「千年前の闇」は電力が消えた太古の闇の深さを詠んでいる。広瀬はまた「春眠をむさぼるはずのカバだった」という仮想によって逆に悲惨な現実を指し示す。

関はさらに拙論「川柳とイロニー」に触れ、〈 惨事に対する川柳の機知的な切り込みは、俳句・短歌に比べていかにも軽い。その軽さに深さ、鋭さを潜ませるためのヒントがイロニーの「非・一読明快さ」なのだろう。それは知性の沈黙の領域の大きさを窺わせる 〉と述べている。
関の指摘に触発されて、川柳における震災句のさまざまな問題性が浮き彫りになってくる。
まず、当事者の詠んだ震災句として「杜人」230号(2011年6月発行)が思い浮かぶ。「杜人」のことは本欄で何度も紹介してきたが、仙台から出ている川柳誌だから、まぎれもない震災の当事者である。

ゆめのようなゆめかもしれぬゆめをみる    佐藤みさ子
なつかしいひとだったのだ地震来る

悲惨な現実を目のあたりにして、これは夢なのだと思うのは精神の防御反応であるだろう。カルデロンの『人生一夢』という戯曲において、塔に幽閉されている王子は、それを夢だと思いこんでいる。けれども解放されて彼は王となる。政局が変化して彼は再び幽閉される。王であったことがひとつの夢なのだ。王であったことと幽閉されていることと、どちらが夢でどちらが現実なのか。川柳界きってのアフォリズムの使い手である佐藤みさ子が震災に対峙して書いた決死の箴言である。
二句目はさらに衝撃的である。「なつかしいひとだったのだ」と「地震来る」との間には切れがあるだろう。けれども、私は「なつかしいひと=地震」という読みの誘惑を感じる。千年に一度やってくる地震。それは、なつかしい人だったのだ。
表現は悲惨な現実のあとを追いかけるものなのか、それとも悲惨な現実を越えることができるものなのだろうか。

和合亮一は「里」101号で「俳」とは何であろうかという定義について次のように書いている。

震災後の南相馬市市街地には今、「ありがとう」という旗がそちらこちらに立っている。初めは天災と人災の甚大な被害を抱えてしまった街に、とてもそぐわないものと感じた。街の青年たちが自発的に「ありがとう」という言葉を街のスローガンに掲げたいと皆に働きかけたらしい。彼らに直にうかがってみたところ、救援や支援、公務にあたっている方々に「ありがとう」の気持ちを持つことから、震災後の生活へのまなざしを変えて生きたいと語ってくれた。驚いた。そして私はこの若者たちに、無意識にも「俳」の精神を教えてもらった気がした。

もしこれが「俳」の精神なのだとすれば、川柳の「イロニー」とは少し異質である。
当事者性と第三者性、対象との距離の取り方、悲惨な現実を目のあたりにしてそれでも笑えるのかどうか、川柳の得意とするチャカシや批評性が震災から立ち上がろうとするモラルとどう抵触し折り合うのか。答えなどどこにもないなかで、それぞれの表現者が自分の言葉で震災を表現する、あるいは表現せずに沈黙するという態度決定をせまられている。

そんな中で仙台の広瀬ちえみが「垂人」15号に発表した次の句がいまのところ私にはもっとも印象的である。

松林だっただっただっただった    広瀬ちえみ

この「だった」には無量の「思い」が込められている。そして、川柳は今回も「思い」を越える批評性をもった震災句を生み出すことができないのだろうか。

最後に、覚書をふたつ。
関東大震災時の川柳については田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』に紹介されている。
野口裕は「週刊俳句」に「林田紀音夫全句集拾読」を延々と連載しているが、私の誤解でなければ、阪神淡路大震災に際して満足な無季俳句が書けなかったことが、紀音夫が俳句を断念した要因であるというのが野口の紀音夫論の要諦だと私は思っている。
悲惨な現実と拮抗するだけの言葉はどのようにして生まれるのだろうか。

2011年8月19日金曜日

人はそれを嘲魔と呼ぶ

鼻は人の顔面のど真ん中に付いている異物である。誰も鼻が自分の身体の一部であることを疑わない。けれども本当にそうなのか。
ゴーゴリの短編小説「鼻」は、鼻がある朝いなくなったしまう話である。鼻を失った八等官コワリョフは街中で一人の紳士に出会う。その紳士こそ彼の鼻だった。鼻は五等官の制服を着てカザン寺院へ入ってゆき、この上ない信心深い表情で祈っていた。カザン寺院はペテルブルグのネフスキー大通りに面している寺院である。ゴーゴリの作品は検閲を受けることが多かったが、この部分も不謹慎として検閲にひっかかり、作者は寺院をマーケットに書き換えさせられた経緯がある。
「もしもし、あなた」とコワリョフは鼻に話しかける。「あなたはご自分の居場所をご存じでなければならない。あなたは、私の鼻じゃありませんか」
鼻は次のように答えて去っていくのだ。
「君、何か思い違いをしておられるらしいな。私は私自身ですよ。私と君との間には何も密接な関係などない」
鼻は雑踏の中にまぎれてしまう。
けれども、炯眼な警官がいて鼻を逮捕する。
「いったいどうして見つかったんですね?」
「旅行に出かけようとしていたところを逮捕したというわけですよ。奴はもう駅逓馬車に乗り込んで、リガへ逃亡しようとしていたんです。旅券もある官吏の名前のを前もって手に入れていました」
この警官がコワリョフからお礼のお札を受け取ったことは言うまでもない。
安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」でも「名刺」が本人とは別人格になって歩きまわる話がある。「名刺」だと寓意性が強くなりすぎるから、「鼻」の方が断然おもしろい。

さて、「バックストローク」35号から風刺性の強い句を抜き出してみる。

判決が出てリハツヤは貌を剃る   筒井祥文

何の判決が出たのかは知らないが、勝訴であれ敗訴であれ一つの判決が出たのだ。リハツヤは理髪屋だろうが利発屋かも知れない。自分の貌を剃っているのかも知れないし、客の貌を剃っているのかも知れない。ゴーゴリの「鼻」でも、理髪師はある朝とつぜん客の鼻を自宅で発見する。そんなものは家に置くなと女房に叱られた彼は、鼻をそっと川に捨てようとして警官に見とがめられるのだ。

文明が滅んだ後のモーニング    丸山進

丸山はついに文明を滅亡させてしまった。「モーニング」は単なる朝、モーニングコートの意味にもとれるが、私はモーニング・コーヒーと読んでいる。文明が滅んでも人はモーニング・コーヒーを飲んでいる。「一杯のお茶が飲めるなら世界なんて滅びてもかまわない」とはドストエフスキー『地下室の手記』の主人公の言葉だった。

多すぎて京へ繰り出す足の指    津田暹

ゴーゴリの「鼻」に話を戻すと、鼻の噂はペテルブルグ中に広がっていく。午後三時になると鼻がネフスキー大通りを散歩するらしいと聞いて、物好きな連中がおしかける。笑い話の種に困っていた社交界の常連たちはこの出来事を歓迎する。「鼻はいまユンケル商店にいるらしい」というので人だかりができ、露店が出たり、立見席をつくって料金をとる者まで現れる。
掲出句は誰が何のために京へ繰り出すのだろう。見舞客なのか、被災者のことなのか。それとも復興金のことなのだろうか。

原子炉を止める呪文を公募中    渡辺隆夫
今宵あたり13ベクレルの月夜かな
納棺式には一同ノーパンのこと

渡辺隆夫には三句登場してもらおう。
震災と原発事故を目の当たりにして、笑いは硬直する。なお笑おうとすれば、ブラックになる。「13ベクレルの月」の句は、樋口由紀子が「ウラハイ」の「金曜日の川柳」(8月5日)で取り上げている。

烏賊程に国家をすべる翁かな    きゅういち

「烏賊程に」は当然「いかほどに」との掛詞である。「いかほどに国家を統べる翁かな」「烏賊ほどに国家を滑る翁かな」という両義性をもつが、どちらにしても風刺的であることに変わりはない。

牛蒡など握っていつまで桃太郎   石田柊馬

桃太郎は鬼退治の剣を握っているはずだが、それは牛蒡にすぎなかった。「いつまで桃太郎やってんねん」という突っ込みである。自分を桃太郎だと信じて疑わない存在は風刺対象になる。

原発へ騎馬民族を狩りに来る    松本仁

原発に騎馬民族はいない。あるのは原発村という共同体である。騎馬民族は異物として狩られる対象かも知れない。では、誰が狩りに来るのだろうか。国家権力だろうか、共同体の雰囲気がそうさせるのだろうか。

再びゴーゴリの話。『死せる魂』は死んだ農奴の名前を買い歩くチチコフという男の物語である。農奴制のロシアでは、死んだ農奴は次の調査まで(数年間かかる)生きているものとして扱われていた。チチコフはそのような死せる農奴の名前を2ルーブルで買い取り、大量の農奴(実在しない)の所有者として農地を請求しようとした詐欺師である。
第一部の終り、トロイカの場面は特に有名だ。

(トレチャコフ美術館で三人の子供たちが橇にのった重い荷物を苦しげにひいている絵画を見たことがある。絵のタイトルは「トロイカ」。このように使うと風刺的になる。)

ゴーゴリは風刺家としての天寿をまっとうできなかった。「否定的な笑い」が彼の作品の本質だったのに、「肯定的な笑い」へと作品を変化させようとしたのであった。
「嘲魔」(ちょうま)という言葉がある。
芥川龍之介は人間の中には「二つの自己」が住むと言っている。「活動的な、情熱のある自己」と「冷酷な観察的な自己」である。そして芥川は後者を「嘲魔」と呼んだ。「この嘲魔を却ける事は、私の顔が変えられないように、私自身には如何とも出来ぬ」芥川はこの二つの自己の分裂に苦しんだ。
ゴーゴリは人間を風刺的に眺めることから肯定的に眺めることへと移行しようとした。けれども、風刺的に描かれた人間が生き生きとしていたのに対して、肯定的に描かれた人間は生気のない作り物であった。ゴーゴリはそれを自己の道徳的低さと感じて自己を責めたのである。『死せる魂』はダンテの『神曲』になぞらえて第一部の地獄篇から第二部の煉獄篇、さらには天国篇へと昇華すべきものであったが、ゴーゴリには地獄は書けても天国は書けなかった。肯定的人間を描くことはゴーゴリの中の嘲魔が許さなかったのだ。
ゴーゴリは『死せる魂』第二部の原稿(の一部)を火中に投じて亡くなる。
彼が火中に投じた原稿を読んでみたいものだ。

2011年8月5日金曜日

同人誌という「場」

文芸の創作は机に向かって作品を書く孤独な作業である、というようなロマンティックな文芸観はいまどき流行らないだろう。作品を書くには「場」が必要であり、作品創造のためには師友や雑誌などの刺激的な環境が必要となる。
川柳の場合、そのような「場」の中心となるのが句会であった。「座の文芸」という言葉は本来「連句」について言われるべきものだが、近年では「俳句」や「川柳」についても「座の文芸」という言葉が使われることがある。川柳の場合、「座」とは句会・大会のことになるだろう。句会・大会では「題」がだされて、その題に従って参加者は作句する。兼題、席題があるのは俳句の場合と同じだが、「題」そのものを言葉として詠み込む場合と詠み込まない場合とがある。変わり種としては、「イメージ吟」と称して絵や写真をみて作句することもある。
結社の場合、句会・大会の結果は結社誌に掲載される。発表誌だけを冊子にして作る場合もある。川柳誌の多くは投句欄と句会報を合体させたようなものが多い。
インターネットの普及によって、川柳においても掲示版やブログがぼつぼつ見られるようになってきているが、短歌・俳句に比べると質量ともに見劣りがするし、川柳のウェブ・マガジンはまだ存在しない。
どのような才能も孤独な作業だけでは文芸活動を持続することは困難であるし、何よりも作品発表の媒体を必要とする。文学的な環境や人間関係もふくめて、その人が作句を持続してゆくための財産なのである。今回はそのような「場」の問題として、同人誌の在り方について考えてみたい。

7月・8月にいくつかの俳誌を送っていただいたので、まず俳誌の場合を見てみよう。
八田木枯代表、寺澤一雄編集発行の「鏡」創刊号。寺澤と八田が「晩紅」の打ち合わせをしているうちに「晩紅」は休刊にして、新誌を始めようということになったらしい。誌名は八田木枯の句集『鏡騒』とも関連する。

水鳥はうごかず水になりきるや    八田木枯
キーボード顔は正面から古ぶ     中村裕
はみがきの最後をしぼる鳥の恋    西原天気
分からないのに手をあげる春うらら  寺澤一雄
辻の朧へ竹竿売の行つたきり     羽田野令

「週刊俳句」220号(7月10日)に長嶺千晶が「俳人はなぜ俳誌に依るのか」という文章を書いている。長嶺は「ひろそ火 句会.com」(木暮陶句郞)・「紫」(山﨑十生)・「鏡」の三誌を取り上げて、「集うことが楽しそう」「座という交わりの場があれば、そのときの句作のエネルギーは倍加する」と述べている。このような同人誌の必要性は川柳の場合でも同様だろう。

俳句同人誌「里」が101号を発行している。編集人・仲寒蝉、発行人・島田牙城。〈それぞれが「俳」とは何かを探求する同人誌たらんと百号まで歩んできた〉という。そこで特別企画「俳とは」を組んで、詩人の和合亮一をはじめ18人による辞書解説バージョンによる考察を掲載している。中でも冨田拓也が次のように書いているのが印象的であった。

〈 「俳」とは、一言でいうならば「既成概念や固定観念の打破と再編」ということになろう。万象は常に須く動き、流れている。この世界において停滞の状態を示し続けているものは基本的には存在しない。流れを伴わないものは自ずから衰亡し消滅してしまう運命にある。流れを停滞させないためには常に何らかの変化や交替が必須であり、例えばそれは人という存在自体における生命活動や意識の在りよう等に関しても例外ではなく、また俳句をも含む文芸全般についてもおよそ同様のことがいえるはずである 〉

「里」101号出立式として、8月6~8日、京都・義仲寺・伊賀上野などで記念句会が開催されるという。

「垂人」(たると)15号(7月31日発行)は中西ひろ美(俳人)と広瀬ちえみ(柳人)の二人による編集発行で、川柳・俳句交流の場を提供している。俳人・川柳人による作品のほか、鈴木純一の文章「てふ」「ぱんたらい」や「押しかけ三人句会」(矢本大雪・鈴木純一・中西ひろ美)、「坂間恒子句集『硯区』を読む」(広瀬ちえみ)などを掲載してヴァラエティに富む。仙台在住の広瀬が震災にあったため発行が遅れたようだが、〈ちえみとひろ美が生きていれば「垂人」は出せる〉という中西の編集後記に同人誌発行のモチーフがあらわれている。川柳人の作品から二人ご紹介する。

会いましょうメタセコイアの木の下で    高橋かづき
勤労禁止新郎近視蜃気楼
ふゆぞらそらんじ ゆうぞらふゆうする

この世には大きな馬糞残すのみ       広瀬ちえみ
三月の体にことごとくガラス
松林だっただっただっただった

「触光」23号(8月1日発行)は野沢省悟編集発行。3月に亡くなった大友逸星を追悼して、作品抄を掲載している。「絆」という連作から。

西瓜割り深い絆と言うてみよ   大友逸星
放火犯人と朝飯を食っている
脆いので家族揃って飯を食う
たんぽぽよあみだくじなど始めよう

「触光的時事川柳」のコーナーは渡辺隆夫選で好調だが、今回の隆夫は中村冨二の作品を引用している。特に冨二の次の二句は現在にも当てはまる射程距離をもっている。

墓地で見た街は見事な嘘だった         中村冨二
内閣総理大臣という字を少年よ、書けなくてもよい

「水脈」28号(8月1日発行)は浪越靖政編集。「イメージ吟」が掲載されているので、紹介する。絵や写真ではなくて、三好達治の詩「春」によって川柳を作っている。
「鵞鳥。―たくさん一緒にいるので、
     自分を見失わないために啼いています」

群衆のひとりで烽火あげている    笑葉
おとなになってしまったぼくはやみに  守
うしろ向くのがおまえの流儀     涼子
輪をぬける足を大きく組みかえて   麗水

元の詩の説明にならずに川柳にするところに工夫を要する。

以上、俳句・川柳の同人誌が「場」としてどのように機能しているかという視点から諸誌を見てきた。結社誌はさておき、同人誌は川柳人にとっても作品発表の場として大切にされなければならない。それは、単に出来上がった作品を発表する媒体というにとどまらない。「場」を共有する表現者たちが存在するから、相互刺激によって作品を書く持続的エネルギーが生まれるのである。
短詩型文学の世界の中で、新誌が生まれ、また旧誌が消えていく。永遠に続くものなどないのは当然だが、どのように創造的な場を確保するかは表現者にとって切実な問題であろう。

来週は夏休みをいただいて一回休刊します。次回は8月19日(金)にお目にかかりましょう。

2011年7月29日金曜日

伊那谷の母系社会―畑美樹の川柳

加島祥造はかつて英米文学の翻訳者として活躍し、フォークナーの『八月の光』の翻訳は私も読んだことがある。加島は60代半ばで信州の伊那谷に移り住み、詩集『求めない』や老子の思想を血肉化した『伊那谷の老子』は広く読まれている。先日、朝日新聞の夕刊(7月19日~22日)に彼のインタビュー記事が掲載されていて、なつかしく思った。

伊那谷は漂泊の俳人・井上井月(いのうえ・せいげつ)のゆかりの地としても知られている。井月は石川淳の『諸国畸人伝』にも登場するし、つげ義春の漫画『無能の人』にも描かれているが、最近、映画「伊那の井月・ほかいびと」(監督・北村皆雄)が製作され、この11月には伊那で上映される予定と聞いている。

「私が住む家のすぐ近くに、漂白の俳人井上井月終焉の地がある。芭蕉を崇拝し、奥の細道をたどったこともあるという井月、晩年、中央アルプスを見渡せるその地で、

  何処やらに鶴の声聞く霞かな

という句を残した。実際、本当にアルプスを見上げて作ったのか、定かではないけれど、我が家の庭からも見える山々の頂と霞む谷の情景は、和紙に墨がにじんでいくように、私の中にもなじんでいく」

畑美樹は井月についてこんなふうに書いている(「柳の家」、セレクション柳人『畑美樹集』所収)。「バックストローク」編集長の畑美樹は伊那在住の川柳人である。
数年前、伊那の友人の山荘に連句人が集まって、歌仙を巻いたことがある。畑美樹にも参加してもらって、井月ゆかりの地を案内してもらった。六道堤で話が野草のことになったとき、畑は堤の斜面をこともなく歩き降り、野草を手にとって私たちに説明した。都会人ならすべったり転んだりしそうな斜面である。このとき私は畑美樹の自然人としての面を実感したのである。

「Leaf」4号(7月15日発行)に吉澤久良が「感性に拠る―畑美樹論」を書いている。畑美樹の作品に「まんなか」という語が頻出することを指摘したあと、吉澤はこんなふうに述べている。

《 自分の〈位置〉が「まんなか」であると、なぜ畑に感じられるのか。それは、〈位置〉計測の基点となる羅針盤が畑の感性の中に据えられているからである 》

ここで問題にされているのは畑美樹における「感性」「感覚」の在り方である。ただし、吉澤は続けて次のようにも書いている。

《 もちろん畑は、自己の〈位置〉が「まんなか」であると常に思っていられるほどの自信家でも楽天家でもない。「まんなか」「正確」「まっすぐ」とは、〈位置〉への希求として表現されているのだ 》
《 しかし、その希求は同時に、自分の〈位置〉が本当に「正確」で「まっすぐ」であるだろうかという不安によって、常に揺さぶられている。感覚とは本質的に揺らぐものなのである 》

「Leaf」4号から畑美樹の作品を引用してみる。

夕立ちをかすかに光らせる左辺   畑美樹
一滴のこだまを抱いている左辺

「夕立ちを」と「一滴の」はともに「左辺」に収束して対応している。兵頭全郎はこの両句を「抵抗」というキーワードで読み、「光らせる」「抱いている」という能動的な動詞に注目して、次のように述べている。

《 今回の畑作品はおおむね作中主体が能動的に動いているが、自発的な能動性というより、むしろある状況に置かれた中でどうにか動かざるを得ない、ならばせめてもの抵抗を、といった感じだ 》

骨としてうぐいすとして出迎える  畑美樹
泣きそうな馬をさがしに行くところ

この二句について清水かおりは次のように述べる。

《 畑美樹の作品に漂う、ゆだねるような感覚は、書かれた主体の持つ意識が希薄なところから来ている。》《 全ての物事、全ての存在は流動的で一時も同じところに留まってはいない。私達が固有の存在と思っている自己のことを、畑の作品というフィルターを通して見てみると突然あやふやなものになってくる 》

そして、清水は「畑は句を書くときに読者のこういう反応を考えたことがあるだろうか」と問い、「畑は読者を意識しない。こちら側から作品の向こう側を指さしているだけなのである」という。

包丁は遠くで匂う与論島    畑美樹
一握の砂を東に曲がるふね

「一握の砂」は単なる記号ではなく、私には強い意味を発信しているように感じられる。啄木的なもの、短歌的なものに対する畑の嗜好・親和を語っている。兵頭全郎は啄木を読み込んだ読者と単純に「ひとにぎりの砂」と読む読者とでは解釈に差が出てくると述べているが、この句の場合は啄木を意識しないわけにはいかない。短歌憧憬は畑の低音部なのであろうか。

前掲の加島祥造のインタビューで、彼はこんなふうに述べている。

人間だってずっと以前、母系社会だったころは「共に生きる」が原則の生活だったのに、父権社会になって、争いが始まったのだと分かり始めました。自然と老子の両方から知ったことです。

加島も井月も伊那の母系社会の中で再生することができたのだろう。
他所からやって来た男たちはそれでいい。では、伊那の女性たちの心の底は本当のところどうなのだろうと考えてしまう。
「伊那井月会」発行の「井上井月・夏の五十句」から井月の夏の句を紹介しておく。

よき水に豆腐切り込む暑さかな     井月
茹ものは皆水替へて明け易し
みな清水ならざるはなし奥の院
短夜や筧の音の耳につく

この時評は昨年の8月にスタートしたから、今月末で丸一年になる。
大学時代に学んだゲルマニズム(ドイツ文学)では「ギリシア精神(ヘレニズム)」と「ユダヤ精神(ヘブライズム)」ということを言う。ギリシア精神は過去のすべてが現在の一点に凝縮されているととらえる。ユダヤ精神はひたすら未来をめざして進んでいく。砂漠の民は次のオアシスを目指して歩み続けなければ生きてゆけないのである。
このブログも、存在するかどうか曖昧なオアシスをめざして書き継いできたが、過去を振り向くことなく、これからも進み続けるほかない。

2011年7月22日金曜日

川柳句集の句評会

7月17日、アウィーナ大阪で渡辺隆夫句集『魚命魚辞』、小池正博句集『水牛の余波』の合同句評会が開催された。いわゆる出版記念会・祝賀会ではなく、句集の読みと評価に的を絞った純粋の句評会で、関西在住の川柳人を中心に俳人・歌人も含めて、45名が集まった。
短歌・俳句では批評会がしばしば開かれている。20代・30代で第一歌集・句集が出され、その評価を参考にして次の第二歌集・句集の方向性を模索することができる。歌集・句集が到達点ではなく、次に進むための出発点となるのだ。従って、儀礼的な祝賀は若い歌人・俳人にとって意味がない。次のステップに進むために、弱点は容赦なく指摘されることになる。もちろん短歌・俳句であっても儀礼的な祝賀会はあるのだろうが、川柳界では批評会というものはほとんど見られない。短歌史・俳句史のなかでその歌集・句集が位置づけられるのとは異なって、川柳史における句集の評価という作業は行われないのだ。渡辺隆夫の第一句集『宅配の馬』が出されたとき、渡辺は58歳だったという。今回第一句集を出した『水牛の余波』の小池は56歳。短歌・俳句に比べて川柳人の出発は遅い。

川柳における出版記念会について少し振り返ってみたい。1998年12月に尼崎で開催された森田栄一句集『パストラル』の出版会の際には、公開討論会「現代川柳は21世紀に生き残れるか」が行われた。司会は高橋古啓。
翌年発行された記念誌「川柳アトリエの会」50号(1999年6月)を読むと、このときのディスカッションでは句集『パストラル』の句について誰も一句も触れていない。パネラー各自が自己の意見を述べているだけで、具体的作品が俎上にのぼってこないのだ。むしろ同時期に発行された渡辺隆夫句集『都鳥』についての発言が多く、たまりかねた司会者が「今日は『パストラル』の記念会です」と牽制している。奇妙なことであり、句評会という意識はパネラーにはなかったのだろう。
1999年8月に姫路で開催された樋口由紀子句集『容顔』の出版記念会では、「ボーイフレンドが読む『容顔』」と題してパネルディスカッションが行われた。コーディネーターは堀本吟。パネラーが大井恒行(俳句)、荻原裕幸(短歌)、高山れおな(俳句)、長岡千尋(短歌)、藤田踏青(自由律俳句)、渡辺隆夫(川柳)である。ここでは「作品例に関して特に主張したいこと」「共鳴句」「樋口由紀子へのアドヴァイス」「短詩型現状についていちばんいいたいこと」などが挙げられている。
2001年に大阪で開催された「川柳ジャンクション」は、合同句集『現代川柳の精鋭たち』の出版にちなんだもの。「川柳の立っている場所」というテーマで荻原裕幸・藤原龍一郎・堀本吟による鼎談があった。
2006年大阪で開催された「セレクション柳人出版記念大会」は13句集を一挙に読むもので、個々の作品の読みにまで踏み込めなかった。純粋な批評会ではなく、第二部で句会が開催された。
以上、関西で開催された出版会について管見に入ったものだけを取り上げたが、『容顔』の出版会を除いて「句評会」と呼べるものではなかったことが分かる。ただ、こうした川柳における出版記念会の流れを振り返ってみると、次の二つの志向を認めることができる。
①「川柳についての放談」から「具体的作品にもとづいた根拠ある発言」へ
②「歌人・俳人のパネラー」から「川柳人自身によるパネラー」へ

さて、今回の句評会であるが、第一部『魚命魚辞』は、司会・堺利彦、パネラー・吉澤久良、小池正博、野口裕。第二部『水牛の余波』は、司会・樋口由紀子、パネラー・湊圭史、渡辺隆夫、彦坂美喜子。
第一部では司会・堺利彦の「柳界ではめずらしいパネルディスカッション形式による句集の句評会なるものを試みてみたい」という発言に続いて、パネラーの吉澤は次のように述べた(発言要旨)。

『魚命魚辞』には、パロディー、語呂合わせ、ずり落としの句が満載である。パロディーや語呂合わせは、「ああ、このことを下敷きにしているな」という〈答え〉がわかれば、それで終ってしまうことが多い。けれども、渡辺隆夫の句集には、わずかではあるが〈答え〉に収束しない句がある。

「〈答え〉に収束しない句」として吉澤は次のような句を取り上げた。これらの句は渡辺隆夫の〈柔らかい部分〉であり、それは、叙情性であったり、不条理であったり、古川柳的な情感であったりする、と吉澤はいう。

硬直の紡錘体が秋の魚
炎天下百歩歩いて皆トカゲ
縁談に土用の丑が来て座る
地の蓋を開けて極月のぞき込む
原子力銭湯へ行っておいでバカボン

続いて、小池は隆夫川柳を「私性の抹殺」「批評対象の創出」「キャラクター川柳」という三つの視点からとらえ、本句集のキーワードは「昭和」であり、隆夫の「昭和」に対する落とし前のつけ方として読んだと述べた。
隆夫は「バックストローク」創刊号の「隣りは何をする人ぞ」(「セレクション柳論」に所収)で、「現代における一般的な読みとはマンガ的読みだ」と書いている。「船団」の久留島元によると、マンガ俳句と漫画的俳句とは違う。マンガ俳句はアニメ・マンガのキャラクターを素材として詠んだ俳句。「鉄腕アトム」や「ドラえもん」などのマンガのヒーローは素材になりやすい。それに対して、漫画的俳句は素材の問題ではなくて、漫画の手法を用いた俳句ということ。隆夫の川柳にも「原子力銭湯へ行っておいでバカボン」「テポドンに紅の豚ぶちかまし」などマンガ・アニメのキャラクターを用いたものがある。けれども、これらの句は、「キャラクター川柳」ではなく、むしろ次のような句にキャラクター川柳の方法があらわれている。

乙姫社の魚語辞典はまだ出ぬか
シーラカンスは魚気の多い編集長
昭和史を他山の石とはせぬぞ、御意
魚命魚辞、また勅語かと朕びびる

「魚の国」があって、魚の出版社「乙姫社」がある。編集長はシーラカンス。この漫画的乗りをおもしろいと思わない人にはこの句集は無縁である。人間なら「ヤマ気」が多いのだが、魚だから「魚気」が多い。出そうとしている本は『魚語辞典』である。このようにして一句一句を積み上げることによって、隆夫はひとつのセカイを創り上げてゆく。では、何のためにセカイを創り上げるか。そのセカイを風刺対象にするためである。風刺対象がなければ風刺することができない。「魚の国」に「魚の天皇」がいて、御名御璽のかわりに魚命魚辞を押す。国民は魚意魚意といいながらミサイルを発射するのである。キャラクター川柳は風刺対象を作り出しつつそれを風刺する。作者と作品の間に距離をおくための絶妙の方法である。

野口は、渡辺隆夫に対する批判的な見地から次のように述べた。
『魚命魚辞』は面白い句が並んでいる句集とは思えない。野口は退屈と思える要因として次の諸点を挙げている。
①「それがどうした」感。句材の取り合わせが安易であったり、既視感がある、あるいは句材そのものが陳腐な場合に「それがどうした」感が起こりやすい。

乙女座に九十年もいて男 (女に男という当たり前すぎる配置)
北緯60度スコットランドは準白夜 (隆夫の旅吟は「絵葉書」俳句)
遠雷や生命保険の人が来る (雷から死を連想し、それが生命保険に結びつく流れ常識的な発想)

②「なんじゃこりゃ」感。句材の突飛さに頼って書いていると感じる句。その突飛さに驚けば、句としては成功なのだろうが、突飛であればあるほど鼻白む読者もあろうし、どんなに突飛でも「それで?」と問い返す読者もある。

上野駅トイレにしゃがむ西郷どん
衛兵のキルトの下はノーパンツ
ウンコなテポドン便器なニッポン

③「ああ、またか」感。やたらと同音・同字が句に出てくる。同一手法の繰り返しも、度が過ぎる。

肉欲と海水浴はオトモダチ
薔薇は咲いたかベルばらまだか
草津ヨイトコ二人はイトコ
亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む

④面白いと思った句。渡辺隆夫の言葉遊び満載の句集の中に、ねっとりとした良い味を発見する句がある。今のところ、珍重すべきほどの頻度だが、今後はこの方向に行くべき人なのではないだろうか。

デパ地下を鮮魚が泳ぐ現代の午後
頬被りてめえ松方弘樹だな
シウマイは若きシングルマザーの味
妹の背に人魚のころの銛の跡
大陸移動が骨盤にひびくの

司会の堺利彦は、「1990年代から2000年代にかけての現代川柳に大きなインパクトを与えた隆夫川柳の、そのインパクトがどういうところにあるのか、また、一部のファンから高い評価を得ているにもかかわらず、なぜ川柳界に隆夫川柳の亜流なり模倣が登場しないのか」という問題意識をもっていたようだが、パネラーの発言は必ずしもこの問いに応えるものではなかった。けれども、具体的な句を挙げながら、作品の「読み」を語ることによって、この集まりは曲がりなりにも川柳の句評会のかたちをなしていたのではないだろうか。単独句ではなくて、一冊の句集としての評価が川柳の世界でもこれから問われていくことになるだろう。
第二部については長くなるので省略させていただく。

2011年7月15日金曜日

句会・大会考

句会・大会は川柳人にとって作品発表の主要な場であるが、川柳作品の文芸的価値を重視する川柳人の中には句会・大会を否定する者もいる。山村祐や河野春三などは大会否定論者であった。選者が作品を選句するというシステムそのものの中にジレンマがあって、選者の川柳観に合致しない作品は最初から排除されてしまうのである。そもそも選者が投句される作品をきちんと理解しているのかどうかに対する不信感が根底にあるから、没になった人々からは常に選者への不満がささやかれることになる。
大会のマイナス面を克服しようとして、これまでさまざまな工夫がされてきた。7月3日に岡山県の玉野市で開催された「玉野市民川柳大会」はそのひとつの形を示している。主催者の前田一石は「題」と「選者」の選定に精力を傾け、一年かけて次年度のラインナップを決定する。各題は共選であり、同じ題に対して男性選者と女性選者を組み合わせる。投句者は二人の選者に対して同じ句を提出するから、選者の川柳観によってどのように選句が異なってくるかが見どころとなる。
「バックストローク」ホームページに発表された「第62回玉野市民川柳大会」の作品の一部(選者の軸吟と特選・準特選)を紹介しよう。詳細についてはいずれ発行される発表誌をご覧いただきたい。

「 日本 」石田柊馬選
   軸吟  なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
   特選  七月の雨にっぽんが濡れている     大西泰世
   準特選 噴水は獅子の口から日本デスマスク   小池正博
「 日本 」吉田三千子選
   軸吟  にっぽんのぶどうだなにはなつきたる  吉田三千子
   特選  プチトマト落果日本は半裸体      吉澤久良
   準特選 なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
「 憂い 」石部明選
軸吟  酢昆布を永遠の憂いと思いけり      石部明
 特選  憂いまで三つ足りない螺子の穴     樋口由紀子
 準特選 憂いが尖る鉛筆を置きなさい      清水かおり
「 憂い 」黒田るみ子選
   軸吟  何を憂えて喪の色まとうのか鴉     黒田るみ子
   特選  湿ってる憂い天日に干してある     伊藤かぎう
   準特選 憂いてもブラックホールに勝てはせず  原修二

選にはその川柳人がたどってきた川柳歴や川柳観のすべてが反映する。複数の選者を比べてみたときの川柳の幅と、ひとりの選者の中での川柳の幅。許容範囲の広い選をすることがよいとも言えないし、選者の川柳観に反する句をすべて排除するというのも狭量である。投句者の方はどのような考えで投句するか。玉野の場合、二人の選者に同一の二句を出すことになるが、選者の選句傾向が分かっているとき、
①二句とも選者Aに当て込んだ句を作句する
②一句を選者A当て込みに、もう一句を選者B当て込みに作句する
③二句を選者B当て込みに作句する
④そんなことは考えずに、あくまで自分らしい句を作句する
という四通りの態度が考えられる。
文芸の作者としては④の立場で作句するのが当然であるが、そこに多少の邪念が入り込むことも避けにくい。川柳人にとって「全ボツ(一句も抜けないこと)」ほどの屈辱はないからだ。俳句結社に投句する人が、主宰の俳句観と選句眼をひたすら信じて、主宰の胸を借りるようにして句を送り続けるのとは事情を異にしている。
前回このブログで紹介した石田柊馬の「川柳味の変転」(「翔臨」71号)で、「句会(題詠)」と「創作」を別項として立て、題詠の方に川柳味が濃く現れるとしているのは、川柳人の感覚を反映しているものと見ることができる。

「バックストローク岡山大会」でも共選を一組実施している。
ここでは共選も単独選でも、選者による選評を付けるのが特徴である。また発表誌には一ページの選評を書くことが義務づけられている。今年の第四回大会では俳人の関悦史と川柳人の草地豊子が「点」という題で共選した。選評も含め、今月下旬には発表誌「バックストローク」35号が発行されるので、お読みいただきたい。

「ふらすこてん」の三人選も独自の形である。ここでは同一の題について三人の選者が選句する。もちろん単独選もあるが、この三人選が句会の目玉である。「ふらすこてん」16号から、六月句会の三人選を紹介しておこう。題は「マイナス」である。

兵頭全郎選 
  負い目だったか葵の上だったか    洋子
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
  風船を取り合っているピエロたち   えんじぇる
  減点法そしてだーれもいない海    和枝
石田柊馬選
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
筒井祥文選
  左目はまだ氷点下60度       茂俊
  先頭のラクダの瘤はマイナスイオン  多佳子
  HV型色鉛筆の芯は陰湿       勝比古

三人選となると句の評価はさらに多様化する。この句会では同時に参加者の互選も取り入れて、得点を集計するから、選句基盤はさらに不安定である。なぜ選んだか、なぜ選ばなかったのかという討論が毎回行われている。

結局、句会・大会の刷新は「選者」を中心課題としている。
この選者の問題を追及しているのが尾藤三柳著『選者考』である。尾藤は歌合の判者にはじまり、連歌・俳諧の点者から前句付の評者を経て明治以降に選者として固定するに至る、選者の歴史を丹念に拾い出している。
「選者は単なる選別者ではなく、同時に批評家であり、選(判)と批評(判詞)は表裏をなすものであった」
選から批評へという道筋は短詩型文学にとって必然的なものであり、判者・点者に対する批判は昔から連綿と続いてきたことが分かる。それを克服するものが説得力のある批評であり、批評は実作の要請に基づいて実践的に発展してくるものである。川柳だけが例外であってよいはずがない。
心敬の連歌論書『ささめごと』には、「我が句を面白く作るよりも、聞くは遙かに至りがたしといへり」とあるらしい。「聞く」は他人の句を正しく認識することであり、作句力と鑑賞力は並行すべきものである。

「選」という方式はどこまでいってもジレンマなのだ。
「選者が本当によいと思う句は特選ではなくて、その次くらいに置くのがよい」という心得を耳にしたことがある。最上と思うのなら特選にすべきだろうが、そこに別の価値基準が働くのだろう。選者が自分の結社の主宰の句を必ず取るという傾向もある。字や句風でわかるのだが、主宰の作品だと信じて採った句が筆跡の似た別人の句で真っ青になるという悲喜劇もある。
「選」という不安定な足場の中で、誰にでも支持される川柳を可とするか、少数の選者に理解される文芸的作品を目指すのか。マイナス面だけを見て句会・大会を否定すると、一種のデラシネ(根なし草)になってしまう。優れた選者によって新しい川柳人が育っていくことも事実である。いま各地で行われている川柳の句会・大会のさまざまな試みが実を結び、選→選評→批評というかたちで底上げされていくことによって、川柳の実作と選句とが互いに高めあうような情況が生れることを期待したい。

2011年7月10日日曜日

川柳における省略―「翔臨」71号・石田柊馬論文をめぐって

時評とはけっこう困難な作業である。
音楽評論で有名な吉田秀和は、相撲の解説から批評の要諦を悟ったと述べている。現在の相撲解説は愚にもつかぬものだが(そういえば相撲自体の存続もあやぶまれる状況が続いている)、かつては相撲解説者に神風と玉の海がいて、名解説者の評価をほしいままにした。一瞬の取り口を言葉によって鮮やかに解説してみせるそのやり方は、相撲ファンのワクを越えて視聴者を魅了したのであった。
吉田秀和の評論集『主題と変奏』に収録されているシューマン論には「常に本質を語れ」(ベートーベン)というエピグラムが掲げられている。消え去るもの、移り変わる状況を取り上げながら、常に本質を見失わないこと。そこに時評なり批評なりの面目はあるのだろう。

竹中宏編集・発行による俳誌「翔臨」71号に、石田柊馬が「川柳味の変転」を執筆している。〈川柳味の場「句会」〉〈川柳の近代化〉〈川柳味と創作〉〈川柳味と詩性〉〈省略の川柳味〉の五項に分けて、前句付を出自とする川柳が近代化を目指すなかで川柳味がどのように変転してきたか、その見取り図を提示している。石田柊馬の川柳史観については、以前このブログで触れたことがある(2010年11月26日)。柊馬史観は川柳の近現代にたいするパースペクティヴを私たちに与えてくれる。

〈川柳味の場「句会」〉で柊馬は次のように述べている。

「近代化を目指した明治の時代に、先達は前句附けの受動性から、近代的な能動性を求めた。野球でいえばキャッチャーからピッチャーに変わっても川柳が書けると判断した」
「俳句で、写生という思想に基づいた実践と考察が行われていた同じ時期に、前句附けから離れた五七五だけの句を川柳と称して、川柳味と川柳の書き方をどのようにするかが個々人にゆだねられた」

ここで問われているのは、「川柳味と川柳の書き方」が川柳の近代化の中でどのように変遷してきたのか、という問題である。
前句付と『柳多留』では「うがち」と「省略」が一体化していた。川柳の近代化はこの両者の融合が分化していく過程だと柊馬は見る。前句付が題詠に変化したとき、前句付における「飛躍」「うがち」「省略」が弱くなった。題詠は主として問答体の書き方として川柳の句会に定着する。川柳を近代化した井上剣花坊と阪井久良伎は前句付の書き方を引き継いでいたが、その後の近代川柳が「題詠」より「創作」(自己表出としての「雑詠」「自由詠」)を重視するようになると、川柳味は薄められていった。
〈川柳味と創作〉では次のように述べられている。

「近代川柳の佳作の多くは、題詠から離れた創作として書かれたが、大方のレベルは自己表出と共感性の合致する位相にとどまって飽和、袋小路の内閉性を自ら好む意識が、川柳味の棚上げ状態を続けさせた」
「もちろん近代川柳の優れた句は自己表出を上位に据えつつ、川柳的な書き方を採っていた。うがちによる戯画化や暗喩などに川柳味が活きて、省略と収斂が溶け合い、それらの句は、退屈な川柳への批判を宿していた」

ところで、「退屈な川柳」とは何か。

「ちなみに、有季の俳句の日常詠にくらべて、川柳の日常詠は圧倒的に退屈なのだ。有季の俳句は、主意が退屈であれ、こころに触れない句であっても、主意と、季語や景との関わりが感じられる。主意が言葉となり一句となる往還が立ち上がるのだが、川柳の方は、日常性の断片があるだけなのだ。皮肉な見方をすれば、近代川柳では日常の断片を切り取ることにうがちが感じられ、五七五への納め方に省略が働いたのだ」

竹中宏は「翔臨」の後記「地水火風」で「俳句にもっとも近くもっとも遠い川柳に近年おこりつつある新しい波の意味あいと問題点を、今号の川柳作家石田柊馬氏の明確な分析は教えてくれる」と述べたうえで、上記の部分について「こちら(俳人)の胸にもっともつき刺さるはず。わたくしたちがなぜのんびり形式によりかかっていられるか、そのわけを、辛辣に指摘されているのだから」と感想をもらしている。

古川柳では一体化していた「うがち」と「省略」は、川柳の近代化のなかで弱体化し分化する。省略は単に表現技術と受け止められ、「詩性」の獲得が今日的な川柳、発展的な革新と意識され、省略による川柳味は顧みられなくなったという。
〈川柳味と詩性〉では次のように述べられている。

「共感性と問答体の書き方が詩性に適って、うがちの視線が自己客体化になり、喩の多様に向かった中で川柳的な省略はほとんど見られなくなった。私性と詩性が溶け合うところに表出の手応えがあったのだ。作中主体、句に書かれる作者の存在感が喩の追求を重んじさせると、川柳的な省略は表現を軽くすると感じられるのであった」

詩性川柳は「象徴語への依存」と「暗喩の追求」を専らとした。
近代川柳を超克する道として柊馬が重視するのは、「省略」である。「五七五に納める技術」と思われている「省略」を川柳味へ取り戻そうとする川柳人として、柊馬は樋口由紀子と筒井祥文の2人を挙げている。

字幕には「魚の臭いのする両手」     樋口由紀子
一から百を数えるまではカレー味

「樋口由紀子は省略の名手である。川柳そのものを求める意識が強いのである。この句(注・1句目)、強烈な省略が、言葉や意味の発信者と受信者のシチュエーションを創造させた。省略の強さは読者へ預けるちからの強さになる」

そういえば、「バックストローク」33号の「アクア・ノーツを読む」で柊馬は次のように述べていた。

「渡辺の川柳は親しそうな表情を見せているが、よほどそそっかしい読者でない限り、読者の参入を許さない孤立感を持っている。樋口の川柳は省略の厳しさで、一見読者が参入し難い感があるが、省略された量が多いということ自体、川柳では読者の参入、読者の裁量を多分に受け入れて、一句の完成は読者とともに、という川柳なのだ」

隆夫の川柳は読者の参加を許さず、樋口の川柳が読者参加型、という指摘は興味深い。省略と読者の読みへの参加(創造的読み)とはつながっている。

良いことがあってベンツは裏返る   筒井祥文

「筒井は、表現する事象にあまり拘らない川柳人であり、句会上手に多いタイプである」「『ベンツ』を課題にすれば一回りして見たあれこれは、それぞれの一句として何句も書けるのだ。しかし、世俗へ幾分か還ったところで、はじめて『ベンツ』という言葉が問いとなって、作者に問答がはじまる」

最後に柊馬は次のように言う。「ブリューゲルの有名な絵『農家の婚礼』は、婚礼としながら、花婿の姿が描かれていない」
描かれていない花婿は読者の想像に預けられている。それを読むのが読者の創造的読みであろう。

川柳における「詩性」をどう評価するかは柊馬史観のキイ・ポイントである。
「省略」という書き方を川柳味の主要なものと見るかどうか。また、「省略」と「飛躍」の差はあるのだろうか。ゆっくり考えてみたいと思った。