昨年8月に開催された「川柳スパイラル」創刊5周年の集い(「川柳スパイラル」16号に掲載)、第二部の飯島章友と川合大祐の対談を聞いていて、おや?と思ったのは飯島が政治風刺や社会性川柳に関心をもっていることだった。今まで社会性の視点から飯島の作品を意識したことがなかったので、遅ればせながら『成長痛の月』(素粒社)を改めて読み直してみることにしたい。
飯島の句を紹介する前に「社会性川柳」について触れておくと、石田柊馬や渡辺隆夫以後、「社会性」という言葉はあまり聞かない。戦前には「プロレタリア川柳」があり、戦後でも松本芳味は「川柳はプロレタリアの芸術だ」と言ったらしいが、今では「時事川柳」はあっても「社会性川柳」は成立しにくくなっている。社会性俳句が過去のものになったように、川柳においても社会性が唱えられることもないようだ。
現代川柳が同時代の現実と向き合うのは当然だが、川柳の実作者が高齢化しているために、時代の最先端で起きている状況について実感をもって表現することがむずかしい。氷河期とかロスジェネ世代とかいう言葉は理解できるけれど、身をもって体験しているわけではないから、切れば血の出るような表現を詠んだり読んだりすることができないのだ。
カネ出せよあんたのネクタイむかつくぜ 石田柊馬
鶴彬以後安全な川柳あそび 渡辺隆夫
社会性はこのあたりで止まっているのだ。
飯島は『成長痛の月』の「あとがき」で「この十二年間、現代川柳・伝統川柳・社会性川柳・狂句的川柳・前句付・短句など、いろいろなスタイルを経験してきました」と述べている。「世界の水平線」の章から社会性が感じられる句を挙げてみよう。
夜の帰路コンビニの灯を信じますか
地上では蠢くものが展く地図
荊棘線に変わる世界の水平線
仕事が終わって立ち寄るコンビニが一種の救済の場になっている。さまざまな人間がそこに集まってくるが、本当に癒しになっているかは疑わしい。屯している人間たちは地を蠢くものとして捉えられている。「荊棘線」は有刺鉄線。水平線が有刺鉄線に変わるのだから、世界に閉じ込められているのだ。フロンティアなどどこにもなく、閉塞感だけがある。
非正規がくっ付いている蓋のうら
氷河期がつづく回転ドアのなか
遮断機がるさんちまんと下りてくる
非正規社員や派遣はすでに珍しいことではない。経済効率を優先することで、日本的経営方式が崩壊し、格差社会が進行した。富の再分配ということも簡単にはいかない。その時代の経済状況によって順調な生活が保障されたり、逆境にさらされたりして、世代間格差が生まれてくる。氷河期、ゆとり教育を受けた世代、失われた十年など、マイナス・イメージの状況でも生きていかなければならない。
グローバル化の果てに喰う塩むすび
新自由主義(ネオリベラリズム)にはプラス・マイナス両面があるだろうが、貧困や格差などのマイナス面が問題になることが多い。
米帝の東京裁判支持します
アメリカ製憲法だから丈夫なの
「社会性川柳」を書くときの飯島の技法がうかがえる二句である。
アメリカ帝国主義という言葉を耳にしなくなって久しいが、作者が東京裁判を支持しているわけではない。「支持します」というのはもちろん反語なのだが、「支持しない」とも言っていない。言葉には二面性があり、固定したひとつのイデオロギーには収まらない。同様に「丈夫なの」も肯定・否定両方に受け取れる。護憲派・改憲派のそれぞれの議論から距離を置いた立場で表現されたアイロニカルな表現なのだ。
さまざまな価値観が乱立する現代において、誰もが納得するような風刺対象は成立しにくく、Aを批判するBに対してBを批判するCが必ず現れる。風刺の毒は相対的に弱まり、何が正しいかもわからなくなってゆく。では川柳にできることは何だろう。飯島は対立する二つのイデオロギーのどちらからも距離を置く。アイロニーは川柳の武器となる。昨年8月の「川柳スパイラル」5周年の集いで飯島が社会性川柳の例として挙げたのは「マルクスもハシカも済んださあ銭だ」(石原青龍刀)だった。
かつて飯田良祐が次のような川柳を詠んだことがある。私はすぐれた社会性川柳だと思っている。
経済産業省に実朝の首持参する 飯田良祐(句集『実朝の首』)
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