2022年7月15日金曜日

平岡直子句集『Ladies and』

朝日新聞の「短歌時評」に山田航の「歌人が川柳に驚く訳」が掲載されたのは2021年4月18日だった。山田は「最近、若手歌人のあいだに現代川柳ブームが訪れている」と述べ、その理由として次のようなことを挙げている。「短歌の中の〈私〉と作者が同一視される近代的な読まれ方に窮屈さを覚えていた現代の歌人たちにとって、それをすでに軽々と乗り越えていた川柳のメタ・フィクションは魅力的なものとして映ったのだろう」
この流れのなかで、川柳の読者にとどまらず、現代川柳の実作を発表する作者が増えてきている。平岡直子句集『Ladies and』(左右社)はその良質の成果である。
私は平岡の川柳句集を「歌人が書いた川柳」というような捉え方をしておらず、本格的な川柳句集だと思っているのだが、ここでは歌人が表現手段のひとつとして川柳を選んでいる潮流のなかで取り上げておく。
私が平岡直子の川柳をはじめて読んだのは『SH』(2015年5月)に掲載された20句だった。『Ladies and』では「12人」の章に収録されている。平岡の川柳歴が7年というのはこの時から数えてのことだろう。私は「12人」の章では「金色に泣かないで知らない女の子」という句が好きなのだが、なかはられいこがすでに句集の栞で取り上げているので、ここでは他の何句かを引用しておく。

一年とはロックスターが12人   平岡直子

一年12か月を12人のロックスターに置き換えている。具体名は挙げられていないので、読者は一月から十二月までお好みのシンガーの名を当てはめてみるのも一興だろう。「~とは」という題を呈示しておいて、それに想定外のものを取り合わせるのは川柳の基本形である。

右胸のあなたが放火したあたり
食べおえてわたしに踏切が増える

一句目は恋句とも読めるし、悪意やルサンチマンの方向でも読める。二句目はすこし手がこんでいて、食べる前に踏切があるのではなくて、食べ終えてから踏切が増えていることに気づいている。踏切は常にあったのだが、それが状況によって増えていくのだ。「踏切」は意味や隠喩として読まれやすい言葉だが、「食べおえて」との関係性で安直な意味に陥っていない。「あなた」「わたし」という人称代名詞が使われているところに、うっすら短歌的な匂いがする。

殴られた地球最後のつけまつげ

殴られたのは地球なのか、つけまつげなのか。あるいは両方なのか。地球がつけまつげをしているような変なイメージも思い浮かんで、おもしろい句だ。

階段になれたら虹をこぼれたい      平岡直子
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ  細田洋二

どちらも不思議な句だが、細田洋二が二つの文脈を混交させて詩的なイメージを生み出しているのに対して、平岡の方は「私」または作中主体の意志や願望をあらわしている。「虹」と「サルビヤ」のイメージも異なる。

平岡直子の句集については、今後いろいろ語られることと思うが、紀伊國屋国分寺店で開催された「こんなにもこもこ現代川柳」フェアにフリーペーパーとして我妻俊樹の『眩しすぎる星を減らしてくれ』にも触れておこう。これは川柳作品100句が収録された冊子である。

沿線のところどころにある気絶  我妻俊樹
足音を市民と虎に分けている
いいんだよ十二時ばかり知らせても
おにいさん絶滅前に光るろうか

佐伯紺はネットプリント「Ink」vol.2(7月1日発行)で川柳を発表している。

花びらにまぎれて強くなり方を    佐伯紺
仕上げてもいいよ五月の霜柱
かき揚げのアイデンティティ・クライシス
試供品で暮らして家が旅になる
目には目の歯にははるかなパンまつり

橋爪志保のネットプリント「千柳」vol.1から。

天使にはFのコードと寝煙草を    橋爪志保
かわいそう鳥の翼の列島は
「嫌なこと次々と思い出しマーチ」

7月2日に青森の「おかじょうき川柳社」の主催で「川柳ステーション2022」が開催された。句会は「祭」の題で、なかはられいこ、二村典子、瀧村小奈生が選をしている。すでにおかじょうきのホームページなどで入選句が発表されているので、何句か紹介しておく。

こんにゃくを担ぐよ貧血のぼくら     中山奈々
長靴が東映まんがまつり型        西沢葉火
ニンニクの芽が出て祭.com        笹田かなえ
「つらいのはきみだけじゃない」を流鏑馬 はちご仔拾
シャーマンはタナカさん似で憑依中    四ツ谷いずみ

彦坂美喜子は「井泉」104号の「評論の世界を拓く若い歌人たち」でこんなふうに書いている。「作品は批評にさらされ、論じられなくては、意味がない。特に若い世代の作品を論じる若い批評家が必要である。最近、短歌総合誌などに若い歌人の座談会や、評論などを読む機会が増え、教えられることが多々ある」 若い世代の作品を先行世代が論じたり評価したりすることがあってもいいと思うが、若い世代の感性は若い世代でないとわからない部分もあり、現代川柳においても新たにあらわれてきている表現を同時代の感性で論じてゆくことが必要になってくることと思う。

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