俳誌「奎」には若手俳人の作品が掲載されているので、現代俳句の動向を知るのに便利だ。22号から同人三人の句を紹介する。
沈丁花病みても夜行性の母 中山奈々
行く春のあなたの声に角砂糖
煙ることにはじめから なっていた 細村星一郎
大木にいくつか窓がある恐怖
抜け落ちて五人囃子のだれかの鬢 木田智美
鳥ぐもり二次発酵の生地と寝る
ルピナスは摘めないそんな資格はない
「奎」の発行人・小池康生と知り合ったのは神戸で開催された「俳句Gathering」のイベントのときだった。2012年から3年連続で年末に神戸で開催されたもので、「俳句で遊ぼう」というコンセプトのもと、シンポジウムのほか地元アイドルとの句会バトルなどがあって、賑やかなイベントだった。全3回の日程と会場は以下の通り。
第一回 2012年12月22日 生田神社
第二回 2013年12月21日 生田神社
第三回 2014年12月20日 柿衞文庫
それぞれこの「川柳時評」で取り上げていて、第一回については2012年12月28日の時評、第二回については2013年12月27日の時評、第三回については2014年12月26日の時評で紹介している。小池康生と私が共演したのは第2回のときで、クロストーク「俳句vs川柳~連句が生んだ二つの詩型~」というコンテンツで、小池正博・小池康生のW小池による対談と連句実作のワークショップが行われている。事前の打ち合わせで、三宮センター街の地下の居酒屋に入り二人で飲んだことも思い出になる。
その後、小池康生は「奎」を創刊し、関西の若手俳人の求心力になった。第一句集『旧の渚』(ふらんす堂)は2012年4月に発行されているから、この時評は10年遅れの鑑賞となる。
『旧の渚』は「旧の渚」「風の尖」「新の渚」「風の骨」の四章にわかれているが、私のおもしろいと思った句は「旧の渚」の章に多い。
家族とは濡れし水着の一緒くた
家族とは何かという問いを洗濯機のイメージでとらえている。洗濯するときは親とは別々に洗ってほしいという向きもあるが、濡れた水着でも一緒くたに洗うのが家族だという。そうあってほしいという願望なのかも知れないが、句集の巻頭にこの句が置かれているのには作者の思い入れがあるのだろう。
滝壺を出て水音をやりなほす
滝壺の水音に最初・途中・最後という区別があるわけではないだろうが、滝の音をもう一度はじめからやり直そうという気持ちは、写生というより比喩的な状況を言い当てているようにも思われる。そういう気持ちになるのは、滝壺のなかにいたときではなく、滝壺を出たあとで振り返る余裕があるからなのだろう。
星飛んで人は痩せたり太つたり
流れ星と地上に生きる人間との対比。
竜胆のどこが嫌ひか考へる
どこが好きなのかではなく、嫌いなところを考えている。誰でも竜胆が好きとは限らなくて、好き嫌いは個人的なものである。ひとつの対象のなかには好きな部分があっても嫌いな部分も必ずあるから、そのことに意識的であるのは大人の態度と言うこともできる。
生まれつき晩年である海鼠かな
海鼠の句では「階段が無くて海鼠の日暮かな」(橋閒石)が有名だが、この句では日暮を通り越して晩年に至っている。それも生まれたときから晩年だと言うのだ。
セーターに出会ひの色の混ぜてあり
セーターに何を混ぜるか。デザインや模様や心情など、さなざまな発想が可能だろう。ここでは色を選んでいるが、「出会いの色」というかたちで人間関係のニュアンスを表現している。
蝶の名を黄泉の入口にて忘れ
現世で覚えた蝶の名を黄泉にゆく入口で忘れてしまう。次元の異なる世界では価値観も経験も通用しなくなる。現実世界で蝶の名が価値であるかどうかも疑問である。
生活の隣に枝垂桜かな
生活と枝垂桜がやや対立的にとらえられている。生活と枝垂桜は無関係ではないはずだが、現実の生活は力闘的なものだから、枝垂桜のことばかり考えて生活するわけにもいかない。けれども生活の隣には枝垂桜の姿が常に見えているのだ。
他の章からも何句か引用する。
かいつぶり沈みし空を見にゆけり
水仙に途切れとぎれの風の尖
きつかけはパセリが好きといふところ
筋書きのくるくる変はる水遊び
「竜胆のどこが嫌ひか考へる」「きつかけはパセリが好きといふところ」このような狭間で生活に自足するわけでもなく、文学に逃避するわけでもなく、折り合いをつけながら僕らは生きていくのだろう。
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