2022年6月3日金曜日

江田浩司歌集『メランコリック・エンブリオ』

江田浩司の第一歌集『メランコリック・エンブリオ』が現代短歌社から文庫版で発行された。本書は1996年、北冬社より刊行されたもので、そのときの栞(岡井隆・谷岡亜紀・藤原龍一郎)も収録され、文庫版解説(神山睦美)、江田浩司自筆略年譜、文庫版あとがきが付いている。歌集名のメランコリック・エンブリオは「憂鬱なる胎児」という意味で、次のような歌が詠まれている。

やさしさは海鳴りの時期 エンブリオ翼の生えたメランコリック   江田浩司

「時期」には「とき」というルビがふられている。「憂鬱な胎児」については後で触れるとして、私が江田の名を意識したのは山中千恵子論の書き手としてであった。あと、同人誌「ES」は19号から終刊の30号まで手元にあって、江田浩司、加藤英彦、谷村はるか、山田消児などの名前は読者の私にとって親しいものだった。 ちょうど、短歌の「私性」をめぐる議論を山田消児が展開していて、それは山田の『短歌が人を騙すとき』(彩流社)にまとめられている。この評論集に収録されている「『私』に関する三つの小感」で山田は現代川柳について触れている。山田が引用している川柳作品は次のような作品だ。

弟が銀の燭台狙いおる      石田柊馬
赤ん坊と視線が合わぬように産む 佐藤みさ子
月光に臥すいちまいの花かるた  石部明
町ふたつ越えて決闘しに行くの  広瀬ちえみ

あと、文中には『セレクション柳論』(邑書林)についても言及されている。のちに「現代川柳ヒストリア(川柳フリマ)」(2016年5月)のイベントを開いたときに山田をゲストに招いた。このときの対談「短歌の虚構・川柳の虚構」は「川柳カード」12号(2016年7月)に掲載されている。
また、江田は万来舎のウェブサイト「短歌の庫」に評論を掲載していて、第171回「小池正博句集『水牛の余波』を読んで思ったこと」では現代川柳について触れている(『緑の闇に拓く言葉』2013年、万来舎)。
「ES」26号(2013年11月)は「妖怪」という特集で私は「逗子物語」20句を寄稿している。

物の怪の棲む寺だから夢精する    小池正博
かの人はおのれの舌に火をのせて言葉の井戸を覗きこみたり 江田浩司

では本題の江田の歌集に戻ろう。第一歌集だけあって作者の初心や時代性が刻印されている。本書の歌は六部に分けられているが、その第一部から何首か引用してみよう。

憎しみの翼ひろげて打ち振れば少年の雨期しずかにめぐる
人生のオルガスムスに鰭を振る冷たき楕円浮かびくるなり
ちぐはぐな羽打ち振りて首一つキャベツ畑を越えてゆくなり
どのように傷つけたらば楽しからんわたしの中に眠るわたしを
さかしらに君の詩想をなめているわが舌にふる刺のあまさよ
われはまた観念の豚まろびつつ知の脱糞を拝みており
なんという詩型か俺の狂気さえ小間物店にならぶ言の葉

「憎しみの翼」は巻頭歌。憎しみの翼をもつ少年を詠んで、文学的出発を告げる歌になっている。二首目は自足した円的世界ではなくて、楕円を詠んでいることが注目される。中心がひとつである円に対して、焦点が二つある楕円の世界である。現実との異和をかかえる心性にとっては一元論的な円より二元論的な楕円のイメージがふさわしい。三首目の羽は現実を越えてゆくことへの希求だろう。永遠に守ろうとする日常的現実を永遠に越えてゆこうとするのだが、山崎方代の「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」が「一本の指」なのに対して、江田が「首一つ」と詠んでいるのは興味深い。歌集にには巻末エッセイ「他者の声」という文章が収録されていて、作者が他者と出会うことによって自己を意識化するに至った経緯が述べられている。それでめでたしめでたしならば話は簡単だが、自意識と他者との関係性は痛みを伴うもので、上掲の四首目から七首目までは内部の「私」に対する二律背反的な思いと短歌という詩形に対する自嘲がテーマとなっている。
巻末の自筆年譜によると、この作者の青春は70年代後半から80年代にかけてのようだが、歌集からその時代の雰囲気がうかがわれ、現在の青春の姿とはずいぶん違う。個人的にはATG(アート・シアター・ギルド)の映画や小川徹が編集していた「映画芸術」などを思い出す。
さて、歌集の第三部には「メランコリック・エンブリオ」の章があり、最初に紹介した歌のほかに次のような作品が詠まれている。

夜明は股を開き鏡を見てささやくくちびるの傷—雨が
パゾリーニの恋人にならん死を生みて少女は濡れるまで闇が好き
落ちる君の手 瞳の中の七つの鐘は七つの封印
無数の翼よポプラは郵便配達に三度詩を語る
わが内に卵の孵る所あり 昏きあけぼのを予言しており

映画のイメージが点在するし、セックスの欲望もベースに感じられる。「メランコリック・エンブリオ」(憂鬱なる胎児)というタイトルそのものがフロイトと結びつけて論じられやすいが、ここには母胎から苦に満ちた世界への誕生にうめくような作品の姿がある。生まれ出た幼児は自己中心性をもっているが、独我論や根源的な自己中心性を越えてゆくためには他者との出会いが必要となる。他者によって意識化された「私」は再び他者の視点によって「私」を相対化しなければならない。第二部にマヤコフスキー、ローザ・ルクセンブルク、ツェランなどの名が出てくるが、特に重要だと思われるのは俳諧との出会いだろう。第三部の「思考する卵」の章では俳句と短歌がセットで掲載されている。

  父の髪を梳けば卵が転がりぬ
その先は測定不能らんらんと転がってゆくずぶ濡れ卵
  混血の卵は北へ転がりぬ
自裁するコトバは無量の鏡かな泥にまみれて卵は笑う
  思考の枠をメタメタメタと寒卵
ヘテロエッグに抒情をすこし擦り付けて国境線で酔っぱらってさ

江田は大学で村松知次に俳諧を学んでいる。村松友次は俳句・連句の世界では村松紅花として知られている。江田の歌集『逝きし者のやうに』には村松知次を追悼する歌が収められている。

紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ

『メランコリック・エンブリオ』には903首の短歌と33句の俳句が収録されていて、さまざまな読み方ができると思う。作者の原点、出発点が第一歌集としてきちんとまとめられているのはしあわせなことだ。歌集にはこんな歌もある。

ガス室に入る間際に犬を撫でほほえみているユダヤの子供

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