2022年5月13日金曜日

紀野恵歌集『遣唐使のものがたり』

紀野恵の歌集『遣唐使のものがたり』(砂子屋書房)が上梓された。天平時代の遣唐使のことを素材にして一巻を編んでいる。歴史と文学が好きな者にとっては興味深い試みだ。
発端の最初の歌。

なつかしき曾祖母触りし文箱より崩れさうなる紙の束出づ

祖先から伝わる物語の記憶という導入だろう。紀氏のうちでは紀貫之が有名だが、紀文足(きのふみたり)は遣唐使の通訳として渡唐している。貫之が土佐の国まで瀬戸内海を渡ったのに対して、文足は唐に渡ったのだから、よりスケールが大きい。しかも彼は帰国のときにたいへんな困難に遭遇している。文足の祖父も唐に行っているが、父は行ったことがない。そんな文足の父が思いを述べた歌。

大海をわが子は越えよ(とは思へど)吾が往かざりし長安を見よ(とは思へど)

遣唐使のひとり、秦朝元(はたのちょうげん)は唐で生れている。彼の父の弁正法師も唐に赴き、唐で息子・朝元をもうけた。父は唐で死んだが、朝元は日本に帰国。のちに遣唐使の一員として入唐。父・弁正が碁の相手をしていた李隆基は皇帝・玄宗となっていた。朝元は父の縁で皇帝から厚遇される。

皇上となる秋天に我が父と碁を打ちたまひ 碁石のつめたさ

このように物語の人物に成り代わって歌が詠まれている。遣唐使の物語がそれぞれの人物によって多視点から構成される仕組みである。 遣唐使を描いた歴史小説といえば、井上靖の『天平の甍』が有名だが、その冒頭には次のように書かれている。
「朝廷で第九次遣唐使発遣のことが議せられたのは聖武天皇の天平四年で、その年の八月十七日に、従四位上多治比広成が大使に、従五位下中臣名代が副使に任命され、そのほか大使、副使とともに遣唐使の四官と呼ばれている判官、録事が選出された。判官は秦朝元以下四名、録事も四名である。そして翌九月には近江、丹波、播磨、安芸の四カ国に使節が派せられ、それぞれ一艘ずつの大船の建造が命じられた」
歌集『遣唐使のものがたり』が扱っているのもこのときのことで、鑑真を日本に招聘するために派遣された栄叡と普昭もこの船に乗っているが、それはまた別の話。

往路の航海は心配されたようなこともなく、無事に唐に到着する。

文足  恐ろしと思ひし我が身や早や昔 なんだなんだなんだ着いたり

Intermezzo「長安の日本人」の章が挿入されている。井真成(せいしんせい・いのまなり)は入唐留学生で長安に暮らしている。

己れには何かが足りぬ日に夜を夜に日を継ぎ書籍学べども    真成
葉つぱとんとん葉つぱとんとん葉つぱだけ旦那様には滋養必要  真成宅のばあや

この真成は長安で客死するのだが、2004年に墓誌が発見されて研究者のあいだで話題になった。ばあやの歌など、俳諧性もあって読者を飽きさせない。
大唐の様子は本書を読んでいただくことにして、復路に話を進めたい。復路はそれぞれの船が困難をきわめ、四船のうち一船はどうなったか消息不明である。 大使・多治比広成の第一船は種子島に着いている。中臣名代の第二船はいったん南海に漂着したが、一行は洛陽に戻り、再度出航・帰国することができた。『天平の甍』には次のように書かれている。「ちょうどこの名代らが洛陽を去る直前に、こんどは判官平群広成の第三船の消息が広州都督によって報ぜられた。広成らは遠く林邑国に流され、その大部分は土人に殺され、生存者はわずか広成ら四人であるということであった。玄宗はすぐ安南都督に生存者を救うことを命じた」
『遣唐使のものがたり』の後半は広成・紀文足たち四人が苦心のすえ日本に帰るまでを追いかけている。この船は難破して崑崙に漂着し、百余名のうち四人が生き残った。安南都護府を経て唐に戻り、渤海から日本へと帰還することになる。

崑崙王   名月はたひらかに照る大国のちからの傘も透明にして
安倍仲麻呂 帰るため来るのだ 吾は帰すためゐるのだ唐の絹に馴染んで

みんな去つていくのだ 地の上海のうへ探してもさがしてもゐないのだ
これがその物語である後の世のわが言を継ぐ者へ置くべし

作者の直接的な自己表現ではなく、物語の登場人物を通して歌が表現される。役割、キャラクターの詩であり、劇詩ともいえる。物語はポリフォニックであり、他視点的に構成されているから、単調にはならず、中にはユーモアや批評性を感じさせる歌もある。現代の視点から詠まれている歌も混ぜられている。短歌表現の可能性を広げる試みだと思った。
(付録)の部分。阿倍中麻呂が日本に帰るというので王維が詠んだ送別の漢詩は有名である。その一節「魚眼射波紅」の二次創作として、紀野は次のように詠んでいる。

(魚の眼になみだ)私は中心にゐるのだ世界見渡せるのだ
波を射てみつめつづけて紅となりて眼はなほ東看る

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