2022年2月11日金曜日

自由律川柳誌「視野」

『近・現代川柳アンソロジー』(新葉館出版)は堺利彦・桒原道夫の編集による労作だが、そのなかに觀田鶴太郎(かんだ・つるたろう)と石川棄郎(いしかわ・すてろう)が収録されている。この二人は川柳における自由律の作者である。自由律川柳についてはあまり語られることがないので、少し詳しく紹介しておこう。
觀田鶴太郎は「ふあうすと」の同人だったが、1930年代に入って「ふあうすと」内部に自由律川柳が台頭し、論争が行われたようで、鶴太郎は同人を辞退し、1934年に自由律川柳誌「視野」(孔版8ページ)を創刊する。 詩川柳を志していた彼は井泉水・放哉・一石路などの自由律俳句運動に刺激を受けていた。「視野」には鶴太郎のほか大野了念、石川棄郎、枝松規堂、伊良子擁一などが集まった。
1941年に視野発行所から出された『自由律川柳合同句集Ⅰ』(編集・伊良子擁一、発行・石川棄郎)という冊子がある。私が持っているのは墨作二郎による復刻版だが、そこに鶴太郎が「『視野』小史」を書いている。
「『視野』は昭和十年三月、『ふあうすと』自由律派の觀田鶴太郎、大野了念、石河棄郎、枝松規堂、それに自由律短歌から来た伊良子擁一らの手によって、謄写版8頁と云う貧しい出発がなされた。規堂の編集手腕は、翌十一年一月には活版24頁にまで成長せしめ二十人に近い自由律作家を擁するに至らしめた。その間『芥子粒』の鈴木小寒郎、河西白鳥らの来り援くるあり、なお柳壇の各方面から寄稿を得るなど、極めて活発な動きを見せていたが、惜しくもその十一月には規堂を亡い、ここに一頓座を呈するに至ったが、石河棄郎、鈴木正次と編集を承けつぎ、昭和十四年四月一回の休刊もなく五十号を迎うるに至った」「昭和十~十二年の間殷盛を見せた自由律川柳誌も十三年頃には殆ど姿を没し去って、『視野』は残る唯一の自由律川柳誌となってしまった。五十号より擁一が編集に当り、自由律川柳運動再建のため奮闘が続けられている」(石河棄郎は石川棄郎と同じ)
『自由律川柳合同句集Ⅰ』から「視野」の作品を引用しておく。

どれもさびしさうな羅漢の顔のあちら向きこちら向き  觀田鶴太郎
刻々の水あくまで赫く限りあるものの目前       鈴木小寒郎
姉弟の鼻が似てゐる話きいてゐる顔          大野了念
かさりと枯葉の郵便受に一枚きてゐる         石河棄郎
これで眠れるねむり薬の軽い音さへ          枝松規堂
炎天のだだつぴろい橋桁をむんずと渡る兵       河西白鳥

鈴木小寒郎の「自由律川柳小史」によると、自由律川柳は自然発生的には井上剣花坊や川上日車などによる「破調」の試みがあったが、意識的な出発は河野鉄羅漢などによる「街燈」(大正七年一月創刊、岡山)によってなされた。その後、分散的な時期を経て、第二期がはじまったのが「視野」(昭和十年、神戸)の創刊である。「視野」は自由律専門誌であって、柳誌の一部分に自由律作品が掲載されるというかたちではない。自由律の川柳誌としては他に、「手」(大阪)「紫」(名古屋)「川柳ビル」(京都)などがあった。「視野」の主張は「現代口語の短詩的活用」「生活真実描写」「自然諷詠の積極的許容」などであったという。
『近・現代川柳アンソロジー』に収録されている觀田鶴太郎の作品を五句挙げておこう。

わが家へ近い月夜のステツキをふる   觀田鶴太郎
菊のせて人力車がゆく
広告が傾いてゐて菜の花の盛り
バスちらと海見せてそれからの揺れよう
わたしに似た羅漢さんをみつけてだまつてゐる

鶴太郎の死後、1952年に石川棄郎は「視野」を復活させる。雑誌ではなくハガキ版で、印刷されたハガキをそのまま送るようになっている。
1952年11月号から、二句ずつ紹介しておく。

白い霧が流れる青い月に吹く風        大野了然
赤とんぼ陽なたぼっこの絵本にくる

小荷物は蕎麦の袋、添えてある姉の候文   山本浄平
夢に見て雪樹につまず道にもつまず消える

濡れてレインコートのルーデサックのようなお嬢さんで    石川棄郎
それだけのことだとくるりと女へ背を向けて寝る

家内みな出払って、ほこりをそっと寝ている    三村洪翠
昼風呂、首だけが留守番している

パチンコ屋の花輪も雨で、ヤットン節のレコード  及川文福
どっしり仏具屋の重い火鉢でお年寄りばかり

わたしにはわたしの夢がありますミシンの音    重福草洋
麦少しのびて風のとむらいの列の後につづく

興味深いのは時実新子の自由律作品が「視野」に散見されることである。新子には自由律作品はないと思っている人がいるかもしれないが、そんなことはない。資料的な意味もあるので、新子の「視野」掲載作品をいくつか抜き出しておく。

夫が封を切っている私へ来た手紙(1956年12月)
落葉の道シモーヌを想う私は子連れ
ここにかなしき夫婦像あり闇は脈打ち(1958年8月)
思慕の限りなければ釜底光らす
やがて朝の心が宿る獣欲の木偶
テレビ番組の山下清絵はこう画くとマジックのすでに無中で(1958年12月)
触覚に問いつめられてゆく汗の指紋に壁が崩れる
魚臭、三等車は息切れの窓に景色を映さない(1959年1月)
スチームは嘔吐を続け車内灯悉く朝の陽に抗う
雨の舗道に片恋の吸盤押しつけられて卯の花開く(1959年6月)
拾った恋を白い林に埋めて五月、青衣の孤独

同じ時期に墨作二郎も出句している。作二郎らしい長律作品である。

シンドバッドの眼は黄色い灯をともしている。その満員電車の未知の男女(1958年8月)
黄牛のふくらみが昇天する訓え。トマトの溢血を傷のように噛むのか
これは浴室の跡の水色のタイルの一枚に、短い影の茂りに詩人の活字
風の神は飴をしゃぶりながら恋の仕事をする。詩人は荒々しさを書くのに(1958年12月)
ニンフが好きになっても溜息の大きさが笑われます。風の神様の骨折れること
静かに呼吸しているのに波が白くなって風の神の鼻先に桜貝、蝶は寒いのです
北風と西風の昔話しは美しい秋の夕景に輝やいています。祝福されるフロラ
自画像の裏に黒い疲れが坐っている。マッチのラベルの並んだ灯(1959年1月)
霧の中から糖化したいのち。ザボンの熟れた寒い光りを知っていたが
指先の海が光る 吊された糸は焼場へ行った蝶の悲しいヒゲなのか

あと河野春三「遮断木おりる 牛の盲従のいつまでか」「銀行から死を抽出すより外はない」「夕陽射られて知だらけの運河のすべて」や清水美江「陽と微風に誘い出されたはちが僕を呼んでる」「疎林の入日踏みつつ帰棟する白衣」「風媒花の確率の中で種がふくらむ」などの作品も掲載されている。
棄郎の句が最後に掲載されているのは、1975年9月の次の句である。ハガキ版「視野」は1978年1月で終わっている。

階段を昇る ふたつのまなこ ひとつのいき   石川棄郎

0 件のコメント:

コメントを投稿