2021年7月9日金曜日

連句の方へ、俳諧の方へ

リルケの『若き詩人への手紙』を読んだ。
若いときに読んだことがあり、ところどころ線が引いてあるが、大半はもう覚えていなかった。カプスという若い詩人に宛てた手紙で、孤独の重要性、ヤコブセンとロダンのこと、ジャーナリズムには近寄るな、というようなアドヴァイスが書いてあるが、けっきょく彼がリルケの忠告に従わなかったのは現実生活に追われたからだろう。
リルケには老年におくるアドヴァイスも書いてほしかったが、リルケは51歳で亡くなっているから、林住期を迎えた人間の時間とはすでに無縁かも知れない。

『連句年鑑』令和三年版(日本連句協会)が届く。
評論・エッセイは「芭蕉と蕪村」(中名生正昭)、「連句は文学、連句は祈り」(谷地元瑛子)、「俳諧師のマニュアル『三冊子』」(吉田酔山)の三本。 中名生の文章は『芭蕉の謎と蕪村の不思議』(南雲堂)よりの転載で、俳諧の二大スターである芭蕉と蕪村の句から今日にも通じる句を選んで読み比べたもの。いわゆる「蕉蕪論」である。谷地元は「エア国際連句協会」の代表世話人。エア(AIR)とは国際連句協会( Association for International Renku) の略ということらしい。国際連句の実作も掲載されているが、原語はフランス語、マレー語、日本語、ヘブライ語、ロシア語、英語の付句で、それを日本語に翻訳して掲載されている。吉田酔山は日本連句協会の副会長で、『三冊子』を自由に読み解きながら、連句の功徳を述べている。
実作は全国の連句グループの作品のほか、個人作品、学生の作品(中学生・高校生・大学生)が掲載されている。
紹介したい連句作品はいろいろあるが、草門会の胡蝶「約束の蛍」の発句・脇・第三だけ書き留めておく。

約束の蛍になつて来たと言ふ   眞鍋天魚
 入江で待つはほのか夏星    工藤 繭
天網を洩れたる風の颯と立ちて  山地春眠子

日本連句協会の会報「連句」240号(2021年6月)にも書いたのだが、関西の現代連句は橋閒石と阿波野青畝をルーツとする。閒石は旧派の俳諧師でありながら極めて前衛的で、「白燕」を創刊して澁谷道などの連句人を育てた。「ホトトギス」系の新派の連句では、高浜虚子の連句への関心を青畝が受け継いで「かつらぎ」に連句の頁を設け、岡本春人は「俳諧接心」により連句の普及に努めた。閒石・青畝の没後は、「茨の会」の近松寿子、「俳諧接心」の岡本星女、「紫薇」の澁谷道、「ひよどり連句会」の品川鈴子などが活動し、この四人によって「関西連句を楽しむ会」が立ち上げられた。第一回(1993年)が京都・法然院で開催。以後、清凉寺、仁和寺、神戸薬科大学、知恩院、万福寺、八坂神社、大阪天満宮(笠着俳諧)、近江神宮、須磨と会場を移しながら2004年まで続いた。「関西は女性のリーダーが元気でいいね」という声を聞いたことがある。また前田圭衛子は連句誌「れぎおん」を発行して連句の文芸性を発信した。

かつては俳句の総合誌にもときどき連句がとりあげられることがあった。特に「俳句研究」は連句に理解のある編集者がいたようで、たとえば「俳句研究」1992年5月号に「現代連句実作シンポジウム・連句と俳句の接点」が掲載されている。パネラーは葦生はてを、今井聖、小澤實、小林貴子、中原道夫、四ッ谷龍。司会・山路春眠子。小澤實の捌きで「冬萌」の巻が巻かれている。
さらに「俳句研究」1993年4月号では「現代連句シンポジウム・詩人による公開連句」が掲載されている。連衆は水野隆・高橋睦郎・別所真紀子・小澤實。司会が川野蓼艸・山路春眠子。会場は東京九段下のホテルグランドパレスで、多数の聴衆が参加したようだ。「連句シンポジウム実行委員会」(村野夏生、山地春眠子、工藤繭など)主催、公益信託俳諧寒菊堂連句振興基金の援助、「俳句研究」後援。半歌仙「初昔」の巻ができているので、最初の四句だけ紹介しておく。捌きは水野隆。 

初昔雅は色を好むより     睦郎
 化粧はつかに水仙の空    隆
屋上に仔猫と月と笛吹きと   真紀
 地球儀まはすきしみしばらく 實

この頃が現代連句に活気があった時代で、短詩型文学のなかで連句の存在感をアピールしていこうというエネルギーが見られた。
暉峻康隆、尾形仂、東明雅、廣末保、乾裕幸などの連句に造詣の深い文学者がいなくなり、カリスマ的な連句人が少なくなった現在、連句の発信力は落ちてきてはいるが、新しい世代の連句人も育ちつつあるので、今後に期待したい。

書棚を整理していると俳文芸誌「筑波」2003年8月号の別冊「今泉宇涯翁五回忌追善」という冊子が出てきた。今泉宇涯は宇田零雨の「草茎」から出発し、市川俳諧教室を主催、連句協会の会長も務めた。「私の連句入門講座序論」が掲載されているので紹介する。宇涯は現代俳句の二句一章体、現代連句の付合、三句の渡りの実例を挙げていて、一句独立の俳句から連句へのプロセスとして分かりやすい。(歴史的には逆で、連句の付け合いから俳句が独立したのだが、説明の便宜上の話である。)

(二句一章の俳句)
芋の露連山影を正しうす      蛇笏
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 万太郎
雁鳴くやひとつ机に兄いもと    敦
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ   登四郎
天瓜粉しんじつ吾子は無一物    狩行

(前句と付句の連句の付合)
 濃い日の化粧少し気にして    静枝
たそがれの合せ鏡を閉じて立つ   良戈

 恋ほのぼのと鼓打つなり     杜藻
眉目清き学僧文筥たづさへて    瓢郎

さるすべり骨董店の手風琴     蓼艸
 征露丸売る敗兵の唄       馬山人

(三句の渡り)
 勤行終えて内庭を掃く      桐雨
甘くちの酒は好まぬ村の衆     司花
 仲人抜きで睦みあう床      紫苑

 自動車の上に陽炎が立つ     太郎
逃げ回る羊刈られて丸はだか    佐和女
 迷宮入りの事件重なる      泉渓

松茸の栽培苦節二十年       実郎
 遺伝子科学多岐に亘りて     則子
イザヤ書の預言者知るや知らざるや しげと

最後にリルケに戻るが、リルケは「ハイカイ」という三行詩を三つ書いている。また彼の墓碑銘として有名な次の詩も三行で書かれている。

Rose, oh reiner Widerspruch , Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel
Lidern.

薔薇よ、おお純粋な矛盾、
誰の眠りでもない眠りを あまたの瞼の陰にやどす
歓びよ。 

「孤独」について言えば、スイスのミュゾットの館でリルケは孤独のなかで「ドゥイノの悲歌」を完成させた。芭蕉庵や幻住庵における芭蕉も孤独だっただろうが、彼には俳諧という共同文芸があった。生み出した作品は異なるが、何か通じるところもあるように思われる。

0 件のコメント:

コメントを投稿