2020年10月23日金曜日

短歌がおもしろい(正岡豊『四月の魚』など)

時評がきちんと更新できないまま時間が流れてゆく。何もしていなかったわけではないが、言葉にはまとまらない。この夏から秋にかけて入手した短歌関係の本について書いておきたい。

歌集がたくさん出版された。
まず正岡豊の『四月の魚』(書肆侃侃房)が現代短歌クラシックスの一冊として刊行される。 この歌集は1990年にまろうど社から刊行。2000年に同社から再版刊行(私が持っているのはこのときの本)。「短歌ヴァーサス」に再録。それぞれの版に追加収録されている歌があって、たとえば「短歌ヴァーサス」版では「拾遺四十五首」が付いていた。今度の版では「風色合衆国」が追加されていて、次のような歌。

「時間を殺して明日が来るとでもいうの?」「お前、眠れば明日はくるよ」  正岡豊
大島弓子はまひるの桜 さんさんと散りだせばもうお茶の時間よ

それぞれの版で少しずつ印象が違うのは読んだときのこちらの状態にもよるのだろう。今度読んでいいなと思ったのは次のような歌。

夏になれば天窓を月が通るから紫陽花の髪それまで切るな
よそをむきとぶ鳥はかならず落ちてほほえんで麦になるのであろう
この塩がガラスをのぼってゆくという嘘をあなたは信じてくれた
橋落つるとも紫陽花の帆とおもうまで耳蒼ざめてはりつめていよ

加藤英彦第二歌集『プレシピス』(ながらみ書房)も印象に残る歌集だ。第一歌集『スサノオの泣き虫』から14年、「Es」終刊から5年。

うらぎりをくり返し来し半生か内耳しびるるまで蟬しぐれ   加藤英彦
あれはだれ、あれはわが家で飼っていた犬です むかし死んだ犬です
この夏を越ゆるかどうか食ほそく鱈の身ほぐしつつ口にせぬ
夜ふけてシーツの上にいる蝶のような枯れ葉よ 今そこになにが来ているのか
その口に貴賤のひびきが匂うとき嫌だなあすこし声が艶めく
頽廃のはての宇宙にうかびたる冥王星や井上陽水

高柳蕗子『短歌の酵母Ⅲ青じゃ青じゃ』(沖積舎)は『短歌の酵母』シリーズの三冊目である。
一冊目の『短歌の酵母』(2015年)の「まえがき」には次のように書かれている。
「人間側から見れば、人は自らの意志で短歌を詠んでいるのだが、短歌の側から見れば、人間の意識に偏在し、人という酵母菌たちに短歌を詠ませているのだ。つまり人と短歌は共生関係にある」
今度の本では「青」という言葉のイメージを一冊にまとめている。青の基本イメージは空の色だが、ブルーシートの青や神秘の青、神話の青など、多様な切り口で青の短歌を集めている。引用されている作品が多いので、「青」についてのアンソロジー、データベースとしても便利である。読んでいて永井陽子の歌が特に印象に残ったので次に挙げておく。

もうすぐ空があの青空が落ちてくるそんなまばゆい終焉よ来たれ  永井陽子
仲秋のそらいちまいの群青のわが骨はみな折れてしまふよ
夏空のほとほとかたき群青も食ひつくすべし鵯の悪食
シベリアの青き地図など描きつつ心の破片を集めていたる

空の青といえば若山牧水の次の歌が有名で、本書でも最初に取り上げられている。

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ     若山牧水
ランボーはむかしいもうとの妻であり青空を統べる骨ひとつあり 瀬戸夏子

高柳蕗子は瀬戸の歌について、〈「白鳥」からはじまった系譜の究極の姿のひとつ〉と述べている。「あの白鳥が骨になっちゃった!」というのだ。おもしろい見方だと思う。
川柳でも「青」の句が多いのでいくつか挙げておく。

ドラえもんの青を探しにゆきませんか   石田柊馬
足首に青い病気を持っている       樋口由紀子
青を着て青く解体されてゆく       松永千秋
青い絵の中で青溶く王に逢う       清水かおり

『塚本邦雄論集』(短歌研究社)は塚本邦雄生誕百年として、「現代短歌を読む会」の七人の執筆者(池田裕美子・尾崎まゆみ・楠誓英・楠見朋彥・彦坂美喜子・藤原龍一郎・山下泉)による論集。それぞれ読み応えがあるが、彦坂美喜子「塚本邦雄─その始まりの詩想」と藤原龍一郎「魔王転生─『波瀾』、『黃金律』、『魔王』を読む」が特に興味深かった。

秋になって、ヘッセの「霧の中」という詩とリルケの「秋」をときどき思い浮かべる。秋は実りの季節であると同時に黄落の時期でもある。頽落のときをどう乗りきるか。

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