2020年8月28日金曜日

片恋以外は平家に非ず―瀬戸夏子第三歌集『ずぶ濡れのクリスマスツリーを』

残暑のはずなのに真夏日が続き、だらだらと過ごす毎日だが、瀬戸夏子の歌集『ずぶ濡れのクリスマスツリーを』が届き、緊張感が走った。『そのなかに心臓をつくって住みなさい』『かわいい海とかわいくない海』に続く第三歌集である。正岡豊の『四月の魚』が現代短歌クラシックスの一冊として発行されるなど、このところ短歌から目が離せない。
瀬戸の歌集のタイトルになっているのは次の短歌である。

ずぶ濡れのクリスマスツリーは目を覚ましツリーの心に目隠しをする

「クリスマスツリー」といえば、第一歌集の次の歌を私はよく覚えている。

あんた、怒ってるとき、見えてるよ、神経がクリスマスツリーみたいで

この神経がひりひりするような歌と比べて、こんどのクリスマスツリーは少し抒情的になったかな、と思った。この一首に限っての話だが。いずれにしても真夏にクリスマスツリーの歌を読むのはおもしろい。
瀬戸夏子の短歌は歌人よりも現代詩人に評判がよいようだ。もちろんコアなファンは短歌にもいるのだが、瀬戸の短歌は通常の短歌の作り方とは違う。一行詩ではなくて多行詩の発想のような気がする。前後の文脈とは別のところから言葉が飛んでくるのだ。
瀬戸の言語感覚でおもしろいと思ったのは、「海でできた薔薇」「真新しい追従」「呼吸の新月」「双子のための鬼門」「荷風のための初恋」「女身の川端康成」などのフレーズ。「獅子と苺との鍵」なんて手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いみたいだ。歌集のなかで一番気に入ったのは次の歌。

天の首絞める両手がふとゆるみ片恋以外は平家に非ず

「平家でなければ人に非ず」を屈折させて展開している。「片恋以外は平家に非ず」とは魅力的な呟きである。

なずな、恋、紫野いき標野いき途中でパン屋の娘と出会う

「なすな恋」は「保名狂乱」のさわりだし、「紫野行き標野行き」は言うまでもない。このズリ落とし方はけっこう好き。 瀬戸は柏書房のWEBマガジンの連載「そしてあなたたちはいなくなった」も好調だし、着実に仕事を進めている。
それにしてもこの歌集、水色の紙にピンクの活字とは老眼の身にとって読むのがつらい。がんばって読めという作者の声が聞こえる。

時評の更新、次はいつになるか分からないので、川柳のことも書いておきたい。

パンの耳揚げて話はまだ続く   西川富恵
生玉子ひとつだけでは多すぎる  大野美恵
氷菓ひとくち躰は混みあっている 清水かおり

「川柳木馬」165号から。
西川富恵の川柳歴は長い。川柳をはじめたのが1974年。「川柳木馬」の創立同人である。その西川の現在の境地、平明で深みのある句。
大野美恵、ひとつだけなら「少なすぎる」だろうと思わせるところからこの句の読みはスタートする。「ひとつでは多すぎる」ではなくて、「ひとつだけでは多すぎる」というところにニュアンスが生まれる。
清水かおり、氷菓をひとくち食べてみる経験は誰にでもあるが、「躰は混みあっている」という感覚は独自なものだ。物を摂取することで、体内にあるさまざまなものの存在が混みあって意識される。「体」が「躰」として感じられる。

とびきりの笑顔でエッシャー渡される 潤子
右手からまだ離れないものがある   守田啓子
誰が死んでも海岸線は美しい     細川静
諦めたのは二十四歳の窯変      滋野さち
らせん堂古書店に入る片かげり    笹田かなえ

「カモミール」4号から。
一句目、エッシャーの版画は迷宮のような世界を表現していて人気がある。川柳の題材にもしばしば使われるから新鮮さはない。だからこの句の価値は「とびきりの笑顔」にある。迷宮の世界に笑顔で誘いこむのは一種の悪意だろう。この笑顔が曲者なのだ。
二句目、「離れないもの」って何ですか?と突っ込みを入れたくなる。左手からは離れていったのだろうか。右と左に意味を読み取ろうとすると、たとえば右利きの人にとって右手は現実にかかわり、左手は夢や理想にかかわるというような対立軸が想定される。けれども、この句はそういうことを言っているのではないだろう。
三句目、一読明快。
四句目、窯変天目という茶碗がある。茶碗に窯変が生まれたように、二十四歳の時に何かがあって人生が変わったのだろう。
五句目、とある街の片隅に古書店があって、店名を「らせん堂」という。店主は老人でもよいが、文学好きの青年だとしておこう。

不安10粒サハラ砂漠で砂になる   四ツ屋いずみ
呑み込んで赤い卵を産みつける   西山奈津実
散り急ぐ桜ウイルス見すぎたか   斎藤はる香
二メートル離れて好きとか嫌いとか 浪越靖政
苔むした兄から先は考えぬ     一戸涼子

「水脈」55号から。
サハラ砂漠に砂があるのは当然だが、サハラ砂漠で不安が砂になったと言っている。砂と不安はすでに見分けがつかない。
二句目、何を呑み込んだのか。呑み込んで産みつけるまでのプロセス。
ウイルスを詠んだ二句。アプローチの違い。
一戸涼子は完成度の高い句を書いている。快心の一句ではないか。

例えば、女の自分に慣れてきた   千春

このたび発行された千春の作品集『てとてと』(私家本工房)から。
ジェンダーにまつわる自分との違和感。
自己を客観視できるようになったとも言えるし、慣れてきたことがいいのかとも思われる。
川柳におけるジェンダーの問題を考えるときに、欠かせない作品になるかも知れない。

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