2020年7月3日金曜日

曲線立歩句集『目ん玉』(新興川柳ノートⅠ)

コロナで何もできず、先へ進めないので、過去の川柳遺産を振り返ることが多くなってしまう。書架を整理していると、曲線立歩の句集『目ん玉』(2003年)が出てきた。曲線立歩(きょくせん・りっぽ、1910年~2003年)は新興川柳期に川柳をはじめ、長い柳歴をもっている。今日はこの川柳人を紹介したい。

曲線立歩は本名・前田忠次。明治43年、北海道の斜里町に生れる。大正14年、小樽新聞の川柳欄に投句、翌15年に川柳氷原社に参加した。このころ小樽には田中五呂八がいて新興川柳運動のメッカであった。小樽新聞の選者は五呂八。立歩が投句をはじめたのは14歳のときだった。「氷原」に投句するようになってから句会にも出席し、五呂八に可愛がられたようだ。
田中五呂八の『新興川柳論』に次のような一節がある。
「人間が、ただ単に喜怒哀楽のままに動いている間はまだ、自然の配下にある受動的な通俗生活に過ぎないのである。そうした受動的な他律生活から一歩踏み出して、能動的に人生を統一し、自然を理想化するのには、どうしても吾々は、自律的な思想を持たねばならないのである。そこに、思想の深さは自己の深さとなり、思想ににじみ出した感情の深さが詩の深さであり、それがやがて自然の深さであり宇宙の深さでもある。自然も人生も畢竟芸術家にとっては、自己の深さのままに改造し得る相対的な自己創造の対象に過ぎないのである。
私達新興川柳家は、この信条の上に個々の思想を深化する事によって、最も近代的な日本の自由短詩を創造しなくてはならない」(「新興川柳への序曲」大正14年4月)
曲線立歩はこのような五呂八の川柳観に大きな影響を受けたことだろう。新興短歌、新興俳句に先駆けて起こった新興川柳運動の真っただ中から、曲線立歩の川柳は始まったということになる。
句集『目ん玉』の「鋭光」の章には昭和3年~昭和12年の句が収録されている。これがほぼ新興川柳期の作品だろう。

十字架を のぼる泥人形の 笛の音  
変らない眼だうっかりと乗せられる
車輪また車輪を追うてゆくばかり
人間でない気で休む午前二時
響かんとすれど地盤のたよりなく
境遇の水平線に生きている
幻想を衝いて摑めば無光星
北ばかり指して磁石の死に切れず
弓絃を切る人冬のあわてよう
天才の猫老いたれど夜を歩く

小樽文学館には一度行ったことがあるが、伊藤整などとともに田中五呂八の展示があって、文学都市という印象を受けた。大正末年から昭和初年にかけては新興川柳運動の大きなうねりがあって、小樽はその発信地だった。曲線立歩にとっては時代の青春と個人の青春が一致したことは幸運だった。
句集の二つ目の章は「花の首」(昭和13年~昭和50年)である。

雪また雪 神話が嘘になっている
滝壷の飛沫モーゼは恋をした
乳房喰い破って青い蝶の羽化
洪水の石の男女が流れている
火を吐くまで海の深部の侵略
一族の吹雪のなかの ぬくい母系
花の首死の直前をせめぎあう

彼が曲線立歩の号を用いたのは昭和5年からである。「氷原」では星寂子という雅号だったようだ。「氷原」は昭和12年で終刊になったから、上掲の作品は「氷原」以降の句ということになる。立歩は昭和23年に東京川柳人の同人になっているから、「川柳人」に発表した句なのかもしれない。
句集の三番目の章は「垂天」(昭和25年~平成6年)。

草笛吹く 片眼の顔を 忘れて吹く
大麦の粒 がくぜんと 一つあり
洞窟を拡大する海が地上で 痺れるまで
不快指数の 穴から民族が氾濫する
濃縮ジュース 吐く炎天に灼けた 蟻の仮眠

一字あけを多用する表記から見ると、戦後の現代川柳の時代に書かれた作品のようだ。
次は「自筆の墓碑」(昭和47年~平成8年)。

鯨骨の杖に叩かれ舌たらず
滝壷の飛沫は夢の傀儡師
ふところで歩く失明のピラミッド
神の手のながさで足の爪を剪る
地球が重なろうとする敵である
天才の獏が童話を聞いていた
連綿の血を吸う虫の一匹たり

最後に「青炎抄」(平成8年~平成13年)から。

五呂八の 風は微妙な哲学者
遺伝子の首の枯木が水を呼ぶ
全道の少年少女一人ずつ
海底の巻貝しだいに血を浴びる
飛沫の芯を歩いている

晩年、田中五呂八を思うことがあったのだろう。「人間を摑めば風が手に残り」は五呂八の代表句である。
曲線立歩は「点鐘」にも投句していたし、句集『目ん玉』は墨作二郎を通じて手に入れることができた。北海道における新興川柳の作家が平成まで現役で活躍していたことを改めて思う。句碑が空知野に建立されているという。

噫々尊し 自然の土に霊祈る

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