短歌誌「井泉」92号、巻頭の招待作品に飯島章友の川柳が掲載されている。「井泉」はこれまでにもときどき川柳作品を招待している。たとえば、昨年の87号の松永千秋。
今号の飯島の作品は「おぼろどうふ」と題した15句。
ひさかたのひかりがすべてお説教 飯島章友
「ひさかたの」は「ひかり」にかかる枕詞。「ひさかたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらん」(紀貫之)を踏まえているだろう。川柳ではふつう枕詞は使わないのに、このような書き方をしているのは、短歌誌に対する挨拶だろう。川柳史に即していえば、雑排のなかに小倉付があり、百人一首の上五を使ってパロディにしている。
春過ぎて 蚊帳が戻れば夜着が留守
あけぬれば 悪女に恋の俄かさめ
「散る花」にゆかずに「お説教」にズリ落とすのは川柳的テクニックである。
広義では臓器にあたる砂時計 飯島章友
砂時計は広義では臓器に相当するという。意味不明だが、では狭義では砂時計は砂時計なのだろうか。ある種の川柳には「ペアの思想」があり、右といえば左を、嫌いなといえば好きなというように、反対を考える習性がある。臓器と砂時計のイメージが重なってくるとも読める。
選びなさいギムナジウムか白昼夢 飯島章友
AとBのどちらかを選べ、という出題形式だが、実は正解というものはない。「ギムナジウム」と「白昼夢」という次元の異なるものの二者択一を迫られるが、両者に共通するのは「ム」という語の脚韻だけだ。読者はこの問いの前で宙吊りにされている。
かなかなの声の彼方のカルロス・ゴーン 飯島章友
飯島は時事句も混ぜて書いている。
川柳ではゴーンの句はすでに数多書かれているだろう。「消える川柳」と呼ばれる時事川柳を泡のように消えてしまうことから救い出すにはどうすればよいか。そのために「かなかな」「声」「彼方」「カルロス」の語頭韻の響きが使われている。ここでも川柳的テクニックが有効である。
飯島はけっこうテクニシャンなのだが、今回の作品のベースにあるのは、少年の成長物語かもしれない。隠された抒情性。次の句の「十三歳」には「じゅうさん」のルビが付けられている。
十三歳のおぼろどうふな帰り道 飯島章友
次に「杜人」265号をご紹介。「杜人」は一年後に終刊となり、今号は残り4号のうちの1冊目となる。
堂々と間違うための寒卵 加藤久子
反社会的な猫来て膝にのってくる
「堂々と間違う」とはなかなか言えない。「反社会的な猫」を膝にのせるには許容力が必要だ。どうでもいいことはどうでもいい。大切なことは別にあるのだ。
ビー玉のぶつかりあって別の道 広瀬ちえみ
春が来てかわいい嘘が増えており
「かわいい嘘」という表現が「春」に響きあって楽しい気分にさせてくれる。反語とか皮肉の意味にも取れないことはないが、そうではなくて、素直に罪のない嘘と読んでおきたい。世の中は悪意のある嘘に満ちているから。
家族写真に切手を貼って投函す 佐藤みさ子
いつまでも生きる別れがめんどうで
一句目は当たり前のことをふつうに詠んでいるようだが、なぜかドキッとする。誰に対して投函するのか。差出人と受取人はそれぞれ別の世界にいるのではないか。
最後に「杜人集」のコーナーから何句か引用しておこう。
サ行からセム語ひろがる水彩画 野間幸恵
セーターの交換会をする獣 竹井紫乙
かたちをかえる夕暮れの小鳥たち 妹尾凛
こともなく終ってみたい黄金虫 小野善江
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