2018年8月4日土曜日

ギリシアの連歌と中国の連句

毎日暑い日が続くので、想像のなかで涼しい場所を探し求めていると、古代ギリシアのイリソス川のほとりに思い当たった。プラトンの対話篇『パイドロス』の舞台になった場所である。

パイドロス ほらあそこに、ひときわ背の高いプラタナスの樹が見えますね。
ソクラテス うむ。見えるとも。
パイドロス あそこは日陰もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら寝ころぶこともできます。
ソクラテス では、そこへ連れて行ってもらおうか。

『パイドロス』のテーマは美について。数十年前に見たヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」はドイツの作家、グスタフ・アッシェンバッハがヴェニスで美少年に出あう物語。トーマス・マンの原作ではプラトンを引用したこんなセリフがある。

なぜなら美は、わがパイドロスよ、ただ美だけが愛すべきものであると同時に眼にも見えるものなのだ。よいかね、美はわれわれが感官によって堪えることのできる唯一の、精神的なものの形式なのだ。

ついでにラフマニノフのピアノ協奏曲の二番をかけて「ヴェニスに死す」の雰囲気にひたってみた。(中学生のときの私の理想は、ヘッセの小説に倦んだ目をセザンヌの画集に走らせ、ブラームスの音楽に耳を傾ける、というものだった。今にして思えば、それこそが俗物性だったのだ。)
さて、古代ギリシアには連歌に似たものがあった。
ギリシア語の「スコリオン」(歌)は、酒席の後で余興に歌われたものらしい。最初の人がある主題についてミルトの枝を手にしながら一句を作って歌うと、その枝を次の人に手渡す。次の人は前の句に合せて次の句を作り歌う。このようにして次々に回すことによって全体の歌が作られてゆく。
アリストパネスの『蜂』のなかに次の一節がある。

プデリュクレオン (歌って)「アテナイの市(まち)にはいまだかつて」
ピロクレオン 「汝のごとき悪徳の盗賊はなかりき」

訳が五七五→七七になっていないのが残念だ。
「アテナイの市にはいまだかつてなし」「汝のごとき悪徳の賊」とでもすれば連歌になる。
もうひとつ続けて引用すると

プデリュクレオン 「友よ、アドメトスの譚より、よき人々を愛するを学べ」
 と歌ったらなんと後をつけますか。
ピロクレオン おれはな、まあ抒情詩風に
 「狐の真似ごと役には立たぬ。
 二股がけの日和見もまた」ってね。

踏まえている話がよくわからないので、どこが抒情詩風かも理解しがたいが、人間に対する諷刺が感じとれる。アドメトスはギリシアの英雄だが、死期を迎えたとき、運命の女神モイラは誰かが身代わりになれば死をのがれることができるとした。だが、彼の恩を受けたもので誰一人身代わりになろうというものはいなかったという。

小津夜景著『カモメの日の読書』(東京四季出版)を読んだあと、漢詩の翻訳に興味が湧いた。まず佐藤春夫の『車塵集』は古典的なもの。タイトルは「美人の香骨、化して車塵となる」という句による。『車塵集』の中から子夜の詩の訳を紹介したい。

恋愛天文学

われは北斗の星にして
千年ゆるがぬものなるを
君が心の天つ日や
あしたはひがし暮は西

鈴木漠著『連句茶話』(編集工房ノア)によれば、紀元前116年、漢の武帝の時代に長安に建立された楼閣・柏梁台の竣工祝いに対話詩「柏梁詩」が詠まれたということだ。第一句目は武帝が詠んでいる。

日月星辰四時を和す    漢 武帝

これに群臣たちが一句ずつ唱和している。この詩形は以後「柏梁体」と呼ばれ、後世の詩人たちに受け継がれる。
たとえば、李賀には柏梁体の詩が二編ある。「悩公」と「昌谷詩」だが、ここでは「悩公」(悩ましい人)の方を原田憲雄訳で紹介しよう。プレイボーイと遊女との対話になっている。

男 ぼくは宋玉 恋にやつれて
女 あたしは嬌嬈 紅お白粉で
  歌ごえは春草の露

というような調子で、100句で構成されている。「昌谷詩」の方は李賀とお供の侍童との対話である。ともに独吟の連句に相当する。
鈴木漠が短歌誌「六甲」に連載している「翻訳詩逍遥」は興味深い文章で、鈴木の個人誌「おたくさ」にも転載されている。その中に、井伏鱒二訳〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉(原詩「人生足別離」)をめぐって、おやっと思うことが書かれている。井伏の随筆「因島半歳記」には次のような記述があるという(高島俊男『お言葉ですが…漢字語源の筋ちがい』からの孫引きという断りがある)。

やがて島に左様ならして帰るとき、林さんを見送る人や私を見送る人が十人たらず岸壁に来て、その人たちは船が出発の汽笛を鳴らすと「左様なら左様なら」と手を振った。林さんも頻りに手を振ってゐたが、いきなり船室に駆けこんで、「人生は左様ならだけね」と云ふと同時に泣き伏した。そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなつて来た。何とも嫌だと思つた。しかし後になつて私は于武陵の「飲酒」といふ漢詩を訳す際、「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」と和訳した。無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである。

林さんとは林芙美子のこと。昭和四年、林芙美子と井伏は尾道方面へ講演旅行をしたらしい。「何ごとも十年です。あとは余生といってよい」「二十にして心已に朽ちたり」「さよならだけが人生だ」などのフレーズはかつて文学青年たちにとっての決め科白であったが、この話が本当だとすると、「さよならだけが人生だ」という一節には屈折したニュアンスが生まれてくることになる。

(8月10日、17日は夏休みをいただいて、この時評はお休みさせていただきます。)

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