2018年5月25日金曜日

概念は襲う―清水かおりの川柳

清水かおりの川柳がすごいと思う。
合同句集『川柳サイドSpiral Wave』は昨年1月に第一巻、9月に第二巻が発行されたが、今年4月に第三巻が出て、文フリ東京などで販売された。第三巻のメンバーは飯島章友・川合大祐・小池正博・酒井かがり・榊陽子・清水かおり・兵頭全郎・柳本々々の8名で、各30句が収録されている。
ここでは今回はじめて参加している清水かおりの作品を取り上げたい。

水色のスーツを着ると禁じ手 可   清水かおり

水色は作者にとって好ましい色なのだろう。清水の作品には「水」や「青」のイメージがしばしば登場する。ベースとなるキイ・イメージである。
禁じ手だけれど、水色のスーツを着るとそれは可能になる。周囲のひとには水色のスーツしか見えないが、その人にとっては何かの決意が心奥に隠されている。

欲望とおもう 円周を鍛えたり
本論と呼ぶけどそれは薊だよ

言葉と言葉の関係性が通常の川柳と異なる。
「欲望」と「円周」の秘められた関係(見えない梯子)。詩的飛躍の距離感が大きい。
「本論」と「薊」。次元の違うものを関係づけて一句にしている。抽象的には本論だが、具象的には薊なのだという。意味の伝達を主とする日常言語とは異なった詩的言語を、川柳形式で表現しようとすれば、こんなふうになるのだろう。

「ウミネコです」春の名のりを連呼する
肘までを韻律にして蟹を食う
だらりとね 梅園に蛇 瞠らいて
瑠璃揚羽こっそりもらう磔刑図

ウミネコの句はわかりやすい。
蟹、蛇、瑠璃揚羽などの動物を詠む場合でも、作者の個性的な屈折は顕著である。

夜のラインは斬首に似る詩集
比喩の巻 耳のかたちをこえてゆけ

清水かおりが俳句界でも注目されたのは『超新撰21』(2010年12月、邑書林)収録の「相似形」100句によってだった。そのときの解説で堺谷真人は清水の作品と前衛俳句との形態的類似を指摘している。
清水の作品に多用される一字空けは多行への契機を孕みつつ一行にとどまっているところにスリリングな魅力があると思う。

今年1月の「川柳スパイラル」京都句会で清水の話を聞く機会があった。そのときの対談は「川柳スパイラル」2号に掲載されている。海地大破についての話が主だった。清水は「超新撰21」の大会が東京であったときにも話したことがあるが、と前置きして次のように語った。

私自身は〈「私」のいる川柳〉を書いていますので、「私」から離れたことはありません。「私」から離れる句をいいと思うこともありますが、書くときは一句の中のどこかに「私」がいるんじゃないかなと思っています。

「バックストロークin大阪」(2009年9月)で〈「私」のいる川柳、「私」のいない川柳〉というシンポジウムを行ったことがあるので、清水はこういう用語を使ったのだろう。創作過程からいえば、「私」から出発することは何も悪いことではないし、何らかの内的モティーフがなければ表現は成立しない。けれども、作者の「私」は作中主体の「私」よりもレベルの高い存在であるはずだ。だから、清水の作品に「私」を探しても何も出てこないし、出てきたとしてもそれは卑小な読みになってしまうと思う。

最後に「川柳スパイラル」2号の清水かおり作品を紹介しておこう。

その人も水に映ったままの春    清水かおり
少女来て猛禽のくちまねをする
湯葉すくう「ほら概念は襲うだろ」

湯葉という日常的なものと概念という抽象語が一句のなかで結びつけられている。「概念は襲う」だけだと哲学や現代詩になってしまうが、「湯葉すくう」によって川柳にしている。というより、「湯葉すくう」という生活営為がそのまま「概念が襲う」という感覚に直結している。「すくう(掬う)→襲う」という動詞の働きによって。
いま清水かおりの川柳がすごい。一時期、彼女の作品に停滞を感じたこともあったが、詩性と川柳性を兼ね備えた清水かおり作品をこれからも読めるのは楽しみなことだ。

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