2018年1月5日金曜日

「玄関の覗き穴」と「母性のディストピア」

年末年始は「逃げ恥」の再放送や高麗屋三代襲名のテレビを見ていて、あまり本や雑誌を読めなかったが、管見に入ったあれこれを書き留めておきたい。

木下龍也と岡野大嗣の歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社)のサイン会、あちこちで開催されているようだが、12月29日の葉ね文庫の会に行ってみた。岡野には2016年7月に飯田良祐句集『実朝の首』を読む会にゲストとして来てもらったことがある。
午後7時過ぎに行くと、すでに葉ね文庫はサインをしてもらいに来た人々でいっぱいだった。二人の歌人の人気おそるべし。
歌集は「男子高校生ふたりの七日間をふたりの歌人が短歌で描いた物語、217首のミステリー」という設定で、7/1から7/6までの日付別になっている。二人が交互に詠んでいる章、木下だけの章、岡野だけの章など変化をもたせている。作者がある人物を借りて詠む「成り代わり」の歌は前衛短歌以後ときどき見かけるが、男女の相聞ではなくて、高校生ふたりの成り代わりというのは新鮮な気がした。物語性もあり、7/1・7/2・7/3・7/4と時間の順に進んだあと7/7が挿入され、遡行して7/5・7/6になって終わるという構成になっている。7/7に何かの出来事があったことが暗示されている。
おもしろい歌が多かったが、二首ずつ紹介しておく。

消しゴムにきみの名を書く(ミニチュアの墓石のようだ)ぼくの名も書く 木下龍也
まだ味があるのにガムを吐かされてくちびるを奪われた風の日

目のまえを過ぎゆく人のそれぞれに続きがあることのおそろしさ    岡野大嗣
近づいて来ているように見えていた人が離れていく人だった

私も列に並んで岡野と木下にサインをしてもらったが、岡野が飯田良祐のことを話してくれたのが嬉しかった。岡野がサインしてくれた短歌と飯田良祐の川柳を並べて書いておきたい。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使   岡野大嗣
天国へいいえ二階へ行くのです               飯田良祐

「現代詩手帖」1月号、短歌時評は瀬戸夏子、俳句時評が外山一機の担当になった。
この二人の時評を同時に読めるとは贅沢なことである。
瀬戸の時評は木下龍也の短歌を取り上げている。木下は「あなたのための短歌」ということで、短歌の販売をしている。依頼があれば依頼者ひとりのために短歌をつくって送るというやり方である。時評では瀬戸が木下に依頼した短歌が紹介されている。短歌総合誌を取り上げるのではなく、こういうところから時評をはじめるのはいかにも瀬戸夏子らしい。
外山の俳句時評はBL俳句誌「庫内灯」3号を取り上げている。BL読み・百合読みについては語られることが多くなったが、外山が特に注目したのは中山奈々の文章である。中山は「百鳥」「里」の若手俳人で、昨年話題になった「早稲田文学・女性号」にも作品を発表している。「庫内灯」3号は1月21日の「文フリ京都」でも出店・販売されるはずである。
瀬戸も外山も昨年は角川の「短歌」「俳句」で時評を担当したが、今年は「現代詩手帖」という媒体で、狭い意味での歌壇・俳壇の枠を超えたところで書いている。これからも時評が楽しみだ。

年末年始は宇野常寛の『母性のディストピア』(集英社)を読んでいた。
宮崎駿・富野由悠季・押井守などについてのアニメ論が中心だが、ベースにあるのは「政治と文学」である。
「政治と文学」論や江藤淳の『成熟と喪失』は私にもなじみがある。個々のアニメについてはあまり見ていないので理解できない部分もあったが、ロボット・アニメの歴史や「海のトリトン」の後味の悪い最終回のこと、いまよく使われる「黒歴史」という言葉の由来など、いろいろ分かった。
本書の前提となるのは「虚構=仮想現実の時代」から「拡張現実の時代」へという時代認識である。

「グローバル/情報化が進行した今日において機能している反現実は、現実の一部を虚構化することで拡張するいわば〈拡張現実〉的な虚構だ」

インターネットは現実と切断された仮想現実を構築するものでも、複雑な現実を整理統合するものでもなく、モノと人を虚構を経由することなく直接つなぐものであり、虚構ではなく現実と結託するものだと宇野は言う。虚構と現実の関係は決定的に変化したのであり、「あらゆる虚構が現実から独立し得なくなったいま、批判力のある虚構はどうあるべきか」というのが彼の問題意識である。

最後に畏友・野口裕の第一句集『のほほんと』(まろうど社)を紹介しておきたい。
野口とは2006年から2011年まで「五七五定型」という二人誌をいっしょに出していて、俳句・川柳という分け方ではなく、「五七五定型」という視点から何ができるかという発想で5号まで発行した。野口は「俳人」と呼ばれることを嫌う。私は野口のことはよく知っていると思っていたが、句集では私の知らない彼の作品も多く、おもしろく読んだ。

蒼白と塗られ一つ目の木が燃える     野口裕
飛ぶ蝉が緑陰の葉に突き当たる
生きものよ鏡の向こう こちら側
川に聞く泡のまわりは水なのか
マスクして動物臭をたしかめる
空蝉に蝉が入ってゆくところ

表紙絵は彼の子息・野口毅によるもの。前述の「五七五定型」5号の表紙にも同じ絵が使われている。

0 件のコメント:

コメントを投稿