2017年6月24日土曜日

女性川柳の現在―「カモミール」と「旬」

カモミール キク科の1種の耐寒性一年草。和名はカミツレ。

「川柳カモミール」第1号を送っていただいた。
八戸市で開催されている「川柳カモミール句会」の句会報として5月に発行された。
女性五人の作品が20句ずつ掲載されていて、清新な感じがする。
飯島章友が「川柳スープレックス」ですでに書いているが、巻頭の三浦潤子の作品は私もはじめて読むので、特に注目した。

膨らんだ餅からSMAPがぷしゅーつ      三浦潤子
首縦に振る度落ちてゆく鮮度
ネクタイをゆるめ雲の名ひとつ知る
織姫の364の詩
削除してサクジョしてさくじょして シーつ

時事的な話題を川柳としてどう詠むかはむずかしいところだろう。SMAPのファンにとっては他人事ではないだろうが、掲出句は第三者の立場から軽やかに詠んでいる。軽やかさは「ぷしゅーつ」とか「シーつ」というオノマトペにもよる。俳句でも「軽み」ということが言われるが、「軽み」は川柳の持ち味のひとつである。重い内容を重く表現するやり方もあれば、重い内容を軽く表現するやり方もある。重いとか軽いとかいうのは主観的な感じ方だが、かりに重くて深い主題であってもそれを表面に隠して軽みとして表現することもある。
「織姫の364の詩」では七夕の特別な一日ではなくて、それ以外の364日に川柳の眼をそそいでいる。しかも、7月7日に「詩」があるというのではなくて、364日の方に「詩」があるというのだから、その着想のアイロニーは相当なものだ。

だからって唐突に消えちゃった鈴        守田啓子
逆境に満月なんか出てこないで
ピーマンの振りして寄り添った振りして
考えるとこです ブックセンターを出て右手
醤油注ぎに醤油足せる日までのこと

これらの句は、句の前後にさまざまな状況を想像しながら読むことができる。
「だからって」というのは、前にどんなことがあったのか分からないが、省略された文脈の、その途中から作品が始まっている。
逆境に満月なんか出てきたら、いっそう腹の立つことは理解しやすいが、その逆境は仕事や恋愛やさまざまな人間関係の状況に当てはめることができる。
物語の一場面だけ読まされた読者は、断片であるからこそ逆にその前後に広がる大きな物語空間を感じとることができる。

発砲はしましたが戦闘ではありません      滋野さち
スーダンへ桜前線を送り出す
真っ先に「戦争はイヤ」と書く軍手
ペラペラのナルトの下のがん細胞
本名を知らない人と会う四月

滋野さちの作品は川柳の批評性を手放さない。常に現実の社会と対峙したところで書かれている。社会性川柳を書く人が少なくなった現在、滋野の作品はますます貴重なものとなるだろう。
いうまでもなく、風刺は芸術のひとつの方法である。川柳はことばの芸術でもあるから、川柳のことばと批評性を両立させるのは、とても困難なことだと思う。

灰汁抜きも面取りもした鳥にする        横沢あや子
ほっといて女子力男子の種袋
葉月の葉いちまいずつの人の声
もんしろ蝶つれて八月の帽子屋
柿だもの淋しがらせてあげましょう

横沢あや子の作品を久しぶりに読んだ。
「鳥」「葉」「蝶」「柿」などをの日常語を使って、それを川柳の言葉・詩の言葉にまで高めている。これらの語は自然物ではなくて、人間との関係のなかで使われているから生活詩となる。
女性を果物にたとえると何になるのだろう。五句目の作中主体は「柿」だといっている。林檎とか蜜柑とか梨ではないのだ。柿が淋しいのではなくて、柿は誰かを淋しがらせるような存在だというのだ。

縁取りをすればどうにかなるでしょう      笹田かなえ
通り過ぎて欲しいところで待ってしまう    
マッチ擦るいつもそこから始まった
北海道のコーナーにある志賀直哉
泥絵具 三千世界を塗りましょう

笹田かなえの「はじめに」によると、「カモミール」は「川柳を書いて読んで合評するという形の勉強会」である。各地で試みられている「川柳の読み」に時間をかける句会のひとつのようだ。吟行会も行っているらしい。
たまたまかもしれないが、女性川柳人が五人集まっていることにも新鮮さが感じられる。
女性川柳誌としては、かつて飯尾麻佐子の「魚」があった。田口麦彦が編集した『現代女流川柳鑑賞事典』(三省堂)も労作である(「女流」という現在は使われなくなっている言葉を用いている点は気になる)。「男性優位社会」はそれぞれの地域・フィールドでまだ残っているだろうが、風通しのよい川柳の場がどんどん増えてゆけばいいと思う。

伊那から発行されている「川柳の仲間 旬」は今までも紹介したことがあるが、5月に211号が発行された。ここでは千春と樹萄らきの句を紹介する。

雷を育て上げては龍にする       千春
ひめごとはおひるにするとやわらかい
生きるんだそうと決めれば鳥かなあ

現代の川柳は言葉から出発することが多いが、作者の実存から出発する川柳もある。
誰でもいろいろな困難を抱えながら生きているから、川柳を読んだり書いたりすることで前に進めることもある。
傷つきやすさとかナイーヴなものを失わずに、それを川柳の言葉として鍛えあげていくことが大切だろう。

まいったねえ右も左も寸足らず     樹萄らき
おまえさん脛にキズもつお人好し
未来は過去の延長じゃない…けどさ
淡々と…淡々なんていかねーよ

樹萄らきの句には語り口のおもしろさがある。威勢のいいお姉さんの口調である。
近ごろは作者と作中主体を分けて読むのがふつうだが、この作者の場合は重ねて読んでもおかしくはない。作品を通じて読者は樹萄らきのイメージを何となく思い浮かべることができる。それが本当のこの作者の姿なのかどうかは知らない。作品を通じて浮かび上がってくる作者像である。キャラクターという言葉を使うとすれば、「姉御キャラ」というような感じだ。
今回の作品で、威勢のよさが途中で口ごもっているのは、「…」の使い方による。そこに川柳的屈折があるのだ。

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