2017年3月12日日曜日

「場」と「プレーンテクスト」

先日の「大阪短歌チョップ2」のトークを聞いていて、「場」ということについて改めて意識させられた。
短歌の「場」とは、テクストに読みの方向性を与えるもので、作者・性別・職業・結社など作者に関する情報も「場」である、ということだった。『岩波現代短歌辞典』の加藤治郎の説明が引用されていたが、ここでは『現代短歌ハンドブック』(雄山閣)から引用してみよう。執筆者は栗木京子。
「短歌作品を鑑賞する際の助けとなる、作品に関する情報や背景のことを場と総称する。短歌は一首一首が独立した作品ではあるが、あまりに詩型が短いため内容を把握しきれない場合が多い。そのとき作者名や作者の経歴、歌が作られた場所や時期、歴史的背景や社会状況などが添えられていると、鑑賞の大きな助けになる。こうした情報は、連作の場合は表題や詞書、あるいは前後の作品との関連によってもたらされる。また、歌集ではさらにそこに作者略歴やあとがきが加わって、場の及ぼす力が強まることになる。こうした場の威力が最も発揮されるのは、写実主義の方法においてである。すなわち、作中の〈われ〉が作者のことを指し、詠われた内容が事実に基づくとする作歌理念のもとでは、場は最も有効に機能する。だが、前衛短歌が作者と作品の間に『虚構』を導入して以来、場の影響力は一義的なものではなくなってきている」
長くなったが、このあとの話の前提として上の内容を押さえておきたい。
「大阪短歌チョップ2」ではこのような意味での「場」について直接話し合われたわけではなかったが、私が連想したのは俳誌「オルガン」8号の対談「プレーンテキストってなんだろう」のことだった。生駒大祐と福田若之の対談で、生駒が「プレーンテキスト」好みを表明している。話は「オルガン」6号に遡り、8号の対談でも引用されているが、話の順序として6号の対談部分を紹介しておこう。

生駒 僕は、俳句ってさらりとしたものだと思ってるんです。活字がなかったら、俳句って、もっと、どろどろしたものっていうか、もうちょっと土俗的なものに近づいていく。そうなっていたら僕の好きな俳句は生まれなかった。プレーンテキストに近づいてくれたから僕の好きな俳句が生まれていて、それは重要なことだと思う。
田島 プレーンテキストって?
生駒 俳句がある面白い情報を持っているとして、それがノイズなく仮に伝わったら、という仮定の下での表現形態ですかね。
田島 活字で書かれていようが、書として書かれていようが、どちらでも伝わってくる同じ部分をプレーンテキストと呼んでいるわけだ。
生駒 はい。Wardとかで、コピーして貼り付けるときに「プレーンテキストで貼り付け」っていうのがあります。それを念頭に置いています。
宮本 それは自分の頭のなかにしかないのでは?
生駒 難しいですね。ある面白い発想が生まれたとして、それが言葉に返還される過程で物の面白さに変容する。僕はここの時点の面白さをプレーンテキストと呼んでいて、それが文字として他者にわかる形で書かれた時点で視覚的なノイズが入る。

コンピュータに詳しくないので、私にはよく分からないところもあるが、ウィキペディアでは次のような説明がされている(専門用語が煩雑なのでところどころ省略して引用)。

「プレーンテキスト (plain text) とは、コンピュータ上で文章を扱うための一般的なファイルフォーマット、または文字列の形式である。ワープロで作成した文章とは違い、文字ごとの色や形状、文章に含まれる図などといった情報を含まない。プレーンテキストに対して、文字ごとの色や形状、文章に含まれる図などといった情報を含む文章のことをマルチスタイルテキストと呼ぶ。プレーンテキストには文字情報以外の情報は一切含まず、テキストデータのみで構成されている。格納できる情報が純粋にテキストのみに限定される為、文字の強調や加工や言語情報、フォント情報を持つことが出来ない。これらの情報を格納する場合は、HTMLのような工夫が必要になる」

こういうものがプレーンテキストだとすれば、読者が実際にテキストを読む場合にはそこにさまざまな「ノイズ」が加わることになる。生駒はそのようなノイズとしてフォントや字体、句集・歌集などにおける表紙のあり方、作者の情報、境涯性など、読みに一定の方向性を与える一切のものを挙げている。一冊の句集を編集する場合にはテキストにさまざまな加工をすることになるが、それを生駒は「ノイズ」ととらえていることになる。
そして、興味深かったのは対談者である生駒と福田のプレーンテキストに対するスタンスの違いである。

福田 僕は、外的要因というのは、絶対に切り離せないものだと思っているんです。だから「プレーンテキスト」という考え方を受け入れがたいものに感じていました。でも、到達しえない点でしか実現しえないんだと考えれば、虚の概念としてそれを受け入れられる気がしました。僕にとってそれを目指すことがやりたいことであるかどうかは別として、理解することはできる。
生駒 そういう意味では絶対的なプレーンテキストっていうのはない。むしろ僕はどこかでそれを愛しているのかもしれないです。収束に近づけていく所作そのものを。

今回は引用に終始して時評になっていないのだが、読みに方向性を与えるものをノイズととらえるのはおもしろいなと思った。生駒のいう「プレーンテキスト性」とはズレるのかもしれないが、私自身の問題意識にひきつけると、最初に引用した「場」の問題と結びついてゆく。作品をどう読むかという場合、短詩型ではむしろそのようなノイズを手がかりとして読んでゆくことが多いのではないだろうか。逆に、作者論的な読みを排除して読者論的に読もうとすると、「読みのアナーキズム」と批判されたりする。
川柳では作者と結びつけて作品を読む読み方が依然として強く、その一方で作者とは直接関係ない言葉の世界で飛躍するテキストも現れてきている。
うまく言語化できないが、作者とテキストをめぐってはそれぞれのジャンルの特殊性をはらみながら、二つの流れがいま短詩型の世界でせめぎ合っているように感じる。

0 件のコメント:

コメントを投稿