2017年3月18日土曜日

川柳は「川柳」を問う―『俳誌要覧』2017年版

『俳誌要覧』(東京四季出版)が発行されて、俳句を中心とした短詩型文学の現在を展望するのに便利なものとなっている。【平成28年の俳句界】岸本尚毅、上田真治【俳文学の現在】〈川柳〉柳本々々〈連句〉小池正博〈研究〉安保博史【句集回顧】関悦史、依光陽子【評論回顧】青木亮人、外山一機【いま、短歌が気になる】堀下翔、鴇田智哉【受賞作を読もう】生駒大祐【俳句甲子園をふりかえる】黒岩徳将。これに鼎談と年代別自選句一覧、結社同人誌資料などが付く。

まず、俳句界の現在を知る意味で上田信治の〈「中心」が見えない〉を興味深く読んだ。
上田は「同時代の俳句をいっせいに価値づけるような、中心性や求心力が失われて久しい。いや、そういったものは、もう現れないのかもしれない」という現状認識に立った上で、「かつてあった求心力の消失によって生じた空白を埋めるような、いくつかのモーメント」を挙げている。
「トリックスターの活動」として上田が挙げているのは、テレビ番組プレバトの夏井いつき、「屍派」の北大路翼、『俳句を遊べ!』の佐藤文香、「東京マッハ」の千野帽子・長嶋有などである。「トリックスター」というのは悪い意味ではなく、「従来の境界線を超えて活動する書き手たち」という意味で使われているようだ。
次に上田が挙げるのは「二十代の俳人たち」で、俳句甲子園出身者が多い「群青」、若手が多く入っている「里」などの若手俳人。「彼ら世代が、特定の俳人の指導を受けることなく、作家であろうとする意志は、動向として明確にあらわれている」と述べられている。
さらに、中心性が失われた時代における「個々の俳人による孤独な探求」として、中田剛、堀下翔、澤好摩などの名が挙げられている。俳句史への再接続が個々の探究として試みられていると言うのである。
上田が分析しているような俳句界の現在は、俳句の世界を外から眺めている私にも納得できるものだ。むしろ外部の読者の目には、上田の挙げているような俳人の活動の方が俳句の現在、俳句のセンターとして目にうつってくる。句集回顧で関悦史や依光陽子の挙げている句集のいくつかは、この時評でも紹介したことがある。

ひるがえって、川柳の現在はどうなっているだろうか。
そもそも「川柳界」というものが今でも存在しているかどうかが疑問である。中心とトリックスターどころの話ではない。そもそも中心がなければトリックスターの活動も意味をなさないから、トリックスター的な動きをする川柳人も見られない。孤独な探求にならざるをえないのである。
ブログやツイッターに活路を求めるのもひとつの方法だが、外山一機が「ネット上の評論」に触れているのに注目した。ネットの読者は自分に都合の良いように記事を選り分けて読んでいる。そのような読者の自己愛に耐えてネットに書き続けるには読者の自己愛を超えるほどの書き手の自己愛が必要になると外山は言う。外山は柳本々々の名を挙げている。
「週に数回という猛烈なペースで記事を更新し続けているにもかかわらず、柳本の言葉が示唆に富んでいるのは、柳本が何よりもまず自分のためにこそ書いているからだろう。柳本の言葉が輝くのは、たぶんに躊躇しながら、しかし、はっきりと持論を提示したときだ」
(外山の文章には一か所だけ誤認があり、「おかじょうき」は歌誌ではなくて川柳誌である。)

では、柳本の文章「現代川柳を遠く離れて」を読んでみよう。
柳本は《川柳とはいったい何か》という川柳のジャンルそのものを問い返した句集として、兵頭全郎『n≠0 PROTOTYPE』と川合大祐『スロー・リバー』の二冊を挙げている。

おはようございます ※個人の感想です   兵頭全郎
ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐

兵頭の句では「おはようございます」という普遍的・絶対的な言説に「※個人の感想です」という個人的・相対的な注釈が添えられることによって、川柳ジャンルそのものに任意性を持ち込んでいる。川合の場合はもはや意味が成立しないような場所から一句が始まっている。「ぐびゃら/じゅじゅべき/びゅびゅ」という意味のとれない言葉の系列のなかに「岳/壁に/挑む」という意味のとれる言葉の系列が挟みこまれている。柳本はそれを縞馬の縞にたとえ、どちらの縞をとるか、どのようにとるかが問われているのだと言う。
「兵頭全郎と川合大祐、ふたりの川柳作家に共通しているのは、読者を巻き込んでの創作行為としての川柳を提出している点にある。その川柳を読んでしまえば、読者自身が立ち位置を問われることになる。そういう川柳を考える川柳の現場がこの二冊にははっきりとあらわれている」

このほかに柳本は岩田多佳子『ステンレスの木』、『15歳の短歌・俳句・川柳』全3巻、久保田紺『大阪のかたち』、熊谷冬鼓『雨の日は』などを取り上げたあと、「現代川柳にとって2016年は、川柳というジャンルの再吟味の年であったのだということだ」と述べている。(まだ発行されていないので詳しくは言えないが、今月末に刊行予定の「川柳カード」14号でも柳本は兵頭・川合・岩田の三冊の句集を取り上げて論じている。川柳はようやく句集の時代に入ったのである。)
最後に柳本は野沢省悟が川柳誌「触光」で募集した「高田寄生木賞」に触れている。今回、この賞は「川柳に関する論文・エッセイ」を選考の対象としている(発表は5月ごろになるようだ)。そして、柳本はこんなふうに書いている。
「川柳というジャンルのなかでいろんな人間がそれぞれの場所からこれまでとは違った光を灯そうとしている。」「2017年がその光を迎えとるだろう」
私は柳本ほど楽観的にはなれないが、少しは希望をもってもいいのかもしれないと思うのである。

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