2016年5月20日金曜日

川柳人から見た我妻俊樹

「率」10号は我妻俊樹の歌集『足の踏み場、象の墓場』を誌上歌集として150ページにわたって掲載している。10号記念の特別企画ということで、瀬戸夏子は序文でこんなふうに書いている。
「きっと歌人ならだれにだってあることだろうと私は信じているのだけれど、歌人ならきっと誰でも、好きな歌人の、いつかの歌集の出版を夢に描いて、心のなかで待ちつづけているのではないのだろうか。
けれど、さまざまな問題や周囲の状況から、歌集の出版というのはそんなに容易なことではないのだ。それも、私自身の経験をふりかえり、周囲の状況を見渡せば、よくわかることだ。
私が我妻俊樹の読者になったのは歌葉新人賞のころだから、おそらく十年ほど前になるだろう。つまり、私は十年間、待ったのだ」
結局、「率」が動いて誌上歌集が実現したことになる。

私が我妻俊樹の作品を読んだのは、昨年の「川柳フリマ」で購入した「SH」に掲載されていた五七五作品が最初である。昨年のこの時評でも次のようなコメントを書いたことがある。

〈 提灯をさげているなら正装だ    我妻俊樹

「SH」から。
「川柳フリマ」のために歌人の瀬戸夏子と平岡直子が作った「川柳句集」である。ゲストに我妻俊樹が参加している。
提灯をさげるのは誰か。作中主体を書かないことによって含みのある表現が可能となる。闇夜に提灯をさげるのは現実のことだが、妖怪だと読むと「怖い川柳」になる。百鬼夜行の正装である 〉

今回、我妻の短歌をまとめて読んでみて、とてもおもしろいと思った。よく分からなかった作品もあるが、退屈な歌はほとんどない。

バスタブの色おしえあう電話口できみは自らシャツをひろった
あの青い高層ビルの天井の数をかぞえてきたらさわって

ぼくときみがいっしょにホテルにいるのか、別々にいて電話しているのか少し迷う。
『竹取物語』のかぐや姫は五人の貴公子たちの求婚に対して、蓬莱の玉の枝を持ってこいとか、竜の首の珠を取って来いとか無理難題をふっかける。ここでは、高層ビルの天井の数を数えてくるように言っている。言われているのは誰なんだろう。

こめかみに星座のけむる地図の隅にたずねる公園ほどの無意識

「こめかみ」から始まって「無意識」にたどりつく。五七五七七という定型のなかで、言葉はこんなところまで行き着くことができるのかと思う。
五七五定型であれば、この歌の半分「こめかみに星座の煙る地図の隅」までで終わる。これだけでもおもしろいが、これまでまったく見たことのない光景というわけではない。「こめかみ」という身体(ミクロコスモス)と「星座」(マクロコスモス)が重ね合わされているのだろうなと思ってしまう。けれども、短歌の場合はさらに七七の部分があるから、ここで身体を垂直にたどって「無意識」にまで到達するのだ。世界は地図化され、さらに無意識の世界で起こっている光景に還元される感じがする。

バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
こうもりはいつでも影でぼくたちは悩みがないかわり早く死ぬ

「人ばかりではあるまい」とだけ言って、それが何かは読者の読みに預けられている。人間以外の存在って何だろう。あやかしの気配がする。
二匹に減ってしまって、それがうれしいことだろうか。「わたしたち」とは誰か。
三首目の早く死ぬ「ぼくたち」もどのような存在か、いろいろ読む楽しみがある。

ひこうきは頭の上が好きだから飛ばせてあげる食事のさなかに
鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる
心臓で海老を茹でます親方 さあ親方 四股でもふみますか
客と思えばお茶を出してしまうし葉書だと思えば読んでしまう
手袋とお面でできた少年を好きになってもしらないからね
名古屋駅から出たこともない蚊でも倒しにいくとして、持ち物は

ユーモア感覚の歌もけっこう多いように思った。大声で笑うのではなく、読者がにやりと笑う感じの。

アンドロメダ界隈なぜか焼野原 絶唱にふさわしいるルビをふる
牙に似た植物を胸にしげらせて眠るとわかっていて待つ時報
手がとどくあんなにこわい星にさえ 右目が見たいものは左目
木星似の女の子と酸性雨似の男の小の旅行写真を拾う

「星」の歌も散見される。
地上の現実と星の世界が連想のなかで結びついている。
作品の外に存在する作者の「顔」なんてどこにも見えないし、作者は作品の言葉のなかにしかいない。現実の世界が唯一の世界だと思う人は写生に向かうだろうが、我妻の作品を読んでいると、表層的現実とは異質なものが重ね合わされている感じがする。「ぼく」や「君」をながめている異次元の視線が存在するのだ。近代短歌の自己表出とはまったく異なる歌の姿がここにはある。

「あとがき」で我妻はこんなふうに書いている。

「十五年で大きく変わったところも変わらないところもあるが、あえて変化には気を払わない構成にした。歌はひたすら何かを上書きしていくもので、その何かに言葉も歌も作者も含まれるだろう。上書きによって透明さに近づくようにも、混濁が増していくだけのようにも思える。もとより私はずっと目をつぶったままで、誓っていいが一度もここで物を見たことがない。
かわりに歌がこちらを見ている。書き手など、偶々そこに生えていた草のようなものだ。無駄に繁茂して読者の視界を遮っていないことを願うばかりである」

見事な覚悟だと思う。
5月22日の「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」では、「SH3」が販売される。我妻の川柳作品も掲載されているようなので、楽しみにしている。

この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)  我妻俊樹

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