2016年1月29日金曜日

『桜前線開架宣言』

かつて石田柊馬が「川柳は読みの時代に入った」と宣言して以来、どう詠むかだけではなく、どう読むかが現代川柳の重要な課題となっている。一読明快の時代には川柳は読めば分かるもので、ことさら「読み」を意識する必要はなかったが、作品が読者による多義的な読みをされるようになると、作者の側も作品がどう読まれるという「読みの幅」をある程度意識しながら作句するようになる。作者論から読者論への転換である。
ところが読者が川柳作品を読みたいと思っても、全国に散在する川柳同人誌に目を通すことは時間的にも経済的にも不可能なことであるし、句会・大会に参加するにも労力が必要だ。現代川柳の全体像なんて誰にも分からないのである。句集が必要とされる所以だが、「川柳は句集の時代に入った」とも言い切れないのが苦しいところだ。
そういう意味で私が敬意を払っているのは、渡辺隆夫と新家完司である。
隆夫は『宅配の馬』に始まって『都鳥』『亀れおん』『黄泉蛙』『魚命魚辞』『六福神』と句集を出し続け、さすがにもう逆さにふっても何も出ないようだ。完司は五年ごとに句集を出していて、『新家完司川柳集(六)平成二十五年』まで出ている。
現在では句集や紙媒体以外にSNSなどを利用した多様な発信の仕方が可能になっており、飯島章友は「川柳は発信の時代に入った」(「川柳スープレックス」2016年1月15日)と述べている。
「読みの時代」→「句集の時代」→「発信の時代」と変遷するなかで、川柳人はそれぞれの好みと資質に応じた作品発表の場を確保することが必要だろう。

さて、「発信」という点で進んでいるのは短歌の世界である。
昨年末に現代短歌の注目すべきアンソロジーが現れた。山田航編著『桜前線開架宣言』(左右社)である。
「Born after 1970 現代短歌日本代表」という副題が示すように、取り上げられているのは1970年以降に生まれた若手歌人40人である。「1970年代生まれ」「1980年代生まれ」がそれぞれ19人、「1990年代生まれ」も2人いる。
個々の歌人の作品も魅力的だが、山田航による切り口が鮮やかだ。
たとえば、兵庫ユカは「言葉が心に突き刺さる」という感覚、言葉の刃の鋭さという点では現代短歌随一、と紹介されている。

遠くまで聞こえる迷子アナウンス ひとの名前が痛いゆうぐれ    兵庫ユカ
どの犬も目を合わせないこれまでも好きなだけではだめだったから
求めても今求めてもでもいつかわたしのことを外野って言う

そして、山田は次のようにコメントするのだ。
〈「自分の居場所がない」という自己疎外感をここまで鋭く研いだ言葉にできている歌人はそうそういない。それでいてその自己疎外感に、被害者意識が薄い。「なんで私ばっかりがこんな目に」「私は何も悪くない」といった姿勢をみせられてしまうと、いくら鋭い言葉のセンスが感じられてもいささか興ざめしてしまうものだけれど、兵頭ユカは絶妙なバランスでそれを回避してくる。乾きすぎてもおらず、湿りすぎてもいない、絶妙な水分を含んだ白いガーゼのような歌。それが兵庫ユカの短歌だ〉

でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める   兵庫ユカ

中澤系については、こんなふうに。

ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ  中澤系
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

〈刃のようにぎらついた焦燥感に、ぼくは夢中でページをめくった。1998年から2001年にかけてということは、ぼくがインターネットを使いはじめた頃に詠まれた歌だ。デジタル化する世界のシステムのなかで、ぼくたちは、自らの身を守るために、生きてゆくために、思考停止を強いられている。中澤系が描いている風景は未来都市でも何でもない。いたって一般的な、日本の大都市の風景だ。プラットフォーム。駅前のティッシュ配り。どこにでもある風景だ。そこから思考停止の浸蝕ははじまっている。傷つかない方法は考えないこと。心の痛覚を殺していかなければならない。そんな世界が永遠に続く。永遠にだ〉
〈しかし中澤系は思考停止を拒んだ。かといって被害者意識にまみれて世界を攻撃することもできなかった。果てのないディストピアが生まれたことを誰のせいにすることもできなかった。彼は「終わりなき世界」を脱却するための鍵として、終わりを運命づけられた定型詩を求めた〉

その歌人の作品をもっと読んでみたい気持ちに誘われると同時に、山田自身の感性もくっきりと立ち上がってくる。

核発射ボタンをだれも見たことはないが誰しも赤色と思う   松木秀
二十代凶悪事件報道の容疑者の顔みなわれに似る
平日の住宅地にて男ひとり散歩をするはそれだけで罪

〈松木秀の作家としてのスタートは短歌ではなく川柳。そのため諷刺と滑稽味に主眼を置いた歌を得意とする。きわめて弱い立場にいながらも、きっと塔の頂上を見据えて、皮肉という銃弾を撃ち込もうとする。届かなくても構わない。必死で撃ち続けようとしているその姿勢が、似た立場の者たちの目に入ればいいのだ〉

「1970年代生まれの歌人たち」から3人紹介したが、「1980年代生まれの歌人たち」も充実しているし、「1990年代生まれ」の井上法子もおもしろそうだ。
ロス・ジェネ世代の人たちがなぜ川柳という表現形式を選ばないのだろうと私はかねがね疑問をもっていたが、彼らは短歌形式によって自己と世界を表現していたのである。
山田航は2009年の角川短歌賞・現代短歌評論賞のダブル受賞で一躍注目された。だから、私は彼のことを才気煥発な人だと思っていた。けれども、本書を読んで彼のイメージが少し変わった。彼が真摯に短歌と向き合い、現代短歌の魅力を発信しようとしていることがよくわかる。
本書の発行所の左右社は川柳句集も出している数少ない出版社である。

山田は「まえがき」でこんなふうに書いている。
〈しかしぼくは大きな勘違いを一つしていた。寺山修司から短歌に入ったぼくは、歌集というものをヤングアダルト、つまり若者向けの書籍だと思い込んでいたのだ。短歌が世間では高齢者の趣味だと思われていたなんてかけらも知らなかったし、実情をそれなりに知った今でも心のどこかで信じられない。どうせなら、ぼくと同じ勘違いを、これから短歌を読もうとする人みんなすればいいと思う。みんなですれば、もう勘違いじゃなくて事実だ〉
川柳についても同じことが言えたらいいな。こんなふうに言えたら、どんなに晴れ晴れすることだろう。

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