2016年1月22日金曜日

芝桜遠近法

昨年末に墨作二郎作品集『典座』(「川柳凛」発行)が届いた。
川柳誌「凛」の38号から63号までに掲載された208句が収録されている。「典座(てんぞ)」とは禅宗寺院における料理係のことである。句集から5句紹介する。

芝桜遠近法 石笛の過去いちめん     墨作二郎
対岸に多瞬の蛍 流転の父
花は白い十字架 蝶の渡海伝説
クレパスの迷路 青い蘇鉄のあとずさり
水栓のもるる枯野 居残り地蔵尊

一字開けを使った二句一章は作二郎の愛用する書き方である。
「五 七五」または「五七 五」を基本形とするが、上五が10音近くにのびたり、下五が4音や6音になることもあり、リズムのさまざまなヴァリエーションがある。
作二郎作品を読みなれている読者にとっては同一イメージの繰り返しが気になるところではあるが、堺出身の詩人・安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」や川柳人・河野春三の「水栓のもるる枯野を故郷とす」を下敷きにするなど、作二郎の川柳人生を振り返るものとなっている。

「川柳凛」64号(1月1日発行)に、くんじろうが「川柳・耄碌論」を書いている。
山田太一の「男たちの旅路シリーズ」や舞踏家・田中泯、阪井久良岐などについて述べているなかに、飯田良祐の作品にも触れている。今年は良祐が亡くなって10年目になるので、彼の句集『実朝の首』を改めて読む会を開きたいものと私は思っている。
くんじろうは「詩のボクシング」のことも書いていて、「朗読による川柳句会」を提唱している。提唱だけではなく、彼は実行するだろう。「川柳は老衰してはならない。川柳は耄碌してはならない」というくんじろうのメッセージである。

くんじろうが主宰する句会「川柳北田辺」が5年を越え、6年目に入ったという。第63回句会報、表紙はカラーで猿の絵になっている。

アダムとイブにからむちんぴら     きゅういち(席題「ちんぴら」)
寛永二年創業ちんぴらのお漬物     きゅういち
シャッターを上げれば月が伏せている  茂俊(兼題「伏せる」)
肉食のわたしと桃食のあなた      ちかる(席題「桃」)
トナカイがやわらかく煮た蕪ですが   律子(席題「蕪」)
システムの都合で今年五十歳      丁稚一号(席題「システム」)
さばの味噌煮に巻きこまれたんよ    ろっぱ(席題「るつぼ」)

初句会でいただいた「ふらすこてん」43号(1月1日発行)。きゅういちの作品から。

結構美形のどうせ立ち去る影の昼    きゅういち
眼にミルク地方の銀座正しうす
梟鳴くどのみちささくれる聖母
又貸しの姉はどなたが文房具
歌姫を抱いて売られる鉄工所

筒井祥文は選評で「どう読もうと深読みに陥る十句。よって読み不可」としている。
読みが不可かどうかはさておくとして、私は攝津幸彦の「以前は自分の生理に見合ったことばを強引に押し込めれば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけど、この頃は最低限、意味はとれなくてはだめだと思うようになりました」という言葉を思い出した。

昨年末にいろいろな川柳誌を送っていただいているが、コメントせずにそのままになっているので、遅ればせながら紹介しておきたい。

「触光」45号(12月1日発行)、梅崎流青が「高田寄生木賞」について書いている。同誌43号掲載の筒井祥文による批判に対する反批判である。論争の少ない川柳界ではめずらしい議論である。「高田寄生木賞」については第四回のときにも渡辺隆夫の「川柳の使命」発言に対して広瀬ちえみが疑問を呈したことがあり、「触光」では議論が活性化することを期待しているのだろう。43号の編集後記を見ると筒井祥文の批判に関して「明確な川柳観からの文章で、いろいろと勉強になった。異論のある方もあると思う。その異論を文章にして送っていただければ幸いである」と述べられている。今回はその「異論」というわけだ。ただ、論争というのは当事者のあいだに共通するベースがないと成り立たないので、価値観がまったく異なる場合は生産的な議論とならないところに困難さがある。
同誌の前号鑑賞のコーナーでは清水かおりが「現代の川柳の様相は実に様々だ。伝統や革新という呼び方はもとより何々派という画し方も当てはまらない自由さを得ている。読者が作者の個性に注目した読みを展開し、作者は個の確立に研鑽を積んだ。そのような作者と読者の関係性も、すでに変化し始めているように感じる」と書いている。

「水脈」41号(12月1日発行)巻頭、落合魯忠の「『劇場』の女優たち」は「現代川柳・どん底の会」(代表・進藤一車)発行の柳誌「劇場」の創刊から終刊まで全40冊を改めて検証・紹介している。落合はこんなふうに書いている。
「今日、名のある川柳大会に並ぶ作品の劣化は顕著であり、どこかで見たことがある、似たような、良く云えば日常を語り合う共感のできる作品が大量生産の上、選出され巷へ散ってゆく」「柳社の経営を考えれば量の拡大に力点を置くのは致し方のないことではあるが、川柳という文芸を結社が支配する構図は将来的に消滅するであろう」「なぜならいかなる文芸も、本来的に個人のなせる芸であり、孤独な当為を基本とするものであるからだ」

「触光」「水脈」とも桑野晶子が昨年10月19日に亡くなったことを悼んでいる。89歳。

水ぎょうざ黄河の月もこのような   桑野晶子
羊蹄に雪くる画鋲二個の位置
罪というなら包丁差しに包丁が
雪が降り雪が降り乳房はふたつ
かるがると蝶が死んでる雪の画布
しゃれこうべ軋む絶頂感の中
ながい冬だった一匹の蠅に遇う
じゃがいもの花と流れて海は臨月

川柳の先行者に対するリスペクトと同時に、さらに新しい領域を切り開いてゆくことが現代川柳には求められている。

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