2013年6月14日金曜日

第4回兼載忌記念連句会With八重の桜

会津がいま注目されている。
NHKの大河ドラマの影響は大きなものがあるが、会津ゆかりの連歌師に猪苗代兼載(いなわしろ・けんさい)という人がいる。2009年は兼載の生誕500年だったが、会津在住の連句人・俳人の田中雅子さんによって「兼載忌記念連句会」がスタートしてから今年で4回目になる。6月8日(土)に「学びいな(猪苗代体験交流館)」で開催された連句会にはじめて参加することができた。
兼載について少し触れておくと、『新撰莵玖波集』に兼載の句がある。岩波古典文学大系39『連歌集』から恋句を紹介しよう。

わすれがたみになれる一筆
かりそめのとだえをながきわかれにて

かりそめの一時的な別れだと思っていたのに、そうではなかったのである。

とはむとおもふこころはかなさ
この世だにかれぬるものを草の原

恋しい相手を訪れようと思う心もはかないことである。草原もやがて枯れてしまうこの世の中ではないか。

うづみ火きえてふくる夜の床
人はこでほたるばかりの影もうし

埋火は冬だから、火が消えた夜の床は寒々としていることだろう。恋人は来ないので、蛍のような影というのは恋人の影ではなくて作中主体の影になる。「うし」は「憂し」。

兼載は宗祇とともに『新撰莵玖波集』を編纂し、京都の北野天満宮連歌会所の宗匠をつとめた連歌人である。
「学びいな」でもらった『猪苗代兼載のふるさとを訪ねて』というパンフレットによると、兼載は亨徳元年(1452)、小平潟(こびらかた)村に生まれた。兼載の母は小平潟天満宮に祈願して兼載を生んだという伝承がある。父は猪苗代盛実と言われる。
兼載は六歳のとき現在の会津若松市、自在院に引き取られ連歌の会で頭角をあらわしてゆく。自在院に隣接していた諏訪神社には連歌会所があり、月次連歌会が催されていた。兼載の才能は他を寄せ付けず、その才能を嫉妬されたために彼が来るのを拒んで一室に閉じ込めたとか門扉を閉じようとして指を折ってしまったとか伝えられている。やがて関東に来ていた心敬や宗祇との出会いを経て、連歌師として大成する。晩年は会津に帰ったが、戦乱を避けて那須野に移り、古河に没した。
句会前日の8日(金)の夕方、新幹線で東京に出て、夜行バスで会津若松に向かう。午前5時に若松駅前に到着。雨が降り出して、早朝の会津は少し寒い。喫茶店もまだ開いていないので、街を歩きながら鶴ヶ城へ向かう。
人気もなく、静かな雰囲気を味わうことができた。土井晩翠の「荒城の月」の詩碑がある。荒城の月のモデルになった城は会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城がミックスされたものだと言われる。さらにお城近くの山本覚馬・八重の生誕の地に向かう。生誕の地は駐車場になっていた。
8時になって喫茶店が開く時間だ。野口英世青春通りにある英世記念館の一階の喫茶店に入る。ガイドブックに載っているレトロな喫茶店のひとつで、こういう喫茶店をいくつも回るのを楽しみにしていたが、会津滞在中に結局2軒しか行けなかった。
会津若松から磐越西線に乗る。午前11時20分に磐越西線の猪苗代駅に集合。連衆のみなさんと合流して貸切バスで兼載ゆかりの地へ向かい、兼載の母・加和里の墓、旧天満宮跡の幹の梅、小平潟天満宮などを回る。
「猪苗代の偉人を考える会」の方のガイドも楽しく、猪苗代の三偉人として猪苗代兼載・保科正之・野口英世の三人が挙げられている。

山は雲海は氷をかがみかな

この句碑は平成22年、没後500年記念に建立された。
明治20年に建立された「葦名兼栽碑」(猪苗代兼載碑)の横にある。猪苗代氏は葦名氏と同族。小平潟の人々はかつては「葦名兼載」の名で呼んでいたという。

さみだれに松遠ざかるすさきかな  

兼載が小平潟天満宮で詠んだ発句である。
小平潟は湖につき出た洲崎になっていた。かつて天満宮の社前には湖の波が打ち寄せていたという。今は樹木が遮っていて見えないが、猪苗代湖がよく見えたのだろう。
この句碑は昭和34年(1959年)の猪苗代兼載没後450年記念の際に建立された。このときの記念行事の記録が自在院に残っているというが、確認されていない。また、記念句会が会津若松の御薬園・重陽閣で開催されたともいう。具体的な連衆の名も不明なので、何か情報をお持ちの方はご教示いただければありがたい。

兼載ゆかりの地を巡ったあと、「学びいな」で連句会。5座に分かれ、約30名の参加。私の座では次の発句で、歌仙を巻き上げた。

夏燕連歌の徳を慕い飛ぶ   正博

連句会の翌日は貸切バスで観光した。まず午前8時30分から大河ドラマ館に入館。人気があるので、朝一番の予約になったという。ここで大河ドラマのセットや衣装、映像などを体験。その後、鶴ヶ城、会津酒造歴史館などを回る。作家の早乙女貢は毎年の会津まつりには必ずやって来て、西郷頼母に扮していたという。
午後は日新館へ。
会津藩の藩校・日新館は司馬遼太郎が『街道を行く』の中で、当時としてはもっとも進んだ学校であったかもしれないと述べたものである。入口を入って正面にある大成殿が湯島聖堂とよく似ている。
天文台のあとからは磐梯山がよく見えた。以前は日新館は閑古鳥が鳴いていたそうだが、大勢の観光客が詰めかけている。やはりドラマの影響は大きい。
水練池に泳ぐ夥しいあめんぼをしばらく見ていた。
日新館のあとは、恵日寺の金堂と資料館を見学。
恵日寺を創建した徳一(とくいつ)については関心をもっていた。
30年以前に勝常寺を訪ねたことがある。勝常寺も徳一の創建した寺である。薬師三尊には迫力があった。京都・奈良の古寺巡礼をひととおり終わったあと地方仏に興味があったのだ。

会津を旅してみて、会津と関西との関係が深いことを知った。
たとえば、会津と京都との関係。
山口昌男の『敗者の精神史』(岩波現代文庫)に山本覚馬のことが出てくる。
「会津の敗者たちの中でひときわ際立っているのは山本覚馬の場合である。維新後、遷都の際、京都の能力ある人士は挙げて東京に移ったあと、京都は人材という点では全く空虚になってしまった。このとき京都を再建し、西欧的近代化に適応するのを助けたのは、外ならぬ敗者の会津藩の生き残り、山本覚馬であった」
私はこの本を鞄に入れて会津へ行ったのだが、会津の立場にしてみれば、逆にこの時期に人材は会津から去ったということになるのだろう。

私が事務局をしている「浪速の芭蕉祭」は大阪天満宮を拠点としており、今回、会津の「兼載忌記念連句会」との交流ができて嬉しかった。7月には郡上八幡で「連句フェスタ宗祇水」が開催され、こちらにも出席したいと思っている。
心敬・宗祇・兼載などの連歌は短詩型文学の遺産である。そこには俳句の取り合わせや川柳の詩的飛躍の遠源をなすLinked Poetry(付合文芸)の精神がある。

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