2013年2月15日金曜日

市井に生きるふりをする ― 樋口由紀子の川柳

「豈」54号が1月末に発行された。
新鋭作家招待のコーナーに御中虫・冨田拓也・西村麒麟の三人の俳句が並び、特集「加藤郁乎は是か非か」「『新撰21』世代による戦後生まれ作家10人論」など、読みどころはいろいろあるが、今回は樋口由紀子の川柳を取り上げてみたい。

鯵の干物をうなづきながら焼いている

以前は干物というものが好きでも嫌いでもなかったが、このごろ干物の美味に気づくようになった。鯵の干物などは脂がのっていて、本当においしい。まず、皮の方を焼いてから、裏返して反対側を焼くのがいいらしい。お酒もご飯も進む。
この句の作中主体は鯵の干物をうなづきながら焼いている。何度もうなづいているのだろう。でも、それは干物の焼き加減がうまくいったからとは限らない。何か別のことを考えながらうなづいているのではないだろうか。けれども、周囲の人々から見ると、干物がうまく焼けたからであるようにしか見えない。
干物を焼くというようなことは市井に生きる人間の何げない行為にすぎない。それを何故わざわざ句にする必要があるのだろうか。「ただごと」に見えて「ただごと」ではすまない何かが、たぶんそこにはあるのだろう。

林檎ジャムになろうと焦る人も居て

焦るのはなろうとしてもなれないからだろう。
林檎ジャムは「食べる」もので「なる」ものじゃないという常識は無効にされている。
「林檎ジャム」は何かのメタファーであって、そこに意味を代入する読み方も無効である。
この人は本当に焦っているのである。
私たちの周囲を眺めてみると、「林檎ジャム」だけではなくていろいろなものになろうと焦っている人がいる。「なれるもの」と「なりたい」ものが食い違う。林檎ジャムは私と無関係なままである。

忠魂碑ならすぐそこにあるのでは

戦前に建てられた忠魂碑というもの。現在ではあまり目立たない存在だが、注意して見ると神社や公園の隅に建っていたりする。気づかないかもしれないけれど、ほらすぐそこにありますよ、というのだ。
この言葉を誰が言っているかによって意味は異なってくる。「~あるのでは」という表現には批評的なもの言いが感じとれる。異物としての存在が不意に現実味を帯びてくる時代である。

陸橋から犬の真似して犬が来る

陸橋から犬がやって来る。犬の真似をして来るのだから、本物の犬ではないのかもしれない。けれども、それはやはり本物の犬なのだ。本当の自分と外から眺められた自分には齟齬があるという感覚。なぜ犬が犬の真似をしなければならないのか。他者を演じるならそれなりの楽しさがあるだろうが、自己を演じるのは退屈なことだろう。けれども、私たちは日常の中で真似をしながら、ふりをしながら、生きていくほかないのである。

時間通りに電車は来ないこの世なり

「振られた女を馬鹿にして、電車も遅れてくるのかよ」と歌ったのは日吉ミミ。
時間通りに来る電車もおもしろみがないが、遅れてくる電車にも腹が立つ。待っているものが来ないというのはよくある話だ。逆に、来なくてもいいのに確実にやってくるものもある。

二センチ押すと五センチ沈む穴である

二センチ押すと二センチ沈むものと思い込んで人は暮らしている。ところが、五センチも沈んだ。そういうとき人は怒るだろうか。それとも笑うだろうか。
では、四センチ押すと十センチ沈むかというと、そうはいかない。全然沈まないこともありそうだ。笑うしかない。

沈丁花になれないものがまといつく

春になると沈丁花の匂いが漂う。好き嫌いはあるかもしれないが、沈丁花なら問題ないのだ。沈丁花になれないものがまとわりついてくる。「それ」は沈丁花の真似をしながら、沈丁花のふりをしながら、沈丁花にはなりきれない何かなのだ。
「そうか君は沈丁花になりたくてもなれないのか」と穏やかに受け止める人もあるだろうし、そんなものにまとわりつかれるのは嫌だと思う人もいるだろう。
「沈丁花にまといつく」という読みもできるが、私は「沈丁花になれないもの」と読んでいる。「なりたいもの」「なれないもの」をかかえながら、市井に生きるふりをして暮らしている人間のイメージを思い浮かべているからだ。

バケツの底を抜く ちょうどいい嵩だ

ちょっと水がたまりすぎたようだ。バケツの底を抜いてみると、ちょうどいい具合になった。けれども、それは見かけだけのことである。底の抜けたバケツには水を入れ続けなければならない。入れ続け、流れ続ける水のバランスで、かろうじてちょうどいい嵩を保っている。
「ちょうどいい嵩」とは、バケツのことではなく、別のことだとも考えられる。とりあえず体内水位は安定したのだが、この場合もそんなふりをしているだけかも知れない。

「俳人の世界を見る目は切れている」と言ったのは攝津幸彦だった。
川柳人の世界を見る目はどうなっているのだろう。
私たちはふつうそれを「川柳眼」と呼んでいる。
樋口由紀子の描く人間の姿は日常を離れないが、ちょっと風変わりなものである。ズレや亀裂が常にあるのだが、その違和そのものにおもしろさがある。この世は別におもしろいものでもない。この世を見る眼がおもしろいのである。

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