新家完司川柳集『平成二十五年』(新葉館出版)が刊行された。
平成になってから、新家完司は五年毎に句集を上梓している。『平成元年』にはじまり、『平成五年』『平成十年』『平成十五年』『平成二十年』と続く。今年で六冊目になる。
駅の名を覚えて忘れ旅続く 完司
いちにちがひらひら東から西へ
芭蕉の旅とはニュアンスが異なるが、川柳人の毎日も旅のようなものかも知れない。各地の句会から句会へと飛びまわっている新家完司の日々はまさに旅である。
おめでとう!などと今年の嘘初め
一年の計元旦に二日酔い
今年もまた一年がはじまり、四季のめぐりとともに川柳人の時間も経過していく。傍らには常に酒がある。
ややこしい男もいるが僕の町
新家完司は島根県東伯耆郡在住、「大山滝句座」の代表。「おおやまだき」ではない、「だいせんだき」である。伯耆大山にある滝で、日本の滝百選にも入っている。全国規模の川柳結社の副主幹もつとめ、フアンが多い。
花の下ぼくは割り箸配る役
目礼に黙礼返し桜散る
生態は知らぬがうまいホタルイカ
タンは塩レバーはタレと決めている
花見の句と食べ物の句を抽出。食べ物の句が多いのは、酒のあてになるからだろう。
かんにんなニホンカワウソかんにんな
いい名前つけてもらった黄金虫
鯨捕る村に鯨の墓がある
絶滅したニホンカワウソ。今でもときどき目撃情報が流れるが、イタチやテンの見まちがえらしい。「かんにんな、かんにんな」とあやまる。
手始めに電信柱蹴り上げる
胡麻粒と芥子粒いがみ合っている
人はいつも笑って生きていられるわけではない。物事がうまくいかないときもあれば、むしゃくしゃするときもある。
折れそうなこころに酒という支柱
そういうときに支えになるのはやはり酒である。酒におぼれたり、アル中になったりするのは困るが、酒を楽しみ陽気になるのは悪くない。しかし、呑み過ぎると、「一年に一度はベッドから落ちる」ということになる。
夏がくるたびにカヌーが欲しくなる
原爆の熱さはこんなものじゃない
僕の家ばかり集まる秋の蠅
飛んでいる形でトンボ死んでいる
いつのまにか夏がきて、いつのまにか秋になっている。人生も秋ごろになると「死」が意識される。
おもしろい空だいろいろ降ってくる
ごはんですようと鎖が手繰られる
雨とか雪とか、空からはいろいろなものが形を変えて降ってくるのである。
飯を食うということ、その背後にひょっとして鎖につながれた人の姿が浮かび上がってこないだろうか。
川柳のために東奔西走する新家完司の日々については、彼のブログをご覧いただきたい。
新家完司の川柳ブログ http://shinyokan.ne.jp/senryu-blogs/kanji/
「川柳木馬」第134・135合併号が届いた。
「作家群像」は「くんじろう篇」である。
ベランダのスーパーマンが乾かない くんじろう
長男は都こんぶなお人柄
朝舟にいて朝舟に放尿する
ペンシルとバニアに分けて日に三度
遠いところでおっさんが暴れている
「作者のことば」で彼は「私の書く川柳は、私の生い立ちや育った環境から吐き出された澱であり排泄物である」と書き、「これらの句をお読みになって体調を崩されても責任の取りようがないので悪しからず」と言い放つ。
作家論として酒井かがり「ほんのターミネーターですが、何か?」と山下和代「くんじろうワールドに遊ぶ」が掲載されている。
酒井かがりはくんじろうを「ターミネーター75」と呼んでいる。「ターミネーター五七五」ではないが、少しその意味が掛けられているかも。大阪にやってきた彼が川柳を書き、ヒットを飛ばし、現在にいたる姿を「ターミネーター降臨」「ターミネーター川柳に出会う」「ターミネーター川柳ヒット街道を邁進する」「ターミネーターはかくもややこしい」「そしてターミネーター闇を見てしまう」の各パラグラフに分けて物語風に描いている。
山下和代はくんじろうの句に七七を付けてみたり、短文を添えて物語を作ってみたりする。川柳は前句付から出発したが、川柳の五七五そのものを前句として読者が付句をつけることだってできるのだ。
くんじろうは2010年の「詩のボクシング」全国チャンピオンでもあるが、彼の川柳と詩はひとつの根から生まれたものだとも言える。彼が自ら言うように、くんじろうの詩は現代詩ではなくて川柳そのものなのだ。
兄ちゃんが盗んだ僕も手伝った
素うどんの姉を殺めに醤油差し
この二句が詩にパラフレーズされたときにどのような作品が生まれるのか。山下和代は前者の句と詩を紹介している。
最後に酒井かがりの文章に戻ろう。酒井は次のように書いている。
「ターミネーター75は川柳をひろめるためにやって来た」
くんじろうの多面的な活動についてご興味のある方は次のホームページをご覧いただきたい。
http://kuunokai.com/
0 件のコメント:
コメントを投稿