2010年10月15日金曜日

『番傘川柳百年史』を読む

2008年10月に『番傘川柳百年史』(編者・番傘川柳本社、製作・創元社)が発行された。1909年(明治42年)に番傘の前身である「関西川柳社」が創立され、そこから数えて百年目の記念事業として出版されたものであった。
西田当百を中心として設立された「関西川柳社」は1913年(大正2年)、「番傘」を創刊し、当百の引退後は岸本水府に受け継がれて、社名も「番傘川柳社」、「番傘川柳本社」と変更された。関西川柳界の「本流」と言うべき、伝統的川柳結社である。
伝統的結社であるだけに、これに飽きたらず批判する川柳人も多い。また、「番傘」の同人の中からも「番傘」の現状に対して批判的言辞を聞くことがあるが、そのような場合にも私は批判者の「番傘」に対する愛着を感じることがある。真に形骸化した結社であれば、無視するか脱退すればよいのである。
『番傘川柳百年史』は資料的な価値が高く、「番傘」の先人たちの川柳観が各ページから立ち上がってくる。伝統川柳(本格川柳)が川柳をどうとらえてきたかが分かって興味深いのである。
今回は、『番傘川柳百年史』に対する2年遅れの書評として、「伝統川柳」の川柳観を検討してみたい。

第1章「関西川柳社から番傘川柳社への歩み」第2章「意気盛んな昭和初期から戦争混迷期」など戦前の番傘の歴史も捨てがたいが、ここでは第3章「戦後の復興から第4運動、水府逝く」以降の戦後川柳史を中心にみていくことにする。そこには現在にも直結する問題があるからだ。

〈短詩型文学のことを書いた本を読めば短歌、俳句のことをいって川柳がその中に入っていない。本屋の棚を見ても短歌、俳句は文学の部にあって、川柳は娯楽趣味の中に置かれている。こういう傾向は戦後特に激しい。これでいいとは思えない〉

昭和29年3月号に掲載された水府の言葉である。この現状認識と危機意識は川柳人全体が共有しなければならないものである。川柳の社会的・文芸上の位置は今でも変っていない。
ここから水府は川柳の第4運動を提唱した。
第4運動とは何か。
第1は田中五呂八・川上日車などの新興川柳運動。
第2は阪井久良伎による古川柳・江戸趣味の称揚。
第3は「川柳」という名称を「寸句」「草詩」にしようと提唱した近藤飴ン坊・高木角恋坊などの提唱。
そして水府の提唱する第4運動は「川柳は娯楽に非ず、文学なり」を骨子とし、川柳に対する世俗の偏見を是正することだという。具体的には、不真面目な柳号、天地人の階級廃止、懸賞の追放である。番傘の主催する川柳大会では賞品は一切出さない。
東野大八は水府の第4運動に胚胎する番傘内部の矛盾を指摘している(『川柳の群像』集英社)。即ち、本格川柳を唱えることで川柳の大衆化を進める一方で、第4運動を展開することで番傘内部の月並川柳を排除しなければならないという二律背反である。確かにそういう面はあったかも知れず、その帰結は水府自身の身にも降りかかってきたのだろうが、それでも「川柳は文学なり」を唱えた水府は偉大であっただろう。ただし、俳句における正岡子規のようにはうまくいかなっかった。水府は川柳の地位向上に努めたが、短詩型文学の中に川柳が確固とした位置を認知されているかと言えば、現在でもこころもとない状況である。

昭和31年7月号掲載の水府の文章「柳界は革新されているか」も心をうつものがある。

〈川柳家は手を握り合っているのであろうか。虎視たんたんの世界を築いているのではあるまいか。少数がバラバラの世界を作っているのではあるまいか。句会をレクリエーションのような気で催しているのではないか。今にしていう未開墾の柳界。本質的にもその機構にも反省の余地充分の柳界。誰がそのままにしてよいというのであろうか〉

水府以後、番傘川柳はどのような軌跡を辿ったであろうか。二代目の主幹となったのが近江砂人である。砂人は「番傘」1971年(昭和46年)1月号で次のような年頭所感を述べている。

〈番傘本社をはじめ、親類の二七会、瓦版の会等が揃って隆盛になっていくのは欣快に堪えない。(中略)我々は主義主張があって、番傘川柳本社を組織しているのである。その一員である以上、我々の川柳上の行動を明らかにせねばならぬ〉

さらに具体的には、同人としてのプライドと自覚、川柳界の前進に努めること、抽象川柳は認めないが新しい表現の川柳は番傘川柳の幅を広げる意味で必要であること、柳社を超えた川柳人の交流を図ること、などを述べているという。
砂人という人は明確な組織論を持つ川柳人であったことが分かる。

ここで近江砂人の川柳観を少し見ておくことにしよう。砂人は『番傘』1975年(昭和50年)7月号で次のように述べている。

〈川柳には、伝統派川柳、詩性川柳、抽象川柳といった流れがある。『番傘』は、今までは伝統派川柳一筋だったが、戦後の社会情勢の細分化に伴う多様化は、我々が経験したことがない社会現象で、詩性川柳も、番傘川柳の中に収容してきた。しかし詩性川柳と隣り合わせに抽象川柳がある。抽象川柳は、全く文字の遊びの感があるし、事実一読理解できない作品が多い〉

詩性川柳までは認めるが抽象川柳は認めないという立場である。ここで問われるのは「詩性川柳」「抽象川柳」の内実であろう。同じ「詩性川柳」の名で呼ばれていても、その中身が全く違っていたりするのはよくある話だ。

番傘本社創立85年を記念して出版された『川柳 その作り方・味わい方』(創元社)という入門書がある。この本では「詩性」について次のように述べられている。この項目を書いているのは亀山恭太である。

〈昔から言われている川柳の三要素「ユーモア」「うがち」「軽み」に、今や「詩性」を加えて四要素にしなければならないと言われたのは平成三年に亡くなられた四国坂出の三木時雨郎さんである。川柳の特徴の一つは「自由」であるから、その幅がどんどん広がり、私たちが川柳を始めた頃には番傘の主流を占めていた「軽み」の句が減って、代わりに今まで川柳とは無縁と思われていた詩情のある句が目立って増加してきた〉

例として挙げられているのは中村冨二の「パチンコ屋オヤあなたにも影がない」である。冨二の作品が伝統派にも受け入れやすいものであったことが分かる。
では、軽みとは何か。同書では次のような句が例に挙げられている。

 ない筈はない抽斗を持って来い   西田当百
 琵琶湖からモロコ一匹釣り上げる  高橋散二

高橋散二は「ハンカチを若草山に二枚しく」などで知られている好作家である。
ついでに、亀山恭太が「難解句」についてどう述べているかを見ておこう。「ひとりよがり(難解句)」の項である。

〈出来上がった句は書き留めてから一度忘れるほど放置し、何日か後で何回も読み直すのがよいと書いた。その際に、「ひとにわかってもらえるかどうか」を考えながら読むことも大切である〉

ひとりよがりで意味のわからない句として次の句が挙げられている。

 美しい誤解にあった水の音
 階段の上から人が落ちてくる
 山襞をたどれば母の膝頭
 変化球投げて幸せ待つ女

どのような句を番傘では難解と読んでいるか、ということがはっきり分かる。これらの句は私の目から見れば難解でも何でもない。「山襞を」などは陳腐なほど分かりやすい伝統的川柳に思える。番傘という結社の「川柳」の幅、許容範囲がよく分かる。

『番傘川柳百年史』に話を戻すと、この本は伝統川柳の川柳観を知る意味でたいへん興味深かった。近江砂人は次のような句を詠んでいる。

 佳句佳吟一読明快いつの世も   砂人

「一読明快」の句しか認めないことが川柳人の読みの力の低下を招き、ひいては川柳作品の低下を招くとしたら、それは砂人の志に反することだろう。

最後に本格川柳の代表的作品として岸本水府の二句を挙げておしまいにしよう。

 洛北の虫一千をきいて寝る      岸本水府
 壁がさみしいから逆立ちをする男

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