2010年10月1日金曜日

俳文と川柳的エッセイ

ブームというほどでもないが、「俳文」というものの存在をアピールする動きが俳句・連句界の一部に広がっている。「俳文」といえば、江戸時代の『鶉衣』などが思い浮かぶが、明治以降はあまり耳にすることがなく、現代ではむしろ英米で盛んに書かれているらしい。俳文顕彰の動きとして管見に入ったのは次の二つである。

「船団」86号では「俳文―俳人たちの散文」を特集している。座談会「俳文の時代がやってくる」では坪内稔典・内田美紗・宮嵜亀が俳文の可能性について語っている。正岡子規以来「写生文」はあったが「俳文」というものはあまり書かれなかった。「船団」では「俳文の会」という研究会があって、当初は散文だけを書いていたが、文章に俳句を添えた作品も現れるようになったという。
宮嵜は外国人の書いたハイブンについて触れている。ウィリアム・ヒギンソンの『ハイク・ハンドブック』(1985年)にハイク・プローズ(散文)の章があり、ジャパニーズ・ハイブンという言葉が出てくるそうだ。宮嵜は「デタッチメントの態度で文章を書こうというのは米英の人たちにとって案外自然なことで気楽なことなのかもしれません」と言っている。本誌ではK・ジョーンズの「魔法」というハイブンが掲載されている。
坪内が昨年出版した『高三郎と出会った日』(沖積舎)は「俳句と俳文」と銘うたれており、彼が俳文の可能性を意識的に追求していることがわかる。

俳文の顕彰に努めているもうひとつの結社は「其角座」である。今年は其角の生誕350年に当たり、俳文を多く残した其角にちなんで、俳文コンテストが開催された。「其角座」主催の俳文コンテストで日本語部門と英語部門に分かれ、今年は第2回である。授賞式は7月に行われ、「俳文の未来」のテーマのシンポジウムもあった。「俳句界」の10月号にもその紹介が出ている。「今、日本は鎖国状態なのでは」とか「日本の俳文は十年遅れている」とかいう発言が飛び交ったらしい。

以上、俳句における散文の可能性として「俳文」を取り上げたが、ひるがえって川柳における散文はどうだろうか。評論はさておくとして、川柳においても散文やエッセイがもっと書かれてもいいのに、身辺雑記や前号批評に終始して、川柳人の散文はあまり充実していないように思われる。滋味のあふれるエッセイは本来川柳の得意分野ではなかっただろうか。

古い例だが、大正時代の「番傘」に連載された浅井五葉の散文は読者が待ち望むものであった。次に引用するのは、大正15年4月「番傘」の「水府様」という文章で、川柳句会が終ったあと参加者が次々に別れていくところである。引用は田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』による。

〈 夏にしろ冬にしろその心には別段変りはありません。中座の前や明文堂の側を通つて、何だか物足らぬ腹の虫の軽い欲求や、あたまのゆるい旋回を抑へつつ、灘万の前を、やがては戎橋の南詰の四つ角に立つのであります。十人程はこゝで別れねばならぬのであります。佳汀氏は西へ、九郎右衛門町の方へ、私等はどうせ橋筋へ出なければならぬのであります。惜しい別れはどうも致方がありません。ままならぬが浮世のならひであります。これでよいのであります。これを決行せねばならぬのであります。そして川柳だけの友達としてつきあはねばなりません。友達とはいひ条これも真剣なる舞台だと心得たいのであります。川柳では他人たらねばなりません。自分が自分の川柳をよまねばなりませぬ。「さよなら」戎橋では斯う別れて了ひます。あなたがまだ四五人と立つて居られる姿も人も遮ぎられて見えぬやうになります。もう四五間を隔てて私等二三人の南行の者は多少惜しい気もしながら、も一度振り返り、斯うして橋筋の人通りの中に消えて行くのであります。〉

大阪の地名や場所の名がまるで道行のように散りばめられていて、句会のあとの名残り惜しい句友たちの別れの気分が伝わってくる。同時に、川柳の友人たちとの馴れ合い的な付き合いを厳しく戒める文学精神もうかがわれる。五葉は寡黙な人だったらしいが、いったん筆を取ると伸びやかな文章を綴るのであった。代表句として「大仏の鐘杉を抜け杉を抜け」がある。
川柳に関する散文としては、日本の名随筆別巻53『川柳』に収録されている文章や佐藤愛子、時実新子などのエッセイが思い浮かぶ。時実新子は川柳をベースとして、エッセイストとしても成功した唯一の人であろう。
「バックストローク」に連載されている松永千秋の「言葉の波間」は好エッセイであるが、ここではそれとは別に、「草を引く」という文章を引用してみよう。セレクション柳人『松永千秋集』に収録されている、草取りの話である。

〈 次々と目の前の草を抜く。時間のことなどすっかり忘れてしまう。
 ふと気づくと側の欅の梢で鳥が囀っていたりする。
 人間関係のイライラも、今日のオカズの心配も川柳の締切りのことも、何もかも忘れてしまう。少々の頭痛など何所吹く風である。
 草を取るという作業は心を無にしてくれる。〉

草を取るという作業。草によって力の入れ具合を微妙に変えたり、自然の中で無心になれる瞬間は貴重なものである。しかし、松永千秋は次のように書くことも忘れないのである。

〈 ならば、ずっと草さえ取っていれば幸せか、といえば、それはまた別のはなしである。〉

川柳作品が入っていてもいなくても、川柳人が書く文章は俳文や俳人が書く文章とはどこか異なっているだろう。川柳眼によって眺められた世界は、どこか不調和で変容されている。『セレクション柳論』に収録された佐藤みさ子のエッセイ「裁縫箱」には他者との関係性の違和感がはっきりと記されている。

〈 セルロイドの赤い裁縫箱をもらった。花や蝶の模様がついていた。小学三年生の頃だったと思うが、朝礼で一番前になるのが○○さんで、私は二番目に小さかった。やさしい大きな目の○○さんがそれを差し出した時、私はとても困った顔になったと思う。生まれて初めて他人からの贈り物をかかえてとぼとぼ家へ帰った事を覚えている。
 私の裁縫箱は母のお古であった。繭のように白く光ってこんもりとした形だった。材質が何だったかのか今はわからない。紙のようなあたたかな肌ざわりが好きだった。
 それでも明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。その頃友人の多くが赤いセルロイドを持っていたとすれば、私はかわいそうな子に見えたのだろう。私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。○○さんの優しい大きな目を今も忘れることができない。〉

これは全文である。ここには佐藤みさ子という川柳人の見方がはっきりと表現されている。川柳作品の一編を書く場合と同様に、作者の独自の見方がいやおうなく刻印されているのである。

かつて村上春樹はデタッチメントとコミットメントということを言った。それまで村上春樹の文学はデタッチメントの文学だと思われていたのだが、オーム真理教事件を契機として村上文学はコミットメントの文学に変質したのである。
俳文はデタッチメントだろうが、川柳人の文章はデタッチメントではすまされない面がある。それは政治への参画とか社会性などの表層的な意味ではなく、現実や人間との関係性の問題である。現実や日常性への違和感をもとにした屈折した感覚を川柳人はどこかで持っている。おびただしい過去の川柳作品は川柳人の財産である。それを散文と結びつけて、川柳の魅力を伝えていくことは川柳人にしかできない課題だろう。川柳眼に裏打ちされた川柳的エッセイをもっと読んでみたいものだ。

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