先日1月22日に参加した「文学フリマ京都」の感想から述べておこう。
京都ではじめての開催だったが、詩歌部門の参加がやや少なかった印象を受けた。短歌結社では「塔短歌会」がブースを出しており、「同志社短歌」「京大短歌」「神大短歌」「阪大短歌」「立命短歌」などの学生短歌のほか、同人誌では「率」「一角」が出店していた。俳句では「庫内灯」、川柳では「川柳サイドSpiralWave」が出店。全体的に結社より個人出店が多かったようである。京都は第一回目なので様子を見て出店を見合わせている向きもあったのだろうか。
川柳からは「川柳サイドSpiralWave」が唯一の出店と思っていたが、阪本きりりが個人出店していた。当日、京都で「凜」の句会があったので、句会前の午前中に来店する方もあった。合同句集『川柳サイドSpiralWave』に「現代川柳百人一句」を付けたのは、川柳の全体像を俯瞰してほしかったからで、飯島章友が「川柳スープレックス」で取り上げてくれた。本書は葉ね文庫にも置いてもらっているし、5月の「文フリ東京」でも販売する予定である。
当日購入した雑誌のなかでは「率 幕間」の次の短歌が印象に残った。
後ろ手に兎の脚をつかんでる気配のままで立っているのね 平岡直子
後ろ手に何かつかんで立っている人がいる。それが何かは分からないのだが、兎をつかんでいる気配だけが分かる。脚をつかんでいるのだから、死んだ兎を逆さにぶらさげているのだろう。その人の姿勢や構えと同時に、その気配を察する「私」の感覚が詠まれている。隠しているものが例えばナイフなら意味性が強くなる。「背中に隠したナイフの意味を問わないことが友情だろうか」(中島みゆき「友情」)というのは、すでに陳腐な表現である。兎だからいいのだ。
文フリの話題はこれくらいにして、今月送っていただいた句集のなかから、田島健一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)を取り上げたい。
田島の俳句は「豆の木」「オルガン」でときどき読んでいるが、「オルガン」の同人作品の中では田島の句に印象句のチェックを入れることが多かった。物を見る眼と詩的飛躍感が川柳人にも相通じるところがあると思ったのだ。だが、句集一冊を読んで少し印象が変わったのは、句集の背後に一種の世界観のようなものが読み取れたからかもしれない。
いま「句集の時代」が来ている。一句一句の作品ではなくて、句集一冊でひとつの世界を提示する傾向が強くなってきているのだ。
田島の句集には写生の俳句が書かれているわけではなくて、ここにはさまざまなレベルの作品が収録されている。
蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく
風船のうちがわに江戸どしゃぶりの
不純異性交遊白魚おどり食い
胃に森があり花守が泣いている
蟻が蟻越え銀行が痩せてゆく
「蛇衣を脱ぐ」という季語に対して心臓は抜け殻ではなく本体にあるという機知。風船の内側というありえない空間に土砂降りの江戸がある。「不純異性交遊」と「白魚」の取り合わせの距離感。「森」から「花守」につなげる音の連鎖。「蟻」と「銀行」とのメタファーっぽい組合せ。これらのウイットに富んだ表現は川柳フィールドでも別に違和感なく受け取れる。
類型の蜘蛛が忌日の窓に垂れ
架空より来て偶然の海へ蝶
「類型」とか「架空」「偶然」などの抽象語を使うんだなと思った。「蝶」って愛用語なのかな。何句かあった。
月と鉄棒むかしからあるひかり
鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
「ひかり」という語もよく出てくる。芭蕉の「物の見えたるひかり」を連想する。関係ないのかも知れないが。作者の世界観が出てきている。
接吻のまま導かれ蝌蚪の国
見えているものみな鏡なる鯨
接吻しているのは現実の話だが、そのまま別の世界に変容する。見えているものがすべてではなく、それは鏡にうつった鯨なのだという。こういう人が写生句を書くはずがなく、世界が二重に見えているのだろう。一種のイデア論なのかなと思った。現実の鯨を表現しながら鏡の中の鯨をつかまえようとする。つかまえきれないときはまた次の句を書く。そんな精神と言葉のダイナミズムと変容をこの句集から感じた。
句集の序に石寒太は「無意味之真実感合探求/新感覚非日常派真骨頂」と書いている。
2017年1月27日金曜日
2017年1月20日金曜日
文フリ京都をひかえて
来たる1月22日に「文学フリマ京都」が開催される。すでに東京では23回、大阪では4回開催されている文フリだが、京都では初めての開催になる。
川柳人にとって「文フリ」そのものがあまり認知されていない。したがって、川柳から出店するグループもほとんどない。私は今回、「川柳サイド Spiral Wave」の名で出店するが、文フリのカタログには「川柳カード」の名で掲載されている。申し込み時にはその名前だったが、新しく冊子を作ったので、会場のブースでは「川柳サイド Spiral Wave」で表示することになる。川柳にご関心のある方々は目にとめていただければ幸いである。文フリは小説、評論、ノンフィクション、詩歌などのジャンル別に出店される。詩歌の短歌・俳句・川柳のうち、当店は「川柳サイド」からの発信というつもりである。
冊子「川柳サイド Spiral Wave」には、飯島章友・川合大祐・小池正博・榊陽子・兵頭全郎・柳本々々の六人が参加している。それぞれ30句ずつ収録、1ページに3句、ひとり10ページというかたち。一人一句ずつ紹介しておく。
殴ると光るんです蹴ると燃えるんです 柳本々々「そういえば愛している」
税金で明るい暮らしトルメキア 川合大祐「インブリード」
さあ我の虫酸を君に与えよう 榊陽子「ユイイツムニ」
括弧つき無呼吸だから取る括弧 飯島章友「徘徊ソクラテス」
吊るされて一尾一肝ゆるす海 兵頭全郎「天使降る」
肉食であれ草食であれぷよぷよ 小池正博「人体は樹に、樹は人体に」
川合は3句セットの連作で、掲出句は「風の谷のナウシカ」による。先日、テレビで放送されていたのを私も改めて見た。兵頭も3句セットで趣向を凝らしている。会場で手にとってご覧いただきたい。95ページ、定価500円。
この六人の作品のほかに、「現代川柳百人一句」(小池正博・選出)を付けている。一昨年の「川柳フリマ」で紹介したものの改訂版で、葵徳三から渡辺蓮夫まで作者アイウエオ順の配列。現代川柳にどんな作品があるのか全体を見渡すことが困難だという声をよく聞くので、発信の第一歩として選出した。今後、「新興川柳百句」とか「自由律川柳百句」とか、さまざまなテーマで選出してゆきたいと思っている。
川柳にとって文フリはどのような意味をもつだろうか。
瀬戸夏子は角川「短歌」1月号の時評で文フリについて書いていたが、歌人にとって文フリは作品発信の場として一定の役割を果たしているようだ。それに比べて、川柳人にとってこのイベントはほとんど関心をもたれていない。句集・雑誌を売る場としては、川柳の大会や句会に本を持っていった方が効率的だと考えられている。そこに集まるのはすべて川柳人であるからだ。けれども、それでは川柳作品を発信する範囲が極めて限定的なものになってしまう。特に若い世代に対して川柳作品はまったく届いていない。既成の川柳人という限定された読者ではなく、川柳に関心があっても作品に触れる機会がこれまでなかった未知の読者に私たちの作品を読んでほしいと思っている。
今年は「文フリ京都」のほか5月の「文フリ東京」、9月の「文フリ大阪」の三か所に参加する。文フリが川柳発信の場としてどれだけ機能するか分からないが、今後出店する川柳グループが増え、蛸壺型の閉鎖的な川柳界が外部の風に触れる機会となれば幸いである。
昨年末には、私の川柳の師である墨作二郎が亡くなり、現代川柳のひとつの時代が終わった感がある。3月30日には堺市で「墨作二郎を偲ぶ会」が予定されている。作二郎についてはいつか改めて触れることにしたい。
あと、川柳誌「触光」で募集している「第7回高田寄生木賞」の締切が1月31日に迫っている。今回の募集は「川柳に関する論文・エッセイ」である。文芸において実作と評論は車の両輪であるはずなのに、川柳では評論に見るべきものが少ない。この賞は川柳では珍しい評論賞となるので、みなさん応募していただきたい。川柳の活性化につながることと思う。
川柳人にとって「文フリ」そのものがあまり認知されていない。したがって、川柳から出店するグループもほとんどない。私は今回、「川柳サイド Spiral Wave」の名で出店するが、文フリのカタログには「川柳カード」の名で掲載されている。申し込み時にはその名前だったが、新しく冊子を作ったので、会場のブースでは「川柳サイド Spiral Wave」で表示することになる。川柳にご関心のある方々は目にとめていただければ幸いである。文フリは小説、評論、ノンフィクション、詩歌などのジャンル別に出店される。詩歌の短歌・俳句・川柳のうち、当店は「川柳サイド」からの発信というつもりである。
冊子「川柳サイド Spiral Wave」には、飯島章友・川合大祐・小池正博・榊陽子・兵頭全郎・柳本々々の六人が参加している。それぞれ30句ずつ収録、1ページに3句、ひとり10ページというかたち。一人一句ずつ紹介しておく。
殴ると光るんです蹴ると燃えるんです 柳本々々「そういえば愛している」
税金で明るい暮らしトルメキア 川合大祐「インブリード」
さあ我の虫酸を君に与えよう 榊陽子「ユイイツムニ」
括弧つき無呼吸だから取る括弧 飯島章友「徘徊ソクラテス」
吊るされて一尾一肝ゆるす海 兵頭全郎「天使降る」
肉食であれ草食であれぷよぷよ 小池正博「人体は樹に、樹は人体に」
川合は3句セットの連作で、掲出句は「風の谷のナウシカ」による。先日、テレビで放送されていたのを私も改めて見た。兵頭も3句セットで趣向を凝らしている。会場で手にとってご覧いただきたい。95ページ、定価500円。
この六人の作品のほかに、「現代川柳百人一句」(小池正博・選出)を付けている。一昨年の「川柳フリマ」で紹介したものの改訂版で、葵徳三から渡辺蓮夫まで作者アイウエオ順の配列。現代川柳にどんな作品があるのか全体を見渡すことが困難だという声をよく聞くので、発信の第一歩として選出した。今後、「新興川柳百句」とか「自由律川柳百句」とか、さまざまなテーマで選出してゆきたいと思っている。
川柳にとって文フリはどのような意味をもつだろうか。
瀬戸夏子は角川「短歌」1月号の時評で文フリについて書いていたが、歌人にとって文フリは作品発信の場として一定の役割を果たしているようだ。それに比べて、川柳人にとってこのイベントはほとんど関心をもたれていない。句集・雑誌を売る場としては、川柳の大会や句会に本を持っていった方が効率的だと考えられている。そこに集まるのはすべて川柳人であるからだ。けれども、それでは川柳作品を発信する範囲が極めて限定的なものになってしまう。特に若い世代に対して川柳作品はまったく届いていない。既成の川柳人という限定された読者ではなく、川柳に関心があっても作品に触れる機会がこれまでなかった未知の読者に私たちの作品を読んでほしいと思っている。
今年は「文フリ京都」のほか5月の「文フリ東京」、9月の「文フリ大阪」の三か所に参加する。文フリが川柳発信の場としてどれだけ機能するか分からないが、今後出店する川柳グループが増え、蛸壺型の閉鎖的な川柳界が外部の風に触れる機会となれば幸いである。
昨年末には、私の川柳の師である墨作二郎が亡くなり、現代川柳のひとつの時代が終わった感がある。3月30日には堺市で「墨作二郎を偲ぶ会」が予定されている。作二郎についてはいつか改めて触れることにしたい。
あと、川柳誌「触光」で募集している「第7回高田寄生木賞」の締切が1月31日に迫っている。今回の募集は「川柳に関する論文・エッセイ」である。文芸において実作と評論は車の両輪であるはずなのに、川柳では評論に見るべきものが少ない。この賞は川柳では珍しい評論賞となるので、みなさん応募していただきたい。川柳の活性化につながることと思う。
2017年1月13日金曜日
ちぐはぐに時は流れて‐俳誌・川柳誌逍遥
今年は年賀状も書けないまま、松の内が終わろうとしている。年末年始、俳句・川柳の句集や雑誌を送っていただいたので、いくつか紹介しておきたい。
高橋龍句控『名都借』(発行・高橋人形舎)。名都借は「なづかり」と読むそうだ。著者の生地、千葉県流山市の字名である。
ちぐはぐに時は流れてうめの花 高橋龍
韃靼へ手妻の蝶も渡り行く
源氏名は夕顔雀蛾(来てね)
鶺鴒に超絶技巧をそはりぬ
鳶去るをAmbarvald忌といへり
三句目の「蛾」には「ひとりむし」、四句目の「超絶技巧」には「ハイテクニック」のルビがふられている。「あとがき」に曰く。
「当初、俳句も詩であると思い、その後、俳句は詩であると思ってきたが、最近は、詩であるにしても随分とひねくれた詩であると思うようになった」
「俳諧については、まだわからないが、子規以降のいわゆる現代俳句が俳諧とともに諧謔までも捨ててしまったのは惜しいことだと思うようになった。そして徐々にわたしを諧謔に近付けてくれたのは西脇順三郎先生である」
ここでいう「俳諧」とは言うまでもなく「連句」のことである。
年末に関西の若手俳人の受け皿として「奎」が創刊された。「奎」(けい)は天球二十八宿の一つで、文芸開始の吉兆とされる。代表・小池康生、編集長・仮屋賢一、副編集長・野住朋可。12月に発行された「奎」0号は創刊準備号ということになるだろうか。小池康生が「創刊の言葉」を書いている。
「関西の若手とともに、俳句雑誌『奎』を立ち上げることになりました。
以前から関西に若手の受け皿がないとの声を聞き、それは漠然としたつぶやきなのか、わたしに向けた声なのか判断に迷いつつ、身近な若者の声とあらば、気になるところでもありました」
「俳句は運動です。互いに刺激しあいコミュニティとしてのうねりが個々の意欲や作品を高める未来を想像し、外への発信を含めての運動をはじめることにしました。小さくスタートを切り、さらなる仲間との出会いを待ちつつゼロ号を発行します」
障子貼る鳥の声のみ通すやう 小池康生
白状せよ懸崖菊を見てゐたと 仮屋賢一
おはやうの代はりに餅の数を問ふ 野住朋可
野住による葉ね文庫の探訪記が掲載されている。第一号が楽しみだ。
「里」1月号、特集は瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』、北大路翼の書評のほか10人が一句鑑賞。
あと、「この人を読みたい」という企画では、天宮風牙が西川火尖を取り上げている。
向日葵に人間のこと全部話す 西川火尖
薄羽蜉蝣エウロパへ行きたさう
山茶花の蕊を言葉の名残とす
最後に川柳も取り上げておきたい。
「川柳杜人」252号から。
枕並べて寝ている人は誰だろう 佐藤みさ子
隣で寝ているのは家族か恋人に決まっているはずだが、その人がふと理解できない人間に変貌することがある。
必要があって夏目漱石の『こころ』を読み直しているが、主人公の「私」とKは親友で理解していたはずなのに、「私」には不意に彼のことが分からなくなる瞬間が訪れる。漱石はこんなふうに書いている。
「私には第一に彼が解しがたい男のようにみえました。どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募ってきたのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか。すべて私には解しにくい問題でした」
変貌はKの恋を契機として起こったのだが、二人は襖を隔てて隣室にいる。その襖はいつまでたっても開くことがないのである。
隣室ではなくて、同じ部屋で寝ている人が誰だか解らないというのは、いっそうコワイ状況だろう。よく知っている人のはずなのに、誰だか思い出せないとしたら、恐怖は一層つのってゆく。
「川柳杜人」は今年創刊70周年を迎える。11月4日に仙台で記念句会が開催されるようだ。
高橋龍句控『名都借』(発行・高橋人形舎)。名都借は「なづかり」と読むそうだ。著者の生地、千葉県流山市の字名である。
ちぐはぐに時は流れてうめの花 高橋龍
韃靼へ手妻の蝶も渡り行く
源氏名は夕顔雀蛾(来てね)
鶺鴒に超絶技巧をそはりぬ
鳶去るをAmbarvald忌といへり
三句目の「蛾」には「ひとりむし」、四句目の「超絶技巧」には「ハイテクニック」のルビがふられている。「あとがき」に曰く。
「当初、俳句も詩であると思い、その後、俳句は詩であると思ってきたが、最近は、詩であるにしても随分とひねくれた詩であると思うようになった」
「俳諧については、まだわからないが、子規以降のいわゆる現代俳句が俳諧とともに諧謔までも捨ててしまったのは惜しいことだと思うようになった。そして徐々にわたしを諧謔に近付けてくれたのは西脇順三郎先生である」
ここでいう「俳諧」とは言うまでもなく「連句」のことである。
年末に関西の若手俳人の受け皿として「奎」が創刊された。「奎」(けい)は天球二十八宿の一つで、文芸開始の吉兆とされる。代表・小池康生、編集長・仮屋賢一、副編集長・野住朋可。12月に発行された「奎」0号は創刊準備号ということになるだろうか。小池康生が「創刊の言葉」を書いている。
「関西の若手とともに、俳句雑誌『奎』を立ち上げることになりました。
以前から関西に若手の受け皿がないとの声を聞き、それは漠然としたつぶやきなのか、わたしに向けた声なのか判断に迷いつつ、身近な若者の声とあらば、気になるところでもありました」
「俳句は運動です。互いに刺激しあいコミュニティとしてのうねりが個々の意欲や作品を高める未来を想像し、外への発信を含めての運動をはじめることにしました。小さくスタートを切り、さらなる仲間との出会いを待ちつつゼロ号を発行します」
障子貼る鳥の声のみ通すやう 小池康生
白状せよ懸崖菊を見てゐたと 仮屋賢一
おはやうの代はりに餅の数を問ふ 野住朋可
野住による葉ね文庫の探訪記が掲載されている。第一号が楽しみだ。
「里」1月号、特集は瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』、北大路翼の書評のほか10人が一句鑑賞。
あと、「この人を読みたい」という企画では、天宮風牙が西川火尖を取り上げている。
向日葵に人間のこと全部話す 西川火尖
薄羽蜉蝣エウロパへ行きたさう
山茶花の蕊を言葉の名残とす
最後に川柳も取り上げておきたい。
「川柳杜人」252号から。
枕並べて寝ている人は誰だろう 佐藤みさ子
隣で寝ているのは家族か恋人に決まっているはずだが、その人がふと理解できない人間に変貌することがある。
必要があって夏目漱石の『こころ』を読み直しているが、主人公の「私」とKは親友で理解していたはずなのに、「私」には不意に彼のことが分からなくなる瞬間が訪れる。漱石はこんなふうに書いている。
「私には第一に彼が解しがたい男のようにみえました。どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募ってきたのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか。すべて私には解しにくい問題でした」
変貌はKの恋を契機として起こったのだが、二人は襖を隔てて隣室にいる。その襖はいつまでたっても開くことがないのである。
隣室ではなくて、同じ部屋で寝ている人が誰だか解らないというのは、いっそうコワイ状況だろう。よく知っている人のはずなのに、誰だか思い出せないとしたら、恐怖は一層つのってゆく。
「川柳杜人」は今年創刊70周年を迎える。11月4日に仙台で記念句会が開催されるようだ。
2017年1月6日金曜日
八上桐子の世界 ―「凜」68号
京都から出ている川柳誌「凜」68号の巻頭言に、発行人・桑原伸吉が「川柳平安」について書いている。
「かつて京都に存在した『川柳平安』誌の二十年は、川柳界に確かな足跡を残してきたが、そういえば良くも悪くも〈平安調〉なる言葉はそこから生まれた。足腰の定かでなかった私などは難解作品に四苦八苦、作家のもつ川柳観に振り回されていたのも思えば懐かしい」
戦前の京都には京都川柳社があって「京」という川柳誌を発行していたらしい。40年続いた京都川柳社を発展的解消して、1957年京都川柳界の大同団結をはかったのが「平安川柳社」。機関誌「平安」は20年続いたあと、1977年に突然解散する。その後、「京かがみ」(福永清造・伊藤入仙など)、「都大路」(田中秀果・西沢青二など)、「新京都」(北川絢一郎など)の三誌が誕生した。北川絢一郎の逝去にともない、「新京都」は終刊、「川柳黎明」と「凜」ができた。「黎明」は昨年解散。一方、「都大路」にいた筒井祥文は「川柳倶楽部%」を立ち上げ、現在の「ふらすこてん」へと続いてゆく。「都大路」は終刊したあと、後継誌として「草原」が発行されている。
以上、変転する京都川柳界の歴史をたどったが、そのなかで大きな存在だったのが北川絢一郎である。いま手元に北川絢一郎句集『泰山木』(1995年)があるので、何句か抜き出してみよう。
百冊の本をまたいでなお飢えに 北川絢一郎
庶民かな同心円をぬけられぬ
どの糸からもマリオネットは血を貰う
草いきれ一揆の性をもっている
川の向こうの影がときどき討ちにくる
灯を消せばきっと溺れるさかなたち
さて、「凜」68号に話を戻すと、今号には招待作品として兵頭全郎と八上桐子の川柳作品がそれぞれ16句ずつ掲載されている。ここでは八上桐子の方を取り上げることにする。
八上桐子といえば、昨年、葉ね文庫の壁に飾られた「有馬湯女」が評判になった。ハリガネ画の升田学とのコラボであるが、八上の句はこんなふうに書かれていた。
ね、雨もお湯の匂いがするでしょう
するでしょうあふれる水も息継ぎを
息継ぎを惜しんで呼べば鳥の頸
鳥の頸ちいさい橋を渡るとき
渡るとき縦に伸縮する時間 (後略)
今回の「凜」の作品は「その岬の、春の」というタイトルだが、「水」の世界を基調とし、キイ・イメージにも「有馬湯女」と共通するところが多い。
青がまた深まる画素の粗い海
ぬれてかわいてぬれてかわいて岬まで
舟底のカーブなつかしい口もと
海でありながら、デジタルの海が重ねあわされている。
画素が粗いと美しい像にならないはずだが、そのぶん見る者の想像力を刺激して色が深まるのかもしれない。
風景というものが人間の身体と重ねあわされていて、たとえば舟の曲線と誰かの口元の曲線が連想で結びついている。
てのひらにあまりにあっけなく消えて
一体を棄てるかすかな水の音
うっとりとひとりの泡を聴いている
八上は風景にうっすらと人情を重ねあわせながら、抒情的な世界を構築している。
ここには書かずに省略されているものがある。氷山の水面に出ている部分はわずかであって、水面下には見えない実体が潜んでいる。それは、あるいは喪失感であったり孤独であったり人間の実存であったりするのだろうが、八上はそれを直接表現しようとはしない。人間のドロドロした思いをつかみだして明るみに見せるやり方ではないのだ。
かつて私は人間がひとりも出てこない川柳を夢想したことがあった。あまりにも人間臭の濃い従来の川柳作品に辟易したからだ。
人間の匂いを消しながら、しかし川柳が人間を詠むとすれば、八上のような書き方はひとつの方向性かもしれない。
くるうほど凪いで一枚のガラス
「くるうほど凪いで」というのは矛盾する表現である。静かな風景の底には凶暴なものが隠されている。二律背反的なのだ。
ノイズは美しい水の世界から少しだけ姿をのぞかせている。
ノイズそのものをもっと直接的に書く川柳というものはありうるだろうし、読者によってはもっと力闘的な人間関係や現実を読みたいと思う向きもあるだろうが、そういう激化・劇化から少し距離を置いたところで作品が書かれている。「一体を棄てるかすかな水の音」というのは何を棄てたのだろう。これらの作品は微妙なバランスのうえに成り立っている。八上桐子の現在位置だろう。
「かつて京都に存在した『川柳平安』誌の二十年は、川柳界に確かな足跡を残してきたが、そういえば良くも悪くも〈平安調〉なる言葉はそこから生まれた。足腰の定かでなかった私などは難解作品に四苦八苦、作家のもつ川柳観に振り回されていたのも思えば懐かしい」
戦前の京都には京都川柳社があって「京」という川柳誌を発行していたらしい。40年続いた京都川柳社を発展的解消して、1957年京都川柳界の大同団結をはかったのが「平安川柳社」。機関誌「平安」は20年続いたあと、1977年に突然解散する。その後、「京かがみ」(福永清造・伊藤入仙など)、「都大路」(田中秀果・西沢青二など)、「新京都」(北川絢一郎など)の三誌が誕生した。北川絢一郎の逝去にともない、「新京都」は終刊、「川柳黎明」と「凜」ができた。「黎明」は昨年解散。一方、「都大路」にいた筒井祥文は「川柳倶楽部%」を立ち上げ、現在の「ふらすこてん」へと続いてゆく。「都大路」は終刊したあと、後継誌として「草原」が発行されている。
以上、変転する京都川柳界の歴史をたどったが、そのなかで大きな存在だったのが北川絢一郎である。いま手元に北川絢一郎句集『泰山木』(1995年)があるので、何句か抜き出してみよう。
百冊の本をまたいでなお飢えに 北川絢一郎
庶民かな同心円をぬけられぬ
どの糸からもマリオネットは血を貰う
草いきれ一揆の性をもっている
川の向こうの影がときどき討ちにくる
灯を消せばきっと溺れるさかなたち
さて、「凜」68号に話を戻すと、今号には招待作品として兵頭全郎と八上桐子の川柳作品がそれぞれ16句ずつ掲載されている。ここでは八上桐子の方を取り上げることにする。
八上桐子といえば、昨年、葉ね文庫の壁に飾られた「有馬湯女」が評判になった。ハリガネ画の升田学とのコラボであるが、八上の句はこんなふうに書かれていた。
ね、雨もお湯の匂いがするでしょう
するでしょうあふれる水も息継ぎを
息継ぎを惜しんで呼べば鳥の頸
鳥の頸ちいさい橋を渡るとき
渡るとき縦に伸縮する時間 (後略)
今回の「凜」の作品は「その岬の、春の」というタイトルだが、「水」の世界を基調とし、キイ・イメージにも「有馬湯女」と共通するところが多い。
青がまた深まる画素の粗い海
ぬれてかわいてぬれてかわいて岬まで
舟底のカーブなつかしい口もと
海でありながら、デジタルの海が重ねあわされている。
画素が粗いと美しい像にならないはずだが、そのぶん見る者の想像力を刺激して色が深まるのかもしれない。
風景というものが人間の身体と重ねあわされていて、たとえば舟の曲線と誰かの口元の曲線が連想で結びついている。
てのひらにあまりにあっけなく消えて
一体を棄てるかすかな水の音
うっとりとひとりの泡を聴いている
八上は風景にうっすらと人情を重ねあわせながら、抒情的な世界を構築している。
ここには書かずに省略されているものがある。氷山の水面に出ている部分はわずかであって、水面下には見えない実体が潜んでいる。それは、あるいは喪失感であったり孤独であったり人間の実存であったりするのだろうが、八上はそれを直接表現しようとはしない。人間のドロドロした思いをつかみだして明るみに見せるやり方ではないのだ。
かつて私は人間がひとりも出てこない川柳を夢想したことがあった。あまりにも人間臭の濃い従来の川柳作品に辟易したからだ。
人間の匂いを消しながら、しかし川柳が人間を詠むとすれば、八上のような書き方はひとつの方向性かもしれない。
くるうほど凪いで一枚のガラス
「くるうほど凪いで」というのは矛盾する表現である。静かな風景の底には凶暴なものが隠されている。二律背反的なのだ。
ノイズは美しい水の世界から少しだけ姿をのぞかせている。
ノイズそのものをもっと直接的に書く川柳というものはありうるだろうし、読者によってはもっと力闘的な人間関係や現実を読みたいと思う向きもあるだろうが、そういう激化・劇化から少し距離を置いたところで作品が書かれている。「一体を棄てるかすかな水の音」というのは何を棄てたのだろう。これらの作品は微妙なバランスのうえに成り立っている。八上桐子の現在位置だろう。
2016年12月23日金曜日
現代川柳 展望2016年
「現代詩手帖」12月号は「現代詩年鑑2017」となっていて、今年一年を振り返る内容である。短詩型文学については、野口あや子が「変化と欲望の先にあるもの」(短歌展望2016)を、田島健一が「〈他者〉は忙しい」(俳句展望2016)を書いている。
野口は「新鋭短歌シリーズ」などの歌集出版ラッシュに触れながら、短歌の流通の問題を取り上げているようだ。自己表現と流通の関係は微妙だ。流通することで作品は従来の短歌作品の内実とは変質してゆく部分が生じる。作品と商品の関係は従来からも言われてきたことだろう。
田島は俳句のシステムの問題を取り上げているように思われる。俳句甲子園や各種の俳句賞、結社、師弟関係などに触れながら、「他者の承認を受けて立っている作品」と「自律的に立とうとする作品」の区別を問う。それが区別できるかどうかは別として、俳句では作品が作られ人口に膾炙してゆくシステムが重要なのだろう。
では、川柳ではどうか。川柳作品は流通もしないし、作品が一般に普及するシステムも整備されていない。「無名性の文芸」「蕩尽の文芸」であり、そこが川柳の魅力でもあると強がって見せておきたいが、今年、川柳の世界でどのようなことがあったのかを極私的にでも振りかえっておく必要はあるだろう。
まず、今年1月~3月に出た『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)全三巻は大きな出来事だった。現代川柳作品のアンソロジーは、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)以後、これといったものがなく、『現代川柳必携』『新現代川柳必携』(三省堂)なども一種のアンソロジーと言えるかもしれないが、句数が多すぎて読者にとっては散漫になる。『大人になるまで~』は短歌・俳句・川柳の三ジャンルが等価に扱われており、鑑賞文も付いているので読みやすい。たとえば、次のような作品が見開き両ページに並んでいるのは刺激的である。
ドラえもんの青を探しにゆきませんか 石田柊馬
君はセカイの外へ帰省し無色の街 福田若之
墓地を出て、一つの音楽へ帰る 中村冨二
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい 岡野大嗣
院長があかん言うてる独逸語で 須崎豆秋
アンソロジーだけではなく、単独の川柳句集の発行も盛んになってきた。
兵頭全郎句集『n≠0』、川合大祐句集『スローリバー』、岩田多佳子句集『ステンレスの木』など注目すべき句集が発行されている。
付箋を貼ると雲は雲でない 兵頭全郎
(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい) 川合大祐
寝ている水に声を掛けてはいけません 岩田多佳子
半世紀ほど前、山村祐は「句集は墓碑銘ではない」と書いていた。
川柳句集とはひとりの川柳人が生涯に一冊出すもの、という感覚の時代があったのである。
そのことがある意味で川柳の普及を妨げていたところがある。読者層が限定されてしまい、川柳界の外部に広がっていかないからだ。
たとえばミュージシャンはCDを出すことによってデビューする。CDを出さずに、コンサートだけで勝負しているミュージシャンもいるかもしれないが、レコードやCDを出すのは自分の作品を世に問うということなのだ。仲間や友人にだけ作品を披露するのでは世界が広がらない。
かつて石田柊馬は「川柳は読みの時代に入った」と言った。その後しばらくして、私は「読みの時代の次には何が来るでしょうか」と柊馬に訊いたことがある。彼は「句集の時代」と答えたが、それが今や現実になりつつある。
今年は尾藤三柳という現代川柳を牽引してきた大きな存在が亡くなり、ひとつの時代の終焉という感を深くする。終焉は次の時代のはじまりでもあるのだ。
次回は1月6日に更新します。みなさま、よいお年をお迎えください。
野口は「新鋭短歌シリーズ」などの歌集出版ラッシュに触れながら、短歌の流通の問題を取り上げているようだ。自己表現と流通の関係は微妙だ。流通することで作品は従来の短歌作品の内実とは変質してゆく部分が生じる。作品と商品の関係は従来からも言われてきたことだろう。
田島は俳句のシステムの問題を取り上げているように思われる。俳句甲子園や各種の俳句賞、結社、師弟関係などに触れながら、「他者の承認を受けて立っている作品」と「自律的に立とうとする作品」の区別を問う。それが区別できるかどうかは別として、俳句では作品が作られ人口に膾炙してゆくシステムが重要なのだろう。
では、川柳ではどうか。川柳作品は流通もしないし、作品が一般に普及するシステムも整備されていない。「無名性の文芸」「蕩尽の文芸」であり、そこが川柳の魅力でもあると強がって見せておきたいが、今年、川柳の世界でどのようなことがあったのかを極私的にでも振りかえっておく必要はあるだろう。
まず、今年1月~3月に出た『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)全三巻は大きな出来事だった。現代川柳作品のアンソロジーは、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)以後、これといったものがなく、『現代川柳必携』『新現代川柳必携』(三省堂)なども一種のアンソロジーと言えるかもしれないが、句数が多すぎて読者にとっては散漫になる。『大人になるまで~』は短歌・俳句・川柳の三ジャンルが等価に扱われており、鑑賞文も付いているので読みやすい。たとえば、次のような作品が見開き両ページに並んでいるのは刺激的である。
ドラえもんの青を探しにゆきませんか 石田柊馬
君はセカイの外へ帰省し無色の街 福田若之
墓地を出て、一つの音楽へ帰る 中村冨二
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい 岡野大嗣
院長があかん言うてる独逸語で 須崎豆秋
アンソロジーだけではなく、単独の川柳句集の発行も盛んになってきた。
兵頭全郎句集『n≠0』、川合大祐句集『スローリバー』、岩田多佳子句集『ステンレスの木』など注目すべき句集が発行されている。
付箋を貼ると雲は雲でない 兵頭全郎
(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい) 川合大祐
寝ている水に声を掛けてはいけません 岩田多佳子
半世紀ほど前、山村祐は「句集は墓碑銘ではない」と書いていた。
川柳句集とはひとりの川柳人が生涯に一冊出すもの、という感覚の時代があったのである。
そのことがある意味で川柳の普及を妨げていたところがある。読者層が限定されてしまい、川柳界の外部に広がっていかないからだ。
たとえばミュージシャンはCDを出すことによってデビューする。CDを出さずに、コンサートだけで勝負しているミュージシャンもいるかもしれないが、レコードやCDを出すのは自分の作品を世に問うということなのだ。仲間や友人にだけ作品を披露するのでは世界が広がらない。
かつて石田柊馬は「川柳は読みの時代に入った」と言った。その後しばらくして、私は「読みの時代の次には何が来るでしょうか」と柊馬に訊いたことがある。彼は「句集の時代」と答えたが、それが今や現実になりつつある。
今年は尾藤三柳という現代川柳を牽引してきた大きな存在が亡くなり、ひとつの時代の終焉という感を深くする。終焉は次の時代のはじまりでもあるのだ。
次回は1月6日に更新します。みなさま、よいお年をお迎えください。
2016年12月9日金曜日
現代川柳 北から南から―「触光」と「裸木」
青森で発行されている川柳誌「触光」(編集発行・野沢省悟)が50号を迎えた。年5回発行だから10年ということになる。
高田寄生木が「『触光』50号オメデトウ」という文章を書いていて、「触光」創刊号の野沢省悟の言葉を引用している。野沢はこんなふうに書いている。
「―川柳を何故つづけるのか?それは〈川柳が好きである〉との一言で言おうとすれば言えるが、単にそれだけで川柳をつづけているのではないと思う。客観的にみるならば、川柳をつづけることは〈のっぴきならないことであるのだ〉」
野沢のいう〈のっぴきならないこと〉に促されて、「触光」は10年続いてきた。「触光」以前にも彼は「双眸」や「雪灯」を出している。
巻末に「触光500号記念・触光推奨作品集」が掲載されている。創刊号から49号までの490句が掲載されていて興味深い。その中から次の15句を選んでみた。
牛の耳ピクリ軍靴か竜巻か 木暮健一
ともかくも一人は減った独裁者 瀧音末男
手は母を殺めてないが高瀬舟 大塚ただし
水面にローレライ水底にガンジー 濱山哲也
魍魎の匣を開ければ偽偽偽偽 中山恵子
この国で歳をとってはいけません 濱山哲也
記憶かくにん指はかまれた金魚は噛んだ 宮本夢実
買って飲む水を文化と思い込む 瀧 正治
おりづるのいきたえだえのかぞえうた 高田寄生木
口パクの君が代のあとワンコそば 渡辺隆夫
かぐや姫優待券を隠し持つ 鈴木修子
にんげんを食べる診察券だろう 勝又明城
ジュラ紀ではぼくたちだって飛んだ空 落合魯忠
くろやぎさんをきづかうためのいくさです 柳本々々
図書館は濡れないように立っている 猫田千恵子
「時事川柳」のコーナーでは渡辺隆夫から高瀬霜石に選者が交替、「誌上句会」では次号から広瀬ちえみから芳賀博子へ選者がかわるということだ。
また、「触光」では「第7回高田寄生木賞」として「川柳に関する論文・エッセイ」を募集している。評論・作家論賞というのは川柳界では稀有のことである。締切は2017年1月31日、4000字以内。川柳論を書いてみようという方々は応募してみてはいかがだろう。
熊本の川柳誌「裸木」(らぎ)は、いわさき楊子によって編集・発行されている。11月末に4号が出た。いわさきのほか、同人は上村千寿(熊本)・川合大祐(伊那)・北村あじさい(熊本)・久保山藍夏(福岡)・阪本ちえこ(熊本)・樹萄らき(伊那)というメンバーである。「くまもとメール川柳倶楽部」が発展してできた川柳誌。同じ地域にいなくても、メールによって全国の川柳人とつながることができる。同人作品のご紹介。
ムササビ飛んだビートはイイかんじ 樹萄らき
モルフォチョウの裏側の方で待っている 久保山藍夏
鎌でしょうカマキリでしょう嘘でしょう 阪本ちえこ
砂を吐く貝はクリーンになったのか 北村あじさい
体内のフィラデルフィアとカトマンズ いわさき楊子
卵産むところ探して陽が落ちる 上村千尋
強大な堀北真希が降りて来る 川合大祐
「くまもとメール倶楽部」は今年の春で100回を超えたそうだ。「裸木」に参加していない部員の句も紹介しておく。
褒められました腹がたちました 柴田美都
箱売りの小鰯 抵抗の重さ 竹内美千代
順番がきましたさてと行きますか 猫田千恵子
耐性をウイルス並みにつけてやる 徳丸浩二
いわさき楊子は「後記」にこんなふうに書いている。
「揺れ以来、何ごとにもゆるくなった判断(いいんじゃない)で今年も発行することができた。つづけるという束縛からは離れてそのつど考えることにする」
野沢省悟のいう「のっぴきならないこと」といわさき楊子のいう「そのつど考える」。それぞれの川柳誌がそれぞれの場で発行されてゆく。
先日、東京で瀬戸夏子に会ったとき、彼女が「雑誌はそれを出したいと強く思う人がいれば出るものだ」と言ったことが印象に残っている。
高田寄生木が「『触光』50号オメデトウ」という文章を書いていて、「触光」創刊号の野沢省悟の言葉を引用している。野沢はこんなふうに書いている。
「―川柳を何故つづけるのか?それは〈川柳が好きである〉との一言で言おうとすれば言えるが、単にそれだけで川柳をつづけているのではないと思う。客観的にみるならば、川柳をつづけることは〈のっぴきならないことであるのだ〉」
野沢のいう〈のっぴきならないこと〉に促されて、「触光」は10年続いてきた。「触光」以前にも彼は「双眸」や「雪灯」を出している。
巻末に「触光500号記念・触光推奨作品集」が掲載されている。創刊号から49号までの490句が掲載されていて興味深い。その中から次の15句を選んでみた。
牛の耳ピクリ軍靴か竜巻か 木暮健一
ともかくも一人は減った独裁者 瀧音末男
手は母を殺めてないが高瀬舟 大塚ただし
水面にローレライ水底にガンジー 濱山哲也
魍魎の匣を開ければ偽偽偽偽 中山恵子
この国で歳をとってはいけません 濱山哲也
記憶かくにん指はかまれた金魚は噛んだ 宮本夢実
買って飲む水を文化と思い込む 瀧 正治
おりづるのいきたえだえのかぞえうた 高田寄生木
口パクの君が代のあとワンコそば 渡辺隆夫
かぐや姫優待券を隠し持つ 鈴木修子
にんげんを食べる診察券だろう 勝又明城
ジュラ紀ではぼくたちだって飛んだ空 落合魯忠
くろやぎさんをきづかうためのいくさです 柳本々々
図書館は濡れないように立っている 猫田千恵子
「時事川柳」のコーナーでは渡辺隆夫から高瀬霜石に選者が交替、「誌上句会」では次号から広瀬ちえみから芳賀博子へ選者がかわるということだ。
また、「触光」では「第7回高田寄生木賞」として「川柳に関する論文・エッセイ」を募集している。評論・作家論賞というのは川柳界では稀有のことである。締切は2017年1月31日、4000字以内。川柳論を書いてみようという方々は応募してみてはいかがだろう。
熊本の川柳誌「裸木」(らぎ)は、いわさき楊子によって編集・発行されている。11月末に4号が出た。いわさきのほか、同人は上村千寿(熊本)・川合大祐(伊那)・北村あじさい(熊本)・久保山藍夏(福岡)・阪本ちえこ(熊本)・樹萄らき(伊那)というメンバーである。「くまもとメール川柳倶楽部」が発展してできた川柳誌。同じ地域にいなくても、メールによって全国の川柳人とつながることができる。同人作品のご紹介。
ムササビ飛んだビートはイイかんじ 樹萄らき
モルフォチョウの裏側の方で待っている 久保山藍夏
鎌でしょうカマキリでしょう嘘でしょう 阪本ちえこ
砂を吐く貝はクリーンになったのか 北村あじさい
体内のフィラデルフィアとカトマンズ いわさき楊子
卵産むところ探して陽が落ちる 上村千尋
強大な堀北真希が降りて来る 川合大祐
「くまもとメール倶楽部」は今年の春で100回を超えたそうだ。「裸木」に参加していない部員の句も紹介しておく。
褒められました腹がたちました 柴田美都
箱売りの小鰯 抵抗の重さ 竹内美千代
順番がきましたさてと行きますか 猫田千恵子
耐性をウイルス並みにつけてやる 徳丸浩二
いわさき楊子は「後記」にこんなふうに書いている。
「揺れ以来、何ごとにもゆるくなった判断(いいんじゃない)で今年も発行することができた。つづけるという束縛からは離れてそのつど考えることにする」
野沢省悟のいう「のっぴきならないこと」といわさき楊子のいう「そのつど考える」。それぞれの川柳誌がそれぞれの場で発行されてゆく。
先日、東京で瀬戸夏子に会ったとき、彼女が「雑誌はそれを出したいと強く思う人がいれば出るものだ」と言ったことが印象に残っている。
2016年11月26日土曜日
文フリ東京に行ってマゴマゴする
11月23日、「第23回文学フリマ東京」を見にいった。会場は東京流通センター第二展示場。浜松町からモノレールに乗ってゆく。
文フリ大阪には参加しているが、東京ははじめて。やはり規模が大阪とは違う。会場は一階と二階に分かれていて、それぞれ満員である。一階は全部小説、二階は小説のほか詩歌・評論などで、それぞれ400ブースほど、合計800ブースを越える出店がある。文フリのパンフレットを読むと文フリ大阪の募集数が基本300だから、大阪の倍以上の参加者があることになる。これだけの人々が作品を発信し、それを購入する読者が存在するのは驚きである。
「率」のブースに委託で「川柳カード」と『水牛の余波』『転校生は蟻まみれ』を置いていただいているので、まず「率」のブースに行く。何冊か売れているのが嬉しい。販売の邪魔になってはいけないので、少し離れたところで見ていた。本を手に取ってくれる人もたまにいるが、買わずに机上に戻すことが多く、見ているとはらはらするので心臓によくない。フリーペーパー「SH 3.5」に川柳を掲載してもらった。
気をひいてみる鉄塔の奪い合い 小池正博
これからの東京の孤独はまかせて 我妻俊樹
気象から気候に至り一泊目 宝川踊
信じるゆくゆくは天秤の呼吸へと 瀬戸夏子
視界への脅迫として横に川 平岡直子
これに「現代川柳の世界への招待」として川柳作品28人、ひとり5句のアンソロジー(瀬戸夏子選出)が付いている。宝川踊と初めて会えたのもよかった。
会場を回って、私が買ったのは「象」4号と「東北大短歌」3号。
学生短歌は作品だけの冊子もいいが、評論がいろいろ掲載されている方が彼らの関心のありどころがわかって購買意欲をそそる。「東北大短歌会」など文フリ大阪には出店していないところもある。「象」は日大芸術学部。「象」の特集は「社会詠を詠む」、東北大は「女歌」「連作」についての評論を掲載している。
何しろブースの数が多いので、見落としてしまって後から買えばよかったと思うものもある。事前にツイッターなどでもっと下調べしておけばよかったと思う。
そういう意味では、柳本々々が「ブログ俳句新空間」に「【短詩時評】文学フリマに行こう、家から出ないで-第二十三回文学フリマ東京Webカタログを読む-」という文章を書いているのは興味深かった。柳本は「Webカタログを読む」という視点から文フリをとらえて見せている。フリーペーパーの「RT」は私ももらったので、柳本の挙げているものとは違う句を紹介しておこう。歌人の二人がなぜか俳句を詠んでいる。
オリオンや狩るなら僕を狩ってくれ 龍翔
蜻蛉の眼に映ればわたしひとりじゃない 辻聡之
会場を回っていても川柳の存在感は希薄だ。東京もやはり川柳砂漠なのだろうか。
ただ、注意深く見ていくとブースはなくても委託で川柳が置かれているのがうっすらと感じられる。
「率」が川柳を作っているほか、「みろく堂」のブースで朝妻久美子の冊子が委託されている。「混線」「ミュウミュウ」は持っているので、『きっとすべてはラブソング』を購入。
居場所を見つけられずに壁にもたれて会場をぼんやり眺めながら、川柳はどうやってこの中に入ってゆけばいいのだろうと考えていた。来年5月の文フリ東京にはブースを出すつもりだ。そんなことをして何になると思わないでもないが、私が今までやってきたことだって同じようなものである。五年前に高山れおなが新聞に書いた書評を覚えていて、こんど『水牛の余波』を買ってくださった人もいる。投壜通信のようなものだ。
山種美術館では「速水御舟展」が開催されていた。
「炎舞」を見るのは20年ぶりだろうか。
静かに見ながら、心に期するものが湧いてくるのを感じた。
文フリの翌日、東京は雪であった。
六義園を訪れ、雪のなかで紅葉の景色を体感した。
五十年に一度あるかないかの風景だろう。
歩いていればいろいろな光景に出合うものだ。
文フリ大阪には参加しているが、東京ははじめて。やはり規模が大阪とは違う。会場は一階と二階に分かれていて、それぞれ満員である。一階は全部小説、二階は小説のほか詩歌・評論などで、それぞれ400ブースほど、合計800ブースを越える出店がある。文フリのパンフレットを読むと文フリ大阪の募集数が基本300だから、大阪の倍以上の参加者があることになる。これだけの人々が作品を発信し、それを購入する読者が存在するのは驚きである。
「率」のブースに委託で「川柳カード」と『水牛の余波』『転校生は蟻まみれ』を置いていただいているので、まず「率」のブースに行く。何冊か売れているのが嬉しい。販売の邪魔になってはいけないので、少し離れたところで見ていた。本を手に取ってくれる人もたまにいるが、買わずに机上に戻すことが多く、見ているとはらはらするので心臓によくない。フリーペーパー「SH 3.5」に川柳を掲載してもらった。
気をひいてみる鉄塔の奪い合い 小池正博
これからの東京の孤独はまかせて 我妻俊樹
気象から気候に至り一泊目 宝川踊
信じるゆくゆくは天秤の呼吸へと 瀬戸夏子
視界への脅迫として横に川 平岡直子
これに「現代川柳の世界への招待」として川柳作品28人、ひとり5句のアンソロジー(瀬戸夏子選出)が付いている。宝川踊と初めて会えたのもよかった。
会場を回って、私が買ったのは「象」4号と「東北大短歌」3号。
学生短歌は作品だけの冊子もいいが、評論がいろいろ掲載されている方が彼らの関心のありどころがわかって購買意欲をそそる。「東北大短歌会」など文フリ大阪には出店していないところもある。「象」は日大芸術学部。「象」の特集は「社会詠を詠む」、東北大は「女歌」「連作」についての評論を掲載している。
何しろブースの数が多いので、見落としてしまって後から買えばよかったと思うものもある。事前にツイッターなどでもっと下調べしておけばよかったと思う。
そういう意味では、柳本々々が「ブログ俳句新空間」に「【短詩時評】文学フリマに行こう、家から出ないで-第二十三回文学フリマ東京Webカタログを読む-」という文章を書いているのは興味深かった。柳本は「Webカタログを読む」という視点から文フリをとらえて見せている。フリーペーパーの「RT」は私ももらったので、柳本の挙げているものとは違う句を紹介しておこう。歌人の二人がなぜか俳句を詠んでいる。
オリオンや狩るなら僕を狩ってくれ 龍翔
蜻蛉の眼に映ればわたしひとりじゃない 辻聡之
会場を回っていても川柳の存在感は希薄だ。東京もやはり川柳砂漠なのだろうか。
ただ、注意深く見ていくとブースはなくても委託で川柳が置かれているのがうっすらと感じられる。
「率」が川柳を作っているほか、「みろく堂」のブースで朝妻久美子の冊子が委託されている。「混線」「ミュウミュウ」は持っているので、『きっとすべてはラブソング』を購入。
居場所を見つけられずに壁にもたれて会場をぼんやり眺めながら、川柳はどうやってこの中に入ってゆけばいいのだろうと考えていた。来年5月の文フリ東京にはブースを出すつもりだ。そんなことをして何になると思わないでもないが、私が今までやってきたことだって同じようなものである。五年前に高山れおなが新聞に書いた書評を覚えていて、こんど『水牛の余波』を買ってくださった人もいる。投壜通信のようなものだ。
山種美術館では「速水御舟展」が開催されていた。
「炎舞」を見るのは20年ぶりだろうか。
静かに見ながら、心に期するものが湧いてくるのを感じた。
文フリの翌日、東京は雪であった。
六義園を訪れ、雪のなかで紅葉の景色を体感した。
五十年に一度あるかないかの風景だろう。
歩いていればいろいろな光景に出合うものだ。
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