2015年3月27日金曜日

川柳のフルコース―笹田かなえ句集

「東奥文芸叢書」は青森県の東奥日報社創刊125周年企画として発刊され、短歌・俳句・川柳各30冊、全90冊が予定されている。この叢書の川柳句集についてはこれまで何冊か紹介したことがあるが、今回は『笹田かなえ句集 お味はいかが?』を取り上げる。
句集の編集の仕方にはいくつかのやり方があり、この句集では「前菜」「サラダ」「スープ」「メインディッシュ」「デザート」の五章に分け、各72句、全360句が収録されている。料理のフルコースが順番に出されてゆくように、句集一冊を読むことができる。発表順とかアットランダムに並べるやり方もあるが、単独句の集積ではなくて一冊の句集として読まれることを意識した構成がまず目をひく。
したがって読者としてはこのコンセプトに沿って読んでいくのが順当だろうから、ここでも各章から数句を抜き出してゆくことにしよう。
最初に「前菜」である。

立春の雨のたとえば応挙の絵

巻頭句は雨の句である。
この句集では全体に雨や水のイメージをもつ句が点在していて印象的。
外では雨が降っていて、別に絵の中でも雨が降っている必要はないのだが、応挙の絵から連想すると、たとえば兵庫県香住の大乗寺にある襖絵などが思い浮かぶ。葉のかげから子どもの顔がのぞいている。

古い道古い神社につきあたる

特に何を言っているわけでもない、情景を詠んだ句である。
こういう句の方が主観句よりも印象に残る場合がある。

待ってと言って待ってもらってもどかしい

「待って」と言えば相手は待ってくれるだろうが、待つ方も待ってもらう方も、もどかしい。自分自身がもどかしいのだが、置き去りにされてしまうのも困る。

足元を見られぬように少し浮く

「足元を見る」というフレーズがある。そこから「見られぬように」と逆の方向へゆく。現実からの浮遊はかえって足元が見えてしまうことになるかも。

虫流す排水管は暗いだろうな

誰でも経験のある共感の句。流されてゆく虫の立場で詠んでいる。
「前菜」はこれくらいにして「サラダ」に。

ものすごい緑のままで枯れていく

「ものすごい緑」とはどんな緑なんだろう。
全盛の姿のままで枯れてゆくのだ。悔いが残るとも言えるし、逆に幸せとも言える。

プランクトンの名前をいくつ言えますか

はい、言えますよ。ミジンコ・ケンミジンコ・ボルボックス・ミドリムシ・ゾウリムシ…あれ、もう言えない。
続いて「スープ」に移る。

うさぎ抱くころしてしまいそうに抱く

可愛がって抱きしめるあまり殺してしまうことがある。ここでは、その寸前で止めている。

首筋に森を通ってきた匂い

作者に見られる感覚表現はここでは嗅覚に特化されている。
「木の匂い」「雨の匂い」「せっけんの匂い」「にんにくの匂い」「日向の匂い」―匂いの句はいろいろある。

紫陽花を咲かせる声にしてください

「向日葵を咲かせる声」とか「紫陽花を咲かせる声」とか、いろいろあるとおもしろいだろうな。
いよいよ「メインディッシュ」。

くるぶしのますます白く位置に着く

スタートラインに着く。それを見ている人の視線は白い踝に注がれている。

あどけなく弱いところがもりあがる

弱いところをカバーしながら傷口は自然に治癒する。人生経験を積むと、傷を受けないようにあらかじめ弱点を鎧で覆っておくようになる。この句の作中主体はまだあどけないのだろう。

雨続く今日見たことは今日話す

明日話そうと思っていても、明日は話す相手がいないかもしれないし、そもそも話すことを忘れてしまっているかも知れない。

切り口に合うのは切った刃のかたち

「切られたもの」と「切ったもの」との関係性。敵対関係なのだが、妙な親和性がある。
最後に「デザート」。

「行基です」秋の小声に振り返る

川柳でも固有名詞はしばしば使われるが、「行基」はあまり見たことがない。
「秋の小声」ともぴったり合っている。

水に浮くなかったことにしてみても

沈むのではなく浮いてしまうのだ。何もなかったことにはできないのだろう。

絵の中の林檎は蜜のある林檎

現実の林檎は「蜜のない林檎」ばかりなのだろう。

ごきげんよう 桃はひとまず冷蔵庫

句集の最後の句。
デザートにふさわしく果実の句で終わっている。

以上、句集のコンテンツに従った読み方をしてきたが、別にどこから読んでもかまわないだろう。私には雨や水のイメージをともなう句が印象的だった。季語や切れ字を用いた句もあって、俳句的だと感じる句もあった。これは柳俳異同論とは関係のない感想である。
「ボナペティ」「メルシイ」。

2015年3月20日金曜日

現代川柳ヒストリア―雑誌で見る現代川柳史

「里」144号(2015年3月)の特集は〈佐藤文香『君に目があり見開かれ』の開かれ方〉。
上田信治は「世界に『私』を与え直す」でこんなふうに書いている。

〈佐藤文香の第二句集『君に目があり見開かれ』のオリジナリティは「私性の持ち込み」と「文体の更新」にある。それは俳句が、詩として生まれ直すために、それこそ俳諧の成立以来何度となく行なってきたことだ〉

夜を水のように君とは遊ぶ仲
歩く鳥世界にはよろこびがある
知らない町の吹雪のなかは知っている
星がある 見てきた景色とは別に
町を抜けて橋に踊る海が見えた冬の

これらの句を挙げて上田は「私性」に関して〈その(作者の命名するところの)「超口語」が句に極私的な「つぶやく」主体を仮構している〉と述べている。また、「文体」に関しては〈個々の文節が五・七・五にズレつつ乗っていく感覚は、今どきの「譜割り」(旋律の各音に対する歌詞の割り振り)の複雑さを思わせる〉という。
特集には数名の論考のほか、佐藤文香による「出版記念特別作品22句」と「ぽえむ1篇(星とは何か)」が掲載されている。佐藤の新作から。

雪一面すすまぬ青はスキー我
肉塊として起き上がるスキー我

「里」の発行所である邑書林は3月に佐久から尼崎市に移転してきた。関西の俳人・川柳人にとっては「里」句会との交流がしやすくなる。

5月17日に大阪・上本町で開催される「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」の準備のため、このところ手元にある川柳誌を広げて、現代川柳の歴史をたどっている。
一般に川柳誌は消耗品なので、残されることが少ない。過去の川柳史に対するリスペクトがないというよりは、そもそも保存するという感覚を川柳人は持たないのだろう。
俳句の場合は「俳句文学館」があって、過去の俳誌のバックナンバーを調べるにも便利であるが、川柳の場合は「川柳文学館」のようなものはない。
川柳誌の実物を手にすると、過去の川柳人たちの息吹を実感することができるし、私たちがその流れのなかにいることが納得できるだろう。
宣伝をかねて、いま考えている内容をお知らせしてゆきたい。

現代川柳が中村冨二と河野春三からはじまった、というのが私の持論である。「東の冨二、西の春三」などと言われる。まず冨二の方から。
「鴉」は1951年1月から。(全27号)。同人は中村冨二・金子勘九郎・高井花眠・片柳哲郎・松本芳味。ガリ版刷で、当日は23号・25号の二冊を展示するが、触るとボロボロになってしまいそうので、残念ながら手にとって見ていただくわけにはいかない。また合同句集『鴉』も展示。

次に春三の方だが、まず「天馬」を展示。
「川柳ジャーナル」は比較的目にする機会があると思われる。
1966年(昭和41年)8月、「川柳ジャーナル」創刊。「海図」「鷹」「不死鳥」「流木」「馬」の各誌を統合して生まれた。「川柳ジャーナル」は終刊号を展示するが、「川柳ジャーナル」以前の5誌をあわせて見ることができるのはめったにない機会となるはずである。

河野春三の個人誌「馬」は1964年3月から1966年7月まで全15号が発行され、「川柳ジャーナル」に発展的解消された。毎号、特別作品が掲載され、6号に新子の50句、7号に草刈蒼之助50句、8号に春三の50句、9号に松本芳味の15句(多行作品「難破船」)、10号に春三の38句(黒縄抄拾遺「空蝉」)、11号に定金冬二の37句(「亡霊」)、15号は現代川柳作家自選集として56名が参加したという。
「流木」は1965年4月に京都で創刊。流木グループは橋本白史・宮田あきら・中奥治一郎・所ゆきら・上田枯粒・渡辺極堂の6人で、編集は宮田あきら。
静岡から出ていた「不死鳥」は1962年4月から1966年7月まで、全52号。私が見ることができた34号(昭和40年1月)を展示の予定。同人は中野柳窓、服部たかほ、稲村雀穂、森由旬、石川重尾の五人。
「海図」は編集発行人・山村祐。森林書房。
「鷹」は静岡の鷹集団発行。1964年~1966年7月。全33号。発行人・小泉十支尾、編集・片柳哲郎(30号から福島眞澄)。

「現代川柳作家連盟」(現川連)のことも触れておきたい。推進者となったのは岐阜の今井鴨平である。「現代川柳」は現代川柳作家連盟機関誌として岐阜で発行。1957年7月~1962年3月(全36号) 発行人・今井鴨平。しかし、現川連の会員たちは積極的な協力の姿勢をとらなかったため、鴨平は個人で「川柳現代」を発行することになる。1962年7月~1964年10月(全17号)。その「川柳現代」も1964年の鴨平によって終刊。第17号「今井鴨平追悼号」を展示する。

それ以後の川柳誌については省略するが、当日会場でご覧になっていただければ幸いである。現在、展示用の簡単なラベルを作成中。創刊から終刊まで何号あり、同人や発行人・編集人は誰かなど基本的なデータを記録するのにけっこう時間がかかる。
また、当日はパワーポイントを使って現代川柳史の流れを簡単に解説する予定。

当日は展示だけではなく、フリーマーケットを開催しているので、川柳句集を購入することができる。また、句集作者によるサイン会も予定。
あと、歌人の天野慶さんとの対談もお楽しみいただけることと思う。
フリマの出店は現在募集中。詳しいことは専用ホームページをご覧いただきたい。出店申し込みは4月末日までだが、会場はそれほど広くないので、お早めに申し込みいただけるとありがたい。

2015年3月13日金曜日

川合大祐の軌跡

自動ドア誰も救ってやれないよ(2002年1月)

「川柳の仲間 旬」115号の「人物クローズアップ」で私は川合大祐の名をはじめて知った。このとき川合は28歳、川柳をはじめて1年たたない時期である。
いとう岬の解説によると、「旬」113号に彼は「檻のなかから世界を眺めて」という文章を掲載している。その中で川合は自分が川柳で表現したいものは「影」であると語っている。
では、なぜ川柳なのか。
「人は不自由さの中にあってこそ、始めて本当の自由を実感できる。不自由に縛られたなかでの稀少な自由とは、無限のひろがりを持つものだ。それこそが、私が川柳という表現形態に求めるものなのだ」
おはようで今日もはじまるつなわたり
誕生日童話いっさつ火にくべる
戦争はガラスの中でピンク色
滅茶苦茶になれたらいいね うんいいね

中八がそんなに憎いかさあ殺せ(2011年9月)

「川柳コロキウム」誌上大会、丸山進選。
五七五定型のうち上五は字余りでも許容されるが、中七は比較的守られている。「中八はいけない」という川柳人が多いが、この句はそれに対して疑問を呈している。
発表以来、中八をめぐる議論ではこの句がときどき取り上げられるのを目にする。

ロミオではないあなたには興味なし(2014年11月)

「裸木」2号(編集人・いわさき楊子)。 
二通りに読めると思う。
「ロミオではないあなた」には「私」は興味がない。
「私」はロミオではない(あなたもジュリエットではない)。だから、あなたには興味がない。
あとの読みの場合は、「ロミオではない」の後に切れがあることになる。
薔薇とのみ呼ばれし花よ市民A
ジャイアント馬場や水葬物語
ビンラディン/市民 ころした/ころされた

…早送り…二人は……豚になり終 (2014年11月)

「川柳カード」7号。誌上大会、兼題「早い」準特選。選者は樋口由紀子。
「/」や「…」などの記号を使った川柳を川合はしばしば書いている。
短歌ではめずらしくないが、川柳ではまだ新鮮なのだろう。
掲出句はビデオなどの早送りの感じをうまく表現している。「豚になり終」というのは皮肉である。

「川柳スープレックス」(2015年2月)

飯島章友・柳本々々・川合大祐・倉間しおり・江口ちかるの五人で「川柳スープレックス」を立ち上げた。私はプロレスの技には詳しくないが、スープレックスはバックドロップと同じような技だろうか。
「百万遍死んでも四足歩行なり」(飯田良祐)について、川合は次のように書いている。
〈川柳は檻である、と昔書いた。
スープレックスのテスト版にもそんな小文を書いたので、いつか機会があれば再掲したい。
それはともかく、僕にとっての川柳は檻だった。
五七五という定型。
それは僕にとって檻であり、その檻の不自由さのなかではじめて自由を夢見ることができる、そんな内容だったと思う。
(だから方哉も山頭火も、ある意味業に似た不自由さから逃れられなかった、という気もするのだが、それはまた別の折に)
そんな僕のアプローチと、この句のアプローチは、どこか違う。

この句は、自ら檻に入ったのだ。
五七五の檻に、自らの獣を閉じ込めるために。〉

星だって掴めるような気がしてたそれが怖くて掴まなかった(2015年3月)

「かばん」新人特集号Vol.6。
2009年10月から2013年9月に入会した23名による短歌各30首が収録されている。これに「かばん」内と「かばん」外の執筆者による歌評がそれぞれ付いている。
飯島章友は内部評で次のように書いている。
〈連作の終盤、26首目~30首目で主人公は、ふだん抑圧している影の自分に言葉を投げかけ、歩み寄りをみせている。「僕」「僕ら」と柔らかい自称になったのはその表れ。「おひさまが西から昇」るような受け入れがたい無意識下(影)の自分をも「肯定」し、「僕ら」として共に「歌う」ことで、自己の総合化へ一歩踏み出したのだ〉

手をほどく眠りに噴き出す無意識をほんとうの無へ返せるように
自由とは真夏の夜の夢なれば監視カメラを撃つ銃もなし
なあ俺よ答えてくれよ星座とは見るものなのかなるものなのか
おひさまが西から昇っただとしても肯定しよう僕は僕だと

2015年3月6日金曜日

俳句を壊す―「船団」104号

5月17日に大阪・上本町で開催される「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」の準備を始めている。専用のホームページの方もご覧いただきたい。ホームページから出店の申し込みができるが、小池正博まで直接お申込みいただいてもOK。また、ホームページに川柳投稿フォームを設けていて、投句できるようになっている(雑詠1句)。句会を開くわけではないが、当日会場に来られた方々に良いと思う作品に投票していただき、後日集計結果を発表することになっている。ふるって投句をお願いしたい(投句はインターネットのみの受付)。また、フリーペーパーのコーナーを設けるので、配布ご希望の方は当日ご持参いただければ机上に置かせていただく。こちらは出店料無料だが、無料配布となるのでご了解いただきたい。川柳誌のバックナンバーもお持ちいただければ無料配布可能。

さて、俳誌「船団」掲載のエッセイ、芳賀博子の「今日の川柳」は連載29回目。今回の104号は「一の麦」というタイトルで田口麦彦のことを取り上げている。芳賀は熊本まで田口に会いに出かけて、きちんと取材している。『新現代川柳必携』(三省堂)のことなど、田口の川柳活動が紹介されている。「麦彦」という号の由来は、「米」に対抗して「麦」。「日本といえば米でしょ。だったら麦でいこうと。これは私の反骨精神でね」。麦彦さんには5月の川柳フリマにも来ていただくことになっている。

「船団」同号の特集では「座談会・俳句を壊す」が読みごたえがある。関悦史・池田澄子・三宅やよいの対談で、司会は木村和也。刺激的なのは次のような部分。

関 表現しなければならない、場合によっては不愉快なところ、あるいは自分が同じような作品ばかり作ってしまうという批評的な苛立ちがあったとして、その苛立ちを含み込んで乗り越えて俳句として読めるものにする。そういう作業を、俳句形式にぶちあたっていく中で工夫して、最終的に洗練された表現にしていくわけで、それは壊すという方向ではないわけです。書かなければならないものがどこかにあって、その志とか批評性を俳句として洗練された方向にまとめ上げていく。そのまとめ上げるときに、一見壊れるという臨界点にまで踏み込んでいるという緊張感が出てくるんです。
木村 今の論でいくと、「壊す」ということのキーというか基点になるのは批評精神ということでしょうか。
関 そうでしょうね。
木村 それは、もちろん自分の俳句とか、自分の関わる現実とかいうものに対する批評精神といったものが、一見壊すというふうに見えてくるということでしょうか。
関 それともう一つは、俳句の歴史全体に対して。今まで詠まれてきたものと今自分が一緒のことをやっていてはどうしようもないという、自分に対する批評性。

「批評性」「批評精神」をキーにしているところが興味深い。あと、俳句の季語に対して関が「他者性」という視点からとらえていることも私には新鮮な感じがした。次はすべて関の発言。
「一句のなかに季語が入ったら、そこは自分が言いたいことは直接は言えてないわけです。そこに他者性、批評性が入ってくるという形で季語が生かされる」
「俳句の季語っていうのはその、メッセージを担っちゃいけない、何かものの喩え、メタファーになっちゃいけないんですよ」
「無季でやる場合は季語に変わる何かしらの他者性が入ってくるわけですよ」

川柳や連句についても触れられていて、次は三宅やよいの発言。

三宅 私は、無季の句を作ると意味が強くなっちゃうんですよ。だから川柳の人たちと句会をやっているとき、結構無季の俳句つくっていたんです。そうするとやっぱり川柳は季語がないから言葉を強くしなきゃという思いがあるんですよ。川柳は意味だ、っていう意味じゃないんですよ。それだけ言葉の選択っていうのは、季語に代わる強さとか、心情とか直接に訴えた形で言葉を出さなきゃならないから、そのときは一緒にやるときは作ったことありますけど、すごく分裂しちゃうんです自分が。

「俳句と川柳の違い」という話題になると、すぐ「川柳の意味性」で片づけられてしまうが、三宅は川柳人とも交流があるから、意味性で括ることはしていない。三宅は「川柳的っていうとすぐ意味とか、そういうとこに走るけど、決してそういうものでもないと思います」とも発言していて、さすがに現代川柳に対する理解が深い人だと思う。

最後に、古い自分を壊し新しい自分を見出すための突破口は、というような話になって、池田澄子が「私はね、そんな何も思わないの。ただ作る、ひたすら作る」と言っているのは、言葉通りには受け取れないにしても、やはりおもしろい。

座談の参加者はみな実作者だから、具体的な創作のヒントがいろいろ得られる。
自己模倣から抜けだしたいと苦吟している表現者にとっては刺激的な特集である。

2015年2月27日金曜日

飯田良祐のいる二月

お白粉をつけて教授の鰊蕎麦   飯田良祐(以下、同じ)

「白粉」「教授」「鰊蕎麦」、いずれも日常にある物や人である。別に異常なものではない。
けれども、この三つの単語を繋ぎあわせると、そこには尋常でない光景が浮かび上がる。
白粉をつけているのは教授だろう。女性の教授とも考えられるが、男性教授が白粉をしていると読んだ方がおもしろい。男でも化粧をすることはあって、たとえばニュースキャスターは男性であってもテレビ映りのために薄化粧をすることがあるらしい。この場合は職業目的であるが、この句の教授は何のために化粧しているのだろう。
しかも、その教授が鰊蕎麦を食べている。
「お白粉をつけた教授が」ではなくて、「お白粉をつけて」で少し切れる。作者の視線はまず白粉に向けられている。川柳では食べ物などの日常的なものをよく取り合わせる。良祐の句にも「大福餅」「串カツ」「クラッカー」などの食べ物が出てくる。衣食住は生活詩としての川柳には不可欠の素材であって、しばしば使われる。
人は白粉をつけ化粧することで日常とは次元の異なる世界にヴァージョン・アップする。それなのに、鰊蕎麦という日常次元にダウンしてしまう。その落差が何となくおかしい。

ビニール袋の中のカサカサの勃起

そんなものをビニール袋の中へ入れられても困る。ノーマルな恋愛関係であれば、カサカサのとは言わないだろう。スーパーで買い物をすると、商品をビニール袋に入れて持ち帰る。水漏れしないように、水分が逃げないように、品物は包みこまれる。冷蔵庫に入れる場合はラップをかけて保存する。みずみずしい状態に鮮度が保たれる。けれども、この句の場合は乾いている。ドライである。欲望はある。けれども、その欲望が人間的なつながりに結びついてゆかない。欲望は恋人たちを結びつけたり、欲望の結果、子どもが産まれたりする。欲望自体には良いも悪いもなく、ある意味で生の原動力かもしれない。その欲望さえ本物かどうか、疑わしい。避妊具のなかで、欲望は痛ましいまま宙吊りになっているのだ。

公定歩合にさしこんでみたプラグ

現実に生きる人間として、経済問題は重要である。金利とか円高・円安とか年金とか。人はパンのために生きるものにあらず、とは言いながら、生活できなければ文芸もなにもない。ヒト・モノ・情報・カネ。同じように暮らしているつもりでも、運・不運によって経済的格差が生まれたりする。情報を人より先に握っただけで、巨万の富を得たりする世の中である。良祐は自分の事務所をもっていたから、部下たちの生活のことも考えなければならなかった。状況に翻弄されながら、ふとプラグでも差し込んでやろうか、という怒りが生まれる。火花でも散るだろうか。何の影響もないだろうか。人生設計をむちゃくちゃにした者たちに一矢報いることができるだろうか。

庭のない少年からの速達便

「庭のない少年」とは何だろう。アパートなどに住んでいて住まいに庭をもたない少年だろうか。そういうふうに読んでもいいが、川柳の意味性ということを考えると、この庭は内面的なものであるように思えてくる。
庭には植木や花々や野菜などが植えられていて、水やりや手入れが大変であるが、ちょっとした食材を栽培する実利的な役割のほかに、土をいじったり花を育てたりすることで気分転換や安らぎを得ることもできる。その人の庭がある精神の状態を表しているととらえると、たとえば箱庭療法では、箱庭の中にいろいろな玩具を並べることによってカウンセリングの一助になったりする。禅寺の枯山水になると石や砂が象徴的な意味をもったりする。
さて、「庭のない少年」から速達が届いた。いったいどう返事をすればよいのだろうか。速達だから、緊急性を要する内容かもしれない。こちらも「庭のない大人」であって、適切なアドヴァイスなんてできるはずがないのである。

ほうれん草炒めがほしい餓鬼草紙

「地獄草紙」や「餓鬼草紙」などの絵巻や断簡がある。「地獄草紙」には糞尿地獄など、往生要集に書かれているような、様々な地獄が登場する。「病草紙」というのもある。たとえば、不眠症の女。みんなが眠りこけている深夜、ひとり目ざめている女の顔は不安に満ちている。餓鬼は修羅など六道のひとつである。水を飲もうとして泉に触れると、水は火となって、餓鬼は永遠の渇きに苦しめられる。餓鬼草紙を見ながらふとホウレンソウが食べたくなったのだろうか。あまり食欲がわく状況とも思えない。「ほうれん草炒めがほしい」のは作者であり、餓鬼ではない。しかし、何となく餓鬼が「ほうれん草炒めがほしい」と言っているような感じもする。自分も一匹の餓鬼であり、ほうれんそう炒めとビールがあればしばしの憩いの時間がもてるかも知れない。ふと垣間見せた良祐のやさしさだろう。

母死ねとうるさき月と酌み交わす

母は憎悪の対象であろうか。
娘と母との関係において、娘が母を憎むことはエレクトラ・コンプレックスと呼ばれている。逆に、息子が母を愛するのがエディプス・コンプレックスのはずだが、良祐の句では母への憎悪が詠まれている。
寺山はつ著『母の螢』という本がある。はつは寺山修司の母である。寺山が写真集を出すというので、母をモデルにした。
「何で私なの。お化けの写真集でも作るの?」
「まあ、似たようなものなんだけど…」
というので、京王ホテルで撮影する。「ここでは半分喧嘩でした。脱がされたり、塗りたくられたり、いい玩具にされた感じでした」とはつは書いている。
写真集が出来上がる。グロテスクな写真がいろいろあって、「ぼくの母は、若い男と駆け落ちをして…」などまことしやかに書いてあった。もちろん虚構である。
母が激怒するのを、修司はポカンと見ていたという。

自転車は白塗り 娼婦らの明け方

まだ二十代のころ、難波から天王寺まで深夜の街を歩いたことがある。
もう何も覚えてはいないが、それなりに鬱屈した気持があったのだろう。
難波のジャズ喫茶を出たあと、知らない道をずんずん歩いていった。天王寺公園の近くまで来たころ、闇の中にそれほど若くもない女が立っていて、目があった。女は私に呼びかけた。
「おにいさん…」
街娼であった。
この句では「自転車は白塗り」と言っているが、白塗りなのは娼婦だろう。明け方の空が黒からブルーに変ろうとするころ、娼婦たちは何を思っているのだろうか。
ちなみに「朝日劇場」連作は初出では次の十句になっている。「男娼が大外刈りの串カツ屋」という句が私はけっこう気に入っている。

自転車は白塗り 娼婦らの明け方
ガニマタでポテトサラダが座る席
半券は揉みしだかれて歌謡ショー
八宝菜二百円也酒の穴
男娼が大外刈りの串カツ屋
稲刈りが始まる通天閣展望台
友情や梅焼はいつも生煮え
作務衣脱ぎすて 尿(しし)臭い猫
病い犬明日は大安ジャンジャン町
ビリケンの頭 南瓜は鬱王

大福をかぶり貞操帯はずし

「かぶる」とは「かぶりつく」(食いつく)という意味である。
大福餅にかぶりつくのは男であろうか、女であろうか。
餅を食べながら貞操帯を外す。外すのはもちろん貞操帯を付けたのとは別人である。貞操帯を取り付けたものと貞操帯を外したもの、これも別人であろう。
澁澤龍彦の本で読んだような気がするが、貞操帯には鍵がついていて、旅行に出かける夫はその鍵をもったまま出かけて行く。難儀なことである。
この句の人物はどうやって貞操帯をはずしたのであろうか。別に私が心配することはないのだが、それほどきちんとした貞操帯ではなかったのだろう。
大福餅は食べないといけないし、貞操帯も外さなければならないとなると、いそがしいことである。食欲と性欲をパラレルに捉えている。

斜め右に木耳ラーメンは淫靡

「木の耳」と書いて「きくらげ」とは考えて見ればおもしろい命名である。
ラーメンにはいろいろなものが入っていて、たとえば「ナルト」は鳴門の渦潮から来ている。ここでは斜め右に木耳が入っていた。
この「斜め右」という位置が微妙である。「斜め下」でもなく、「中央」でもない。少し位置をずらしたところに木耳がある。
このラーメンを作者は「淫靡」と言い切った。ある種の川柳は、ひとつの断言である。なぜそう言えるのかという根拠は示されない。作者が淫靡だと感じた。別の感じ方、捉え方はもちろんありうる。従来の川柳では、読者の共感を得られるような普遍性に基づいた書き方がされることが多かった。もちろん、それは一つの書き方であるが、普遍性はなくても作者の独自な感性を言い切る書き方も成立する。問題はそのような断言が一句の中で効果的に働いているどうか、ということである。
そう考えるとき、「斜め右」という位置が有効に働いてくる。「木耳」の「耳」という文字も何やら意味ありげに見えてくるのだ。

張り込みの途中で確定申告

こういうことは現実にはありえない。
けれども、実際にあればおもしろいなと思う。
職務怠慢なのだけれど、そう目くじらを立てるには及ばない。
松本清張の短編に「張り込み」というのがある。
指名手配の男が昔関係のあった女のところに立ち寄るのではないかと、二人の刑事が張り込みをしている。女は吝嗇な夫のもとで窮屈な生活をしている。その生活ぶりを刑事は見つめている。もし、指名手配の男がやって来たら、女はどのような行動に出るのか。
清張は社会派だが、良祐の句はそんな深刻なものではない。少しでもお金が戻ってきたら居酒屋にでも行けるだろう。

夢が人生を食い破ることもあれば、現実が文学を殺すこともある。だが、私は良祐が死んだとは思っていない。疑うものは飯田良祐句集を見ればよい。

2015年2月20日金曜日

兵頭全郎の川柳

「川柳木馬」143号の巻頭言(「一塵窓」)で清水かおりが「高知県短詩型文学賞」について述べている。受賞作品が難解であるという意見があるらしい。清水は川柳部門の「難解」がこの十数年間でどう変化したのか、次のような作品を例に挙げている。

償いの縄がするする降りてくる    大破(平成8年度)
老いるのは切ない川は蛇行する     望(平成10年度)
砂の国巨象が足を踏み入れる     鮎美(平成15年度)
自惚れはないか真っ赤な唐辛子   知華子(平成16年度)
ギター掻く第六弦は父であり     浩佑(平成23年度)
明日の子へひみつひみつの国渡す   郁子(平成25年度)

そして清水は次のようにコメントする。
「読み手が思う難解はおおむね比喩、暗喩の解釈についてであるが、作品上大きな変化は感じられない」「どんな文芸の現場にも『難解』は存在する。たびたび論の俎上に上げられる現代川柳のそれは、比喩の解りづらさから、言葉と言葉の飛躍の距離へと少しずつ変化をしてきているという状況がある」
比喩・暗喩(メタファー)は結局のところ「意味性」につながる。〈「暗喩(意味)」から「言葉の飛躍」へ〉という清水の分析は、現代川柳の先端的情況に対応している。

さて、本号では「作家群像」のコーナーに兵頭全郎の60句が掲載されている。
その巻頭句と前掲の「高知県短詩型文学賞」と比べてみるとおもしろい。

償いの縄がするする降りてくる    海地大破
足並みを揃えて竜が降りてくる    兵頭全郎

「償いの縄」は「償いという縄」で「縄」は「償い」の比喩である。縄だから「するする降りてくる」という言葉につながるので、意味的には「償い」が目の前にあらわれるという状況である。「私」(作中主体)が償いをするのか、誰かが「私」(作中主体)に償うために縄を降ろしてくれたのか、どちらとも読めるが、それは大きな問題ではない。
一方、全郎の句では「竜」は意味に置き換えられない。暗喩と受け取って無理に意味に置き換えて読むこともできるが、きっとつまらない読みになってしまうだろう。これを挨拶句として読むと、たとえば年賀状にこの句が書いてあれば、新年の挨拶になる。
湊圭史は次のように書いている。

「一見ふつうの歳旦のあいさつ句に見えて、しかしなぜ『足並みを揃えて』くるのかを立ち止まって考えると、一句から歳旦にあたって不可欠な目出度さがすーっと、風から空気が抜けるように、抜け出ていくような気がする。読後振り返ってみると、手ごたえのある句の『中心』的なものがなかったことに気づかされる。句の中の言葉がひとつの意味や読みに集約されていくのが通常のかたちでの作品の『読み』だとすれば、兵頭全郎の句とはどこかでそうした解釈的な『読み』を拒むように書かれているのだ」

再び海地大破の句と比較すると、大破の句には「償い」という意味の中心が存在するのに対して、全郎の句では「竜」は一義的な意味を提示しない。「足並みを揃えて」という部分にかすかに意味性が感じられるが、これを全体主義批判などと結びつけるのは読みすぎだろう。意味の中心がなく、しかも一句全体として何かを詠んでいる。そのような書き方が意識的にされていることになる。

受付にポテトチップス預り証
狼尾男カバンの中の灰
船頭を触れれば溶ける糸で編む
当駅一等地に遮音室はある
夜姫に光の当たる夜がくる
馬術部に預けた砂を返してもらう

湊圭史と江口ちかるが解説を書いていて、湊の文章はすでに引用したが、湊はさらに「取り合わせ」と「取りはやし」という用語を使って注目すべきことを言っている。
俳句では「取り合わせ」「配合」ということが言われる。「二物衝撃」という言葉もある。
「発句は取り合わせものなり」とは芭蕉の有名なことばだが、「取りはやし」とは「取り合わせ」た二つの要素をいかに一句のなかで結びつけるのか、ということらしい。
全郎の句は「二物衝撃」や「意表」をねらっているのではない、と湊は見ている。

「全郎の『取りはやし』の主要パターンのひとつは、二つの要素の異質性を『ぶつからないように』強調するところにある」
「全郎句の『取りはやし』では、各句のなかの二つの直線は簡単に互いを位置づけられないように配置されている。平行も交差もしない『ねじれ』の位置に置かれていると言い換えてもよい」
「全郎句の言葉は一句のなかでも、一つの平面に収束していかないで、読者の読みを複数のバラバラの方向に連れていこうとするのだ」

全郎は「作者の言葉」でこんなふうに書いている。
「伝達の道具としての言葉から伝達の機能を抜くとどうなるのか」
「私はこう思う」ではなくて「読んでくれた方がそこで感じた気持ち」こそが作品の真価になる。そう思いながら彼は「ガラスの小瓶」を作っている、というのだ。
では、「ガラスの小瓶」(作品)をどのように作るのか。
「私はこう思う」を出発点にしないならば、出発点は言葉しかない。
従来の全郎作品はテーマとなる「言葉」をまず決めて、そこから連作を書き上げるという傾向が強かった。そこに彼の作品のおもしろさと同時に単調さがあった。今回の60句は多彩であり、新鮮な感じがした。
ただこのような書き方を続けるのは困難な作業だから、ふと気が弱ったときには、たとえば「寝言ではあるが鋭いご指摘で」のような意味性にもたれた句が混じってくることになる。「蜘蛛の巣のどこから補助線をひくか」は隠喩と読まれても仕方がない書き方である。
「私はこう思う」を出発点にしない書き方にはまだまだ可能性がある。
冒頭に紹介した清水かおりの認識に重ねて言えば、現代川柳の先端部分は西脇順三郎の詩学の方向性で進んでいるのだ。即ち〈意味から言葉の飛躍へ〉。

2015年2月13日金曜日

雛壇の一番下には

先週ご案内した5月17日の「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」の件、ホームページを立ち上げたのでご覧いただければ幸いである。

http://senryu17.web.fc2.com/

さて今回は川柳誌を逍遥しながら、気になる作品を読んでみることにしたい。

雛壇の一番下の舌濡れる   青砥和子

「触光」41号掲載。
「雛壇の一番下」と「舌濡れる」を「の」で繋いでいる。
雛壇の一番下には何があるのだろう。
これを、たとえば五人囃子だとすると、笛を吹いている雛人形の舌が濡れているように見える、という写生の句になる。
一番下が雛壇の最下段ではなくて、さらにその下に存在するもの、段全体を支えているものだとすると、それが「舌」だというのは何やら妖しい雰囲気となる。
「一番下の舌」と書いてあるが、この「の」に前後をつなぐ役割はあまりなくて、一種の切れだとすると、「雛壇の一番下」と「舌濡れる」は別のことになり、この舌は見ている人の舌だとか、女の子の舌だとかいう解釈が生まれる。
「下」「舌」の発音の共通性から一句が出来ているので、それをおもしろいと思うか、わざとらしいと思うかによって読者の受け止め方は異なってくる。
青砥和子は瀬戸市在住の川柳人。川柳をはじめて9年ほどになるという。同号の「触光の作家」というコーナーに青砥が取り上げられていて、彼女はこんなふうに書いている。
「そろそろと作句して、自分の思いがなんとか十七文字であるから言葉で伝わらないもどかしさ、描写の難しさをしみじみ感じている。更につきまとう既視感。快感を知ったが故に迷路に深くはまり込んでしまったようだ。しかし、幸いにもその迷路は、私にとって今は不快」ではない」
掲出句はそういう試行・迷路の中で生まれた一句だと読める。

オオバコもアザミも私の子ではなく   滋野さち

「触光」41号から、もう一句。
むつかしい言葉は何も使われていないのだが、案外わかりくい句である。
オオバコもアザミも野に咲く雑草である。そういう雑草の立場に共感して「オオバコもアザミも私の子」というのなら、よく分かるのだが、ここでは「私の子ではなく」と言って突き放している。
植物だから私の子ではないのは当然である。では、このオオバコやアザミは喩なのだろうか。川柳的喩・メタファーとして植物はよく使われる。けれども、この句ではメタファーとして使われているのでもないようだ。
この句のベースにあるのは何らかの断念の気持ちであるように思う。自然との共生ではなくて、断絶の思いなのだろう。
「触光」今号から滋野は誌上句会の選を担当している。題は「煙」。次に挙げるのは滋野が秀作選んだ句のひとつ。

あのけむり地方葬送かも知れぬ   小暮健一

滋野は選評の中でこんなふうに書いている。
「感動は人それぞれです。つまらないと言う人もいれば、同じ句を名句だと言う人もいます。選者の好みで、何点とか順位を決められて、人の目に触れることなく、句が捨てられてしまうのは、理不尽な気がします」「目の前のくすぶる煙に拘らず、視野を広く想を飛ばし、ことばにすることが作句の大切な要素ではないでしょうか」

大阪府交野市で「川柳交差点」という句会が毎月開催されている。代表・嶋澤喜八郎。この2月の例会で第94回となる。その様子が「川柳交差点」95号に掲載されている。ここでは井上一筒の作品を紹介しよう。

河童逃げ込んだニジェール共和国   井上一筒
梅田から地下鉄で行く淡路島

一筒の句の作り方がうかがえる。
一句目は「河童」という題。『遠野物語』や芥川龍之介の小説に登場する河童だが、遠くニジェールへと飛躍させている。
二句目は「可笑しい」という題。梅田から淡路島まで地下鉄で行けたらおもしろいだろうという、ありえないことを詠んでいる。
ちなみに「河童」の選者は筒井祥文で、祥文の軸吟は「飛行機を降りてきたのは皆カッパ」。また、「可笑しい」の選者は酒井かがりで、軸吟は「ウルトラマンなのに三分以上甘えてる」。それぞれ句会を楽しんで遊んでいる様子が伝わってくる。
井上一筒(いのうえ・いーとん)。号は麻雀のピンズの一にちなむ。

本多洋子のホームページ「洋子の部屋」から。

死ぬときはびわこになると思います 本多洋子
ガラスの蝶の透ける血の道海へ海へ  

前者は第19回杉野十佐一賞の大賞作品。
後者は1995年の川柳公論大賞作品。
この20年の間に本多洋子の軌跡がある。