12月20日(土)、伊丹の柿衞文庫で「第三回俳句Gathering」が開催された。過去二回は生田神社での開催、アイドルを呼んでのイベントだったが、今年は「関西6大学俳句バトル」と題して、関西の大学生俳人を中心に据えた企画となった。
「川柳カード」誌上大会の選者のひとり小倉喜郎や特選の中山奈々などが登場するので、今年も行ってみることにした。
当日は三部に分かれ、第一部は6大学対抗の天狗俳諧、第二部は歌人の土岐友浩を招いてのトーク、第三部は6大学対抗の句会バトルだった。
参加大学は、京都大学・大阪大学・立命館大学・甲南大学・龍谷大学の5大学に「俳句ラボ」チームが加わる。「俳句ラボ」は柿衞文庫の俳句講座を受講しているメンバーである。あと1大学の参加があれば話はすっきりするのだが、東京に比べると関西の学生俳句は林立状況とは言えず、大学横断的な学生俳句組織として「ふらここ」が活動している。
気になったのは、「天狗俳諧」に対して事前に作戦を練ってきたというチームが多かったこと。天狗俳諧というのは、上五・中七・下五を別々の作者が作って最後に合わせる雑俳のひとつで、思いがけない飛躍が生命であり、笑いを誘うのだ。シュールレアリストたちの遊びに通じる。事前に対策を立てたりして、おもしろいはずがない。どんな場合にでも対応できるような平凡なフレーズが多く、できあがったものは小さくまとまった句ばかりとなっていた。ただし、第一部で勝ち抜いたチームが第三部に出場できるのだから、やむを得ないところもあるのだろう。
第二部のトークライブは「短歌・Twitter・文学フリマ」と題して、土岐友浩の話を聞いた。聞き手は久留島元と中山奈々。
土岐友浩(とき・ともひろ)は2004年「京大短歌」に入会、大学卒業後は所属結社なしで、同人誌「町」「一角」を編集するなどの活動をしている。
現在、学生短歌は隆盛をきわめているが、土岐が活動を始めた10年前は、「京大短歌」「早稲田短歌」のふたつしかなかったというのは今昔の感がある。俳句には「俳句甲子園」があり、学生短歌も盛んであるというのは羨ましいことである。
土岐の話で興味深かったのはツイッターの使い方。発信するだけでなく、場合によっては双方向の交流も可能となる。「短歌版深夜の真剣お絵かき60分一本勝負」で、「火をひとつくれそのあかりそのくるしさでずっと夜更けの森にいるから」(小林朝人)という短歌に、それぞれ自分で描いた絵を投稿してくるということだった。絵とのコラボによって歌の解釈が深まるようだ。ツイッターには「謎の読み巧者」がいると土岐は言う。
「わたしの五島さん」(コミック版)の場合は、「一角」に掲載された原作のエッセイについて、土岐が「コミカライズしたい」とツイッターでつぶやいたところ、スズキロク、松本てふこから手伝いますというメッセージがあって実現したという。SNSを通じてそれまで無関係だった人と人との交流が生まれる。
同人誌は書店で置いてくれる場合もあるが、文学フリマも販売の機会として有効。文学フリマで同人誌を売るのはこの二年くらいの流れだという。売れる場合は100冊くらい売れるというから、景気のいい話だ。川柳の同人誌が出店しても、そうはゆくまい。
土岐の話を聞いたあとすぐに、「わたしの五島さん」を買った。
第三部は「6大学対抗バトル」は俳句甲子園形式の句会。
審査員、津川絵理子・小倉喜郎・曾根毅。
準決勝一回戦は龍谷大対京大、兼題「炬燵」で京大の勝。
準決勝二回戦は甲南大対阪大、兼題「鯨」で阪大の勝。
決勝は京大対阪大となり、兼題「数へ日」で阪大が優勝した。
俳句甲子園などで慣れているせいか、ディベートは堂に入ったものだ。ただ「季語の本意」とか「景が見えない」とか、議論の仕方がパターン化されているようにも感じた。
兼題が古風なせいか、それほどおもしろい句には出会えなかったが、注目したのは次の句である。
猫の数え日毎日休みだろうよ 寺田人(てらだ・じん)
私がこのイベントを応援しているのは、何も内容の充実した、完成された催しだからではない。俳句の裾野を広げたい、そのための場を作りたいという主催者の熱意に共感するからである。実行委員の久留島元や司会をつとめた仮屋賢一などのボランティアの人たちがいなければできないことである。
後日、ツイッター上でこのイベントについての感想が若干あった。土岐が語っていた「深夜のお絵かき」について確認ができて、それなりにおもしろかったが、名古屋で開催された「プロムナード現代短歌2014」のときのような頻繁な応酬があったとは言えない。俳人は歌人ほどツイッターを利用していないのかもしれない。当日の参加者の中に「空き家」歌会の方がいたことも後で知った。こういうイベントでは誰が参加しているかよく分らないので、できれば会場でもっと交流する機会が設けられていればよかったと思う。
12月23日に「川柳カード」7号の合評句会を上本町・たかつガーデンで行なった。
先ごろ実施した誌上川柳大会を振り返りながら、いろいろ話し合った。
東京から参加した柳本々々とも交流することができた。
オンラインで活躍している人とオフで会うことができて、確かな手ごたえを感じた。
いつかも書いたことがあるが、短詩型、特に川柳の活動というのは何かを試みようとしても徒労に終わることが多い。今年は特に徒労感がひどい気分だけれど、徒労のなかからかすかでも新しい胎動が始まってゆくのかもしれない。来年はどんな年になるだろう。
来週の金曜は正月2日となるが、家でただゆっくりしているだけなので更新をする予定。では、よいお年をお迎えください。
2014年12月26日金曜日
2014年12月19日金曜日
時事川柳の現在
今年も残りわずかになった。毎年、この時期には今年の十句を選んでコメントを付けているが、今回は少し趣向を変えて時事川柳に限定して選んでみた。五句しか選べなかったが、とにかく書いてみよう。
憲法をあんたの趣味で変えるなよ 草地豊子
「川柳カード」7号掲載。
衆院選は自民党の圧勝に終わった。首相は快哉を叫んでいることだろう。
歴史の曲がり角をひとつ曲がったのかもしれない。
この後にやって来るのは憲法改悪である。
「シナリオ」という言い方がある。政治は人間の行動が関わっているから、今後どうなってゆくという予想は立てにくい。けれども、いろいろな条件を当てはめていくと、いくつかのシナリオが考えられる。私には最悪のシナリオが思い浮かんで消えない。
将来になってから、過去を振り返ったときに、あのときの選択は間違っていたということにならないように願う。
掲出句は選挙以前に詠まれた句だが、現時点で更に重い意味をもってくる。
原発を捨てる燃えないゴミの日に 佐藤みさ子
「MANO」19号掲載。
昨年7月のこのブログに「佐藤みさ子は怒っている」という文章を書いたことがある。みさ子の怒りはなお続いている。
「夏草と闘う死者になってから」「海水に混ぜて毎日流します」「せんそうはひとはしらからはじめます」など、今のみさ子は現実と向き合う川柳を書いている。
佐藤みさ子のファンにとっては時事川柳という「消える川柳」ではなくて、もっと文芸的な川柳を書いてほしいという向きもあるだろう。けれども、そうではないのだ。
表層的な時事川柳は消えてゆくが、時代の本質をついた時事川柳は時を越えて残るはずである。深い批評性をもった作品であれば、読み継がれていくことができる。私は中野重治が好きだった。プロレタリア文学のいくつかの小説は今でも読む価値がある。
批評性と文学性の統一という困難な路を佐藤みさ子は歩んでいるのだ。
聖戦続くグラグラ揺れて来る奥歯 滋野さち
「触光」39号掲載。
イスラム国やイスラム過激派のニュースが日々報道されている。
海の向こうの話のようだが、日本も無関係ではいられない。
アメリカのテレビドラマなどを見るとしばしばテロリストが登場し、リアルである。彼らにとっては実感なのだろう。
「聖戦」という非日常と、「グラグラ揺れて来る奥歯」の日常はどこかでつながっている。日常もグラグラ揺れてくるのだ。
冬夕焼け富士の噴火を見て死のう 渡辺隆夫
『六福神』所収。
御嶽山の噴火以前の作品だが、もし富士山が噴火するとすれば、地震や津波・噴火など、すべての自然災害の象徴的意味をもつだろう。
老年を迎えた人間にとって「死」は意識せざるをえないものだが、死ぬ前に富士山の大噴火でも見ておきたいというのは、『平家物語』の平知盛のように、「見るべきほどのことは見つ」と言い放ちたい心情に通じるだろう。
「津波引き日本全国へびいちご」(渡辺隆夫)
権力をもつ風景をゆるせるか 前田芙巳代
「川柳カード」7号掲載。
権力というものは間違いなく存在するのだが、ふだんは巧妙に隠蔽されていて、私たちは権力者に支配されているという実感はあまり持たない。けれども、近ごろは権力者が言論を抑圧し、情報操作によって大衆をコントロールしている姿が露骨に目にうつるようになってきた。また、以前なら許されなかったような政治的発言がそれほど批判されることもなく、まかり通っている。「権力者のいる風景」はすでに日常となっているのだ。
かつて前田芙巳代は「情念川柳」の書き手と言われた。その彼女が時代の現実と向かい合った川柳を書いている。
必ずしも時事川柳を本領としない川柳人であっても、現代という時代に批評性をもって対峙しようとしている。そこには「やむにやまれぬ気持ち」があるのだと思えてならない。
憲法をあんたの趣味で変えるなよ 草地豊子
「川柳カード」7号掲載。
衆院選は自民党の圧勝に終わった。首相は快哉を叫んでいることだろう。
歴史の曲がり角をひとつ曲がったのかもしれない。
この後にやって来るのは憲法改悪である。
「シナリオ」という言い方がある。政治は人間の行動が関わっているから、今後どうなってゆくという予想は立てにくい。けれども、いろいろな条件を当てはめていくと、いくつかのシナリオが考えられる。私には最悪のシナリオが思い浮かんで消えない。
将来になってから、過去を振り返ったときに、あのときの選択は間違っていたということにならないように願う。
掲出句は選挙以前に詠まれた句だが、現時点で更に重い意味をもってくる。
原発を捨てる燃えないゴミの日に 佐藤みさ子
「MANO」19号掲載。
昨年7月のこのブログに「佐藤みさ子は怒っている」という文章を書いたことがある。みさ子の怒りはなお続いている。
「夏草と闘う死者になってから」「海水に混ぜて毎日流します」「せんそうはひとはしらからはじめます」など、今のみさ子は現実と向き合う川柳を書いている。
佐藤みさ子のファンにとっては時事川柳という「消える川柳」ではなくて、もっと文芸的な川柳を書いてほしいという向きもあるだろう。けれども、そうではないのだ。
表層的な時事川柳は消えてゆくが、時代の本質をついた時事川柳は時を越えて残るはずである。深い批評性をもった作品であれば、読み継がれていくことができる。私は中野重治が好きだった。プロレタリア文学のいくつかの小説は今でも読む価値がある。
批評性と文学性の統一という困難な路を佐藤みさ子は歩んでいるのだ。
聖戦続くグラグラ揺れて来る奥歯 滋野さち
「触光」39号掲載。
イスラム国やイスラム過激派のニュースが日々報道されている。
海の向こうの話のようだが、日本も無関係ではいられない。
アメリカのテレビドラマなどを見るとしばしばテロリストが登場し、リアルである。彼らにとっては実感なのだろう。
「聖戦」という非日常と、「グラグラ揺れて来る奥歯」の日常はどこかでつながっている。日常もグラグラ揺れてくるのだ。
冬夕焼け富士の噴火を見て死のう 渡辺隆夫
『六福神』所収。
御嶽山の噴火以前の作品だが、もし富士山が噴火するとすれば、地震や津波・噴火など、すべての自然災害の象徴的意味をもつだろう。
老年を迎えた人間にとって「死」は意識せざるをえないものだが、死ぬ前に富士山の大噴火でも見ておきたいというのは、『平家物語』の平知盛のように、「見るべきほどのことは見つ」と言い放ちたい心情に通じるだろう。
「津波引き日本全国へびいちご」(渡辺隆夫)
権力をもつ風景をゆるせるか 前田芙巳代
「川柳カード」7号掲載。
権力というものは間違いなく存在するのだが、ふだんは巧妙に隠蔽されていて、私たちは権力者に支配されているという実感はあまり持たない。けれども、近ごろは権力者が言論を抑圧し、情報操作によって大衆をコントロールしている姿が露骨に目にうつるようになってきた。また、以前なら許されなかったような政治的発言がそれほど批判されることもなく、まかり通っている。「権力者のいる風景」はすでに日常となっているのだ。
かつて前田芙巳代は「情念川柳」の書き手と言われた。その彼女が時代の現実と向かい合った川柳を書いている。
必ずしも時事川柳を本領としない川柳人であっても、現代という時代に批評性をもって対峙しようとしている。そこには「やむにやまれぬ気持ち」があるのだと思えてならない。
2014年12月5日金曜日
和漢連句を楽しむ会
11月30日に伊丹の柿衞文庫で「和漢連句を楽しむ会」が開催された。
「和漢連句」単独の実作会としては、平成ではおそらく初の出来事ではないだろうか。
ところで「和漢連句」とはどういうものだろうか。
連句は長句(五七五)と短句(七七)を交互に付けてゆくが、そこに和句だけではなく漢句(漢字五字の句)を混ぜてゆくのである。実物はあとでご紹介するが、この和漢連句の実作者は、現在ほとんどいない。その第一人者である赤田玖實子は、故・三好龍肝の和漢連句を継承している。赤田による「和漢聯句」の説明をまず紹介する。
「和漢聯句とは、中国の聯句(二人以上で句を連ね一首の詩を作る)と日本の連歌が結びついてできた連句文芸の一種で、和漢連歌、和漢連句の二種類がある。広い意味で、和漢聯句の名称は、これら和漢・漢和の連歌、俳諧を総称するものである」
この聯句形式は平安時代に一部の詩人に愛好され、鎌倉時代には長連歌の影響を受けた。和漢連歌の全盛期は室町時代で、五山の詩僧、公家、連歌師などによって大いに行なわれた。
「室町期以後の狂詩、俳諧の勃興に伴い、和漢連歌は和漢俳諧に形を変え、江戸時代を通じて一部人士の間で、引き続き作られてきたというが、各俳書に書かれている漢句の作り方は、どれもが漢詩を骨子にしており、儒者、漢学者、僧侶や武士といった人以外にとり、平仄の煩わしさが、連歌の世界ほどには作られなくなった、大きな要因ではなかったかと考えられる」(「和漢聯句 始まりとその変遷」)
さて、当日は京都大学・文学部教授の大谷雅夫氏の講演「芭蕉の和漢聯句について」があった。大谷氏の話によると、京大文学部の国文学研究室の隣には中国文学研究室があるが、両者の交流はなかった。それで共同研究をやろうということになって、選ばれたテーマが「和漢連句」だったということだ。その共同研究が表彰されることになって、伊賀上野における平成23年度芭蕉祭記念講演会で大谷さんが講演することになった。その講演を聞いていたひとりが赤田さんだった。講演のあと赤田は大谷に「和漢連句の実作者です」と名のった。大谷はそのときの驚きを「マンモスの研究者が生きて歩いているマンモスに不意に出会ったようなもの」と語っている。
大谷が最初に和漢連句の存在を知ったのは伊藤仁斎の日記からだった。
『仁斎日記』の天和三年五月二十五日に、伏見殿で和漢連句を巻いたことが出ている。
公家の伏見家に仁斎は弟や子(のちの東涯)、弟子たちを連れて訪れた。発句は
若竹のよよにたえぬや家の風
若竹の節々に絶えることなく伏見家の学問の伝統が続いてゆくという挨拶である。これに伏見家の子息(十七歳)が漢句を付けて応じている。
江戸時代の儒者や公家には和漢連句の心得があったことがわかる。伊藤仁斎は京都の儒者で『論語古義』などで知られる。京都堀川には彼の住居跡「古義堂」が残っているので、いつか訪れてみたいと思った。
さて、芭蕉には和漢連句が一つ残されている(和漢「破風口に」の巻)。そのオモテ六句を紹介する。
納涼の折々いひ捨たる和漢 月の前にしてみたしむ
破風口に日影やよはる夕涼 芭蕉
煮 茶 蠅 避 烟 素堂
合 歓 醒 馬 上 堂
かさなる小田の水落す也 蕉
月 代 見 金 気 堂
露 繁 添 玉 涎 堂
『奥の細道』の旅を終えたあと、芭蕉は伊賀上野・幻住庵・落柿舎などに滞在し、元禄四年冬に江戸に戻った。知友の山口素堂との交流から生まれたのが「破風口に」の巻である。
破風は屋根の高いところにある合掌形の二枚の板、または三角の部分をいう。発句は破風口にさす夏の陽光も薄らいできて、夕涼みの時間になったという挨拶である。素堂は脇句で、茶を煎ずる音を蝿の飛ぶ音にたとえて応じている。
講演のあとは五座に分かれて、和漢連句を巻いた。25人の参加者があったのは画期的なことだった。
当日は名古屋で「プロムナード現代短歌2014」が開催されていた。
第一部は、荻原裕幸の司会、パネラーに島田修三、佐藤文香、なかはられいこ。
短歌・俳句・川柳のジャンル論が話題に。
第二部は司会が斉藤斎藤、パネラーが加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸。
短歌研究新人賞の石井僚一「父親のような雨に打たれて」のことなどが話題に上り、「虚構」の問題が論じられたらしい。
ブログやツイッターでレポートが出ているが、やはり実際に参加してみないと本当のことはわからない。
「老虎亭通信 イキテク」7号(松島正一)が届いた。
松島はブレイクの研究者で岩波文庫『ブレイク詩集』の訳者である。妻の松島アンズには『赤毛のアン』の翻訳があり、連句人としても有名。
年に一度の老虎亭連句会では日本語・英語同時進行の歌仙を巻いている。歌仙「曼珠紗華」の巻からウラの六句を紹介しよう。
ひめやかに東司に巣くう女郎雲 丁那
浄瑠璃人形腰をゆらりと アンズ
豚を焼く煙に集う三百余 愛音
兜の緒締め山を駆け下り 渉
歳末のこんなときにもチェストいけ 雀羅
僕らの波を砕く寒月 丁那
A queen spider/silently weaving /in a zen temple toilet
Joruri puppet twisted / its waist so womanly
Pig roast / some three hundred people / around the smoke
Tightening the helmet / running down the mountain
What a nerve /on New Year’s Eve / he shouts charge!
The cold moon /shatters the wave we make
ジャンルを越え、言語を越え、文芸にはさまざまなコラボレーションがあるものだ。
「和漢連句」単独の実作会としては、平成ではおそらく初の出来事ではないだろうか。
ところで「和漢連句」とはどういうものだろうか。
連句は長句(五七五)と短句(七七)を交互に付けてゆくが、そこに和句だけではなく漢句(漢字五字の句)を混ぜてゆくのである。実物はあとでご紹介するが、この和漢連句の実作者は、現在ほとんどいない。その第一人者である赤田玖實子は、故・三好龍肝の和漢連句を継承している。赤田による「和漢聯句」の説明をまず紹介する。
「和漢聯句とは、中国の聯句(二人以上で句を連ね一首の詩を作る)と日本の連歌が結びついてできた連句文芸の一種で、和漢連歌、和漢連句の二種類がある。広い意味で、和漢聯句の名称は、これら和漢・漢和の連歌、俳諧を総称するものである」
この聯句形式は平安時代に一部の詩人に愛好され、鎌倉時代には長連歌の影響を受けた。和漢連歌の全盛期は室町時代で、五山の詩僧、公家、連歌師などによって大いに行なわれた。
「室町期以後の狂詩、俳諧の勃興に伴い、和漢連歌は和漢俳諧に形を変え、江戸時代を通じて一部人士の間で、引き続き作られてきたというが、各俳書に書かれている漢句の作り方は、どれもが漢詩を骨子にしており、儒者、漢学者、僧侶や武士といった人以外にとり、平仄の煩わしさが、連歌の世界ほどには作られなくなった、大きな要因ではなかったかと考えられる」(「和漢聯句 始まりとその変遷」)
さて、当日は京都大学・文学部教授の大谷雅夫氏の講演「芭蕉の和漢聯句について」があった。大谷氏の話によると、京大文学部の国文学研究室の隣には中国文学研究室があるが、両者の交流はなかった。それで共同研究をやろうということになって、選ばれたテーマが「和漢連句」だったということだ。その共同研究が表彰されることになって、伊賀上野における平成23年度芭蕉祭記念講演会で大谷さんが講演することになった。その講演を聞いていたひとりが赤田さんだった。講演のあと赤田は大谷に「和漢連句の実作者です」と名のった。大谷はそのときの驚きを「マンモスの研究者が生きて歩いているマンモスに不意に出会ったようなもの」と語っている。
大谷が最初に和漢連句の存在を知ったのは伊藤仁斎の日記からだった。
『仁斎日記』の天和三年五月二十五日に、伏見殿で和漢連句を巻いたことが出ている。
公家の伏見家に仁斎は弟や子(のちの東涯)、弟子たちを連れて訪れた。発句は
若竹のよよにたえぬや家の風
若竹の節々に絶えることなく伏見家の学問の伝統が続いてゆくという挨拶である。これに伏見家の子息(十七歳)が漢句を付けて応じている。
江戸時代の儒者や公家には和漢連句の心得があったことがわかる。伊藤仁斎は京都の儒者で『論語古義』などで知られる。京都堀川には彼の住居跡「古義堂」が残っているので、いつか訪れてみたいと思った。
さて、芭蕉には和漢連句が一つ残されている(和漢「破風口に」の巻)。そのオモテ六句を紹介する。
納涼の折々いひ捨たる和漢 月の前にしてみたしむ
破風口に日影やよはる夕涼 芭蕉
煮 茶 蠅 避 烟 素堂
合 歓 醒 馬 上 堂
かさなる小田の水落す也 蕉
月 代 見 金 気 堂
露 繁 添 玉 涎 堂
『奥の細道』の旅を終えたあと、芭蕉は伊賀上野・幻住庵・落柿舎などに滞在し、元禄四年冬に江戸に戻った。知友の山口素堂との交流から生まれたのが「破風口に」の巻である。
破風は屋根の高いところにある合掌形の二枚の板、または三角の部分をいう。発句は破風口にさす夏の陽光も薄らいできて、夕涼みの時間になったという挨拶である。素堂は脇句で、茶を煎ずる音を蝿の飛ぶ音にたとえて応じている。
講演のあとは五座に分かれて、和漢連句を巻いた。25人の参加者があったのは画期的なことだった。
当日は名古屋で「プロムナード現代短歌2014」が開催されていた。
第一部は、荻原裕幸の司会、パネラーに島田修三、佐藤文香、なかはられいこ。
短歌・俳句・川柳のジャンル論が話題に。
第二部は司会が斉藤斎藤、パネラーが加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸。
短歌研究新人賞の石井僚一「父親のような雨に打たれて」のことなどが話題に上り、「虚構」の問題が論じられたらしい。
ブログやツイッターでレポートが出ているが、やはり実際に参加してみないと本当のことはわからない。
「老虎亭通信 イキテク」7号(松島正一)が届いた。
松島はブレイクの研究者で岩波文庫『ブレイク詩集』の訳者である。妻の松島アンズには『赤毛のアン』の翻訳があり、連句人としても有名。
年に一度の老虎亭連句会では日本語・英語同時進行の歌仙を巻いている。歌仙「曼珠紗華」の巻からウラの六句を紹介しよう。
ひめやかに東司に巣くう女郎雲 丁那
浄瑠璃人形腰をゆらりと アンズ
豚を焼く煙に集う三百余 愛音
兜の緒締め山を駆け下り 渉
歳末のこんなときにもチェストいけ 雀羅
僕らの波を砕く寒月 丁那
A queen spider/silently weaving /in a zen temple toilet
Joruri puppet twisted / its waist so womanly
Pig roast / some three hundred people / around the smoke
Tightening the helmet / running down the mountain
What a nerve /on New Year’s Eve / he shouts charge!
The cold moon /shatters the wave we make
ジャンルを越え、言語を越え、文芸にはさまざまなコラボレーションがあるものだ。
2014年11月28日金曜日
川柳をどう配信するか
ツイッターで瀬戸夏子の「短歌bot」を読んでいる。毎日おびただしい数の現代短歌が配信されてきて、目がくらむようだ。10月にスタートして約一ヶ月で2000首を越えている。どういうシステムか私にはよくわからないが、あらかじめまとめて入力しておいて、配信時間を設定しておくと、機械が自動的にランダムに配信してくれるようだ。自作だけではなくて、短詩型文学をこういうかたちで配信できるのだ。
短歌のbotはいろいろあるが、川柳でもbotがあるかどうか探してみると、あるにはあるのだが、江戸川柳だったり下ネタ川柳だったりするので、がっかりした。
ネットプリントというのもある。コンビニのコピー機でユーザー番号と予約番号を打ち込めば、プリントアウトされてくる。プリント代は一枚20円(白黒)だから、6枚としても120円。ただし、期間限定ということと、打ち出してみないとどんなものが出てくるか分からないので、当り外れはある。ためしに「ぺんぎんぱんつ」(しんくわ、田中まひる)を購入してみた。正岡豊の「秋ノ国トハ」から。
十月のはじめ
妻と
数年前に亡くなった
父の墓参りにいった
ちいさめの赤と白とのコンバイン動いて止まる田の秋である
ぼくたちがぼくたちのお金を払いぼくたちのお昼ごはんを食べる
大仏殿前でオオクワガタムシが尼に踏まれたなどという嘘
文学フリマは東京では定着しているらしくて、しばしば開催されている。
大阪でも昨年と今年、堺市の会場で開催された。二度とも行ってみたが、初体験だった昨年の方がインパクトは強かった。短詩型では短歌が中心の感じで、小説やマンガなども活気があるが、川柳からの参加はない。
従来の活字中心の誌面構成だけでは若い世代のフィーリングをひきつけることは無理だと強く感じた。こちらの頭の中が変わらないと、何も変わらない。
フリーペーパーというものもある。
同人誌でも冊子を作るのは大変だが、一枚または数枚の紙に作品を印刷して配信するのは簡単だし、廉価にできる。
7月に「大阪短歌チョップ」に行ったときに、会場には短歌のフリーペーパーがたくさん置いてあった。手にとってみたが、購入しようとか持って帰ろうとか思わなかったのは、掲載されている作品が玉石混淆だったからだろう。手軽にできる分だけ、編集の眼とか他者の眼とかが入りにくい。選を行わずに作品を全部掲載する場合はなおさらである。
今回は現代川柳の中味ではなくて、川柳をどう配信してゆくかという、外面的な問題を考えようとして話をはじめている。
マーケットが成立していない川柳においては、どのような形で作品を読者に届けるかは切実な問題である。短詩型の世界ではどのジャンルでも状況は同じだと言われるかもしれないが、書店に並んでいる俳句・短歌・川柳の量の差を見れば川柳の劣勢は一目瞭然である。
川柳の商業誌は現在「川柳マガジン」しか存在しないから、川柳の配信は結社誌・同人誌を通じて行なわれる。結社誌であれ同人誌であれ、従来の川柳誌はすべて作者がお金を出しあって川柳誌を作り、出来上がった作品を仲間内で読むという形態をとる。不特定多数の読者が雑誌を購入することはほとんどなくて、作品の文芸的価値が問われなくてすむ。マーケットが成立するためには作品に商品価値がなければならないが、お金を出して読みたい川柳作品、お金を出して話を聞きたい川柳人はきわめて稀だろう。
そういう中で川柳作品を配信しようとすれば、従来の紙媒体の句集・書籍だけではなくて、SNSを利用していく方向に進んでいかざるをえない。句会という座の文芸に馴染んできた川柳人にとっては苦手なSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だが、みんなが発信しないと情報の海の中で、川柳はますます埋没していってしまう。
12月20日に伊丹の柿衞文庫で「第三回俳句Gathering」が開催される。
ゲストに短歌同人誌「一角」の土岐友浩が来て話すことになっているので、若い世代の表現者たちが自分たちの作品をどのような形で配信しようとしているのか聞けるものと期待している。
川柳大会に高齢化した川柳人が何百人も集まったり、自分で会費を払って掲載された川柳誌の自作を眺めて自己満足にふけったり、ISBNコードのない句集を仲間内で配布したりしているだけでは、川柳は先細ってゆくだけである。
句会は魅力的な川柳イベントと連動してオープンなかたちで開催されることが必要となる。講演会や句会ライブ、ワークショップなどを仕掛けてゆくことも重要。参加型のイベントでないと人は集まらない。短歌・俳句に比べて後発の川柳にはまだ試みられていないことがいっぱいある。うまくいくという保証はどこにもないが、とにかく何かをやってみることが大切だろう。
『新現代川柳必携』(田口麦彦編、三省堂)が電子書籍として販売されることになったそうだ。丸善のeブックライブラリーのページから購入できる。こういう形の配信も今後増えてゆくことと思われる。
短歌のbotはいろいろあるが、川柳でもbotがあるかどうか探してみると、あるにはあるのだが、江戸川柳だったり下ネタ川柳だったりするので、がっかりした。
ネットプリントというのもある。コンビニのコピー機でユーザー番号と予約番号を打ち込めば、プリントアウトされてくる。プリント代は一枚20円(白黒)だから、6枚としても120円。ただし、期間限定ということと、打ち出してみないとどんなものが出てくるか分からないので、当り外れはある。ためしに「ぺんぎんぱんつ」(しんくわ、田中まひる)を購入してみた。正岡豊の「秋ノ国トハ」から。
十月のはじめ
妻と
数年前に亡くなった
父の墓参りにいった
ちいさめの赤と白とのコンバイン動いて止まる田の秋である
ぼくたちがぼくたちのお金を払いぼくたちのお昼ごはんを食べる
大仏殿前でオオクワガタムシが尼に踏まれたなどという嘘
文学フリマは東京では定着しているらしくて、しばしば開催されている。
大阪でも昨年と今年、堺市の会場で開催された。二度とも行ってみたが、初体験だった昨年の方がインパクトは強かった。短詩型では短歌が中心の感じで、小説やマンガなども活気があるが、川柳からの参加はない。
従来の活字中心の誌面構成だけでは若い世代のフィーリングをひきつけることは無理だと強く感じた。こちらの頭の中が変わらないと、何も変わらない。
フリーペーパーというものもある。
同人誌でも冊子を作るのは大変だが、一枚または数枚の紙に作品を印刷して配信するのは簡単だし、廉価にできる。
7月に「大阪短歌チョップ」に行ったときに、会場には短歌のフリーペーパーがたくさん置いてあった。手にとってみたが、購入しようとか持って帰ろうとか思わなかったのは、掲載されている作品が玉石混淆だったからだろう。手軽にできる分だけ、編集の眼とか他者の眼とかが入りにくい。選を行わずに作品を全部掲載する場合はなおさらである。
今回は現代川柳の中味ではなくて、川柳をどう配信してゆくかという、外面的な問題を考えようとして話をはじめている。
マーケットが成立していない川柳においては、どのような形で作品を読者に届けるかは切実な問題である。短詩型の世界ではどのジャンルでも状況は同じだと言われるかもしれないが、書店に並んでいる俳句・短歌・川柳の量の差を見れば川柳の劣勢は一目瞭然である。
川柳の商業誌は現在「川柳マガジン」しか存在しないから、川柳の配信は結社誌・同人誌を通じて行なわれる。結社誌であれ同人誌であれ、従来の川柳誌はすべて作者がお金を出しあって川柳誌を作り、出来上がった作品を仲間内で読むという形態をとる。不特定多数の読者が雑誌を購入することはほとんどなくて、作品の文芸的価値が問われなくてすむ。マーケットが成立するためには作品に商品価値がなければならないが、お金を出して読みたい川柳作品、お金を出して話を聞きたい川柳人はきわめて稀だろう。
そういう中で川柳作品を配信しようとすれば、従来の紙媒体の句集・書籍だけではなくて、SNSを利用していく方向に進んでいかざるをえない。句会という座の文芸に馴染んできた川柳人にとっては苦手なSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だが、みんなが発信しないと情報の海の中で、川柳はますます埋没していってしまう。
12月20日に伊丹の柿衞文庫で「第三回俳句Gathering」が開催される。
ゲストに短歌同人誌「一角」の土岐友浩が来て話すことになっているので、若い世代の表現者たちが自分たちの作品をどのような形で配信しようとしているのか聞けるものと期待している。
川柳大会に高齢化した川柳人が何百人も集まったり、自分で会費を払って掲載された川柳誌の自作を眺めて自己満足にふけったり、ISBNコードのない句集を仲間内で配布したりしているだけでは、川柳は先細ってゆくだけである。
句会は魅力的な川柳イベントと連動してオープンなかたちで開催されることが必要となる。講演会や句会ライブ、ワークショップなどを仕掛けてゆくことも重要。参加型のイベントでないと人は集まらない。短歌・俳句に比べて後発の川柳にはまだ試みられていないことがいっぱいある。うまくいくという保証はどこにもないが、とにかく何かをやってみることが大切だろう。
『新現代川柳必携』(田口麦彦編、三省堂)が電子書籍として販売されることになったそうだ。丸善のeブックライブラリーのページから購入できる。こういう形の配信も今後増えてゆくことと思われる。
2014年11月14日金曜日
小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』
天王寺の大阪市立美術館で「独立展」を見た。毎年、この時期に開催されるので楽しみにしている。独立美術協会の斎藤吾朗氏は画家で連句人でもある。画廊連句で知り合ってから、毎年展覧会の案内を送ってくれる。この人の絵を見にゆくのである。
今年は「富士に寿ぐ」が出品されていて、世界遺産登録にちなんだものか、富士を中心として清水港から伊豆の下田までパノラマのような世界が展開されている。彼は三河在住で、赤を基調とした独特の画風なので「三河の赤絵」として知られている。
全体の構想もさることながら、ディテールのおもしろさが抜群で、清水の次郎長がいたり、ペリーが来航していたり、太宰治が「富士には月見草が…」と呟いていたりする。富士浅間神社の信仰も描かれているが、古今東西のさまざまな登場人物たちが画面狭しとひしめきながら一堂に会しているのだ。そこにはメッセージ性がこめられている。
会場でもらった「独立ノート」第4号には「私のターニングポイント」として絹谷幸二のインタビューが載っている。むかし「日曜美術館」でこの画家が「土佐の絵金」のことを語っていたのを覚えている。絹谷はこんなふうに語っている。
「独立展の出品者の中にも、何年も何年も同じような絵を描いている人がいますよね。そういう人は質的な時間が多岐に渡っていない、つまり自分の絵を模写しているように見えます。独立展の場合は進取の気性に満ち、挑戦している絵でないといけません。新規な時間が生み出されていないということは存在がないということです」
「川柳塔」は今年創立90周年を迎え、10月4日に「第20回川柳塔まつり・川柳雑誌・川柳塔90周年記念川柳大会」が開催された。それにあわせて、主幹の小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』が発行されている。
ひとすじの煙たかぶりなどはない
晩年の味方は一人あればよい
みんなみな幻正座してひとり
座禅組む急ぐことなどないこの世
精神力だけで立ってたのか葦よ
一喝をしてから眠れなくなった
序文のかわりに橘高薫風の「川柳塔の旗手 小島蘭幸」が収録されている。「川柳木馬」38号(昭和63年)の「次代を担う昭和2桁生まれの作家群像」に掲載されたものの再録である。
薫風はこんなふうに書いている。
「川柳界の動きは、明治三十年代の川柳復興期から、時代を先取りしたのは常に若者であったが、総じて微温的であった」「明治二十年代に生まれた作家たちの中で、麻生路郎、村田周魚、椙元紋太、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎が六大家と呼称されるように傑出した。また、大正末期から昭和一桁生まれの作家が、昭和42年5月京都国際会議場で開催された平安川柳社十周年記念大会で、当時の新進として壇上に顔を並べた印象は今も鮮やかで、壇上で質問を受けた新進の人たちが、現在充実した指導力を各地で発揮している。そして、次代の川柳界を背負うのが、小島蘭幸の世代、つまり戦後生まれの団塊ではなかろうか」
昭和末年ごろまでの川柳界の状況論として読んでも興味深い。
小島蘭幸は昭和23年、広島県竹原市に生まれる。15歳で川柳をはじめ、竹原川柳会に入会した。昭和42年、川柳塔社・同人。平成22年、川柳塔社・主幹。
前掲の文章で、薫風は続けて次のように書いている。
「しかしながらまた、竹原川柳会を中央から指導していたのは清水白柳と菊沢小松園であり、その上に当時の川柳塔の主幹、中島生々庵がいて、三人ながら穏健保守の作風であったので、新進の蘭幸にはいささか不満な場合もあったのではなかろうか。これは、私が麻生路郎について指導を受けた当初に抱いたもので、私の作る古い句ばかり入選にして、自分では意欲的に作った斬新な句は没続き、全く考え込んでしまったのだが、数年を経て、その感覚的な斬新さが本物になってきたとき、続けさまに入選にして下さった」
川柳結社が若手を育てる機能を失っていなかった時代の姿がここにはある。
「川柳木馬」に掲載されたもうひとつの蘭幸論は、石原伯峯(広島川柳会会長)の「句集『再開』とそれからの蘭幸」である。『再会』は蘭幸が結婚を機に発行した第一句集である。この文章で伯峯が注目していたのは次の四句である。
僕の視野にカラスが一羽だけとなる
むかしむかしのやさしさがある藁の灰
いのちふたつあれば悪人にもなろう
うさぎの耳もわたしの耳も怖がり
蘭幸は竹原川柳会や川柳塔とともに歩んできた。そのことは、たとえば次のような句にも感じられる。
真夜中の酒よ六大家を想う
創刊号ひらくと波の音がする
恐ろしい人がいっぱいいた昭和
生々庵栞薫風路郎の忌
ライバルも私も痩せていた昭和
「蘭幸には社会を諷刺し、他人に敵対するような句はない。それはそれでよい。どんな対象であれ、無理につくることはないのである。言いたいことだけを言うことだ。饒舌は中味が薄くなるばかりである」
橘高薫風は蘭幸の作品についてこのように書いている。
昭和の川柳界には「恐ろしい人」がいっぱいいた。他人に敵対するというような表層的なことを言うのではないが、蘭幸にもまた「恐ろしい川柳人」になってほしいと思っている。
今年は「富士に寿ぐ」が出品されていて、世界遺産登録にちなんだものか、富士を中心として清水港から伊豆の下田までパノラマのような世界が展開されている。彼は三河在住で、赤を基調とした独特の画風なので「三河の赤絵」として知られている。
全体の構想もさることながら、ディテールのおもしろさが抜群で、清水の次郎長がいたり、ペリーが来航していたり、太宰治が「富士には月見草が…」と呟いていたりする。富士浅間神社の信仰も描かれているが、古今東西のさまざまな登場人物たちが画面狭しとひしめきながら一堂に会しているのだ。そこにはメッセージ性がこめられている。
会場でもらった「独立ノート」第4号には「私のターニングポイント」として絹谷幸二のインタビューが載っている。むかし「日曜美術館」でこの画家が「土佐の絵金」のことを語っていたのを覚えている。絹谷はこんなふうに語っている。
「独立展の出品者の中にも、何年も何年も同じような絵を描いている人がいますよね。そういう人は質的な時間が多岐に渡っていない、つまり自分の絵を模写しているように見えます。独立展の場合は進取の気性に満ち、挑戦している絵でないといけません。新規な時間が生み出されていないということは存在がないということです」
「川柳塔」は今年創立90周年を迎え、10月4日に「第20回川柳塔まつり・川柳雑誌・川柳塔90周年記念川柳大会」が開催された。それにあわせて、主幹の小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』が発行されている。
ひとすじの煙たかぶりなどはない
晩年の味方は一人あればよい
みんなみな幻正座してひとり
座禅組む急ぐことなどないこの世
精神力だけで立ってたのか葦よ
一喝をしてから眠れなくなった
序文のかわりに橘高薫風の「川柳塔の旗手 小島蘭幸」が収録されている。「川柳木馬」38号(昭和63年)の「次代を担う昭和2桁生まれの作家群像」に掲載されたものの再録である。
薫風はこんなふうに書いている。
「川柳界の動きは、明治三十年代の川柳復興期から、時代を先取りしたのは常に若者であったが、総じて微温的であった」「明治二十年代に生まれた作家たちの中で、麻生路郎、村田周魚、椙元紋太、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎が六大家と呼称されるように傑出した。また、大正末期から昭和一桁生まれの作家が、昭和42年5月京都国際会議場で開催された平安川柳社十周年記念大会で、当時の新進として壇上に顔を並べた印象は今も鮮やかで、壇上で質問を受けた新進の人たちが、現在充実した指導力を各地で発揮している。そして、次代の川柳界を背負うのが、小島蘭幸の世代、つまり戦後生まれの団塊ではなかろうか」
昭和末年ごろまでの川柳界の状況論として読んでも興味深い。
小島蘭幸は昭和23年、広島県竹原市に生まれる。15歳で川柳をはじめ、竹原川柳会に入会した。昭和42年、川柳塔社・同人。平成22年、川柳塔社・主幹。
前掲の文章で、薫風は続けて次のように書いている。
「しかしながらまた、竹原川柳会を中央から指導していたのは清水白柳と菊沢小松園であり、その上に当時の川柳塔の主幹、中島生々庵がいて、三人ながら穏健保守の作風であったので、新進の蘭幸にはいささか不満な場合もあったのではなかろうか。これは、私が麻生路郎について指導を受けた当初に抱いたもので、私の作る古い句ばかり入選にして、自分では意欲的に作った斬新な句は没続き、全く考え込んでしまったのだが、数年を経て、その感覚的な斬新さが本物になってきたとき、続けさまに入選にして下さった」
川柳結社が若手を育てる機能を失っていなかった時代の姿がここにはある。
「川柳木馬」に掲載されたもうひとつの蘭幸論は、石原伯峯(広島川柳会会長)の「句集『再開』とそれからの蘭幸」である。『再会』は蘭幸が結婚を機に発行した第一句集である。この文章で伯峯が注目していたのは次の四句である。
僕の視野にカラスが一羽だけとなる
むかしむかしのやさしさがある藁の灰
いのちふたつあれば悪人にもなろう
うさぎの耳もわたしの耳も怖がり
蘭幸は竹原川柳会や川柳塔とともに歩んできた。そのことは、たとえば次のような句にも感じられる。
真夜中の酒よ六大家を想う
創刊号ひらくと波の音がする
恐ろしい人がいっぱいいた昭和
生々庵栞薫風路郎の忌
ライバルも私も痩せていた昭和
「蘭幸には社会を諷刺し、他人に敵対するような句はない。それはそれでよい。どんな対象であれ、無理につくることはないのである。言いたいことだけを言うことだ。饒舌は中味が薄くなるばかりである」
橘高薫風は蘭幸の作品についてこのように書いている。
昭和の川柳界には「恐ろしい人」がいっぱいいた。他人に敵対するというような表層的なことを言うのではないが、蘭幸にもまた「恐ろしい川柳人」になってほしいと思っている。
2014年11月7日金曜日
江田浩司歌集『逝きし者のやうに』
江田浩司歌集『逝きし者のやうに』(北冬舎)について書いてみたい。
表現者は多かれ少なかれ先行の作品に影響を受けているものだが、この歌集は先人への追悼とオマージュそのものを主題としている。塚本邦雄・山中智恵子・近藤芳美・北村太郎・蕪村・村松友次・荒川修作…このように挙げてゆくと、江田の詩魂のありどころが浮かびあがってくる。かつて「精神のリレー」ということが言われたことがあったが、「魂のリレー」というようなものがこの歌集には感じられる。
江田は村松友次に俳諧を学び、塚本邦雄の影響を受けて短歌をはじめたという。従って彼は俳諧と短歌という両形式を知悉しているから、偏狭でありつつ総合的なのである。
先人に対する追悼歌を一首ずつ挙げてみよう。括弧内に誰に対する追悼なのかを示しておくが、章名は省略させていただく。
水上に死の立ち上がるごとくして詩魂を紡ぐ父は生きたり(塚本邦雄追悼)
夢の記に雨の躰を記すとき韻文はなほ香り立つかな(山中智恵子追悼)
揺るぎなき意志は焦土に吹く風を詩の原形の一つとなさむ(近藤芳美追悼)
水烟は立ちのぼるなりかぎろひのことばの修羅を生きる人らに(多田智満子追悼)
フーコーから話し始めし修作がジョン・ケージにて一息つきぬ(荒川修作追悼)
歎きなど莫迦らしくなる緊縛に身を任せたり一炊の夢(中川幸夫追悼)
江田は塚本邦雄を「父」と呼ぶ。精神的な父なのだろう。山中智恵子は母であろうか。
江田に俳諧を教えた村松友次は紅花の号をもつ俳人でもあった。「村松友次先生を哀悼する」の章から三首引用する。
降りしきる雪に古人の貧しさを讃へたまひし師は逝きたまふ
旅に病む芭蕉を説ける講義かな湖底に棲めるこゑはくれなゐ
紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ
村松紅花は連句界でも高名であった。
私が愛読したのは『芭蕉の手紙』『蕪村の手紙』『一茶の手紙』(大修館)の三部作である。
北村太郎は「荒地」の詩人であるが、詩集には「かげろう抄」という連句的な作品が収録されている。連句人として活躍した松村武雄は北村太郎の兄である。
「あをき夜に立つ」の章は手がこんでいて、蕪村の「北寿老仙をいたむ」に寄せたものである。この新体詩の先駆と言われる作品自体が北寿老仙(早見晋我)に対する追悼詩である。江田はそこにさらに自らの短歌を取り合わせる。たとえば、こんなふうに。
君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
砕けゆく言葉は風があがなへよ君あをき夜に立つと思へば
和歌をくずした俳諧、その俳諧をさらに崩した川柳を主なフィールドとしている私にとって、この歌集は「詩」や「韻文」に傾きすぎている。だから、次のような散文的な歌にであうと少しほっとする。
人生の七合目なりこれ以上いやな奴にはなるまいと思ふ
フラットな時代にあって、あえて屹立した言語表現にむかっていることは江田の独自性といってよい。表現者が創造の根拠とするのは、そのジャンルの伝統である。それは自ら選び取るものだから、同時代に限定されるものではなく、幽明境を異にする先人の仕事であっても生きて存在しているのだ。
もし、この歌集に対して俳諧的な読みを試みるとすれば、塚本邦雄も山中智恵子も北村太郎も、詠まれているすべての表現者たちは座の連衆であり、ひとつの祝祭空間を共有していることになる。
人生の半ばを過ぎて人の死が生きゆくことの一部となりぬ 江田浩司
向日葵のはじめての花蒼く冱えわがうちに生きゐたる死者の死 塚本邦雄
表現者は多かれ少なかれ先行の作品に影響を受けているものだが、この歌集は先人への追悼とオマージュそのものを主題としている。塚本邦雄・山中智恵子・近藤芳美・北村太郎・蕪村・村松友次・荒川修作…このように挙げてゆくと、江田の詩魂のありどころが浮かびあがってくる。かつて「精神のリレー」ということが言われたことがあったが、「魂のリレー」というようなものがこの歌集には感じられる。
江田は村松友次に俳諧を学び、塚本邦雄の影響を受けて短歌をはじめたという。従って彼は俳諧と短歌という両形式を知悉しているから、偏狭でありつつ総合的なのである。
先人に対する追悼歌を一首ずつ挙げてみよう。括弧内に誰に対する追悼なのかを示しておくが、章名は省略させていただく。
水上に死の立ち上がるごとくして詩魂を紡ぐ父は生きたり(塚本邦雄追悼)
夢の記に雨の躰を記すとき韻文はなほ香り立つかな(山中智恵子追悼)
揺るぎなき意志は焦土に吹く風を詩の原形の一つとなさむ(近藤芳美追悼)
水烟は立ちのぼるなりかぎろひのことばの修羅を生きる人らに(多田智満子追悼)
フーコーから話し始めし修作がジョン・ケージにて一息つきぬ(荒川修作追悼)
歎きなど莫迦らしくなる緊縛に身を任せたり一炊の夢(中川幸夫追悼)
江田は塚本邦雄を「父」と呼ぶ。精神的な父なのだろう。山中智恵子は母であろうか。
江田に俳諧を教えた村松友次は紅花の号をもつ俳人でもあった。「村松友次先生を哀悼する」の章から三首引用する。
降りしきる雪に古人の貧しさを讃へたまひし師は逝きたまふ
旅に病む芭蕉を説ける講義かな湖底に棲めるこゑはくれなゐ
紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ
村松紅花は連句界でも高名であった。
私が愛読したのは『芭蕉の手紙』『蕪村の手紙』『一茶の手紙』(大修館)の三部作である。
北村太郎は「荒地」の詩人であるが、詩集には「かげろう抄」という連句的な作品が収録されている。連句人として活躍した松村武雄は北村太郎の兄である。
「あをき夜に立つ」の章は手がこんでいて、蕪村の「北寿老仙をいたむ」に寄せたものである。この新体詩の先駆と言われる作品自体が北寿老仙(早見晋我)に対する追悼詩である。江田はそこにさらに自らの短歌を取り合わせる。たとえば、こんなふうに。
君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
砕けゆく言葉は風があがなへよ君あをき夜に立つと思へば
和歌をくずした俳諧、その俳諧をさらに崩した川柳を主なフィールドとしている私にとって、この歌集は「詩」や「韻文」に傾きすぎている。だから、次のような散文的な歌にであうと少しほっとする。
人生の七合目なりこれ以上いやな奴にはなるまいと思ふ
フラットな時代にあって、あえて屹立した言語表現にむかっていることは江田の独自性といってよい。表現者が創造の根拠とするのは、そのジャンルの伝統である。それは自ら選び取るものだから、同時代に限定されるものではなく、幽明境を異にする先人の仕事であっても生きて存在しているのだ。
もし、この歌集に対して俳諧的な読みを試みるとすれば、塚本邦雄も山中智恵子も北村太郎も、詠まれているすべての表現者たちは座の連衆であり、ひとつの祝祭空間を共有していることになる。
人生の半ばを過ぎて人の死が生きゆくことの一部となりぬ 江田浩司
向日葵のはじめての花蒼く冱えわがうちに生きゐたる死者の死 塚本邦雄
2014年10月31日金曜日
一周遅れで走っている僕らには希望があるかもしれない
10月19日(日)
大阪天満宮の梅香学院で「浪速の芭蕉祭」が開催された。
芭蕉終焉の地である大阪にちなんでスタートしたこの連句会も今年で八回目を迎える。
主催の「鷽の会」は天満宮のお使いである「鷽(うそ)」を会名にしており、「鷽替え」という俳句の季語もある。
今回は28名の参加者があり、本殿参拝のあと、授賞式と講評、四座にわかれて連句の実作を楽しんだ。
献詠の連句・前句付・川柳を事前に募集しており、連句の部では、大阪天満宮賞(選者・臼杵游児)として、非懐紙「束の間の」の巻(捌・福永千晴)、大阪天満宮宮司賞(選者・佛渕健悟)として、十八韻 順候式雪月花「夏怒濤」の巻(赤坂恒子・岡本信子両吟)が受賞した。
束の間の逍遥遊や虹の橋 千晴
端折る裾も軽き早乙女 美奈子
富める者易き眠りの得難うて 秋扇
打てば響ける会話愉しく 緋紗
仕組まれし宴まばゆき良夜なる 将義
ナルシスト等は囮籠持ち 美奈子
「束の間」の巻の最初の六句。非懐紙は橋閒石が創始し、澁谷道などが継承している。現代連句の究極のかたちとも考えられ、今回の「浪速の芭蕉祭」では三席にも非懐紙「思い出し笑ひ」の巻が入選している。歌仙を巻き尽くしたあとにはじめて見えてくる、連句精神だけで付け、転じてゆく世界である。この大賞作品は尻取り式になっていて、遊戯的要素を取り入れたのがよかったのかどうか、評価は微妙に分かれるだろう。
夏怒濤くちびる別れ告げにけり 岡本信子
夾竹桃の赤き残像 赤坂恒子
もうひとつの大賞十八韻・順候式雪月花「夏怒濤」の巻は発句と脇だけを挙げておく。
ほかに大阪環状線の駅名を詠み込んだ「佳き月を」の巻(木村ふう独吟)、半歌仙「戦の日」の巻 (洛中落胡・迷鳥子両吟)、押韻定型詩を連句に取り入れたテルツァ・リーマ「聖衣」の巻(捌・渡辺柚)など注目すべき作品は多い。
前句付の部(前句「女子高生にモテモテのキャラ」、下房桃菴 選)の大賞作品。
仙人が猿の腰掛けぶら下げて 矢崎硯水
そして、川柳の部(兼題「満」、樋口由紀子 選)の特選。
無理やりに割り込むおばちゃんがいて満月 徳山泰子
連句関係のイベントとして、11月30日(日)には伊丹の柿衞文庫で「和漢連句に親しむ会」が開催予定である。
10月26日(日)
「びわこ番傘川柳会60周年記念大会」が滋賀県草津のボストンプラザホテルで開催。草津ははじめてなので午前中に到着し、本陣などを観光した。ハロウィンの催しがあり、カボチャの仮面をかぶったり、魔女の格好をした子どもたちが街中を走り回っていたのには驚いた。
「びわこ番傘」は「番傘」のなかでも独自の行き方をしている。番傘であって番傘にあらず。とはいえ披講を聞いていると、やはり「番傘」だと思ったり、いや「番傘」ではないと思ったり、どういう句を出せばよかったのかと迷った。
当日もらった今井和子句集『象と出会って』(あざみエージェント)から。
横にいて時々水をかけてやる 今井和子
入り口でウツボカズラに睨まれて
群れて飛ぶやがてひとりになっている
壱岐島で赤いポストに入れました
マネキンの裸なんでもないはだか
グアテマラの元気ないろを買いました
ざわざわと帰ったあとの金魚鉢
人生の残りは柿の木になろう
10月29日(水)
大阪・宗衛門町のロフト・プラス・ワン・ウエストで枡野浩一と藤井良樹のトーク・イベントがあり、行ってみる。藤井は『プリズン・ガール』などの著書のあるライター。
第一部は枡野と藤井のトーク。
「枡野短歌教」以後のことはあまり知らないので、枡野がお笑い芸人になっているというのには驚いた。サブカルの話にはよく分らないところもあった。
第二部に入り、会場から天野慶と正岡豊が参加し、短歌プロパーの話になった。こちらの方は私にもよく理解できた。
「20年短歌で食ってきた」というのがメイン・テーマだったようで、歌壇と距離をおきつつ、枡野が戦ってきた軌跡がわかった。
マーケットが成立しない川柳の世界とは無縁の話だという気もするが、この人たちが短歌のためにいろいろやってきたことは人ごとではない。さまざまな努力や試みは徒労に終わることが多いが、短歌や俳句を横目にあとから走っている川柳人にとっては、まだできることが残っている。
「MANO」19号に書いた拙文「河野春三伝説」について、大井恒行は「現代川柳はまだまだ希望を胚胎している詩形」と書いてくれたが、様々な試みをやり尽くした短歌・俳句にくらべて、まだ素朴な川柳には「希望」があるのかもしれないと勝手に思った。
大阪天満宮の梅香学院で「浪速の芭蕉祭」が開催された。
芭蕉終焉の地である大阪にちなんでスタートしたこの連句会も今年で八回目を迎える。
主催の「鷽の会」は天満宮のお使いである「鷽(うそ)」を会名にしており、「鷽替え」という俳句の季語もある。
今回は28名の参加者があり、本殿参拝のあと、授賞式と講評、四座にわかれて連句の実作を楽しんだ。
献詠の連句・前句付・川柳を事前に募集しており、連句の部では、大阪天満宮賞(選者・臼杵游児)として、非懐紙「束の間の」の巻(捌・福永千晴)、大阪天満宮宮司賞(選者・佛渕健悟)として、十八韻 順候式雪月花「夏怒濤」の巻(赤坂恒子・岡本信子両吟)が受賞した。
束の間の逍遥遊や虹の橋 千晴
端折る裾も軽き早乙女 美奈子
富める者易き眠りの得難うて 秋扇
打てば響ける会話愉しく 緋紗
仕組まれし宴まばゆき良夜なる 将義
ナルシスト等は囮籠持ち 美奈子
「束の間」の巻の最初の六句。非懐紙は橋閒石が創始し、澁谷道などが継承している。現代連句の究極のかたちとも考えられ、今回の「浪速の芭蕉祭」では三席にも非懐紙「思い出し笑ひ」の巻が入選している。歌仙を巻き尽くしたあとにはじめて見えてくる、連句精神だけで付け、転じてゆく世界である。この大賞作品は尻取り式になっていて、遊戯的要素を取り入れたのがよかったのかどうか、評価は微妙に分かれるだろう。
夏怒濤くちびる別れ告げにけり 岡本信子
夾竹桃の赤き残像 赤坂恒子
もうひとつの大賞十八韻・順候式雪月花「夏怒濤」の巻は発句と脇だけを挙げておく。
ほかに大阪環状線の駅名を詠み込んだ「佳き月を」の巻(木村ふう独吟)、半歌仙「戦の日」の巻 (洛中落胡・迷鳥子両吟)、押韻定型詩を連句に取り入れたテルツァ・リーマ「聖衣」の巻(捌・渡辺柚)など注目すべき作品は多い。
前句付の部(前句「女子高生にモテモテのキャラ」、下房桃菴 選)の大賞作品。
仙人が猿の腰掛けぶら下げて 矢崎硯水
そして、川柳の部(兼題「満」、樋口由紀子 選)の特選。
無理やりに割り込むおばちゃんがいて満月 徳山泰子
連句関係のイベントとして、11月30日(日)には伊丹の柿衞文庫で「和漢連句に親しむ会」が開催予定である。
10月26日(日)
「びわこ番傘川柳会60周年記念大会」が滋賀県草津のボストンプラザホテルで開催。草津ははじめてなので午前中に到着し、本陣などを観光した。ハロウィンの催しがあり、カボチャの仮面をかぶったり、魔女の格好をした子どもたちが街中を走り回っていたのには驚いた。
「びわこ番傘」は「番傘」のなかでも独自の行き方をしている。番傘であって番傘にあらず。とはいえ披講を聞いていると、やはり「番傘」だと思ったり、いや「番傘」ではないと思ったり、どういう句を出せばよかったのかと迷った。
当日もらった今井和子句集『象と出会って』(あざみエージェント)から。
横にいて時々水をかけてやる 今井和子
入り口でウツボカズラに睨まれて
群れて飛ぶやがてひとりになっている
壱岐島で赤いポストに入れました
マネキンの裸なんでもないはだか
グアテマラの元気ないろを買いました
ざわざわと帰ったあとの金魚鉢
人生の残りは柿の木になろう
10月29日(水)
大阪・宗衛門町のロフト・プラス・ワン・ウエストで枡野浩一と藤井良樹のトーク・イベントがあり、行ってみる。藤井は『プリズン・ガール』などの著書のあるライター。
第一部は枡野と藤井のトーク。
「枡野短歌教」以後のことはあまり知らないので、枡野がお笑い芸人になっているというのには驚いた。サブカルの話にはよく分らないところもあった。
第二部に入り、会場から天野慶と正岡豊が参加し、短歌プロパーの話になった。こちらの方は私にもよく理解できた。
「20年短歌で食ってきた」というのがメイン・テーマだったようで、歌壇と距離をおきつつ、枡野が戦ってきた軌跡がわかった。
マーケットが成立しない川柳の世界とは無縁の話だという気もするが、この人たちが短歌のためにいろいろやってきたことは人ごとではない。さまざまな努力や試みは徒労に終わることが多いが、短歌や俳句を横目にあとから走っている川柳人にとっては、まだできることが残っている。
「MANO」19号に書いた拙文「河野春三伝説」について、大井恒行は「現代川柳はまだまだ希望を胚胎している詩形」と書いてくれたが、様々な試みをやり尽くした短歌・俳句にくらべて、まだ素朴な川柳には「希望」があるのかもしれないと勝手に思った。
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