川柳誌「バックストローク」は2003年1月に創刊された。年4回の発行をきちんと積み重ね、現在すでに33号まで出ている。「バックストローク」の特徴は、雑誌の発行と大会などのイベントとを連動させることによって「現代川柳の運動体」ともいうべき役割を果たしていることである。今年は4月9日に「第4回バックストロークおかやま大会」、9月17日には「バックストロークin名古屋」と二つの大会が予定されている。今回はこの雑誌の足かけ9年の歩みについて、大会で語られた印象的な言葉を中心に振り返ってみることにしよう。
1 「この句のどこが悪意なの?」と広瀬ちえみは言った。
発行人の石部明は創刊と同時に大会を開くことを考えていたという。「バックストロークinきょうと」は2003年9月に開催。テーマは「川柳にあらわれる悪意について」、パネラーは石田柊馬・広瀬ちえみ・樋口由紀子・筒井祥文・松本仁。パネラーの一人である広瀬ちえみの代表句に次の作品がある。
もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ 広瀬ちえみ
まるで不条理演劇を見るような作品である。司会はこの句を取り上げて、これこそ悪意の句ですねと水を向けたのに対して、広瀬は「この句のどこが悪意なんでしょうか」としれっと反問したのには驚いた。「悪意っていうのは、自分の核のようなところに潜んでいるんだ」とも彼女は言った。
2 「人間というものは気をつけていないとすぐ真面目になってしまう」(渡辺隆夫)
「バックストロークin東京」は2005年5月に開催。テーマは「軽薄について」。司会・堺利彦、パネラーは浅沼璞・中西ひろ美・渡辺隆夫・畑美樹であった。
渡辺隆夫は基調報告で「京都の〈悪意〉の対句として、お江戸の〈軽薄〉とは大変いい組み合わせだ」と語った。隆夫が「軽薄」の例句として挙げたのは次のような作品。
屋根から落ちて賑やかに死ぬ 武玉川・十八篇
この花を折るなだろうと石碑みる 柳多留・十篇
婚礼はおやもむすめも痛いこと 末摘花・初篇
秋さびしああこりゃこりゃとうたへども 高柳重信
犯した少女の靴ぺったんこぺったんこ 北野岸柳
二枚舌だから どこでも舐めてあげる 江里昭彦
渡辺の発言の白眉は「人間というものは気をつけていないとすぐ真面目になってしまう」と述べたところ。「バックストローク」誌で確かめてみたところ、テープ起こしには載っていないが、妙に記憶に残っている。聴衆からは「エエかげんにせえよ」の野次も聞かれたが、渡辺隆夫に興味をもつ人は(もたないかも知れないが)、第5句集『魚命魚辞』をひもといていただきたい。
東京大会の懇親会には「豈」の筑紫磐井・池田澄子などが応援に参加し、今は亡き長岡裕一郎も来てくれたことを思い出す。
3 「俳句の場合、解釈の手がかりとして季語があるが、それがない川柳の場合は自由な反面どう読んでいくのだろうか」(渡辺誠一郎)
「バックストロークin仙台」は2007年5月開催。テーマは「川柳にあらわれる虚について」。パネラーは小池正博・渡辺誠一郎・Sin・石田柊馬・樋口由紀子。
俳誌「小熊座」の渡辺誠一郎は「空蝉の軽さとなりし骸かな」(片山由美子)という句を取り上げて、作者は「骸」(むくろ)を「空蝉の死骸」として詠んだというが、「人間の亡骸」と解釈することもできると述べた。この発言から句の「読み」ということを改めて意識させられた。
川柳では大山竹二に次の句がある。
かぶと虫死んだ軽さになっている 大山竹二
この句はかぶと虫を詠んでいるのではなくて、作者の病涯を詠んでいるのである。俳句の読みと川柳の読みに差異はあるのか、ないのかという問題である。
あのとき訪れた仙台も今回の震災で大きな影響を受けた。一日も早い復興を祈っている。
4 「作者の『私』に信頼が置かれていない。誰かに考えさせられ、誰かに書かされているのではないかという疑いと不安の中で、信じられる瞬間的なことしか書けなくなってきている」(彦坂美喜子)
「バックストロークin大阪」は2009年9月開催。シンポジウムのテーマは「私のいる川柳/私のいない川柳」。司会・兵頭全郎、パネラーは小池正博・彦坂美喜子・樋口由紀子・吉澤久良。
それまでの3回の大会を受けて、このときのテーマは川柳の「私性」の問題を正面から取り上げた。彦坂の報告は現代短歌の私性を語ることによって川柳を照射するものであった。
現在の「バックストローク」の理論水準は、こうしたシンポジウムや大会の経験の上に成り立っていることを改めて感じる。
5 「自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それはその句が社会にどれだけ貢献しないかということです」(佐藤文香)
2007年7月に〈『石部明集』の出版を祝う会〉が開催され、その二次会の席上で石部は「岡山川柳大会」の構想を明らかにした。こうして「第1回BSおかやま川柳大会」が翌2008年4月にスタートする運びとなった。スピーチ「あなたの意見で川柳は変わる」(石部明)。
以下、「第2回BSおかやま川柳大会」(2009年4月)、鼎談「寺尾俊平と定金冬二の世界を語る」(石田柊馬・石部明・樋口由紀子)。「第3回BSおかやま川柳大会」(2010年4月)対談「石部明を三枚おろし」(司会・小池正博 樋口由紀子・石部明)。
「BSおかやま川柳大会」の売りは同一の題について2人の選者による共選が1題設定されていることである。昨年の第3回は佐藤文香・石田柊馬共選。このとき佐藤文香の発言は川柳人にとってもインパクトのあるものだった。その余波はいまも続いていて、石田柊馬は「バックストローク」33号で次のように書いている。
〈「自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないか、ということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう。真面目にでも奔放にでも、遊び上手な作品に魅力を感じるということです」。これは一人の俳人が自分の俳句をどのように認識しているかというところから、川柳を照射してくれた言葉と言える〉
6 「だし巻き柊馬」?
さて、「第4回BSおかやま川柳大会」が2週間後に迫っている。鼎談「だし巻き柊馬」で今回は石田柊馬が俎上に上る。
「バックストローク」では石田柊馬が毎号、同人作品評を書いている。ただ盲点は、柊馬自身を評することができない点である。石部明はそのことを随分気にしていたので、「バックストローク」27号では「石田柊馬をやっつけろ」という特集を組んだ。その際に柊馬論を書いた中から、今回は清水かおりと畑美樹が石田柊馬と鼎談をする。
また、関悦史と草地豊子の共選も見どころである。関悦史は震災にもかかわらず参加、川柳人との交流が楽しみである。
今秋には「バックストロークin名古屋」が9月に開催されることになっている。シンポジウム「川柳が文芸になるとき」(小池正博・樋口由紀子・畑美樹・荻原裕幸・湊圭史)。
現代川柳はひとつの文学運動になりうるだろうか。
2011年3月25日金曜日
2011年3月18日金曜日
時をかける書評
大震災が東日本を襲い、被災されたみなさまには心からお見舞いを申し上げたい。このような時には改めて文芸の無力さを自覚する。「週刊俳句」203号が俳句記事の掲載を取りやめたのはひとつの見識であったが、このささやかなブログは今週も書き継ぐことにした。私にできるのはそれしかないからである。
電子媒体が普及する世の中だが、紙の本に対する愛着は残り続けるだろう。私も古本屋を回るのが好きである。ところで、古書店の棚に川柳関係の本が目立って並ぶときがある。それは嬉しい半面、少し悲哀を感じさせるものでもある。川柳の蔵書が急に古本市場に出るということは、その所蔵者の死を意味することが多いからである。川柳に関心のない人にとっては、貴重な川柳資料も単なるガラクタにすぎない。川柳人の死後、蔵書は家人によってすぐさま売り払われてしまうのが常なのだ。
そういう経緯があったのかどうかはわからないが、最近手に入れた古書に『川柳手ほどき』(喜月庵柳汀、大正15年)がある。
大正15年と言えば、木村半文銭の『川柳作法』も同じ年に刊行されており、新興川柳運動が高まりつつあった時期である。『川柳手ほどき』は川柳入門書であるが、当時の時代背景を反映して、「川柳界の動静」の章では次のように書かれている。
「現在の日本の川柳界には、新旧思想の二潮流があります。即ち革新川柳を標榜するものと、現状維持を主張する旧踏派との二派であります。前者は川柳を一般芸術にまで進め度いと思ふ人々の運動であり、主義の現はれでありまして、その主張を概括して申しますと川柳の実質が余りに人間としての皮相と低調と無力であるのを慨いて、その内容に自己を打ち込まうとしたのであります。由来川柳といふものは、自分と云ふものを遊ばす事は出来るのでありますが、更らに、一歩深く、自分といふものを表現する事は出来難いとされて居たのであります。それは在来の川柳の歩み方では、自分の生活に現れてくる苦悩、感情思想などは、これを表現する事は絶対にゆるされてゐなかつたのです。それは川柳に対する一般的傾向が遊戯気分であり、娯楽本位であつて、川柳そのものは、実生活の余技として一つの趣味に固定してゐたからであります」
川柳は自分というものを遊ばせることはできるが、自分というものを表現することはできない―とは、なかなか面白い言い方ではないか。そのような従来の川柳観を打ち破って革新川柳が生れたのだと著者は述べている。ここでいう「革新川柳」とは「新興川柳」のことを指している。
「其の革新派の人々によつて生れた新川柳は在来の川柳と、十七音の律格を相同じくするのみで、内容とか表現法に至つては、全然趣きを異にして、あの唾棄すべき駄洒落、卑猥なる言ひ現し方、一口噺しと質を同じうする形容など、極く上調子の川柳の実質が、直観となり、神秘となり、象徴となり、哲学となつて,汎ゆる最新の学説と共に、人間に帰り人間に自覚した、真の人間の声が、川柳の本質に含まれる様になつたので古来の川柳から見る時は、世の中の酢いも甘いも知り尽した人が、若い屁理屈にこだはつて片意地を張る青二才を見た時の様な感じがするだらうと思われるのですが、それだけ革新と云ふ新運動の力が、川柳の内容にまで、強烈なる力と光と熱とを与へてゐるのであります」
「狂句百年の負債」という言葉がある。「川柳を堕落せしめた罪悪人は四世川柳であると迄絶叫する人があれども、それは四世川柳ばかりの罪ではなく、半分は社会の罪であろう」と本書にある通り、化政期以後の川柳は駄洒落に流れたと言われる。それが明治の新川柳によって近代化を果たし、大正期の新興川柳に至って直観・神秘・象徴・哲学の領域まで包含するようになった。それは酸いも甘いも噛み分けた粋人からは青二才と感じられるだろうと言うのである。一方、保守派の動向はどうだろうか。
「最近の傾向では保守派(旧踏派)の人々の中にも一つの悩みが有るらしく、多少共動かねばならないと思ふ心の現れが、幾分とも見られるのであります。かかる状態にある人は極く小部分の人々である様ですが、在来の川柳、所謂旧川柳の、無力と非常識とを大分自認して来たのは事実であります。極端に言へば『斯うしては居られない』といふ焦燥と苦慮が払われて来たのであります」
伝統派の人が「本当の伝統主義」に拠っているのではない。江戸中心の伝統主義を保持する人もいるが、漠然と「川柳は理屈ぽくないのがよい」とか「近頃の新しい川柳は川柳らしくない」という無定見の人が多いと著者は言う。何だか大正時代の話ではなく、今日の話のような気もしてくる。
「斯く現時の川柳界には此の二大潮流があり、両勢力である二派以外には川柳の存在も無く価値も無いのでありますが、多数の中には、此の二大潮流の中間主義を採つてやれ漸進主義だとか、穏健派などと称する人などもあり、甚だしいのになると、革新派系の川柳もものし、保守系の川柳も作ると云ふ二刀法の人もあつて、現在の川柳界は非常な混乱状態に陥つてゐるのです」
なかなか辛辣な書き方である。「漸進主義」「穏健派」「二刀法(二刀流)」の側にもそれなりの言い分はあるのだろうが、この著者が革新川柳の側にかなりの理解をもっていることがうかがえる。以下「新興川柳大家の作品鑑賞」が続き、新興川柳の8人の作品を紹介している。
スヰッチの右と左にある世界 森田一二
空間を立派に占めて雛が出る 渡辺尺蠖
事もなく黄菊の色の浮く夜明け 古屋夢村
毒草と知らず毒草咲きほこり 田中五呂八
言ふまでもなく唇のかはく恋 島田雅楽王
我と我足を急がせあてもなし 白石維想楼
墓石の上で小雀二羽の恋 宮島龍二
天井へ壁へ心へ鳴る一時 川上日車
けれども、その一方で古川柳の妙味も捨てがたいとしているところが、本書のバランス感覚であろう。
続く「川柳を作るにつきての注意」では「可笑しみ」「穿ち」「軽み」の三要素を挙げ、この三要素だけでは新時代の今日の流れに合っていくことは至難だと述べている。
「すればどうすれば時流に添ひて川柳の本質に反かぬ新時代の川柳を作る事が出来るかと云ふに、前述の三要素以外に真実味、超越味、写実味、感覚味などの詠まれたものが最もよいと思ひます」
「真実味」「超越味」「写実味」「感覚味」!?
これらの要素は木村半文銭が『川柳作法』で説いたものではなかったか。
ここに至って、この入門書が新興川柳の影響下に書かれたものだということが明らかになる。三要素を超越する川柳観である。かといって三要素を否定しているのでもないから、伝統川柳と新興川柳の両面をバランスよく配した川柳入門書と言うことができるだろう。
最後に「上達法」の部分から引用する。
「川柳を習ふ人の中で、川柳の持つ総ての良い点を、一人で引き受けて行かなければならないと考へる人もあるでしやうが、此れは自己を知らない行き方です。川柳に這入つてからは第一の先決問題は、自分の長所と云ふものを知る即ち自己の天分を早く知ることが最大用件であります。そうして掴み得た自己の天分を守り育てて熱心にやりさえすれば比較的早く進む事が出来るのです」
今回はラベンダーの香りを求めて「時をかける書評」を試みたのだが、そこで出会うのはやはりその時代における血の出るような問題なのである。
電子媒体が普及する世の中だが、紙の本に対する愛着は残り続けるだろう。私も古本屋を回るのが好きである。ところで、古書店の棚に川柳関係の本が目立って並ぶときがある。それは嬉しい半面、少し悲哀を感じさせるものでもある。川柳の蔵書が急に古本市場に出るということは、その所蔵者の死を意味することが多いからである。川柳に関心のない人にとっては、貴重な川柳資料も単なるガラクタにすぎない。川柳人の死後、蔵書は家人によってすぐさま売り払われてしまうのが常なのだ。
そういう経緯があったのかどうかはわからないが、最近手に入れた古書に『川柳手ほどき』(喜月庵柳汀、大正15年)がある。
大正15年と言えば、木村半文銭の『川柳作法』も同じ年に刊行されており、新興川柳運動が高まりつつあった時期である。『川柳手ほどき』は川柳入門書であるが、当時の時代背景を反映して、「川柳界の動静」の章では次のように書かれている。
「現在の日本の川柳界には、新旧思想の二潮流があります。即ち革新川柳を標榜するものと、現状維持を主張する旧踏派との二派であります。前者は川柳を一般芸術にまで進め度いと思ふ人々の運動であり、主義の現はれでありまして、その主張を概括して申しますと川柳の実質が余りに人間としての皮相と低調と無力であるのを慨いて、その内容に自己を打ち込まうとしたのであります。由来川柳といふものは、自分と云ふものを遊ばす事は出来るのでありますが、更らに、一歩深く、自分といふものを表現する事は出来難いとされて居たのであります。それは在来の川柳の歩み方では、自分の生活に現れてくる苦悩、感情思想などは、これを表現する事は絶対にゆるされてゐなかつたのです。それは川柳に対する一般的傾向が遊戯気分であり、娯楽本位であつて、川柳そのものは、実生活の余技として一つの趣味に固定してゐたからであります」
川柳は自分というものを遊ばせることはできるが、自分というものを表現することはできない―とは、なかなか面白い言い方ではないか。そのような従来の川柳観を打ち破って革新川柳が生れたのだと著者は述べている。ここでいう「革新川柳」とは「新興川柳」のことを指している。
「其の革新派の人々によつて生れた新川柳は在来の川柳と、十七音の律格を相同じくするのみで、内容とか表現法に至つては、全然趣きを異にして、あの唾棄すべき駄洒落、卑猥なる言ひ現し方、一口噺しと質を同じうする形容など、極く上調子の川柳の実質が、直観となり、神秘となり、象徴となり、哲学となつて,汎ゆる最新の学説と共に、人間に帰り人間に自覚した、真の人間の声が、川柳の本質に含まれる様になつたので古来の川柳から見る時は、世の中の酢いも甘いも知り尽した人が、若い屁理屈にこだはつて片意地を張る青二才を見た時の様な感じがするだらうと思われるのですが、それだけ革新と云ふ新運動の力が、川柳の内容にまで、強烈なる力と光と熱とを与へてゐるのであります」
「狂句百年の負債」という言葉がある。「川柳を堕落せしめた罪悪人は四世川柳であると迄絶叫する人があれども、それは四世川柳ばかりの罪ではなく、半分は社会の罪であろう」と本書にある通り、化政期以後の川柳は駄洒落に流れたと言われる。それが明治の新川柳によって近代化を果たし、大正期の新興川柳に至って直観・神秘・象徴・哲学の領域まで包含するようになった。それは酸いも甘いも噛み分けた粋人からは青二才と感じられるだろうと言うのである。一方、保守派の動向はどうだろうか。
「最近の傾向では保守派(旧踏派)の人々の中にも一つの悩みが有るらしく、多少共動かねばならないと思ふ心の現れが、幾分とも見られるのであります。かかる状態にある人は極く小部分の人々である様ですが、在来の川柳、所謂旧川柳の、無力と非常識とを大分自認して来たのは事実であります。極端に言へば『斯うしては居られない』といふ焦燥と苦慮が払われて来たのであります」
伝統派の人が「本当の伝統主義」に拠っているのではない。江戸中心の伝統主義を保持する人もいるが、漠然と「川柳は理屈ぽくないのがよい」とか「近頃の新しい川柳は川柳らしくない」という無定見の人が多いと著者は言う。何だか大正時代の話ではなく、今日の話のような気もしてくる。
「斯く現時の川柳界には此の二大潮流があり、両勢力である二派以外には川柳の存在も無く価値も無いのでありますが、多数の中には、此の二大潮流の中間主義を採つてやれ漸進主義だとか、穏健派などと称する人などもあり、甚だしいのになると、革新派系の川柳もものし、保守系の川柳も作ると云ふ二刀法の人もあつて、現在の川柳界は非常な混乱状態に陥つてゐるのです」
なかなか辛辣な書き方である。「漸進主義」「穏健派」「二刀法(二刀流)」の側にもそれなりの言い分はあるのだろうが、この著者が革新川柳の側にかなりの理解をもっていることがうかがえる。以下「新興川柳大家の作品鑑賞」が続き、新興川柳の8人の作品を紹介している。
スヰッチの右と左にある世界 森田一二
空間を立派に占めて雛が出る 渡辺尺蠖
事もなく黄菊の色の浮く夜明け 古屋夢村
毒草と知らず毒草咲きほこり 田中五呂八
言ふまでもなく唇のかはく恋 島田雅楽王
我と我足を急がせあてもなし 白石維想楼
墓石の上で小雀二羽の恋 宮島龍二
天井へ壁へ心へ鳴る一時 川上日車
けれども、その一方で古川柳の妙味も捨てがたいとしているところが、本書のバランス感覚であろう。
続く「川柳を作るにつきての注意」では「可笑しみ」「穿ち」「軽み」の三要素を挙げ、この三要素だけでは新時代の今日の流れに合っていくことは至難だと述べている。
「すればどうすれば時流に添ひて川柳の本質に反かぬ新時代の川柳を作る事が出来るかと云ふに、前述の三要素以外に真実味、超越味、写実味、感覚味などの詠まれたものが最もよいと思ひます」
「真実味」「超越味」「写実味」「感覚味」!?
これらの要素は木村半文銭が『川柳作法』で説いたものではなかったか。
ここに至って、この入門書が新興川柳の影響下に書かれたものだということが明らかになる。三要素を超越する川柳観である。かといって三要素を否定しているのでもないから、伝統川柳と新興川柳の両面をバランスよく配した川柳入門書と言うことができるだろう。
最後に「上達法」の部分から引用する。
「川柳を習ふ人の中で、川柳の持つ総ての良い点を、一人で引き受けて行かなければならないと考へる人もあるでしやうが、此れは自己を知らない行き方です。川柳に這入つてからは第一の先決問題は、自分の長所と云ふものを知る即ち自己の天分を早く知ることが最大用件であります。そうして掴み得た自己の天分を守り育てて熱心にやりさえすれば比較的早く進む事が出来るのです」
今回はラベンダーの香りを求めて「時をかける書評」を試みたのだが、そこで出会うのはやはりその時代における血の出るような問題なのである。
2011年3月11日金曜日
アヴァンギャルドと伝統
岡本太郎の話題を最近よく目にする。生誕100年ということらしく、「芸術新潮」3月号で特集されているし、東京国立近代美術館では「岡本太郎展」が始まった。大阪難波の高島屋で岡本の壁画が修復され展示されたニュースも記憶に新しい。川柳界では太郎の両親を詠んだ句「かの子には一平が居たながい雨」(時実新子)が有名である。岡本太郎と言えば「アヴァンギャルド」。今回は『岡本太郎著作集』(講談社)を読みながら、アヴァンギャルドの精神について考えてみたい。
拙著『蕩尽の文芸』(まろうど社)でも触れているが、終戦直後、「夜の会」という集まりが花田清輝と岡本太郎によってはじめられた。岡本が自転車に乗って花田のところに訪ねていったのが両者の邂逅だったというのは、いかにも戦後間もないころの雰囲気を感じさせる。けれども、『岡本太郎著作集』第1巻・埴谷雄高の解説によると、花田の本を読んで感心したことを岡本が「人間」(当時発行されていた雑誌)の編集者に話すと、それを伝え聞いた花田がさっそく岡本の家を訪れたのだという。
昭和22年夏、「夜の会」は銀座の焼け残ったビルの地下ではじまった。このビルのことは椎名麟三の『永遠なる序章』にも描かれている。参加者は花田・岡本のほかに椎名麟三・梅崎春生・野間宏・埴谷雄高・佐々木基一・安部公房・関根弘など。ここから戦後の文学運動が始まったのである。
『岡本太郎著作集』に話を戻すと、第1巻には『今日の芸術』『アヴァンギャルド芸術』などが収録されている。『今日の芸術』は今読んでもとてもおもしろい。たとえばこんな調子で書かれている。
〈 1953年、パリとニューヨークで個展をひらきました。出発するまえ、私はある場所で講演をしたのですが、いろいろ話をしたあとで、聴衆の一人から、「こんどあちらへ行かれて、何を得てこられるでしょうか?」という質問が出ました。「いや、こちらが与えに行くんです」と、私が返事をしたら、満場がドッと笑いました。私はきわめてマジメに言ったのに、意外にも大笑いされて腹だたしくなりました 〉
また、戦後間もないころ、岡本は惰性的な画壇を身をもって打ち壊そうとして、新聞に爆弾的芸術宣言を書いた。曰く、「絵画の石器時代は終わった。ほんとうの絵画は私からはじまる」―この原稿を読んだあるジャーナリストが「こんなものを活字にしたらたいへんだ。悪いことは言わない。おやめなさい」と忠告した。岡本は「だれかがやらなければ何も始まらない」と逆にそのジャーナリストを説き伏せた。ジャーナリストは感動し、「私はあなたといっしょに飛び出して死にたくはないが、しかし味方です。ぜったいに援護射撃はします」と誓い、握手をして別れた。援護射撃は結局なかったが。
さて、『今日の芸術』で岡本太郎が提唱した芸術三原則は次のようなものである。
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
ここちよくあってはならない。
岡本はアヴァンギャルドとモダニズムを厳しく区別している。
〈 芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルドです。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズムです 〉
これと対応して岡本の言説で注目すべきは、「技術」と「技能」を区別していることだ。
〈 技術は、つねに古いものを否定して、新しく創造し、発見していくものです。つまり、芸術について説明したのと同じに、革命的ということがその本質なのです 〉
〈 技能は、まさに技術とは正反対の性格をおびています。古いものを否定してどんどん前進していくのではなくて、同じことを繰りかえし繰りかえし、熟練によって到達するのが技能です 〉
そして、岡本の芸術論の核心をなすのが「対極主義」である。抽象芸術の合理性とシュールレアリスムの非合理主義という二極をともに精神の中にかかえこもうというのである。両者の中間をとるというような中庸・折衷ではない。次に引用するのは『アヴァンギャルド芸術』の一節である。
〈 私はこれを対立する二極として一つの精神の中に捉え、しかもそれらを折衷、妥協させることなく、いよいよ引き離し、矛盾、対立を強調すべきだと思うのです。そこに真に積極的な新しい芸術精神の在り方を見いだすのです。それは決して機械的に分離することではありません。〉
「対極主義」は花田清輝の「楕円」にとてもよく似ている。
このようなアヴァンギャルド・岡本太郎が「伝統」というものに対峙するとどうなるだろうか。岡本が縄文土器を高く評価したことはよく知られている。弥生ではなく、縄文なのである。そのほか岡本が評価するのは光琳である。パリでアヴァンギャルド運動に参加していた岡本は、ラテン区の本屋のショーウインドウで光琳の「紅白梅流水図」を見て衝撃を受ける。岡本は光琳についてこんなふうに述べている。
〈 明快さの裏には、技術的に、また精神的に、のっぴきならない矛盾をはらんでいる。はげしい対立を克服して、いちだんと冴えた緊張があり、不動に見える相のもとには、生まなましい傷口が私には感じとれるのです。またあのような鋭さは、逆説的な方法によってこそ生かされていることも知らなければなりません 〉
〈 それはほんとうに革命的に創りだされる芸術の、絶対的な条件とさえいえる。その根本的な矛盾こそ、いつの時代のも、人間を生命の底からゆすって動かすのです 〉
ここにも彼の対極主義的な見方があらわれている。
私が高校生だった1970年ごろ、岡本太郎の「秋田」や堀田善衛の「インドで考えたこと」は現代国語の教科書の定番だった。のちに椎名誠が「インドでわしも考えた」を書いたのは堀田の文章のパロディである。
「秋田」は岡本の『日本再発見―芸術風土記』に収録されている文章だが、その最後に毎年秋田を訪れる一人の紳士との出会いが描かれている。
「それではあなたは人生の敗北者ですね」とぶしつけに言った。
「そうです。私みたいになっちゃ、いけません」うなずいた彼はむしろ嬉しそうだった。
この文章を教えた国語の教師は「こんなことを言う方がアホじゃ」と岡本のことを罵った。
岡本太郎著作集の第4巻には『日本の伝統』『日本再発見』などが収録され、岡本の伝統との対峙の仕方がうかがえる。『日本再発見』では秋田・長崎・出雲のほか京都や大阪にも来ている。
アヴァンギャルドはモダニズムとは違う、ということを岡本は繰り返し説いている。
近世に生まれた川柳は近代をくぐりぬけて現代的展開を目指している。
岡本と並ぶもうひとりのアヴァンギャルド・花田清輝の「前近代を否定的媒介にして近代を超克する」というテーゼは果たして現代川柳にあてはめることができるだろうか。
画家・岡本太郎の最高傑作は「傷ましき腕」(1936年)だろう。しかし、岡本太郎の精神に直接触れたい人は万博公園を訪れてみればよい。太陽の塔がそこに立っている。
拙著『蕩尽の文芸』(まろうど社)でも触れているが、終戦直後、「夜の会」という集まりが花田清輝と岡本太郎によってはじめられた。岡本が自転車に乗って花田のところに訪ねていったのが両者の邂逅だったというのは、いかにも戦後間もないころの雰囲気を感じさせる。けれども、『岡本太郎著作集』第1巻・埴谷雄高の解説によると、花田の本を読んで感心したことを岡本が「人間」(当時発行されていた雑誌)の編集者に話すと、それを伝え聞いた花田がさっそく岡本の家を訪れたのだという。
昭和22年夏、「夜の会」は銀座の焼け残ったビルの地下ではじまった。このビルのことは椎名麟三の『永遠なる序章』にも描かれている。参加者は花田・岡本のほかに椎名麟三・梅崎春生・野間宏・埴谷雄高・佐々木基一・安部公房・関根弘など。ここから戦後の文学運動が始まったのである。
『岡本太郎著作集』に話を戻すと、第1巻には『今日の芸術』『アヴァンギャルド芸術』などが収録されている。『今日の芸術』は今読んでもとてもおもしろい。たとえばこんな調子で書かれている。
〈 1953年、パリとニューヨークで個展をひらきました。出発するまえ、私はある場所で講演をしたのですが、いろいろ話をしたあとで、聴衆の一人から、「こんどあちらへ行かれて、何を得てこられるでしょうか?」という質問が出ました。「いや、こちらが与えに行くんです」と、私が返事をしたら、満場がドッと笑いました。私はきわめてマジメに言ったのに、意外にも大笑いされて腹だたしくなりました 〉
また、戦後間もないころ、岡本は惰性的な画壇を身をもって打ち壊そうとして、新聞に爆弾的芸術宣言を書いた。曰く、「絵画の石器時代は終わった。ほんとうの絵画は私からはじまる」―この原稿を読んだあるジャーナリストが「こんなものを活字にしたらたいへんだ。悪いことは言わない。おやめなさい」と忠告した。岡本は「だれかがやらなければ何も始まらない」と逆にそのジャーナリストを説き伏せた。ジャーナリストは感動し、「私はあなたといっしょに飛び出して死にたくはないが、しかし味方です。ぜったいに援護射撃はします」と誓い、握手をして別れた。援護射撃は結局なかったが。
さて、『今日の芸術』で岡本太郎が提唱した芸術三原則は次のようなものである。
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
ここちよくあってはならない。
岡本はアヴァンギャルドとモダニズムを厳しく区別している。
〈 芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルドです。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズムです 〉
これと対応して岡本の言説で注目すべきは、「技術」と「技能」を区別していることだ。
〈 技術は、つねに古いものを否定して、新しく創造し、発見していくものです。つまり、芸術について説明したのと同じに、革命的ということがその本質なのです 〉
〈 技能は、まさに技術とは正反対の性格をおびています。古いものを否定してどんどん前進していくのではなくて、同じことを繰りかえし繰りかえし、熟練によって到達するのが技能です 〉
そして、岡本の芸術論の核心をなすのが「対極主義」である。抽象芸術の合理性とシュールレアリスムの非合理主義という二極をともに精神の中にかかえこもうというのである。両者の中間をとるというような中庸・折衷ではない。次に引用するのは『アヴァンギャルド芸術』の一節である。
〈 私はこれを対立する二極として一つの精神の中に捉え、しかもそれらを折衷、妥協させることなく、いよいよ引き離し、矛盾、対立を強調すべきだと思うのです。そこに真に積極的な新しい芸術精神の在り方を見いだすのです。それは決して機械的に分離することではありません。〉
「対極主義」は花田清輝の「楕円」にとてもよく似ている。
このようなアヴァンギャルド・岡本太郎が「伝統」というものに対峙するとどうなるだろうか。岡本が縄文土器を高く評価したことはよく知られている。弥生ではなく、縄文なのである。そのほか岡本が評価するのは光琳である。パリでアヴァンギャルド運動に参加していた岡本は、ラテン区の本屋のショーウインドウで光琳の「紅白梅流水図」を見て衝撃を受ける。岡本は光琳についてこんなふうに述べている。
〈 明快さの裏には、技術的に、また精神的に、のっぴきならない矛盾をはらんでいる。はげしい対立を克服して、いちだんと冴えた緊張があり、不動に見える相のもとには、生まなましい傷口が私には感じとれるのです。またあのような鋭さは、逆説的な方法によってこそ生かされていることも知らなければなりません 〉
〈 それはほんとうに革命的に創りだされる芸術の、絶対的な条件とさえいえる。その根本的な矛盾こそ、いつの時代のも、人間を生命の底からゆすって動かすのです 〉
ここにも彼の対極主義的な見方があらわれている。
私が高校生だった1970年ごろ、岡本太郎の「秋田」や堀田善衛の「インドで考えたこと」は現代国語の教科書の定番だった。のちに椎名誠が「インドでわしも考えた」を書いたのは堀田の文章のパロディである。
「秋田」は岡本の『日本再発見―芸術風土記』に収録されている文章だが、その最後に毎年秋田を訪れる一人の紳士との出会いが描かれている。
「それではあなたは人生の敗北者ですね」とぶしつけに言った。
「そうです。私みたいになっちゃ、いけません」うなずいた彼はむしろ嬉しそうだった。
この文章を教えた国語の教師は「こんなことを言う方がアホじゃ」と岡本のことを罵った。
岡本太郎著作集の第4巻には『日本の伝統』『日本再発見』などが収録され、岡本の伝統との対峙の仕方がうかがえる。『日本再発見』では秋田・長崎・出雲のほか京都や大阪にも来ている。
アヴァンギャルドはモダニズムとは違う、ということを岡本は繰り返し説いている。
近世に生まれた川柳は近代をくぐりぬけて現代的展開を目指している。
岡本と並ぶもうひとりのアヴァンギャルド・花田清輝の「前近代を否定的媒介にして近代を超克する」というテーゼは果たして現代川柳にあてはめることができるだろうか。
画家・岡本太郎の最高傑作は「傷ましき腕」(1936年)だろう。しかし、岡本太郎の精神に直接触れたい人は万博公園を訪れてみればよい。太陽の塔がそこに立っている。
2011年3月4日金曜日
川柳の「場」はどこに?
ウェブマガジン「週刊俳句」が2月20日で200号を迎えた。西原天気と上田信治によって4年前にスタートしたときは、こんなに存在感のあるサイトになるとは予想できなかった。200号記念には「週俳アーカイヴ・私のオススメ記事」が掲載され、これまでの足跡を改めて振り返ることができる。また「週刊俳句編」による『新撰21』『超新撰21』の続編のような・そうでないようなアンソロジー(邑書林)が刊行予定だという。
「朝日新聞」の「俳句時評」(2月28日)で高山れおなは「週刊俳句」のことを次のように取り上げている。
〈2007年4月スタート、月刊誌なら17年かかるものを4年足らずでの達成で、週刊だから当然とはいえやはり凄い。もちろん本当に凄いのは、毎号一万三千、累計百七十万アクセスという数字の積み重ねが結果としてもたらしたインパクトの方だろう。その影響のうち特に重要なのは、俳句批評の場、より正確には俳句ジャーナリズムの場が、紙媒体からインターネットに重心を移したことと、二、三十代の新世代が著しく存在感を増したことだ〉
ここで問われているのは、「場」の問題である。
「場」の問題が重要なのは、単に作品発表の手段が変わるだけではなくて、それが表現の質を規定するかも知れないからである。
ウェブマガジンは原稿執筆から掲載までのスピードが紙媒体に比べて圧倒的に速い。何かのイベントがあった場合、そのレポートが数日内に、遅くても一週間後には掲載される。そのイベントに参加できなかった場合でも、おおまかな内容を情報として知ることができる。また複数のレポーターが記事を書く場合は、さまざまな視点から複合的にとらえることができて便利である。
ネットでなければ読む機会があまりない執筆者もいる。「週刊俳句」と同時期に進行していた「俳句空間―豈weekly」では冨田拓也の「俳句九十九折」が掲載されていた。「豈weekly」は100号で終刊したので、現在、冨田の文章を毎週読むという楽しみは得られないのが残念である。
「豈weekly」が終刊したあと、「海程」と「豈」同人による「俳句樹」がスタートしたが、今年の1月18日に公開されたあと、停止したままになっている。再開が望まれる。「俳句樹」の場合、結社色がやや強く、その分ウェブマガジンの強みを発揮しきれていないのだろう。
「週刊俳句」に話を戻すと、「週刊俳句は何ごとも主張しない」というのはひとつの明確なスタンスであった。「週刊俳句」がマンネリ感もなく200号を越えて進行中なのは、義務的に発行されているのではなくて、「おもしろいからやってみよう」という精神が生きているからだろう。その裏付けとして編集の労力とスキルがあるのは当然だが、祝祭的な楽しみが感じられるのは確かである。そういう精神が川柳には案外欠けている。
昨年、「現代詩手帖」6月号で「ゼロ年代の短歌100選・俳句100」が話題になったときに、なぜそこに川柳は入らないのかと思った川柳人は多かったはずだが、それでは自ら「ゼロ年代の川柳100選」を選んで発表してみようとした川柳人はほとんどいなかった。
ただ湊圭史が「s/c」で〈川柳誌「バックストローク」50句選&鑑賞〉を試みたのは勇気ある企画だった。川柳人は意外にフットワークの軽さをもっていない。
さて、「週刊俳句」が成功したからといって、もちろん従来の「結社誌」の存在意義がなくなったわけではない。冒頭に引用した高山れおなの文章に戻ると、高山はこんなふうに述べている。
〈紙媒体固有の強みとして浮かび上がってきたのは雑詠欄であり、電子メディアはそれに取って代わる機能をこれまでのところ構築し得ていない。つまり、差し当たって鼎の軽重を問われているのは、結社誌ではなく総合誌ということになるだろうか〉
結社の主宰の選句眼をめがけて、ただ主宰に読んでもらうためだけに投句を続けるというやり方は今後も残るだろう。ネットはそのような個と個のつながりではなく、作品批評や特集記事・レポートなどに強みを発揮するということだろう。ただ、ネットが作品の質まで変えてしまう可能性も否定できない。
ネットに関して情況が先行しているのは、短歌の場合である。
ネット短歌が盛んになってきた時期に、従来の歌壇で歌を詠んでいる歌人との落差の大きさが問題となった。その落差を埋め、両者の橋渡しができる位置にいる歌人が穂村弘だったが、穂村は「お風呂の水を混ぜる」という言い方をしていた。混ぜる役割を担う存在が必要なのである。
川柳に話を戻すことにしよう。問題なのは「座の文芸」ということの意味である。
近年「俳句や川柳は座の文芸である」という言い方を耳にするようになったが、本来「座の文芸」とは連句に関して言われるものであった。連句の座では前句に対して連衆が付句を付けるが、その際、前句を読んでその付筋や付味を考えなければならない。直観や連想で付句を付けてもかまわないが、問われた場合はその付句の付筋はおおむね説明できるものだろう。即ち、連句の座においては「読み→詠み」のサイクルが繰り返されるのである。
一方、川柳の句会・大会において、川柳人は「題」にもとづいて詠まれた句を選者に投句し、選者は出句された作品の中から一定数を選んで会場の参加者に向かって読みあげる。「読み」は「選」に特化されている。
川柳の句会システムを否定するわけではないが、「作句→選→発表誌」という一方通行だけではすでに参加者のニーズを受け止めきれない情況にきている。「新聞柳壇→結社入会」というプロセスも同様である。川柳は新しいシステムを模索する段階に入っているのではないか。「場」があるから「作品」が生れるのであり、「場」によって作品は規定される。刺激的な「場」がなければ川柳の更新も期待できないだろう。
「バックストローク」33号で石田柊馬は「スター待望論」について触れている。川柳の伝統を見据えていた中村冨二は「スター待望」を語ったというのだ。いま川柳に待望されるのは、すぐれた作品によって時代を一変するような川柳人ではない。従来の川柳の「場」を組み換え、新しいフィールドを構築するような存在が求められているのである。
「朝日新聞」の「俳句時評」(2月28日)で高山れおなは「週刊俳句」のことを次のように取り上げている。
〈2007年4月スタート、月刊誌なら17年かかるものを4年足らずでの達成で、週刊だから当然とはいえやはり凄い。もちろん本当に凄いのは、毎号一万三千、累計百七十万アクセスという数字の積み重ねが結果としてもたらしたインパクトの方だろう。その影響のうち特に重要なのは、俳句批評の場、より正確には俳句ジャーナリズムの場が、紙媒体からインターネットに重心を移したことと、二、三十代の新世代が著しく存在感を増したことだ〉
ここで問われているのは、「場」の問題である。
「場」の問題が重要なのは、単に作品発表の手段が変わるだけではなくて、それが表現の質を規定するかも知れないからである。
ウェブマガジンは原稿執筆から掲載までのスピードが紙媒体に比べて圧倒的に速い。何かのイベントがあった場合、そのレポートが数日内に、遅くても一週間後には掲載される。そのイベントに参加できなかった場合でも、おおまかな内容を情報として知ることができる。また複数のレポーターが記事を書く場合は、さまざまな視点から複合的にとらえることができて便利である。
ネットでなければ読む機会があまりない執筆者もいる。「週刊俳句」と同時期に進行していた「俳句空間―豈weekly」では冨田拓也の「俳句九十九折」が掲載されていた。「豈weekly」は100号で終刊したので、現在、冨田の文章を毎週読むという楽しみは得られないのが残念である。
「豈weekly」が終刊したあと、「海程」と「豈」同人による「俳句樹」がスタートしたが、今年の1月18日に公開されたあと、停止したままになっている。再開が望まれる。「俳句樹」の場合、結社色がやや強く、その分ウェブマガジンの強みを発揮しきれていないのだろう。
「週刊俳句」に話を戻すと、「週刊俳句は何ごとも主張しない」というのはひとつの明確なスタンスであった。「週刊俳句」がマンネリ感もなく200号を越えて進行中なのは、義務的に発行されているのではなくて、「おもしろいからやってみよう」という精神が生きているからだろう。その裏付けとして編集の労力とスキルがあるのは当然だが、祝祭的な楽しみが感じられるのは確かである。そういう精神が川柳には案外欠けている。
昨年、「現代詩手帖」6月号で「ゼロ年代の短歌100選・俳句100」が話題になったときに、なぜそこに川柳は入らないのかと思った川柳人は多かったはずだが、それでは自ら「ゼロ年代の川柳100選」を選んで発表してみようとした川柳人はほとんどいなかった。
ただ湊圭史が「s/c」で〈川柳誌「バックストローク」50句選&鑑賞〉を試みたのは勇気ある企画だった。川柳人は意外にフットワークの軽さをもっていない。
さて、「週刊俳句」が成功したからといって、もちろん従来の「結社誌」の存在意義がなくなったわけではない。冒頭に引用した高山れおなの文章に戻ると、高山はこんなふうに述べている。
〈紙媒体固有の強みとして浮かび上がってきたのは雑詠欄であり、電子メディアはそれに取って代わる機能をこれまでのところ構築し得ていない。つまり、差し当たって鼎の軽重を問われているのは、結社誌ではなく総合誌ということになるだろうか〉
結社の主宰の選句眼をめがけて、ただ主宰に読んでもらうためだけに投句を続けるというやり方は今後も残るだろう。ネットはそのような個と個のつながりではなく、作品批評や特集記事・レポートなどに強みを発揮するということだろう。ただ、ネットが作品の質まで変えてしまう可能性も否定できない。
ネットに関して情況が先行しているのは、短歌の場合である。
ネット短歌が盛んになってきた時期に、従来の歌壇で歌を詠んでいる歌人との落差の大きさが問題となった。その落差を埋め、両者の橋渡しができる位置にいる歌人が穂村弘だったが、穂村は「お風呂の水を混ぜる」という言い方をしていた。混ぜる役割を担う存在が必要なのである。
川柳に話を戻すことにしよう。問題なのは「座の文芸」ということの意味である。
近年「俳句や川柳は座の文芸である」という言い方を耳にするようになったが、本来「座の文芸」とは連句に関して言われるものであった。連句の座では前句に対して連衆が付句を付けるが、その際、前句を読んでその付筋や付味を考えなければならない。直観や連想で付句を付けてもかまわないが、問われた場合はその付句の付筋はおおむね説明できるものだろう。即ち、連句の座においては「読み→詠み」のサイクルが繰り返されるのである。
一方、川柳の句会・大会において、川柳人は「題」にもとづいて詠まれた句を選者に投句し、選者は出句された作品の中から一定数を選んで会場の参加者に向かって読みあげる。「読み」は「選」に特化されている。
川柳の句会システムを否定するわけではないが、「作句→選→発表誌」という一方通行だけではすでに参加者のニーズを受け止めきれない情況にきている。「新聞柳壇→結社入会」というプロセスも同様である。川柳は新しいシステムを模索する段階に入っているのではないか。「場」があるから「作品」が生れるのであり、「場」によって作品は規定される。刺激的な「場」がなければ川柳の更新も期待できないだろう。
「バックストローク」33号で石田柊馬は「スター待望論」について触れている。川柳の伝統を見据えていた中村冨二は「スター待望」を語ったというのだ。いま川柳に待望されるのは、すぐれた作品によって時代を一変するような川柳人ではない。従来の川柳の「場」を組み換え、新しいフィールドを構築するような存在が求められているのである。
2011年2月25日金曜日
『魚命魚辞』はライトかヘビーか
渡辺隆夫川柳句集『魚命魚辞』(邑書林)が上梓された。第五句集になる。タイトルはもちろん「御名御璽」をもじったもの。話の順序として第一句集から第四句集までを振り返ってみよう。
カラフルに国家が来ますピピッピピッ 『宅配の馬』
都鳥男は京に長居せず 『都鳥』
国歌として青い山脈唄いたい 『亀れおん』
介護犬の最期を看取るロボット犬 『黄泉蛙』
第一句集の国家批判、第二句集の京都批判を経て、第三句集では4句1セットによるテーマ詠によって批判対象が多様化し、第四句集では自ら作り出したキャラを風刺対象として批判するというキャラクター川柳の手法を編み出した。句集の題が哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類と変化しているのは隆夫一流の諧謔である。そして今回は魚類。巻頭の句は次のようなものである。
ブリューゲル父が魚の腹を裂く
フランドルの画家ピーター・ブリューゲル(父)には、「大きな魚は小さな魚を食う」という有名な版画がある。大きな魚の口には小さな魚が、小さな魚の口からもっと小さな魚が…その連鎖がおびただしく続いている。ブリューゲルには父と子がおり、またピーターとヤンがいて紛らわしい。従って掲出句は「ブリューゲル/父が魚の腹を裂く」と切れるのではなく(もちろんそう読んでもかまわないが)、「ブリューゲル父が/魚の腹を裂く」と読むのがいいようだ。版画に戻ると、画面には鋸ナイフで大魚の腹を裂く人物が描かれている。裂いた魚の腹からも小さな魚がこぼれ落ち、その魚もやはり口に小さな魚をくわえている。ナイフを持った男は帽子を被っていて表情が見えないが、もし彼が帽子をとって振り返ったとしたら、きっと渡辺隆夫の顔をしているに違いない。堺利彦はこの句集の解説で掲出句について「これからブリューゲル(父)の絵のように、小魚(句)が腹(句集)から溢れ出てくることへの読者に対する〈挨拶〉」と述べている。
『魚命魚辞』は『亀れおん』の場合のように四句で1セットになっているわけではないが、中には見開きページでモチーフが決まっている場合も散見される。
春の葬軍歌も出たり屁も出たり
夏は京鱧の骨切るアルバイト
硬直の紡錘体が秋の魚
冬川が冬の男と擦れ違う
ビルの上足高々と古賀春江
高熱の小夜子ヤマグチ夏の月
アンジェラ・アキたとえば夜の黒椿
頬被りてめえ松方弘樹だな
春夏秋冬とか固有名詞をモチーフとして、作句されている。
新機軸を出しているのは、「フレンチカンカン」「出羽三山」の章で、海外詠、旅行詠に挑戦している。
昔からネッシーなんて興味ないんだ
羽黒山現世は歩く杉である
ところで、これまで渡辺隆夫の川柳はさまざまなものを風刺し笑いのめしてきたのであるが、『魚命魚辞』における風刺対象はどのようになっているだろうか。
佐世保より現川狂各位に告ぐ
原潜VS現川 決着の時きたる
盧溝橋から始まる男の一生
全山これ昭和桜でありしかな
ヤマト轟沈さぁ竜宮だ乙姫だ
鳥帰るあらまテポドンどこ行くの
テポドンに紅の豚ぶちかまし
選挙と介護どっち大事かバカ息子
横綱の品格ヒール狒つ狒っ狒
風刺対象はさまざまだが、「テポドン」はすでに『亀れおん』で詠まれているし、現代川柳は原潜と対決するほどのパワーなど持ち合わせてはいないのだ。「現川狂」は「日川協」と「現俳協」をミックスしたイメージかも知れない。思う存分風刺できるような確固とした権威そのものが現代ではとても成立しにくくなっている。そのような情況の中でなお風刺対象を求め続ける渡辺隆夫の営為は一種の悲壮感をすら感じさせる。
かつて社会性川柳というものがあった。社会性を詠むことがストレートに川柳表現たりえた時代があったのである。けれども、現在、社会性を詠むことは大仰で時代錯誤を伴うものになってしまいがちである。渡辺隆夫の表現は当然屈折したものになってゆく。
『魚命魚辞』は渡辺隆夫の川柳の集大成である。
集大成であるだけに、それほどフレッシュではない部分も混在している。「おーい亀だれの葬儀だモシモシ」など、急に『亀れおん』に戻ったかのような感じがする。
序文を書いている森田緑郎は神奈川県現代俳句協会会長で「海程」の同人である。森田はこんなふうに述べている。
《俳壇では平成十年十年前後に「重くれ」と「軽さ・形式」についての対立論争があった。ここでいう「重くれ」とは〈作者の生き方や志向性〉といった思いの深さを指し、「軽さ」については〈軽妙、洒脱、平明〉を力点においた、形式と言葉の調和をねらった句の味である》
《要するに戦後派を中心とした主体的な生き方や存在者としての志向的な思いである。それに対して最短定型詩という鮮明な形式への復活とその形式が生み出す言葉の透明性、しなやかさにあろう》
森田はこのように述べたあと、渡辺隆夫の川柳は「ライトバース」というよりむしろ「ヘビーバース」であると言う。(俳誌「雲」46号〈「軽み」をどうとらえるか―これからの俳句のために―〉でも森田緑郎はライトバースについて言及している。)
渡辺がかつて同人だった「ぶるうまりん」6号(2007年5月)では「重くれと軽み」という特集をしている。渡辺は〈川柳に見る「重くれと軽み」〉という文章を書いて、新興川柳・革新川柳・現代女流川柳の三期のそれぞれにおける「重くれ派」と「軽み派」を挙げている。新興川柳期の重くれ派は田中五呂八、軽み派は鶴彬。革新川柳期の重くれ派は河野春三、軽み派は中村冨二。現代女流川柳の重くれ派は樋口由紀子、軽み派は広瀬ちえみ、という独断と偏見を述べたあと、渡辺はこんなふうに言う。
〈長年、重くれに親しんだ人から見れば、軽みは屁のようなものだし、軽み派人生を歩んできた人にとっては、重くれは本当にウットウシイ。重くれにしては軽い「重かる」とか、軽みにして重くれる「軽おも」といったものがありそうに思うのだが、次句はどうであろうか。
湯殿より人死にながら山を見る 吉岡実
大晩春泥ん泥泥どろ泥ん 永田耕衣〉
ちなみに『魚命魚辞』には「森敦に月山 吉岡実には湯殿山」の句も収録されている。
さて、渡辺の句集は「重かる」であろうか、「軽おも」であろうか。
川柳の武器のひとつである批評性は価値の多様化した現代ではきわめて発揮しにくい。その中で重いテーマを軽薄な形で表現し続けている渡辺の仕事はきわめて孤独なものだというのがかねてからの私の見方である。
第五句集で脊椎動物シリーズが終わったので、これがラスト句集になるのではと心配していたが、あとがきに「さて、『魚命魚辞』を読んで、代り映えしないとオナゲキの皆さまには、次回こそ、必ずオッタマゲルゾと予告して、ごあいさつに代えます」とあるのを読んで安心した。生物学者でもある隆夫のことだから、昆虫類をはじめとしていくらでもタイトル名には事欠かないだろう。
昭和史を他山の石とはせぬぞ、御意
魚命魚辞、また勅語かと朕びびる
カラフルに国家が来ますピピッピピッ 『宅配の馬』
都鳥男は京に長居せず 『都鳥』
国歌として青い山脈唄いたい 『亀れおん』
介護犬の最期を看取るロボット犬 『黄泉蛙』
第一句集の国家批判、第二句集の京都批判を経て、第三句集では4句1セットによるテーマ詠によって批判対象が多様化し、第四句集では自ら作り出したキャラを風刺対象として批判するというキャラクター川柳の手法を編み出した。句集の題が哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類と変化しているのは隆夫一流の諧謔である。そして今回は魚類。巻頭の句は次のようなものである。
ブリューゲル父が魚の腹を裂く
フランドルの画家ピーター・ブリューゲル(父)には、「大きな魚は小さな魚を食う」という有名な版画がある。大きな魚の口には小さな魚が、小さな魚の口からもっと小さな魚が…その連鎖がおびただしく続いている。ブリューゲルには父と子がおり、またピーターとヤンがいて紛らわしい。従って掲出句は「ブリューゲル/父が魚の腹を裂く」と切れるのではなく(もちろんそう読んでもかまわないが)、「ブリューゲル父が/魚の腹を裂く」と読むのがいいようだ。版画に戻ると、画面には鋸ナイフで大魚の腹を裂く人物が描かれている。裂いた魚の腹からも小さな魚がこぼれ落ち、その魚もやはり口に小さな魚をくわえている。ナイフを持った男は帽子を被っていて表情が見えないが、もし彼が帽子をとって振り返ったとしたら、きっと渡辺隆夫の顔をしているに違いない。堺利彦はこの句集の解説で掲出句について「これからブリューゲル(父)の絵のように、小魚(句)が腹(句集)から溢れ出てくることへの読者に対する〈挨拶〉」と述べている。
『魚命魚辞』は『亀れおん』の場合のように四句で1セットになっているわけではないが、中には見開きページでモチーフが決まっている場合も散見される。
春の葬軍歌も出たり屁も出たり
夏は京鱧の骨切るアルバイト
硬直の紡錘体が秋の魚
冬川が冬の男と擦れ違う
ビルの上足高々と古賀春江
高熱の小夜子ヤマグチ夏の月
アンジェラ・アキたとえば夜の黒椿
頬被りてめえ松方弘樹だな
春夏秋冬とか固有名詞をモチーフとして、作句されている。
新機軸を出しているのは、「フレンチカンカン」「出羽三山」の章で、海外詠、旅行詠に挑戦している。
昔からネッシーなんて興味ないんだ
羽黒山現世は歩く杉である
ところで、これまで渡辺隆夫の川柳はさまざまなものを風刺し笑いのめしてきたのであるが、『魚命魚辞』における風刺対象はどのようになっているだろうか。
佐世保より現川狂各位に告ぐ
原潜VS現川 決着の時きたる
盧溝橋から始まる男の一生
全山これ昭和桜でありしかな
ヤマト轟沈さぁ竜宮だ乙姫だ
鳥帰るあらまテポドンどこ行くの
テポドンに紅の豚ぶちかまし
選挙と介護どっち大事かバカ息子
横綱の品格ヒール狒つ狒っ狒
風刺対象はさまざまだが、「テポドン」はすでに『亀れおん』で詠まれているし、現代川柳は原潜と対決するほどのパワーなど持ち合わせてはいないのだ。「現川狂」は「日川協」と「現俳協」をミックスしたイメージかも知れない。思う存分風刺できるような確固とした権威そのものが現代ではとても成立しにくくなっている。そのような情況の中でなお風刺対象を求め続ける渡辺隆夫の営為は一種の悲壮感をすら感じさせる。
かつて社会性川柳というものがあった。社会性を詠むことがストレートに川柳表現たりえた時代があったのである。けれども、現在、社会性を詠むことは大仰で時代錯誤を伴うものになってしまいがちである。渡辺隆夫の表現は当然屈折したものになってゆく。
『魚命魚辞』は渡辺隆夫の川柳の集大成である。
集大成であるだけに、それほどフレッシュではない部分も混在している。「おーい亀だれの葬儀だモシモシ」など、急に『亀れおん』に戻ったかのような感じがする。
序文を書いている森田緑郎は神奈川県現代俳句協会会長で「海程」の同人である。森田はこんなふうに述べている。
《俳壇では平成十年十年前後に「重くれ」と「軽さ・形式」についての対立論争があった。ここでいう「重くれ」とは〈作者の生き方や志向性〉といった思いの深さを指し、「軽さ」については〈軽妙、洒脱、平明〉を力点においた、形式と言葉の調和をねらった句の味である》
《要するに戦後派を中心とした主体的な生き方や存在者としての志向的な思いである。それに対して最短定型詩という鮮明な形式への復活とその形式が生み出す言葉の透明性、しなやかさにあろう》
森田はこのように述べたあと、渡辺隆夫の川柳は「ライトバース」というよりむしろ「ヘビーバース」であると言う。(俳誌「雲」46号〈「軽み」をどうとらえるか―これからの俳句のために―〉でも森田緑郎はライトバースについて言及している。)
渡辺がかつて同人だった「ぶるうまりん」6号(2007年5月)では「重くれと軽み」という特集をしている。渡辺は〈川柳に見る「重くれと軽み」〉という文章を書いて、新興川柳・革新川柳・現代女流川柳の三期のそれぞれにおける「重くれ派」と「軽み派」を挙げている。新興川柳期の重くれ派は田中五呂八、軽み派は鶴彬。革新川柳期の重くれ派は河野春三、軽み派は中村冨二。現代女流川柳の重くれ派は樋口由紀子、軽み派は広瀬ちえみ、という独断と偏見を述べたあと、渡辺はこんなふうに言う。
〈長年、重くれに親しんだ人から見れば、軽みは屁のようなものだし、軽み派人生を歩んできた人にとっては、重くれは本当にウットウシイ。重くれにしては軽い「重かる」とか、軽みにして重くれる「軽おも」といったものがありそうに思うのだが、次句はどうであろうか。
湯殿より人死にながら山を見る 吉岡実
大晩春泥ん泥泥どろ泥ん 永田耕衣〉
ちなみに『魚命魚辞』には「森敦に月山 吉岡実には湯殿山」の句も収録されている。
さて、渡辺の句集は「重かる」であろうか、「軽おも」であろうか。
川柳の武器のひとつである批評性は価値の多様化した現代ではきわめて発揮しにくい。その中で重いテーマを軽薄な形で表現し続けている渡辺の仕事はきわめて孤独なものだというのがかねてからの私の見方である。
第五句集で脊椎動物シリーズが終わったので、これがラスト句集になるのではと心配していたが、あとがきに「さて、『魚命魚辞』を読んで、代り映えしないとオナゲキの皆さまには、次回こそ、必ずオッタマゲルゾと予告して、ごあいさつに代えます」とあるのを読んで安心した。生物学者でもある隆夫のことだから、昆虫類をはじめとしていくらでもタイトル名には事欠かないだろう。
昭和史を他山の石とはせぬぞ、御意
魚命魚辞、また勅語かと朕びびる
2011年2月18日金曜日
さやえんどうとも添寝とも
今回は1月・2月の川柳誌・俳誌から4冊ご紹介する。
川柳誌「Leaf」第3号(1月1日発行)は同人4人の作品と互評を中心に、新企画も取り入れた誌面構成になっている。まず、同人作品から。
さやえんどうとも添寝とも書き送り 畑美樹
茶会果て僧侶は肉を吊りにゆく 吉澤久良
つづきにも戸惑いやがて背中を噛む 兵頭全郎
ゲラ刷りの海に両手をついている 清水かおり
互評のうち清水かおりによる「畑美樹を読む」から引用してみる。
〈主題がそうである場合を除いて性を意識しながら書く作者はいない。ごく自然に個人の意識など関係のない細胞のせめぎあいの中に性は主張してくる。畑はそういうものに抗わない。受け入れるものは受け入れ、受け入れたものに飲み込まれることもない〉〈この「さやえんどう」「添寝」という物と事を「とも」という接続助詞で同時配置したことで畑の哲学や言語学や経験のようなものがそこに浮かびあがってくる〉
新企画の一つはテーマ詠に同人外(今回は湊圭史)が参加していること。湊は「言語論としての川柳」を書いて、4同人それぞれの言葉と現実に対する差異を指摘している。
新企画の二つ目は先行する川柳人の作品(今回は石田柊馬)を取り上げて10句選と句評を掲載していることである。
ホームページでも同人作品に対する句評が進行中のようだ。
http://live-leaf.com/
「触光」21号(2月1日発行)、野沢省悟が「便所の落書き」というタイトルで寺山修司のサインを紹介している。1959年(昭和34年)、山村祐の旅館夕月荘で歌人・俳人・川柳人が集まったときに寺山が書いたもののコピーである。このときの参加者は山村祐・奥室和市・松本芳味・青田煙眉・寺山修司・三須浩司・柴田義彦・古川克己・瓜生島清・加藤克己の10名だったという。この場で寺山は次のように語ったと言われる
「短歌は歌謡曲になれ、俳句は呪文になれ、川柳は便所の落書きになれ」
これが川柳界では有名な「便所の落書き」発言である。川柳に対する蔑視とも受け取れるし、川柳に対する寺山流のエールとも受け取れるので、物議をかもした。野沢は若いころはこの言葉に反発したが、現在は寺山の川柳に対するほのかな愛情を感じると述べている。
「触光」は青森で発行されている柳誌。会員作品から。
決心というほどでない爪を切る 斉藤幸男
明け渡す椅子に転がす濡れた石 滋野さち
人混みを歩くと柔になる鱗 瀧正治
降りつもる何もなかったから童話 吉田州花
銀行が消えてしまった北の街 高田寄生木
釘の匂いの女が通り過ぎてゆく 野沢省悟
また、時事川柳にも力を入れており、渡辺隆夫が選をしている。
陰口はウィキリークスが狙ってる 船水葉
一兵卒に誰も敵わぬ 瀧正治
酒飲むと海老は真逆に反るらしい 濱山哲也
ずれている開門拷問水戸黄門 小林こうこ
一筆啓上「北京では今×××××」 山川舞句
次に「円錐」第48号(1月30日発行)をご紹介。澤好摩を発行人とし、山田耕司・今泉康弘などを擁する俳誌である。
寒たまご切るに斜面のうまれけり 山田耕司
坂の上の雲に縫い目があるぞ諸君 今泉康弘
朝ぼらけクロツラヘラサギてんでんこ 入船誠二
桃の日のデパートに象をりしころ 栗林浩
「検証・昭和俳句史Ⅱ」では三橋鷹女について澤好摩と山田耕司が対談。連載「エリカはめざむ」は今泉康弘による渡邊白泉の評伝。栗林浩の連載「入門・攝津幸彦と田中裕明」など、現代俳句の良質の達成を検証・継承していこうとする姿勢がうかがえる。書評に安井浩司『空なる芭蕉』、高橋龍『異論』を取り上げているのにも注目した。
雁行くや空の高さに海あれど 安井浩司
蚊帳外し俺は大工の子だと言ふ 高橋龍
最後に俳誌「子燕」(しえん)第5号(2月10日発行)。この雑誌は平成22年6月に「白燕」が終刊したあと、俳句・連句・随筆を三本柱として創刊された。この三つは橋閒石のめざしていたことでもある。ここでは連句作品から文韻歌仙「春宵や」の冒頭部分だけ紹介する。
春宵やこの糸底の語るもの 中島布弓美
遠き彼方に蛙鳴く声 赤松勝
柳葉の遁走曲に送られて 井上邦久
同誌は橋閒石の連句を顕彰することも目指しているようで、「白燕」(36号および244号)に掲載された寺崎方堂と橋閒石の両吟〈物名「魚」歌仙〉を掲載している。その発句から第三まで。
鶯の餌振ふ午後の曇かな 方堂
渋茶さめたる盆の草餅 閒石
大樺の肌白々と春暮れて 堂
各句に魚名を詠み込んでいて、発句が「うぐひ」、脇が「さめ」、第三が「はたしろ」というわけである。
以上、少し気ままに柳誌・俳誌を逍遥してみたが、短詩型の言葉の世界は広いものである。
川柳誌「Leaf」第3号(1月1日発行)は同人4人の作品と互評を中心に、新企画も取り入れた誌面構成になっている。まず、同人作品から。
さやえんどうとも添寝とも書き送り 畑美樹
茶会果て僧侶は肉を吊りにゆく 吉澤久良
つづきにも戸惑いやがて背中を噛む 兵頭全郎
ゲラ刷りの海に両手をついている 清水かおり
互評のうち清水かおりによる「畑美樹を読む」から引用してみる。
〈主題がそうである場合を除いて性を意識しながら書く作者はいない。ごく自然に個人の意識など関係のない細胞のせめぎあいの中に性は主張してくる。畑はそういうものに抗わない。受け入れるものは受け入れ、受け入れたものに飲み込まれることもない〉〈この「さやえんどう」「添寝」という物と事を「とも」という接続助詞で同時配置したことで畑の哲学や言語学や経験のようなものがそこに浮かびあがってくる〉
新企画の一つはテーマ詠に同人外(今回は湊圭史)が参加していること。湊は「言語論としての川柳」を書いて、4同人それぞれの言葉と現実に対する差異を指摘している。
新企画の二つ目は先行する川柳人の作品(今回は石田柊馬)を取り上げて10句選と句評を掲載していることである。
ホームページでも同人作品に対する句評が進行中のようだ。
http://live-leaf.com/
「触光」21号(2月1日発行)、野沢省悟が「便所の落書き」というタイトルで寺山修司のサインを紹介している。1959年(昭和34年)、山村祐の旅館夕月荘で歌人・俳人・川柳人が集まったときに寺山が書いたもののコピーである。このときの参加者は山村祐・奥室和市・松本芳味・青田煙眉・寺山修司・三須浩司・柴田義彦・古川克己・瓜生島清・加藤克己の10名だったという。この場で寺山は次のように語ったと言われる
「短歌は歌謡曲になれ、俳句は呪文になれ、川柳は便所の落書きになれ」
これが川柳界では有名な「便所の落書き」発言である。川柳に対する蔑視とも受け取れるし、川柳に対する寺山流のエールとも受け取れるので、物議をかもした。野沢は若いころはこの言葉に反発したが、現在は寺山の川柳に対するほのかな愛情を感じると述べている。
「触光」は青森で発行されている柳誌。会員作品から。
決心というほどでない爪を切る 斉藤幸男
明け渡す椅子に転がす濡れた石 滋野さち
人混みを歩くと柔になる鱗 瀧正治
降りつもる何もなかったから童話 吉田州花
銀行が消えてしまった北の街 高田寄生木
釘の匂いの女が通り過ぎてゆく 野沢省悟
また、時事川柳にも力を入れており、渡辺隆夫が選をしている。
陰口はウィキリークスが狙ってる 船水葉
一兵卒に誰も敵わぬ 瀧正治
酒飲むと海老は真逆に反るらしい 濱山哲也
ずれている開門拷問水戸黄門 小林こうこ
一筆啓上「北京では今×××××」 山川舞句
次に「円錐」第48号(1月30日発行)をご紹介。澤好摩を発行人とし、山田耕司・今泉康弘などを擁する俳誌である。
寒たまご切るに斜面のうまれけり 山田耕司
坂の上の雲に縫い目があるぞ諸君 今泉康弘
朝ぼらけクロツラヘラサギてんでんこ 入船誠二
桃の日のデパートに象をりしころ 栗林浩
「検証・昭和俳句史Ⅱ」では三橋鷹女について澤好摩と山田耕司が対談。連載「エリカはめざむ」は今泉康弘による渡邊白泉の評伝。栗林浩の連載「入門・攝津幸彦と田中裕明」など、現代俳句の良質の達成を検証・継承していこうとする姿勢がうかがえる。書評に安井浩司『空なる芭蕉』、高橋龍『異論』を取り上げているのにも注目した。
雁行くや空の高さに海あれど 安井浩司
蚊帳外し俺は大工の子だと言ふ 高橋龍
最後に俳誌「子燕」(しえん)第5号(2月10日発行)。この雑誌は平成22年6月に「白燕」が終刊したあと、俳句・連句・随筆を三本柱として創刊された。この三つは橋閒石のめざしていたことでもある。ここでは連句作品から文韻歌仙「春宵や」の冒頭部分だけ紹介する。
春宵やこの糸底の語るもの 中島布弓美
遠き彼方に蛙鳴く声 赤松勝
柳葉の遁走曲に送られて 井上邦久
同誌は橋閒石の連句を顕彰することも目指しているようで、「白燕」(36号および244号)に掲載された寺崎方堂と橋閒石の両吟〈物名「魚」歌仙〉を掲載している。その発句から第三まで。
鶯の餌振ふ午後の曇かな 方堂
渋茶さめたる盆の草餅 閒石
大樺の肌白々と春暮れて 堂
各句に魚名を詠み込んでいて、発句が「うぐひ」、脇が「さめ」、第三が「はたしろ」というわけである。
以上、少し気ままに柳誌・俳誌を逍遥してみたが、短詩型の言葉の世界は広いものである。
2011年2月11日金曜日
ゼロ年代の川柳
「ゼロ年代」(2000年~2009年)が終了して、「テン年代」とか「ポスト・ゼロ年代」とか言われるが、このような呼び方に反発や違和感をもつ向きもあるようだ。西暦10年ごとに区切るよりはもっと大きなスパンでとらえた方がよいのではないかということらしい。けれども、「昭和俳句」「平成俳句」などのような呼び方との違いは、「ゼロ年代」という区切り方をすると、ジャンルを横断しての共時的比較が可能になるという点である。特に川柳の場合は、年代的把握意識に乏しいから、「ゼロ年代川柳」というとらえ方で見えてくる光景があるのではないかと期待できる。
ゼロ年代の考察に入る前に、その前提となりそうな話題を振り返っておきたい。
短歌誌「井泉」37号(2011年1月1日発行)のリレー評論では〈短歌の「修辞レベルでの武装解除」を考える―95年以降の表現の変質について―〉というテーマで、荻原裕幸と彦坂美喜子の評論が掲載されている。
「修辞レベルでの武装解除」というのは穂村弘著『短歌の友人』(河出書房新社)に出てくる言葉である。穂村はこんなふうに書いている。
《90年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか》(「棒立ちの歌」)
《定型意識の共有化や共通資産としての技法といった短歌の「枠組み」を充分理解している作者が、〈私〉の実感を盛り込むための一回性の破調の方にしばしば傾く。この意識的な武装解除、或いは棒立ちのポエジーの選択ともいうべき事態に私は驚きを感じる。彼らは自らの実感に対して忠実であるために意識的に短歌の素人になっているのだ》(「短歌的武装解除のこと」)
穂村のこの認識をベースとして、「95年以降の表現の変質」という問題設定が生まれてくる。彦坂美喜子は「別のリアリズムが生まれている」で、「例えば今橋愛は1976年生まれ。95年には18歳。永井祐は1981年生まれだから95年には14歳である。かれらの作品が生まれる背景には、90年代後半の社会的環境の影響があるのではないかと考えるからである」と述べている。そのような社会環境の変化として、彦坂は「大きな物語の崩壊」とネット社会における感性の変化を挙げている。
ゼロ年代の短歌表現を代表するのは永井祐であるらしい。彦坂の引用しているのは次のような歌である。
会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい 永井祐
おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
彦坂は「何かが変わったとすれば、レトリックを駆使した歌がどこか作り物めいて見えるということである。むしろどこにでも、誰にでも言葉そのままに伝わる表現に安心する。そこには強固な主体も、作者の意識的な身振りも影を潜め、ごく狭くて浅い了解可能な表現のうえにしか共感を持てない現在の心象があるのではないか」と述べて、「近代自然主義リアリズム」とは「別のリアリズム」が生まれていることを論じている。
もう一人の論者である荻原裕幸は「私と口語とレトリック」で、1995年以降の短歌の情況を「情報の共有や即時的な伝達を求める場の問題」としつつ、「私をめぐる表現の、変容の一形態」と捉えている。「私」を「集合内の属性として突きつめてゆく思考」(たとえば、女歌という場合のように、女性的な要素を自覚的にモチーフに組み込んでゆくこと)から「私は他の誰でもなく私であるという感覚」へ向かっているというのである。ここでも引用されているのは永井祐である。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
テレビメールするメールするぼくをつつんでいる品川区
以上、『井泉』のリレー評論における「95年以降」というとらえ方について見てきた。それでは「ゼロ年代の川柳表現」はどのようなものであろうか。
「バックストローク」33号掲載の「詩性川柳の実質」では、石田柊馬が「ゼロ年代川柳」を本格的に論じている。残念ながら「ゼロ年代川柳人」と呼べるような若手川柳人は存在せず、川柳におけるゼロ年代は40代から70代までの中高年川柳人が当事者なので、石田柊馬も言うようにフレッシュとは言えない。
石田はまず先行世代の川柳に遡り、ゼロ年代川柳の傾向を80年代以降に先鞭をつけた存在として渡辺隆夫をあげている。
煤払うとき元号を落とすなよ 渡辺隆夫
おぼろ夜に馬飛び込んで大射精
服を脱がせて案山子に何をするのです
鬱々うっぷん仕事に励みましょう
《近代川柳は個人の「思いを書く」文芸であったが、渡辺は、いわば近代川柳の〈書き方〉の必須条件であった作者の存在!を句の表面から蹴り飛ばした》と石田はコメントしている。ここに、短歌ジャンルとは異なる川柳固有の事情がある。
近代川柳は「作者の思い」を書くという形で「私川柳」に特化したが、それが袋小路に入りこむにつれて、その超克の方向が探られるようになった。石田によれば《 近代川柳は、作者の存在、その「思い」への執着が強くて、川柳らしい〈書き方〉を軽んじたり忘れたりするほどの傾向があった。とりわけ私川柳は、川柳的な〈書き方〉を二義的にしていた 》という。それに対して、渡辺隆夫の川柳は「川柳的な書き方」と「外向きの表現法(外向性)」を取り戻したというのだ。現代短歌の一部が「修辞的な武装解除」へ向かったのとは逆に、現代川柳においては近代川柳を止揚するためには前近代的な狂句の手法を取り入れる必要があったことになる。石田に即して言えば、「近代的自我表出の〈書き方〉」から「現代的な川柳の〈書き方〉」へ。歌人のいう「私は他のだれでもなく私であるという感覚」「生の一回性の感情」は、川柳の場合「思いを書く」という一点に矮小化され、しかも若手川柳人による「私」の更新も期待できない情況の中で飽和状態に達していたのである。ゼロ年代川柳とはそのことに対する中高年川柳人による打開の試みにほかならない。
石田はゼロ年代の川柳について「方向性のバラツキ」「不安定で、個々の作者に揺り戻しが生じないとも言い切れず、明日に続くとも言えない」と述べる一方、「いままでの川柳の枠を広げるスパイラルが描かれる可能性」も否定していない。石田が挙げているのは、次のような作品である。
内海氏がもう一人いる月の裏 兵頭全郎
カマキリの唐揚げミカエルの調書 湊圭史
十六夜亜細亜のおこげ美味かりし きゅういち
盗掘の穴だから語尾変化するよ 横澤あや子
ゴリラだと岡山西署に出頭す 江口ちかる
夜が明けて筆頭家老フラダンス 森茂俊
蚊柱が立つ累代の臍の位置 井上一筒
血早振神将不定愁訴群 吉澤久良
短歌における「武装解除」に対して、川柳においては「現代的な川柳の書き方」が模索されているとしたら、それは興味深い現象ではないだろうか。
ゼロ年代の考察に入る前に、その前提となりそうな話題を振り返っておきたい。
短歌誌「井泉」37号(2011年1月1日発行)のリレー評論では〈短歌の「修辞レベルでの武装解除」を考える―95年以降の表現の変質について―〉というテーマで、荻原裕幸と彦坂美喜子の評論が掲載されている。
「修辞レベルでの武装解除」というのは穂村弘著『短歌の友人』(河出書房新社)に出てくる言葉である。穂村はこんなふうに書いている。
《90年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか》(「棒立ちの歌」)
《定型意識の共有化や共通資産としての技法といった短歌の「枠組み」を充分理解している作者が、〈私〉の実感を盛り込むための一回性の破調の方にしばしば傾く。この意識的な武装解除、或いは棒立ちのポエジーの選択ともいうべき事態に私は驚きを感じる。彼らは自らの実感に対して忠実であるために意識的に短歌の素人になっているのだ》(「短歌的武装解除のこと」)
穂村のこの認識をベースとして、「95年以降の表現の変質」という問題設定が生まれてくる。彦坂美喜子は「別のリアリズムが生まれている」で、「例えば今橋愛は1976年生まれ。95年には18歳。永井祐は1981年生まれだから95年には14歳である。かれらの作品が生まれる背景には、90年代後半の社会的環境の影響があるのではないかと考えるからである」と述べている。そのような社会環境の変化として、彦坂は「大きな物語の崩壊」とネット社会における感性の変化を挙げている。
ゼロ年代の短歌表現を代表するのは永井祐であるらしい。彦坂の引用しているのは次のような歌である。
会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい 永井祐
おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
彦坂は「何かが変わったとすれば、レトリックを駆使した歌がどこか作り物めいて見えるということである。むしろどこにでも、誰にでも言葉そのままに伝わる表現に安心する。そこには強固な主体も、作者の意識的な身振りも影を潜め、ごく狭くて浅い了解可能な表現のうえにしか共感を持てない現在の心象があるのではないか」と述べて、「近代自然主義リアリズム」とは「別のリアリズム」が生まれていることを論じている。
もう一人の論者である荻原裕幸は「私と口語とレトリック」で、1995年以降の短歌の情況を「情報の共有や即時的な伝達を求める場の問題」としつつ、「私をめぐる表現の、変容の一形態」と捉えている。「私」を「集合内の属性として突きつめてゆく思考」(たとえば、女歌という場合のように、女性的な要素を自覚的にモチーフに組み込んでゆくこと)から「私は他の誰でもなく私であるという感覚」へ向かっているというのである。ここでも引用されているのは永井祐である。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
テレビメールするメールするぼくをつつんでいる品川区
以上、『井泉』のリレー評論における「95年以降」というとらえ方について見てきた。それでは「ゼロ年代の川柳表現」はどのようなものであろうか。
「バックストローク」33号掲載の「詩性川柳の実質」では、石田柊馬が「ゼロ年代川柳」を本格的に論じている。残念ながら「ゼロ年代川柳人」と呼べるような若手川柳人は存在せず、川柳におけるゼロ年代は40代から70代までの中高年川柳人が当事者なので、石田柊馬も言うようにフレッシュとは言えない。
石田はまず先行世代の川柳に遡り、ゼロ年代川柳の傾向を80年代以降に先鞭をつけた存在として渡辺隆夫をあげている。
煤払うとき元号を落とすなよ 渡辺隆夫
おぼろ夜に馬飛び込んで大射精
服を脱がせて案山子に何をするのです
鬱々うっぷん仕事に励みましょう
《近代川柳は個人の「思いを書く」文芸であったが、渡辺は、いわば近代川柳の〈書き方〉の必須条件であった作者の存在!を句の表面から蹴り飛ばした》と石田はコメントしている。ここに、短歌ジャンルとは異なる川柳固有の事情がある。
近代川柳は「作者の思い」を書くという形で「私川柳」に特化したが、それが袋小路に入りこむにつれて、その超克の方向が探られるようになった。石田によれば《 近代川柳は、作者の存在、その「思い」への執着が強くて、川柳らしい〈書き方〉を軽んじたり忘れたりするほどの傾向があった。とりわけ私川柳は、川柳的な〈書き方〉を二義的にしていた 》という。それに対して、渡辺隆夫の川柳は「川柳的な書き方」と「外向きの表現法(外向性)」を取り戻したというのだ。現代短歌の一部が「修辞的な武装解除」へ向かったのとは逆に、現代川柳においては近代川柳を止揚するためには前近代的な狂句の手法を取り入れる必要があったことになる。石田に即して言えば、「近代的自我表出の〈書き方〉」から「現代的な川柳の〈書き方〉」へ。歌人のいう「私は他のだれでもなく私であるという感覚」「生の一回性の感情」は、川柳の場合「思いを書く」という一点に矮小化され、しかも若手川柳人による「私」の更新も期待できない情況の中で飽和状態に達していたのである。ゼロ年代川柳とはそのことに対する中高年川柳人による打開の試みにほかならない。
石田はゼロ年代の川柳について「方向性のバラツキ」「不安定で、個々の作者に揺り戻しが生じないとも言い切れず、明日に続くとも言えない」と述べる一方、「いままでの川柳の枠を広げるスパイラルが描かれる可能性」も否定していない。石田が挙げているのは、次のような作品である。
内海氏がもう一人いる月の裏 兵頭全郎
カマキリの唐揚げミカエルの調書 湊圭史
十六夜亜細亜のおこげ美味かりし きゅういち
盗掘の穴だから語尾変化するよ 横澤あや子
ゴリラだと岡山西署に出頭す 江口ちかる
夜が明けて筆頭家老フラダンス 森茂俊
蚊柱が立つ累代の臍の位置 井上一筒
血早振神将不定愁訴群 吉澤久良
短歌における「武装解除」に対して、川柳においては「現代的な川柳の書き方」が模索されているとしたら、それは興味深い現象ではないだろうか。
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