現代川柳の「いま、ここ」を明らかにしようとする場合、現在の短詩型文学の状況に目配りすると同時に、川柳の歴史的展開をも踏まえておくことが必要である。よく言われる言葉で言えば、共時性と通時性の切り結ぶところに川柳の現在があるのだ。そこで問われるのが川柳史観である。「川柳」という単一のものがあるのではなくて、史的展開をふまえた「様々な川柳の可能性」がある。川柳の「いま」を論じるときに、どのようなパースペクティヴをもって現代川柳を捉えているのかが問われることになる。
石田柊馬はそのような「川柳史観」を感じさせる数少ない批評家の一人である。今回は「バックストローク」32号に掲載された「詩性川柳の実質」をもとにしながら、石田柊馬の川柳史観について検討してみたい。
「詩性川柳の実質」は「バックストローク」に連載されている長編評論である。30号・32号では石部明論の形をとりながら、その背後に柊馬の川柳史観が明瞭に読み取れる。一人の川柳人を論じることが、現代川柳の史的展開を論じることとなるのは川柳批評の醍醐味と言ってよいだろう。
さて、柊馬はこんなふうに述べている。
「第一句集から第二句集への道程で、石部は主題を初発点にする書き方を心得つつ、言葉を初発点にする書き方に体重が掛かってゆく。川柳的な共感性の担保であった現実感が、書かれた句語の後追いをすることになる」
石部明の第一句集『賑やかな箱』から第二句集『遊魔系』への展開を、石田柊馬はまずおおざっぱに「主題を初発点にする書き方」から「言葉を初発点にする書き方」へと規定してみせる。「句語の後追い」とは何であろうか。意味があって言葉が書かれるのではなくて、言葉が先にあって意味があとからついてくるような書き方を念頭においていることは間違いない。したがって柊馬は次のように続けている。
「一句の意味性は、句の書かれたあとからついて来るものとなるので、川柳的な飛躍の錘であったリアリズムから作句が解放されたのである。意味性は、句語や言葉と言葉の関係性へ直感的に飛来してくる。つまり、まだ意味性や作者の思いを背負わされていない素の言葉、あるいは、言葉と言葉の関係性が作者のアンテナに触れてスパークする手応えが一句を創り上げる」
「意味なんてあとからついてくるのよ」とは本間三千子の言葉だと伝え聞いている。作品の意味は何かと問われて、本間は意味なんてあとからついてくるのだとタンカをきったのである。言葉には意味があるが、言葉は意味そのものではない。言葉は意味よりももっと広いものであるはずだ。「川柳の意味性」と言われているものは、川柳の持ち味を「言葉の意味」という一点に集中することによって強度なインパクトをめざす一方法だったのである。それを意味という一点に封じ込めてしまうことは、川柳の可能性を限定してしまうことになる。しかし、同時に「意味性」は野放図な「川柳的な飛躍」を制御するための安全弁の役割をも果たしていた。どこへ飛んでいくか分からない言葉の飛躍を制御するために、「意味性」の錘は有効だったのである。少なくとも従来の川柳はそういう書き方をされていた。
それでは「意味の錘」を外したとすれば、言葉はどこへ飛躍していくのだろうか。それはおそらく「言葉と言葉の関係性」の世界へ入っていくのである。
「前句附けというシステム、七七という問いに五七五で答えるルールを書き方の原初とする川柳では、言葉と言葉の関係性に敏感であったはずだが、およそ百年の近代化の中で作者の思いを書くことだけが重視されて、言葉との付き合いの自由を軽視する狭いリアリズムが横行した。しかし古川柳は折口信夫に言語遊戯と断じられるほど、川柳は言語との関係に自由であったはずなのだ」
このあたりから柊馬の川柳史観が明瞭になっていく。前句付をルーツとする川柳が「言葉と言葉の関係性」に敏感であったという指摘は新鮮である。川柳は雑俳の一種と考えられるが、雑俳のさまざまな形式は「言葉と言葉の関係性」によってのみ成立していると言っても過言ではない。それを「言語遊戯」として退け、「作者の思い」の表現に限定してしまったのは「川柳」の特殊事情であり、「近代」という時代の要請である。
「戦後の革新派が句会を嫌った理由には、ダンナ芸や膝ポン川柳などの俗物性への批判があったが、俗物性の中にも流れている言語遊戯の性状については思考の対象としなかった。河野春三の言う『人間諷詠』が川柳の近代化であったが、近代化のなかで書かれた佳作は、多くの場合、古川柳から受け継がれた人情という共感要素を現実から抽出したものであり、結果、私川柳の飽和に至って袋小路に突き当たったのであった」
河野春三が「川柳における近代」の代表的存在であったことは、現在の眼から見てますます明らかになりつつある。春三の近代とは川柳における「私」の確立であり、その実質が「人間諷詠」であったのだ。そこから「思いを書く」という川柳観へはわずかに一歩の距離にすぎない。
川柳は近代化を急ぐあまりに大切なものを見落としてきたのではないか。近代的自我の確立というテーゼは「思いの表現」に矮小化されたが、「私」の表現はもっと深く広い領域を含んでいる。石田柊馬の川柳史観をたたき台にして、さらに複眼的な川柳史観を構築することが後発の世代には求められている。
2010年11月26日金曜日
2010年11月19日金曜日
川柳における「宛名」の問題
近頃よく目にする批評用語に「宛名」がある。誰に宛てて作品を書くか、というほどの意味で使われているのだろう。
「現代詩手帖」11月号の「俳句逍遥」で田中亜美は「宛先と宛名」と題して俳誌「傘」の創刊を取り上げている。田中は次のように書いている。
「俳句の宛先はどこへ設定されるのか。その宛名はどこに記されているのか」「作者として俳句を作るとき、読者として俳句を読むとき、宛先と宛名をめぐる消息について、ふと疑念に囚われることがある。〈私〉は誰に向けてそれを発信するのか、それは本当に〈私〉へと送信されたメッセージなのか」
「傘〔karakasa〕」は越智友亮と藤田哲史が創刊し、第1号では佐藤文香の特集を行っている。彼らがウェブではなくて「雑誌」というツールを選んだのはなぜか。それはメッセージを「《効率よく》ではなく、《確かに》伝えたい。そういう気持ちをつきつめた結果、雑誌という形態に拘らざるをえなかった」からだという。
このような「傘」の発行意図について、田中はこんなふうに述べている。
「もしかしたら、それは無限の匿名性と潜在性の海に『一斉表示』するのではなく、作者の〈手〉から、読者の〈手〉へと漂流し漂着するというプライベートなメッセージの伝達のありようが、もう一度見直されている証左なのかもしれない」
たぶん田中の脳裏にはアドルノのいう「投壜通信」のイメージがあるだろう。
「アウシュビッツ以降になおも詩を書くことは野蛮である」とはドイツの哲学者アドルノの有名な言葉である。現代の商業主義に毒された社会の中で、詩の言葉は「投壜通信」のようにどこへ漂着するか分からない。誰かに届くかどうかすら分からないのだ。発信された言葉は誰かに届かなければ意味がないという考え方もあるだろう。だから性急な若者たちは言葉を届けようと必死になる。けれども、いまこの時点で届かなくても、まだ見ぬ誰かが未来において言葉を受け取ることがあるかもしれない。「投壜通信」にはそういう絶望と希望の二重のイメージがこめられている。
「宛名」で思い浮かぶのは、10月16日に東京で開催された「詩歌梁山泊シンポジウム」の第2部「宛名、機会詩、自然」である。報告者・筑紫磐井の論旨はおよそ次のようなものであったようだ(引用は「俳句樹」3号、筑紫の「私的報告」による)。
筑紫は宮澤賢治の短歌と手紙を比較して、賢治の短歌が詩とはつながらないのに対して、手紙の一部分は立派な詩に見えると述べている。「賢治の詩は若いころから熱心にやっていた短歌から生まれたものではなく、手紙を書き連ねる中でほとばしり出た文章の影響を強く受けていた」というのである。そこから筑紫は次のような結論を導きだしている。
①賢治の詩の発生は、2人称を宛名とする言説(いってみれば手紙)を契機に発生したものと考えるのがふさわしい。
②短歌の発生は1人称複数(=We)を宛名とする歌謡
③俳句の発生は宛名のない文学・つぶやき
このような筑紫の問題提起には反論もあったようだが、この「宛名」という考え方を川柳に適用するとどうなるか、というのが今回のテーマである。
川柳において「宛名」の問題はこれまで考えられてこなかった。それは自明のことであり、問題視されることはなかったのだろう。
句会・大会では、その場に集まった人々に対して作品が書かれる。もっと正確に言えば、選者に向けて作品が書かれる。宛名は選者ひとりなのである。選者はよしとする作品を句会・大会の場で披講する。選者を通して作品は間接的に参加者に届けられる。作品は共感あるいは反発をもって迎えられる。選者という2人称(You)を通過することによって作品は1人称複数(We)に共有される。
同人誌においても価値観を共有する同人・会員に宛てて作品が書かれる。広く一般読書界に流通することはないから、不特定多数の読者に対する「投壜通信」という感覚はあまりない。
このようにして川柳では、誰に宛てて書くか、どのように届けるか、という問題に意識的になる必要はなかった。宛先人は目に見える範囲に限られていたからである。
けれども、川柳においても自立した作品・テクストが書かれるようになると、それを誰に読んでもらうかという問題が浮上してくる。「どのように書くか」とともに「どのように届けるか」が重要な問題として浮かび上がってくるようになったのである。
ここで観点を少し変えて、「差出人」「宛先人」について考えてみることにしよう。
細馬宏通著『絵はがきの時代』(青土社、2006年)は、誰の目にもふれてしまう姿をしながら個人的なメッセージでもある絵はがきについて興味深い論考を展開している。特に「わたしのいない場所」の章では、差出人と宛先人との関係をめぐってこんなふうに書かれている。
「たとえば、手紙を書いているときに、たまたま宛先人であるあなたが近づいてくる。と、わたしはあわてて手紙を隠そうとする。それは明らかに近づいてくるあなたに向けて書かれているにもかかわらず、わたしはまるで、密会の現場をあやうく見つかりそうになったかのように、必死に手紙を脇にやるだろう。すっかり書き終えてからでなければ、そしてわたしのいないところでなければ、手紙をあなたに読ませるわけにはいかない」
「書くという行為は宛先人の不在によって成立する」というのが細馬のテーゼである。「宛先人に見つめられると、エクリチュールは鈍る。そして、その視線が消えるや、エクリチュールは走り出す。あたかも、宛先人の不在に力を得るように」
では、書くという行為はなぜ宛先人の不在を必要とするのだろう、と細馬は問う。
「差出人は贈り物を用意することによって、贈り物に、自分の存在と相手の不在を刻印してしまう。「差出人(わたし)のいる場所に宛先人(あなた)はいない」。それが、差出人の差し出す謎である」
「書くという行為は、単に既知のできごとを表わすためにここまで多様な形に広がったのではない。それはおそらく、贈与の行為として人々のあいだに広まったのである。でなければ、書くという行為が、なぜ執拗に宛先人の不在を必要とするのかを説明することができない。そしてエクリチュールこそは、謎をかけるのにもっとも適した贈り物だった」
これはたいへん魅力的な考え方のように私には思える。
「わたしのいない場所」「宛先人の不在」という考え方に「座の文芸」という視点を放り込んでみるとどのような事態が生じるだろうか。「座の文芸」では「宛先人の不在」どころではない。宛先人は目の前にいるのだ。けれども、川柳においても「宛先人」の問題は改めて考えられなければならないだろう。
差出人(作者)は誰に宛てて書いているか。それは仲間うちだけにしか通用しない言葉で書かれているのではないのか。また、宛先人(読者)は自分に宛てて書かれたかどうかも定かではない作品を読みかねているのではないのか。
川柳は「投壜通信」から出発しなおさなければならない。
「現代詩手帖」11月号の「俳句逍遥」で田中亜美は「宛先と宛名」と題して俳誌「傘」の創刊を取り上げている。田中は次のように書いている。
「俳句の宛先はどこへ設定されるのか。その宛名はどこに記されているのか」「作者として俳句を作るとき、読者として俳句を読むとき、宛先と宛名をめぐる消息について、ふと疑念に囚われることがある。〈私〉は誰に向けてそれを発信するのか、それは本当に〈私〉へと送信されたメッセージなのか」
「傘〔karakasa〕」は越智友亮と藤田哲史が創刊し、第1号では佐藤文香の特集を行っている。彼らがウェブではなくて「雑誌」というツールを選んだのはなぜか。それはメッセージを「《効率よく》ではなく、《確かに》伝えたい。そういう気持ちをつきつめた結果、雑誌という形態に拘らざるをえなかった」からだという。
このような「傘」の発行意図について、田中はこんなふうに述べている。
「もしかしたら、それは無限の匿名性と潜在性の海に『一斉表示』するのではなく、作者の〈手〉から、読者の〈手〉へと漂流し漂着するというプライベートなメッセージの伝達のありようが、もう一度見直されている証左なのかもしれない」
たぶん田中の脳裏にはアドルノのいう「投壜通信」のイメージがあるだろう。
「アウシュビッツ以降になおも詩を書くことは野蛮である」とはドイツの哲学者アドルノの有名な言葉である。現代の商業主義に毒された社会の中で、詩の言葉は「投壜通信」のようにどこへ漂着するか分からない。誰かに届くかどうかすら分からないのだ。発信された言葉は誰かに届かなければ意味がないという考え方もあるだろう。だから性急な若者たちは言葉を届けようと必死になる。けれども、いまこの時点で届かなくても、まだ見ぬ誰かが未来において言葉を受け取ることがあるかもしれない。「投壜通信」にはそういう絶望と希望の二重のイメージがこめられている。
「宛名」で思い浮かぶのは、10月16日に東京で開催された「詩歌梁山泊シンポジウム」の第2部「宛名、機会詩、自然」である。報告者・筑紫磐井の論旨はおよそ次のようなものであったようだ(引用は「俳句樹」3号、筑紫の「私的報告」による)。
筑紫は宮澤賢治の短歌と手紙を比較して、賢治の短歌が詩とはつながらないのに対して、手紙の一部分は立派な詩に見えると述べている。「賢治の詩は若いころから熱心にやっていた短歌から生まれたものではなく、手紙を書き連ねる中でほとばしり出た文章の影響を強く受けていた」というのである。そこから筑紫は次のような結論を導きだしている。
①賢治の詩の発生は、2人称を宛名とする言説(いってみれば手紙)を契機に発生したものと考えるのがふさわしい。
②短歌の発生は1人称複数(=We)を宛名とする歌謡
③俳句の発生は宛名のない文学・つぶやき
このような筑紫の問題提起には反論もあったようだが、この「宛名」という考え方を川柳に適用するとどうなるか、というのが今回のテーマである。
川柳において「宛名」の問題はこれまで考えられてこなかった。それは自明のことであり、問題視されることはなかったのだろう。
句会・大会では、その場に集まった人々に対して作品が書かれる。もっと正確に言えば、選者に向けて作品が書かれる。宛名は選者ひとりなのである。選者はよしとする作品を句会・大会の場で披講する。選者を通して作品は間接的に参加者に届けられる。作品は共感あるいは反発をもって迎えられる。選者という2人称(You)を通過することによって作品は1人称複数(We)に共有される。
同人誌においても価値観を共有する同人・会員に宛てて作品が書かれる。広く一般読書界に流通することはないから、不特定多数の読者に対する「投壜通信」という感覚はあまりない。
このようにして川柳では、誰に宛てて書くか、どのように届けるか、という問題に意識的になる必要はなかった。宛先人は目に見える範囲に限られていたからである。
けれども、川柳においても自立した作品・テクストが書かれるようになると、それを誰に読んでもらうかという問題が浮上してくる。「どのように書くか」とともに「どのように届けるか」が重要な問題として浮かび上がってくるようになったのである。
ここで観点を少し変えて、「差出人」「宛先人」について考えてみることにしよう。
細馬宏通著『絵はがきの時代』(青土社、2006年)は、誰の目にもふれてしまう姿をしながら個人的なメッセージでもある絵はがきについて興味深い論考を展開している。特に「わたしのいない場所」の章では、差出人と宛先人との関係をめぐってこんなふうに書かれている。
「たとえば、手紙を書いているときに、たまたま宛先人であるあなたが近づいてくる。と、わたしはあわてて手紙を隠そうとする。それは明らかに近づいてくるあなたに向けて書かれているにもかかわらず、わたしはまるで、密会の現場をあやうく見つかりそうになったかのように、必死に手紙を脇にやるだろう。すっかり書き終えてからでなければ、そしてわたしのいないところでなければ、手紙をあなたに読ませるわけにはいかない」
「書くという行為は宛先人の不在によって成立する」というのが細馬のテーゼである。「宛先人に見つめられると、エクリチュールは鈍る。そして、その視線が消えるや、エクリチュールは走り出す。あたかも、宛先人の不在に力を得るように」
では、書くという行為はなぜ宛先人の不在を必要とするのだろう、と細馬は問う。
「差出人は贈り物を用意することによって、贈り物に、自分の存在と相手の不在を刻印してしまう。「差出人(わたし)のいる場所に宛先人(あなた)はいない」。それが、差出人の差し出す謎である」
「書くという行為は、単に既知のできごとを表わすためにここまで多様な形に広がったのではない。それはおそらく、贈与の行為として人々のあいだに広まったのである。でなければ、書くという行為が、なぜ執拗に宛先人の不在を必要とするのかを説明することができない。そしてエクリチュールこそは、謎をかけるのにもっとも適した贈り物だった」
これはたいへん魅力的な考え方のように私には思える。
「わたしのいない場所」「宛先人の不在」という考え方に「座の文芸」という視点を放り込んでみるとどのような事態が生じるだろうか。「座の文芸」では「宛先人の不在」どころではない。宛先人は目の前にいるのだ。けれども、川柳においても「宛先人」の問題は改めて考えられなければならないだろう。
差出人(作者)は誰に宛てて書いているか。それは仲間うちだけにしか通用しない言葉で書かれているのではないのか。また、宛先人(読者)は自分に宛てて書かれたかどうかも定かではない作品を読みかねているのではないのか。
川柳は「投壜通信」から出発しなおさなければならない。
2010年11月12日金曜日
『麻生路郎読本』
「川柳雑誌」「川柳塔」通巻1000号記念として『麻生路郎読本』が川柳塔社から出版された。500ページを越える大冊で資料的価値が高い。「麻生路郎アルバム」「麻生路郎作品」「麻生路郎文集」「語録」「麻生路郎物語」「人と作品」「著作解題」「年譜」などから成り、川柳六大家のひとり・麻生路郎の全体像を多面的にまとめている。
これまで麻生路郎について調べるには構造社出版の川柳全集・第二巻『麻生路郎』(橘高薫風編)を利用するのが手頃であった。また、大阪市立中央図書館には麻生路郎が寄贈した川柳関係の蔵書がある。当然「川柳雑誌」のバックナンバーもそろっており、初期の「川柳雑誌」の活気に満ちた誌面に接することができる。「川柳雑誌」創刊前後の麻生路郎にはめざましいエネルギーが感じられ、私が特に関心を持っているのもこの時期である。
今回の『麻生路郎読本』で嬉しいのは、東野大八による「麻生路郎物語」が完全収録されていることである。「川柳塔」昭和50年1月号~昭和52年7月号に掲載されたものをまとめて収録している。
東野大八の文章を参考にしながら、しばらく大正期の路郎の軌跡をたどってみたい。
大正4年、路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。
くろぐろと道頓堀の水流る
行末はどうあろうとも火の如し
こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)
「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。
「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)
「川柳雑誌」は大正13年2月に創刊された。以後の歴史は比較的知られているだろうし、『麻生路郎読本』にも詳しく語られている。
河野春三が「詩性と大衆性との中で」で書いているように、路郎は日車・半文銭の新興川柳に同調せず、当百・水府の伝統川柳とも一線を画して、彼の青春性を示す「雪」「土団子」の高踏を自ら捨てて、「川柳の社会進出」のために奮闘したということになる。「詩性」と「大衆性」の中で文学運動を起こそうとしたのだ、と春三は見ている。これはこれで、川柳人のひとつの生き方だろう。
以下、路郎作品を少し書き留めておく。
俺に似よ俺に似るなと子を思ひ
君見たまへ菠薐草が伸びてゐる
酒とろりとろり大空のこころかも
寝転べば畳一帖ふさぐのみ
麻生路郎の辞世として、次の句が知られている。
雲の峯という手もありさらばさらばです
路郎の死は7月、俳句には「雲の峯」という季語があるが、川柳人はそのような手は使わない。
死に臨んで俳句の季語に喧嘩を売ったところに川柳人・麻生路郎の面目躍如たるものがある。
一部分しか触れられなかったが、『麻生路郎読本』には路郎とその時代を考えるための様々な材料が満載されている。
これまで麻生路郎について調べるには構造社出版の川柳全集・第二巻『麻生路郎』(橘高薫風編)を利用するのが手頃であった。また、大阪市立中央図書館には麻生路郎が寄贈した川柳関係の蔵書がある。当然「川柳雑誌」のバックナンバーもそろっており、初期の「川柳雑誌」の活気に満ちた誌面に接することができる。「川柳雑誌」創刊前後の麻生路郎にはめざましいエネルギーが感じられ、私が特に関心を持っているのもこの時期である。
今回の『麻生路郎読本』で嬉しいのは、東野大八による「麻生路郎物語」が完全収録されていることである。「川柳塔」昭和50年1月号~昭和52年7月号に掲載されたものをまとめて収録している。
東野大八の文章を参考にしながら、しばらく大正期の路郎の軌跡をたどってみたい。
大正4年、路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。
くろぐろと道頓堀の水流る
行末はどうあろうとも火の如し
こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)
「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。
「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)
「川柳雑誌」は大正13年2月に創刊された。以後の歴史は比較的知られているだろうし、『麻生路郎読本』にも詳しく語られている。
河野春三が「詩性と大衆性との中で」で書いているように、路郎は日車・半文銭の新興川柳に同調せず、当百・水府の伝統川柳とも一線を画して、彼の青春性を示す「雪」「土団子」の高踏を自ら捨てて、「川柳の社会進出」のために奮闘したということになる。「詩性」と「大衆性」の中で文学運動を起こそうとしたのだ、と春三は見ている。これはこれで、川柳人のひとつの生き方だろう。
以下、路郎作品を少し書き留めておく。
俺に似よ俺に似るなと子を思ひ
君見たまへ菠薐草が伸びてゐる
酒とろりとろり大空のこころかも
寝転べば畳一帖ふさぐのみ
麻生路郎の辞世として、次の句が知られている。
雲の峯という手もありさらばさらばです
路郎の死は7月、俳句には「雲の峯」という季語があるが、川柳人はそのような手は使わない。
死に臨んで俳句の季語に喧嘩を売ったところに川柳人・麻生路郎の面目躍如たるものがある。
一部分しか触れられなかったが、『麻生路郎読本』には路郎とその時代を考えるための様々な材料が満載されている。
2010年11月5日金曜日
くんじろうの川柳
さる10月16日(土)、第10回詩のボクシング全国大会が東京・日経ホールで開催され、くんじろう(竹下勲二朗、「ふらすこてん」「バックストローク」同人、「空の会」主宰)がチャンピオンの座に輝いた。川柳界から新しい朗読ボクサーの誕生である。
くんじろうが三重県代表として出場したのは、阪本きりり(松本きりり)の薦めによる。7月17日(土)に鈴鹿市文化会館で開催された三重県大会のことから改めて報告すると、くんじろうは、1回戦・鈴鹿のJUN、2回戦・ISAMU、3回戦・みおよしきを快調に打ち破り、決勝に進んだ。「にいちゃんが盗った、ぼくが手伝った」「そのへんの石になろうと決めた石」など、くんじろうの朗読は五七五を基本とし、聞き手の共感を得るような語り方である。泣かせるツボを心得ているのだ。そういう意味では、彼の朗読はいわゆる「現代詩」とは無縁である。三重大会でもっとも「現代詩」を感じさせたのは池上宣久という人で、詩のおもしろさと朗読技術の確かさという点では抜きん出ていた。
審査員は現代詩の専門家ではないから、詩の内容だけではなく、朗読者の存在感自体も評価の対象となったようだ。
決勝戦でくんじろうはやまぎり萌と対戦した。やまぎりはこれまで何回か三重大会に出場経験のある、車椅子の障がい者であるが、その朗読には迫力がある。圧巻は即興詩で、先攻のやまぎりには「うどん」という題が、後攻のくんじろうには「そば」という題が出た。やまぎりの即興詩もユーモアを交えたおもしろいものだったが、くんじろうの「そば風呂」の話は落語的ナンセンスと川柳の題詠で鍛えられた技で会場を大いに沸かせた。本人の弁によると「神様が降りてきた」ということである。くんじろうの芸が勝ったということだろう。
私は全国大会を聞きに行くことができなかったが、堺利彦の報告によると、全国大会でもほぼ事情は同じだったようだ。「バックストローク」の掲示板で、堺は次のように書いている。
〈ところで、試合は、トーナメント方式により行われ、くんじろうさんは、第一回戦では、第8回徳島大会チャンピオンの新田千恵子さんと対戦、私の見た感じでは、どうも、これが事実上の決勝戦のように厳しい戦いでありました。くんじろうさんは、メルヘンチックなストーリの詩を河内の方言も交えてリズミカルに、かつ、郷愁を含んだ軽やかな声で発表。一方の千恵子さんは、歌舞伎の八方を踏むパホーマンスを取り入れ、「カン」の脚韻の面白さを取り入れた言葉の遊びこころと音律の心地良さを合わせた身振りによる詩の発表と対照的でありましたが、結果は、かろうじて、4対3の勝利でありました。
「詩のボクシング」は、初めて観戦しましたが、その審査基準が何かはよく分かりませんでした。詩の内容からすれば、北海道大会のチャンピオンである二条千河さんの詩などは、非日常的モチーフによって人間の根源を衝いていて、どきりとされましたが、審査員の先生方が詩の専門家ではありませんから、あまり難しい内容のものは敬遠されたのかなあと感じた次第です。くんじろうさんの対戦相手である千恵子さんの詩も、ことば遊びの楽しさという点からすれば、高く評価されてもいい内容のものと思いましたが、そこは、連戦琢磨のくんじろうさん、「共感」を誘う落としどころを心得ていて、お涙頂戴式でポイントを稼いだものと感じ入った次第です。これは、川柳で言うところの、選者の傾向に合わせて作品を投句するという「当て込み」と呼ばれるテクニックと同じもので、句会で鍛えたくんじろうさんにとっては、お手のものといえるでしょう〉
くんじろうのルーツである川柳・落語が確固として彼の朗読を支えていることが分かる。
ふだん「バックストロークは嫌いだ」と公言しているくんじろうは、川柳においても共感と普遍性に基づく書き方をよしとしているのだ。そのような彼の方向性は、朗読という観客の反応が直接的に見える場において、きわめて効果的に発揮されたということができる。
「週刊俳句」183号に、くんじろうの川柳「ちょいとそこまで」10句が掲載された。その前半を紹介しておこう。
うどん屋の湯呑みですから箸ですから
茄子ありがとうございます 鰯
ぶかぶかの長靴桃は腐らない
郭まで母を迎えにゆく蛙
ご祝儀にしてはトーテムポールかな
読者に預ける書き方というものが川柳には見られる。1句目、「ですから」何だというのだろう。それは読者にまかされている。もともと「ですから」には深い意味はなく、湯飲みと箸があるだけなのだ。この湯飲みと箸には庶民性の匂いがある。
2句目は手紙形式になっている。差出人は鰯である。食卓に茄子と鰯が並んでいる情景などが思い浮かぶ。この取合せを鰯自身は気に入っているらしい。茄子と鰯の親和力である。
3句目、ドイツロマン派には「長靴をはいた猫」という作品があるが、ぶかぶかの長靴をはいているのは子どもかも知れない。「桃は腐らない」との間に飛躍がある。現実の桃は腐るけれども、永遠を感じさせる桃のイメージだろう。
4句目の「蛙」は喩として常套的で分かりやすいが、5句目の「トーテムポール」には言葉の飛躍がある。
市井に生きる庶民の哀歓をベースにしているが、感情過多の作品に陥ることから救っているのは川柳的飛躍に基づく言葉の切れ味による。くんじろうの川柳の今後の展開に期待したい。
先日、くんじろうは「川柳・北田辺」という句会を立ち上げた。案内文に「おもろい句会になったらええなぁ~」とある。はじめての人にも川柳のおもしろさを伝えたいという熱意が伝わってくるが、川柳の伝道者としてだけではなく、さらにパワフルな彼自身の作品を書いていってほしいものである。
くんじろうが三重県代表として出場したのは、阪本きりり(松本きりり)の薦めによる。7月17日(土)に鈴鹿市文化会館で開催された三重県大会のことから改めて報告すると、くんじろうは、1回戦・鈴鹿のJUN、2回戦・ISAMU、3回戦・みおよしきを快調に打ち破り、決勝に進んだ。「にいちゃんが盗った、ぼくが手伝った」「そのへんの石になろうと決めた石」など、くんじろうの朗読は五七五を基本とし、聞き手の共感を得るような語り方である。泣かせるツボを心得ているのだ。そういう意味では、彼の朗読はいわゆる「現代詩」とは無縁である。三重大会でもっとも「現代詩」を感じさせたのは池上宣久という人で、詩のおもしろさと朗読技術の確かさという点では抜きん出ていた。
審査員は現代詩の専門家ではないから、詩の内容だけではなく、朗読者の存在感自体も評価の対象となったようだ。
決勝戦でくんじろうはやまぎり萌と対戦した。やまぎりはこれまで何回か三重大会に出場経験のある、車椅子の障がい者であるが、その朗読には迫力がある。圧巻は即興詩で、先攻のやまぎりには「うどん」という題が、後攻のくんじろうには「そば」という題が出た。やまぎりの即興詩もユーモアを交えたおもしろいものだったが、くんじろうの「そば風呂」の話は落語的ナンセンスと川柳の題詠で鍛えられた技で会場を大いに沸かせた。本人の弁によると「神様が降りてきた」ということである。くんじろうの芸が勝ったということだろう。
私は全国大会を聞きに行くことができなかったが、堺利彦の報告によると、全国大会でもほぼ事情は同じだったようだ。「バックストローク」の掲示板で、堺は次のように書いている。
〈ところで、試合は、トーナメント方式により行われ、くんじろうさんは、第一回戦では、第8回徳島大会チャンピオンの新田千恵子さんと対戦、私の見た感じでは、どうも、これが事実上の決勝戦のように厳しい戦いでありました。くんじろうさんは、メルヘンチックなストーリの詩を河内の方言も交えてリズミカルに、かつ、郷愁を含んだ軽やかな声で発表。一方の千恵子さんは、歌舞伎の八方を踏むパホーマンスを取り入れ、「カン」の脚韻の面白さを取り入れた言葉の遊びこころと音律の心地良さを合わせた身振りによる詩の発表と対照的でありましたが、結果は、かろうじて、4対3の勝利でありました。
「詩のボクシング」は、初めて観戦しましたが、その審査基準が何かはよく分かりませんでした。詩の内容からすれば、北海道大会のチャンピオンである二条千河さんの詩などは、非日常的モチーフによって人間の根源を衝いていて、どきりとされましたが、審査員の先生方が詩の専門家ではありませんから、あまり難しい内容のものは敬遠されたのかなあと感じた次第です。くんじろうさんの対戦相手である千恵子さんの詩も、ことば遊びの楽しさという点からすれば、高く評価されてもいい内容のものと思いましたが、そこは、連戦琢磨のくんじろうさん、「共感」を誘う落としどころを心得ていて、お涙頂戴式でポイントを稼いだものと感じ入った次第です。これは、川柳で言うところの、選者の傾向に合わせて作品を投句するという「当て込み」と呼ばれるテクニックと同じもので、句会で鍛えたくんじろうさんにとっては、お手のものといえるでしょう〉
くんじろうのルーツである川柳・落語が確固として彼の朗読を支えていることが分かる。
ふだん「バックストロークは嫌いだ」と公言しているくんじろうは、川柳においても共感と普遍性に基づく書き方をよしとしているのだ。そのような彼の方向性は、朗読という観客の反応が直接的に見える場において、きわめて効果的に発揮されたということができる。
「週刊俳句」183号に、くんじろうの川柳「ちょいとそこまで」10句が掲載された。その前半を紹介しておこう。
うどん屋の湯呑みですから箸ですから
茄子ありがとうございます 鰯
ぶかぶかの長靴桃は腐らない
郭まで母を迎えにゆく蛙
ご祝儀にしてはトーテムポールかな
読者に預ける書き方というものが川柳には見られる。1句目、「ですから」何だというのだろう。それは読者にまかされている。もともと「ですから」には深い意味はなく、湯飲みと箸があるだけなのだ。この湯飲みと箸には庶民性の匂いがある。
2句目は手紙形式になっている。差出人は鰯である。食卓に茄子と鰯が並んでいる情景などが思い浮かぶ。この取合せを鰯自身は気に入っているらしい。茄子と鰯の親和力である。
3句目、ドイツロマン派には「長靴をはいた猫」という作品があるが、ぶかぶかの長靴をはいているのは子どもかも知れない。「桃は腐らない」との間に飛躍がある。現実の桃は腐るけれども、永遠を感じさせる桃のイメージだろう。
4句目の「蛙」は喩として常套的で分かりやすいが、5句目の「トーテムポール」には言葉の飛躍がある。
市井に生きる庶民の哀歓をベースにしているが、感情過多の作品に陥ることから救っているのは川柳的飛躍に基づく言葉の切れ味による。くんじろうの川柳の今後の展開に期待したい。
先日、くんじろうは「川柳・北田辺」という句会を立ち上げた。案内文に「おもろい句会になったらええなぁ~」とある。はじめての人にも川柳のおもしろさを伝えたいという熱意が伝わってくるが、川柳の伝道者としてだけではなく、さらにパワフルな彼自身の作品を書いていってほしいものである。
2010年10月29日金曜日
詩歌梁山泊・三詩型交流企画
10月17日(土)に東京の日本出版クラブ会館で詩歌梁山泊主催のシンポジウムが開催された。約130名の参加者があり盛況だったようで、ネットを中心にその模様が報告されている。私は残念ながら参加できなかったが、さまざまなレポートをもとにこの集まりの意義について考えてみたい。
詩歌梁山泊は詩人の森川雅美を代表として立ち上げられた。まず、主催者の意図を「詩歌梁山泊」ブログから引用してみよう。
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/
「現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。当企画ではシンポジウム、ホームページ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。」(詩歌梁山泊~三詩型交流企画ごあいさつ)
ここに明示されているように、三詩型とは「短歌」「俳句」「自由詩」であり、「川柳」は入っていない。いま、そのことをあげつらってみてもあまり意味はないが、森川雅美は現代詩サイドの人であり、彼の視野に入っている短詩型は「短歌」「俳句」にとどまるということだろう。実際問題として、川柳人でこのシンポジウムに出席したのは堺利彦ただ1人であり、「バックストローク」掲示板に長文の報告を書いている。堺の孤軍奮闘はともかく、短詩型の現在の動向に対してアンテナを出し切れていない川柳側の意識も問われるところである。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs
それにしても、なぜ三詩型なのか。
このイベントの実行委員であり、当日第二部のパネラーの1人でもある筑紫磐井は、「俳句樹」第2号の「詩歌梁山泊第1回シンポジウムと『超新撰21』竟宴シンポジウムと」で次のように述べている。
http://haiku-tree.blogspot.com/
「かつて拙著にいろいろご指導いただいた人類学者川田順造氏は、氏の独特の方法論で三角測量という考え方を提案している。川田氏の場合は、日本、フランス、アフリカという三つの地点を設定され、ここからから文化や民族を観察し解釈するとき2項対立とは全く違う思考が生まれる。(中略)
いままで、俳句―詩、俳句―短歌、俳句―川柳の断片談判で考えられて来た俳句論を少し見直してみる。日本、フランス、アフリカほど異質な、短歌、俳句、自由詩の視点から、「詩歌」という単一理念を3点測量することは魅力的であると思う」
「2項対立」から「3点測量へ」というのは興味深い観点ではある。少なくとも筑紫の視野には「川柳」の存在は入っているが、4詩型ではなく3詩型として始めようという意識があったのだろう。
さて、シンポジウムの第1部は「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」というテーマで比較的若手のパネラーによって進行された。第1部は若手に、第2部はベテランにというのがコーディネーターの意志だったようだ。
第1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」
歌人/佐藤弓生、今橋愛
俳人/田中亜美、山口優夢
詩人/杉本徹 、文月悠光
司会/森川雅美
まず短歌だが、佐藤弓生が光森裕樹『鈴を産むひばり』( 2010)を、今橋愛が野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社 / 2009)を取り上げてコメントした。
光森裕樹『鈴を産むひばり』より
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。
だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて
野口あや子『くびすじの欠片』より
互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
俳句では山口優夢が高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 / 2009)を、田中亜美が御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」を取り上げてコメントした。
髙柳克弘『未踏』(ふらんす堂)より
ことごとく未踏なりけり冬の星
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
洋梨とタイプライター日が昇る
御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」より
じきに死ぬくらげをどりながら上陸
結果より過程と滝に言へるのか
季語が無い夜空を埋める雲だった
現代詩では杉本徹が中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社 / 2009)を、文月悠光が大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」2010年7月号)を取り上げて報告した。現代詩の引用は長いので省略させていただく。
この第1部については、「週刊俳句」に野口る理のレポートが掲載されているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。野口はこんなふうにまとめている。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
「パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的である。古典的なつくり方に現代性を感じさせる【光森】作品と、恋や性愛を通して現代に生きる自分を描く【野口】作品。流麗な文語を用いすみずみまで洗練されている【高柳】作品と、口語も文語も混ぜ乱反射させる【御中】作品。引き裂かれるような切実さのある独自の物語を紡ぐ【中尾】作品と、自在な散文を用いネット上でも多くの人に読まれ共感を得る【大江】作品」
「今をときめく若手作家であるパネリストたちが、今をときめく若手作家の作品について議論するという豪華な企画であったが、なにぶんパネリストが多いのと、ただでさえ3詩型が集まり要素が多く、また自由度が高すぎるのとで、話はあまりまとまらなかった印象である。しかし、3詩型それぞれの若手の問題意識や現在をうかがい知ることが出来、これからまだまだ前へ進む力強さを体感することができたシンポジウムであった」
続く第2部は「宛名、機会詩、自然~三詩型は何を共有できるのか」である。
歌人/藤原龍一郎
俳人/筑紫磐井
詩人/野村喜和夫
司会/高山れおな
この第2部については「俳句樹」第3号に筑紫磐井が「詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告・宛名、機会詩、自然」を書いているので、そちらを参照されたい。
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/blog-post_4110.html
筑紫磐井は次のように述べている。
「こうしたシンポジウムでは明快な結論が出ないのはやむを得ないことかも知れない、しかし、ここで提起された問題が次にどう続くかと言うことの方が大事であろう。そして実はそうしたことを最初から期待していた向きもある。短歌・俳句・詩という三詩型交流を目指したシンポジウムだが、実は俳句の周辺にはさらに多くの他ジャンルが存在している。12月刊行予定で、現在、鋭意編集を進めている『超新撰21』は、意図して『新撰21』を超えてはるかに広く、川柳や自由律俳句の作家に参加してもらっている。刊行後の12月23日(木・祝)午後には、アルカディア市ヶ谷でシンポジウムが開かれるが、ここでは三詩型交流を超えた多詩型交流の場が実現するであろう。今回のシンポジウムで提起された問題、あるいはより一層深く論ぜられるべき問題はそちらで孵化されることを期待している」
『超新撰21』には川柳側から清水かおりが参加しており、清水かおり論は俳人の堺谷真人が執筆することになっている。短詩型文学のフィールドの中で、清水かおりの言葉の世界がどのように展開されているのか。このアンソロジー自体はまだ出ていないが、発行されるのが待ち遠しい。12月23日のシンポジウムには、川柳人も参加する余地がある。筑紫のいう「三詩型交流を超えた多詩型交流の場」が想定されているのだ。
お膳立てはすでに出来ている。このイベントに川柳人はどのように参画していくのかが逆に問われている。
詩歌梁山泊は詩人の森川雅美を代表として立ち上げられた。まず、主催者の意図を「詩歌梁山泊」ブログから引用してみよう。
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/
「現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。当企画ではシンポジウム、ホームページ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。」(詩歌梁山泊~三詩型交流企画ごあいさつ)
ここに明示されているように、三詩型とは「短歌」「俳句」「自由詩」であり、「川柳」は入っていない。いま、そのことをあげつらってみてもあまり意味はないが、森川雅美は現代詩サイドの人であり、彼の視野に入っている短詩型は「短歌」「俳句」にとどまるということだろう。実際問題として、川柳人でこのシンポジウムに出席したのは堺利彦ただ1人であり、「バックストローク」掲示板に長文の報告を書いている。堺の孤軍奮闘はともかく、短詩型の現在の動向に対してアンテナを出し切れていない川柳側の意識も問われるところである。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs
それにしても、なぜ三詩型なのか。
このイベントの実行委員であり、当日第二部のパネラーの1人でもある筑紫磐井は、「俳句樹」第2号の「詩歌梁山泊第1回シンポジウムと『超新撰21』竟宴シンポジウムと」で次のように述べている。
http://haiku-tree.blogspot.com/
「かつて拙著にいろいろご指導いただいた人類学者川田順造氏は、氏の独特の方法論で三角測量という考え方を提案している。川田氏の場合は、日本、フランス、アフリカという三つの地点を設定され、ここからから文化や民族を観察し解釈するとき2項対立とは全く違う思考が生まれる。(中略)
いままで、俳句―詩、俳句―短歌、俳句―川柳の断片談判で考えられて来た俳句論を少し見直してみる。日本、フランス、アフリカほど異質な、短歌、俳句、自由詩の視点から、「詩歌」という単一理念を3点測量することは魅力的であると思う」
「2項対立」から「3点測量へ」というのは興味深い観点ではある。少なくとも筑紫の視野には「川柳」の存在は入っているが、4詩型ではなく3詩型として始めようという意識があったのだろう。
さて、シンポジウムの第1部は「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」というテーマで比較的若手のパネラーによって進行された。第1部は若手に、第2部はベテランにというのがコーディネーターの意志だったようだ。
第1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」
歌人/佐藤弓生、今橋愛
俳人/田中亜美、山口優夢
詩人/杉本徹 、文月悠光
司会/森川雅美
まず短歌だが、佐藤弓生が光森裕樹『鈴を産むひばり』( 2010)を、今橋愛が野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社 / 2009)を取り上げてコメントした。
光森裕樹『鈴を産むひばり』より
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。
だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて
野口あや子『くびすじの欠片』より
互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
俳句では山口優夢が高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 / 2009)を、田中亜美が御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」を取り上げてコメントした。
髙柳克弘『未踏』(ふらんす堂)より
ことごとく未踏なりけり冬の星
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
洋梨とタイプライター日が昇る
御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」より
じきに死ぬくらげをどりながら上陸
結果より過程と滝に言へるのか
季語が無い夜空を埋める雲だった
現代詩では杉本徹が中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社 / 2009)を、文月悠光が大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」2010年7月号)を取り上げて報告した。現代詩の引用は長いので省略させていただく。
この第1部については、「週刊俳句」に野口る理のレポートが掲載されているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。野口はこんなふうにまとめている。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
「パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的である。古典的なつくり方に現代性を感じさせる【光森】作品と、恋や性愛を通して現代に生きる自分を描く【野口】作品。流麗な文語を用いすみずみまで洗練されている【高柳】作品と、口語も文語も混ぜ乱反射させる【御中】作品。引き裂かれるような切実さのある独自の物語を紡ぐ【中尾】作品と、自在な散文を用いネット上でも多くの人に読まれ共感を得る【大江】作品」
「今をときめく若手作家であるパネリストたちが、今をときめく若手作家の作品について議論するという豪華な企画であったが、なにぶんパネリストが多いのと、ただでさえ3詩型が集まり要素が多く、また自由度が高すぎるのとで、話はあまりまとまらなかった印象である。しかし、3詩型それぞれの若手の問題意識や現在をうかがい知ることが出来、これからまだまだ前へ進む力強さを体感することができたシンポジウムであった」
続く第2部は「宛名、機会詩、自然~三詩型は何を共有できるのか」である。
歌人/藤原龍一郎
俳人/筑紫磐井
詩人/野村喜和夫
司会/高山れおな
この第2部については「俳句樹」第3号に筑紫磐井が「詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告・宛名、機会詩、自然」を書いているので、そちらを参照されたい。
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/blog-post_4110.html
筑紫磐井は次のように述べている。
「こうしたシンポジウムでは明快な結論が出ないのはやむを得ないことかも知れない、しかし、ここで提起された問題が次にどう続くかと言うことの方が大事であろう。そして実はそうしたことを最初から期待していた向きもある。短歌・俳句・詩という三詩型交流を目指したシンポジウムだが、実は俳句の周辺にはさらに多くの他ジャンルが存在している。12月刊行予定で、現在、鋭意編集を進めている『超新撰21』は、意図して『新撰21』を超えてはるかに広く、川柳や自由律俳句の作家に参加してもらっている。刊行後の12月23日(木・祝)午後には、アルカディア市ヶ谷でシンポジウムが開かれるが、ここでは三詩型交流を超えた多詩型交流の場が実現するであろう。今回のシンポジウムで提起された問題、あるいはより一層深く論ぜられるべき問題はそちらで孵化されることを期待している」
『超新撰21』には川柳側から清水かおりが参加しており、清水かおり論は俳人の堺谷真人が執筆することになっている。短詩型文学のフィールドの中で、清水かおりの言葉の世界がどのように展開されているのか。このアンソロジー自体はまだ出ていないが、発行されるのが待ち遠しい。12月23日のシンポジウムには、川柳人も参加する余地がある。筑紫のいう「三詩型交流を超えた多詩型交流の場」が想定されているのだ。
お膳立てはすでに出来ている。このイベントに川柳人はどのように参画していくのかが逆に問われている。
2010年10月22日金曜日
意表派とは何か
川柳句評の場面で最近「意表」という言葉を耳にする。石田柊馬や吉澤久良などがしばしば使用している。「読者の意表をついた川柳作品」というくらいの意味だろうと思って聞いているのだが、今回は「意表」ということにどのような問題性があるのかを考えてみたい。
吉澤久良は「Leaf」に「〈読み〉についての覚え書」という文章を連載しているが、創刊号では〈「意表派」のナルシシズム〉という項目を立ててこんなふうに述べている。
〔 現在、自分の〈思い〉を書くことをよしとせず、コトバそのものに向かった一部の柳人がおり、難解句を書いている。コトバの日常的意味のつながりに意表を持ち込んだのである(以下、本稿ではこのように意表を眼目とした書き方の柳人を「意表派」と呼ぶことにする) 〕〔 「意表派」の句のほとんどはナルシシズムにまみれている。意表をついたコトバの関係を作れたと満足し、インスピレーションだ、新しい書き方だと一人で悦に入っている。そこには自分がなぜ川柳を書くのかという知的考察はない 〕
吉澤は「意表派」の具体例を挙げていないので、どのような作品が該当するのか、分かりにくいところがある。具体的作品は挙げにくいのは確かだが、とりあえず一般論として受け取っておくことにしよう。吉澤は「Leaf」第2号でも〈私性川柳と意表派〉という項目を立て、私性川柳のナルシシズムについて触れたあと、さらに意表派について言及している。
〔このような私性川柳の理解の延長上で、意表派の川柳も理解することができる。(中略)その多くは恣意的な言葉が並べられただけの句であり、コトバにこだわるという意匠でごまかしている。意表派の柳人は自分の感性を追求し、句が自分自身に向けた〈答え〉でありさえすればよかったのだ。ここでも、そのような感性を持つ自分とはどのようなものかは問われなかった。いわば、私性川柳と意表派は、同病の双子の兄弟だった 〕
吉澤は「私性川柳」と「意表派」とを「同病の双子の兄弟」だという。作者個人のナマの「私」が検証されることなく垂れ流しにされる「私性川柳」と、自分の感覚的・恣意的な言葉の感性を検証しようとしない「意表派」とをナルシシズムという点では同根と見るのである。読者論の立場に立って創造的読みの必要性を提唱している吉澤らしい言説である。
「意表」という言葉を用い始めたのは、おそらく石田柊馬だった。「意表」を正面から論じた柊馬の評論をいま探し出せないが、たとえば次のような文章に柊馬の問題意識がうかがわれる。
〔前句附けは七七に五七五を附ける言語遊戯であったので、川柳にはもともと、句語に句語を附けてあとは勝手に読んでくれという突き放しの性状があるのだが、安直無責任な突き放しの不毛を退けるところに意味性があり、選があったと思っていいだろう。意味への拘りの典型が狂句であったとも言える。狂句を排除した近代の川柳の多くは共感性に則って意味が書かれた。下って、意味や言葉の感覚的附け合わせ、言い変えれば詩性が共感レベルで書かれた。現在、詩性の評価は、共感性よりも作者個人の発語であることを上位とする方向にあり、良質の選の多くに見られる。これが共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考を招いたらしい〕(「ふらすこてん」第6号・2009年11月)
「共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考」が吉澤のいう「意表派」と同じ傾向を指しているとすれば、柊馬の指摘は吉澤の提起している問題をより一般的かつ実践的に捉えたものと言えるだろう。川柳作品を放恣な飛躍から救うものは共感性や意味性の錘だということだろう。では、そのことと「共感性」から「作者個人」へという現代川柳の流れとは、どのように統一されるのであろうか。
柊馬は続けて次のように説いている。
〔問題点は三つある。
(a)作者の世界(人間)観の深みや洞察眼が感覚的表現となった句の、飛躍の測りづらさという読者側の問題〕
(b)川柳の表現領域を広げるイメージの創造や、言葉を契機とする書き方についての読者の無理解。
(c)逆に、これとこれとの組み合わせで、ちょっと感興があるように感じます、という作者側の無責任。〕
そして、(c)が氾濫状態なのだという。
石田・吉澤の指摘から私が連想するのは、俳諧史における談林派の存在である。
貞門俳諧の退屈さを超克して、奇抜な言葉の取り合わせを生命線とすることで、談林派は燎原の火のように全国に広がったが、言葉の飛躍は同時に無数の「飛びそこない」を生み出し、わずか10年で終息した。けれども、談林俳諧を通過することなしに芭蕉俳諧は生まれなかったとも言われる。
「意表派」はこの「談林派」に似ているが、そもそも「意表派」という川柳の流派が存在すると言うよりは、川柳作品において「詩的飛躍に成功した作品」と「飛躍に失敗した作品(飛びそこない)」があるだけだというのが実際のところだろう。
難解句の問題も含めて現代川柳におけるコトバの問題は、作者論と読者論のせめぎあいの中で生まれている。その場合の「作者」「読者」が、「生身の作者」「川柳に一読明快を求める読者」ではないことは言うまでもない。
吉澤久良は「Leaf」に「〈読み〉についての覚え書」という文章を連載しているが、創刊号では〈「意表派」のナルシシズム〉という項目を立ててこんなふうに述べている。
〔 現在、自分の〈思い〉を書くことをよしとせず、コトバそのものに向かった一部の柳人がおり、難解句を書いている。コトバの日常的意味のつながりに意表を持ち込んだのである(以下、本稿ではこのように意表を眼目とした書き方の柳人を「意表派」と呼ぶことにする) 〕〔 「意表派」の句のほとんどはナルシシズムにまみれている。意表をついたコトバの関係を作れたと満足し、インスピレーションだ、新しい書き方だと一人で悦に入っている。そこには自分がなぜ川柳を書くのかという知的考察はない 〕
吉澤は「意表派」の具体例を挙げていないので、どのような作品が該当するのか、分かりにくいところがある。具体的作品は挙げにくいのは確かだが、とりあえず一般論として受け取っておくことにしよう。吉澤は「Leaf」第2号でも〈私性川柳と意表派〉という項目を立て、私性川柳のナルシシズムについて触れたあと、さらに意表派について言及している。
〔このような私性川柳の理解の延長上で、意表派の川柳も理解することができる。(中略)その多くは恣意的な言葉が並べられただけの句であり、コトバにこだわるという意匠でごまかしている。意表派の柳人は自分の感性を追求し、句が自分自身に向けた〈答え〉でありさえすればよかったのだ。ここでも、そのような感性を持つ自分とはどのようなものかは問われなかった。いわば、私性川柳と意表派は、同病の双子の兄弟だった 〕
吉澤は「私性川柳」と「意表派」とを「同病の双子の兄弟」だという。作者個人のナマの「私」が検証されることなく垂れ流しにされる「私性川柳」と、自分の感覚的・恣意的な言葉の感性を検証しようとしない「意表派」とをナルシシズムという点では同根と見るのである。読者論の立場に立って創造的読みの必要性を提唱している吉澤らしい言説である。
「意表」という言葉を用い始めたのは、おそらく石田柊馬だった。「意表」を正面から論じた柊馬の評論をいま探し出せないが、たとえば次のような文章に柊馬の問題意識がうかがわれる。
〔前句附けは七七に五七五を附ける言語遊戯であったので、川柳にはもともと、句語に句語を附けてあとは勝手に読んでくれという突き放しの性状があるのだが、安直無責任な突き放しの不毛を退けるところに意味性があり、選があったと思っていいだろう。意味への拘りの典型が狂句であったとも言える。狂句を排除した近代の川柳の多くは共感性に則って意味が書かれた。下って、意味や言葉の感覚的附け合わせ、言い変えれば詩性が共感レベルで書かれた。現在、詩性の評価は、共感性よりも作者個人の発語であることを上位とする方向にあり、良質の選の多くに見られる。これが共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考を招いたらしい〕(「ふらすこてん」第6号・2009年11月)
「共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考」が吉澤のいう「意表派」と同じ傾向を指しているとすれば、柊馬の指摘は吉澤の提起している問題をより一般的かつ実践的に捉えたものと言えるだろう。川柳作品を放恣な飛躍から救うものは共感性や意味性の錘だということだろう。では、そのことと「共感性」から「作者個人」へという現代川柳の流れとは、どのように統一されるのであろうか。
柊馬は続けて次のように説いている。
〔問題点は三つある。
(a)作者の世界(人間)観の深みや洞察眼が感覚的表現となった句の、飛躍の測りづらさという読者側の問題〕
(b)川柳の表現領域を広げるイメージの創造や、言葉を契機とする書き方についての読者の無理解。
(c)逆に、これとこれとの組み合わせで、ちょっと感興があるように感じます、という作者側の無責任。〕
そして、(c)が氾濫状態なのだという。
石田・吉澤の指摘から私が連想するのは、俳諧史における談林派の存在である。
貞門俳諧の退屈さを超克して、奇抜な言葉の取り合わせを生命線とすることで、談林派は燎原の火のように全国に広がったが、言葉の飛躍は同時に無数の「飛びそこない」を生み出し、わずか10年で終息した。けれども、談林俳諧を通過することなしに芭蕉俳諧は生まれなかったとも言われる。
「意表派」はこの「談林派」に似ているが、そもそも「意表派」という川柳の流派が存在すると言うよりは、川柳作品において「詩的飛躍に成功した作品」と「飛躍に失敗した作品(飛びそこない)」があるだけだというのが実際のところだろう。
難解句の問題も含めて現代川柳におけるコトバの問題は、作者論と読者論のせめぎあいの中で生まれている。その場合の「作者」「読者」が、「生身の作者」「川柳に一読明快を求める読者」ではないことは言うまでもない。
2010年10月15日金曜日
『番傘川柳百年史』を読む
2008年10月に『番傘川柳百年史』(編者・番傘川柳本社、製作・創元社)が発行された。1909年(明治42年)に番傘の前身である「関西川柳社」が創立され、そこから数えて百年目の記念事業として出版されたものであった。
西田当百を中心として設立された「関西川柳社」は1913年(大正2年)、「番傘」を創刊し、当百の引退後は岸本水府に受け継がれて、社名も「番傘川柳社」、「番傘川柳本社」と変更された。関西川柳界の「本流」と言うべき、伝統的川柳結社である。
伝統的結社であるだけに、これに飽きたらず批判する川柳人も多い。また、「番傘」の同人の中からも「番傘」の現状に対して批判的言辞を聞くことがあるが、そのような場合にも私は批判者の「番傘」に対する愛着を感じることがある。真に形骸化した結社であれば、無視するか脱退すればよいのである。
『番傘川柳百年史』は資料的な価値が高く、「番傘」の先人たちの川柳観が各ページから立ち上がってくる。伝統川柳(本格川柳)が川柳をどうとらえてきたかが分かって興味深いのである。
今回は、『番傘川柳百年史』に対する2年遅れの書評として、「伝統川柳」の川柳観を検討してみたい。
第1章「関西川柳社から番傘川柳社への歩み」第2章「意気盛んな昭和初期から戦争混迷期」など戦前の番傘の歴史も捨てがたいが、ここでは第3章「戦後の復興から第4運動、水府逝く」以降の戦後川柳史を中心にみていくことにする。そこには現在にも直結する問題があるからだ。
〈短詩型文学のことを書いた本を読めば短歌、俳句のことをいって川柳がその中に入っていない。本屋の棚を見ても短歌、俳句は文学の部にあって、川柳は娯楽趣味の中に置かれている。こういう傾向は戦後特に激しい。これでいいとは思えない〉
昭和29年3月号に掲載された水府の言葉である。この現状認識と危機意識は川柳人全体が共有しなければならないものである。川柳の社会的・文芸上の位置は今でも変っていない。
ここから水府は川柳の第4運動を提唱した。
第4運動とは何か。
第1は田中五呂八・川上日車などの新興川柳運動。
第2は阪井久良伎による古川柳・江戸趣味の称揚。
第3は「川柳」という名称を「寸句」「草詩」にしようと提唱した近藤飴ン坊・高木角恋坊などの提唱。
そして水府の提唱する第4運動は「川柳は娯楽に非ず、文学なり」を骨子とし、川柳に対する世俗の偏見を是正することだという。具体的には、不真面目な柳号、天地人の階級廃止、懸賞の追放である。番傘の主催する川柳大会では賞品は一切出さない。
東野大八は水府の第4運動に胚胎する番傘内部の矛盾を指摘している(『川柳の群像』集英社)。即ち、本格川柳を唱えることで川柳の大衆化を進める一方で、第4運動を展開することで番傘内部の月並川柳を排除しなければならないという二律背反である。確かにそういう面はあったかも知れず、その帰結は水府自身の身にも降りかかってきたのだろうが、それでも「川柳は文学なり」を唱えた水府は偉大であっただろう。ただし、俳句における正岡子規のようにはうまくいかなっかった。水府は川柳の地位向上に努めたが、短詩型文学の中に川柳が確固とした位置を認知されているかと言えば、現在でもこころもとない状況である。
昭和31年7月号掲載の水府の文章「柳界は革新されているか」も心をうつものがある。
〈川柳家は手を握り合っているのであろうか。虎視たんたんの世界を築いているのではあるまいか。少数がバラバラの世界を作っているのではあるまいか。句会をレクリエーションのような気で催しているのではないか。今にしていう未開墾の柳界。本質的にもその機構にも反省の余地充分の柳界。誰がそのままにしてよいというのであろうか〉
水府以後、番傘川柳はどのような軌跡を辿ったであろうか。二代目の主幹となったのが近江砂人である。砂人は「番傘」1971年(昭和46年)1月号で次のような年頭所感を述べている。
〈番傘本社をはじめ、親類の二七会、瓦版の会等が揃って隆盛になっていくのは欣快に堪えない。(中略)我々は主義主張があって、番傘川柳本社を組織しているのである。その一員である以上、我々の川柳上の行動を明らかにせねばならぬ〉
さらに具体的には、同人としてのプライドと自覚、川柳界の前進に努めること、抽象川柳は認めないが新しい表現の川柳は番傘川柳の幅を広げる意味で必要であること、柳社を超えた川柳人の交流を図ること、などを述べているという。
砂人という人は明確な組織論を持つ川柳人であったことが分かる。
ここで近江砂人の川柳観を少し見ておくことにしよう。砂人は『番傘』1975年(昭和50年)7月号で次のように述べている。
〈川柳には、伝統派川柳、詩性川柳、抽象川柳といった流れがある。『番傘』は、今までは伝統派川柳一筋だったが、戦後の社会情勢の細分化に伴う多様化は、我々が経験したことがない社会現象で、詩性川柳も、番傘川柳の中に収容してきた。しかし詩性川柳と隣り合わせに抽象川柳がある。抽象川柳は、全く文字の遊びの感があるし、事実一読理解できない作品が多い〉
詩性川柳までは認めるが抽象川柳は認めないという立場である。ここで問われるのは「詩性川柳」「抽象川柳」の内実であろう。同じ「詩性川柳」の名で呼ばれていても、その中身が全く違っていたりするのはよくある話だ。
番傘本社創立85年を記念して出版された『川柳 その作り方・味わい方』(創元社)という入門書がある。この本では「詩性」について次のように述べられている。この項目を書いているのは亀山恭太である。
〈昔から言われている川柳の三要素「ユーモア」「うがち」「軽み」に、今や「詩性」を加えて四要素にしなければならないと言われたのは平成三年に亡くなられた四国坂出の三木時雨郎さんである。川柳の特徴の一つは「自由」であるから、その幅がどんどん広がり、私たちが川柳を始めた頃には番傘の主流を占めていた「軽み」の句が減って、代わりに今まで川柳とは無縁と思われていた詩情のある句が目立って増加してきた〉
例として挙げられているのは中村冨二の「パチンコ屋オヤあなたにも影がない」である。冨二の作品が伝統派にも受け入れやすいものであったことが分かる。
では、軽みとは何か。同書では次のような句が例に挙げられている。
ない筈はない抽斗を持って来い 西田当百
琵琶湖からモロコ一匹釣り上げる 高橋散二
高橋散二は「ハンカチを若草山に二枚しく」などで知られている好作家である。
ついでに、亀山恭太が「難解句」についてどう述べているかを見ておこう。「ひとりよがり(難解句)」の項である。
〈出来上がった句は書き留めてから一度忘れるほど放置し、何日か後で何回も読み直すのがよいと書いた。その際に、「ひとにわかってもらえるかどうか」を考えながら読むことも大切である〉
ひとりよがりで意味のわからない句として次の句が挙げられている。
美しい誤解にあった水の音
階段の上から人が落ちてくる
山襞をたどれば母の膝頭
変化球投げて幸せ待つ女
どのような句を番傘では難解と読んでいるか、ということがはっきり分かる。これらの句は私の目から見れば難解でも何でもない。「山襞を」などは陳腐なほど分かりやすい伝統的川柳に思える。番傘という結社の「川柳」の幅、許容範囲がよく分かる。
『番傘川柳百年史』に話を戻すと、この本は伝統川柳の川柳観を知る意味でたいへん興味深かった。近江砂人は次のような句を詠んでいる。
佳句佳吟一読明快いつの世も 砂人
「一読明快」の句しか認めないことが川柳人の読みの力の低下を招き、ひいては川柳作品の低下を招くとしたら、それは砂人の志に反することだろう。
最後に本格川柳の代表的作品として岸本水府の二句を挙げておしまいにしよう。
洛北の虫一千をきいて寝る 岸本水府
壁がさみしいから逆立ちをする男
西田当百を中心として設立された「関西川柳社」は1913年(大正2年)、「番傘」を創刊し、当百の引退後は岸本水府に受け継がれて、社名も「番傘川柳社」、「番傘川柳本社」と変更された。関西川柳界の「本流」と言うべき、伝統的川柳結社である。
伝統的結社であるだけに、これに飽きたらず批判する川柳人も多い。また、「番傘」の同人の中からも「番傘」の現状に対して批判的言辞を聞くことがあるが、そのような場合にも私は批判者の「番傘」に対する愛着を感じることがある。真に形骸化した結社であれば、無視するか脱退すればよいのである。
『番傘川柳百年史』は資料的な価値が高く、「番傘」の先人たちの川柳観が各ページから立ち上がってくる。伝統川柳(本格川柳)が川柳をどうとらえてきたかが分かって興味深いのである。
今回は、『番傘川柳百年史』に対する2年遅れの書評として、「伝統川柳」の川柳観を検討してみたい。
第1章「関西川柳社から番傘川柳社への歩み」第2章「意気盛んな昭和初期から戦争混迷期」など戦前の番傘の歴史も捨てがたいが、ここでは第3章「戦後の復興から第4運動、水府逝く」以降の戦後川柳史を中心にみていくことにする。そこには現在にも直結する問題があるからだ。
〈短詩型文学のことを書いた本を読めば短歌、俳句のことをいって川柳がその中に入っていない。本屋の棚を見ても短歌、俳句は文学の部にあって、川柳は娯楽趣味の中に置かれている。こういう傾向は戦後特に激しい。これでいいとは思えない〉
昭和29年3月号に掲載された水府の言葉である。この現状認識と危機意識は川柳人全体が共有しなければならないものである。川柳の社会的・文芸上の位置は今でも変っていない。
ここから水府は川柳の第4運動を提唱した。
第4運動とは何か。
第1は田中五呂八・川上日車などの新興川柳運動。
第2は阪井久良伎による古川柳・江戸趣味の称揚。
第3は「川柳」という名称を「寸句」「草詩」にしようと提唱した近藤飴ン坊・高木角恋坊などの提唱。
そして水府の提唱する第4運動は「川柳は娯楽に非ず、文学なり」を骨子とし、川柳に対する世俗の偏見を是正することだという。具体的には、不真面目な柳号、天地人の階級廃止、懸賞の追放である。番傘の主催する川柳大会では賞品は一切出さない。
東野大八は水府の第4運動に胚胎する番傘内部の矛盾を指摘している(『川柳の群像』集英社)。即ち、本格川柳を唱えることで川柳の大衆化を進める一方で、第4運動を展開することで番傘内部の月並川柳を排除しなければならないという二律背反である。確かにそういう面はあったかも知れず、その帰結は水府自身の身にも降りかかってきたのだろうが、それでも「川柳は文学なり」を唱えた水府は偉大であっただろう。ただし、俳句における正岡子規のようにはうまくいかなっかった。水府は川柳の地位向上に努めたが、短詩型文学の中に川柳が確固とした位置を認知されているかと言えば、現在でもこころもとない状況である。
昭和31年7月号掲載の水府の文章「柳界は革新されているか」も心をうつものがある。
〈川柳家は手を握り合っているのであろうか。虎視たんたんの世界を築いているのではあるまいか。少数がバラバラの世界を作っているのではあるまいか。句会をレクリエーションのような気で催しているのではないか。今にしていう未開墾の柳界。本質的にもその機構にも反省の余地充分の柳界。誰がそのままにしてよいというのであろうか〉
水府以後、番傘川柳はどのような軌跡を辿ったであろうか。二代目の主幹となったのが近江砂人である。砂人は「番傘」1971年(昭和46年)1月号で次のような年頭所感を述べている。
〈番傘本社をはじめ、親類の二七会、瓦版の会等が揃って隆盛になっていくのは欣快に堪えない。(中略)我々は主義主張があって、番傘川柳本社を組織しているのである。その一員である以上、我々の川柳上の行動を明らかにせねばならぬ〉
さらに具体的には、同人としてのプライドと自覚、川柳界の前進に努めること、抽象川柳は認めないが新しい表現の川柳は番傘川柳の幅を広げる意味で必要であること、柳社を超えた川柳人の交流を図ること、などを述べているという。
砂人という人は明確な組織論を持つ川柳人であったことが分かる。
ここで近江砂人の川柳観を少し見ておくことにしよう。砂人は『番傘』1975年(昭和50年)7月号で次のように述べている。
〈川柳には、伝統派川柳、詩性川柳、抽象川柳といった流れがある。『番傘』は、今までは伝統派川柳一筋だったが、戦後の社会情勢の細分化に伴う多様化は、我々が経験したことがない社会現象で、詩性川柳も、番傘川柳の中に収容してきた。しかし詩性川柳と隣り合わせに抽象川柳がある。抽象川柳は、全く文字の遊びの感があるし、事実一読理解できない作品が多い〉
詩性川柳までは認めるが抽象川柳は認めないという立場である。ここで問われるのは「詩性川柳」「抽象川柳」の内実であろう。同じ「詩性川柳」の名で呼ばれていても、その中身が全く違っていたりするのはよくある話だ。
番傘本社創立85年を記念して出版された『川柳 その作り方・味わい方』(創元社)という入門書がある。この本では「詩性」について次のように述べられている。この項目を書いているのは亀山恭太である。
〈昔から言われている川柳の三要素「ユーモア」「うがち」「軽み」に、今や「詩性」を加えて四要素にしなければならないと言われたのは平成三年に亡くなられた四国坂出の三木時雨郎さんである。川柳の特徴の一つは「自由」であるから、その幅がどんどん広がり、私たちが川柳を始めた頃には番傘の主流を占めていた「軽み」の句が減って、代わりに今まで川柳とは無縁と思われていた詩情のある句が目立って増加してきた〉
例として挙げられているのは中村冨二の「パチンコ屋オヤあなたにも影がない」である。冨二の作品が伝統派にも受け入れやすいものであったことが分かる。
では、軽みとは何か。同書では次のような句が例に挙げられている。
ない筈はない抽斗を持って来い 西田当百
琵琶湖からモロコ一匹釣り上げる 高橋散二
高橋散二は「ハンカチを若草山に二枚しく」などで知られている好作家である。
ついでに、亀山恭太が「難解句」についてどう述べているかを見ておこう。「ひとりよがり(難解句)」の項である。
〈出来上がった句は書き留めてから一度忘れるほど放置し、何日か後で何回も読み直すのがよいと書いた。その際に、「ひとにわかってもらえるかどうか」を考えながら読むことも大切である〉
ひとりよがりで意味のわからない句として次の句が挙げられている。
美しい誤解にあった水の音
階段の上から人が落ちてくる
山襞をたどれば母の膝頭
変化球投げて幸せ待つ女
どのような句を番傘では難解と読んでいるか、ということがはっきり分かる。これらの句は私の目から見れば難解でも何でもない。「山襞を」などは陳腐なほど分かりやすい伝統的川柳に思える。番傘という結社の「川柳」の幅、許容範囲がよく分かる。
『番傘川柳百年史』に話を戻すと、この本は伝統川柳の川柳観を知る意味でたいへん興味深かった。近江砂人は次のような句を詠んでいる。
佳句佳吟一読明快いつの世も 砂人
「一読明快」の句しか認めないことが川柳人の読みの力の低下を招き、ひいては川柳作品の低下を招くとしたら、それは砂人の志に反することだろう。
最後に本格川柳の代表的作品として岸本水府の二句を挙げておしまいにしよう。
洛北の虫一千をきいて寝る 岸本水府
壁がさみしいから逆立ちをする男
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