芥川賞を受賞した赤染晶子の「乙女の密告」が評判になっている。『アンネの日記』という素材も注目されるが、日本ではよく知られている『アンネの日記』を暗唱する話に仕立てた発想がおもしろい。また、「乙女の密告」というタイトルも魅力的だ。誰がアンネ一家を密告したのだろう。
さて、7月4日に開催された第61回玉野市民川柳大会の兼題のひとつが「乙女」であった。玉野川柳社(代表・前田一石)が開催するこの大会は男女二人の選者による共選が呼び物で、個性的な参加者が集まる好大会である。今年の玉野の大会の意味を振り返ってみたい。
兼題「乙女」は石部明と富山やよいの共選である。「乙女」は作りにくい題で、「乙女の祈り」「制服のおとめ」「処女性」、逆に「乙女の残酷さ」など既成のイメージが強く作用するから、そこから抜け出ることが難しいのである。玉野では55回大会のときに「妖精」という題が出されたことがあったが、そのときと事情は似ているだろう。
川柳の題詠は大会の参加者が共通の土俵において競争するという意味をもつ。詩的飛躍を好む川柳人は題からの飛躍をはかったり、思いがけないものと乙女とを結びつけようとするかも知れない。「乙女」の本意と向かい合う作者もあるだろうし、皮肉な川柳眼から眺めようとするかも知れない。
発表誌を改めて読んでみると、「~が~になる」というパターンと「~乙女」というパターンが多かった。
前者は、乙女でないものが乙女に変化する、あるいは乙女が乙女でないものに変化する、というパターンである。
楕円形になって乙女は出ていった 坂井半升
振り向けば乙女が脱皮するところ 斉藤幸男
そのうちに乙女も枇杷の種になる 本多洋子
後者の「~乙女」というパターンは、意外な形容をつなげて乙女という名詞で止めるというもので、川柳ではよく使われる文体である。特に、富山やよい選の方にこのパターンが目につく。
羽田発7時50分の乙女 竹下勲二郎
空中戦はお好きですかという乙女 清水かおり
もこもことふわふわになる乙女 草地豊子
あと、ブラックとしては次の句が印象に残った。
乙女入り羊羹どこを切りましょう 山田ゆみ葉
そして、特選句はこれらのパターンを越えたところから選ばれている。
乙女らは長い尻尾を結びあう 小嶋くまひこ(石部明特選)
乙女らは海のラ音を聞いている 内田万貴(富山やよい特選・石部明準特選)
この2句を眺めてみると、まず「乙女ら」という主語の複数形に共通点がある。ひとりの乙女ではなく、乙女たちの関係性が主題となっているのだ。それは、特にくまひこの句に顕著である。
「長い尻尾」とは何だろう。乙女にはそのようなものはないから、これはメタファーであるか、目に見えない尻尾だと読まざるをえない。イメージとしては、女性のポニーテールなどの髪形から連想されたのかも知れない。この句にとって少し不利なのは、話題になった映画「アバター」に出てくる連結のイメージに重なることである。映画のイメージとは無関係だとすると、「長い」というところに意味性が出てくる。二人の乙女は目に見えない長い尻尾で繋がれている。それはプラス・イメージだけではなくて、あるときはマイナスのイメージをもたらすときもあるだろうが、ともかく二人の意志で結びあったのである。
内田万貴の句は「海のラ音」に焦点がある。この句の弱点は、披講の際に耳で聞いただけでは「ラ音」の意味が聞き取れないことである。「ドレミファ」は川柳でしばしば使われるが、「ラ」にしぼったのはなぜだろうか。
実景だと受け取れば、複数の乙女たちが海辺で音を聞いている。それは明るい音とはかぎらず、少し翳りのあるマイナーな音かも知れない。この句に抒情性を感じるのはそのためだ。
けれども、適度な抒情性を乗り越えようとすれば、この句の次に来る世界を読者としては見せてもらいたいと思う。「乙女ら」の「ら」とラ音の「ラ」も言葉として妙に引っかかる。
今年の玉野の作品を「乙女」を例に一瞥してみた。「乙女」という題は難しかった。飛躍しようとして力むと、かえって陥穽に落ち込むことになる。これまでさまざまな佳句が生まれてきた玉野でも、名作はそう簡単には生まれないということだろう。
2010年8月13日金曜日
2010年8月6日金曜日
石部明の軌跡
「バックストローク」31号は「第三回BSおかやま川柳大会」の特集号である。2008年に始まったこの大会も今年4月で3回目を迎えたが、大会の呼び物は石部明のトーク。そしてゲスト選者とバックストローク同人による共選である。今回は石田柊馬と俳人の佐藤文香との組合せが話題になった。佐藤文香の選評に曰く、「もっと感」のある作品、「面白いでしょ?」と言っていない作品、「社会に貢献しない」作品を選んだ…と。賛否はあるかも知れないが、ユニークな基準である。
4月10日の大会がすんで4カ月が経過して発表誌が発行されたが、現時点から振り返って大会のことを思い出してみることは参加した個々の川柳人にとって意味あることだろう。また、参加できなかった川柳人にとっては、大会の記録によっておおよその雰囲気を知ることができる。発表誌の役割とはそういうものだろう。
◇個人史と現代川柳史
大会第一部「石部明を三枚おろし」は小池正博・樋口由紀子の二人のインタビュアーが石部明の話を聞くという企画である。石部のトークには定評があり、放っておいても話は面白くなるが、聞き手の小池には年代順に進めていこうという意図があって、「ますかっと」「こめの木グループ」「岡山の風・6」「ふあうすと」などについて丹念に質問している。
川柳人にはそれぞれの個人史があるが、それが大きな意味では現代川柳史とつながっている。特に、現代川柳の流れの中心にいる石部のような川柳人の軌跡は、個人史と現代川柳史をともに語ることによってはじめて浮き彫りになるだろう。
「川柳で大嘘を書いてみたい」という石部の発言が流布しているが、それがどういう文脈で語られたのかもよくわかる。
大会の選者だった石田柊馬が選を終えてから途中で第一部に参加し、発言していることも、石部本人のトークとは別の視点を入れる意味でも興味深い。
◇時実新子
「川柳展望」「川柳大学」時代のことは、樋口由紀子が聞き手になって話を進めている。
「革新の時実新子」という石部の発言が新子を怒らせ、口をきいてもらえなくなったが、「火の木賞」授賞式では「長い間よく辛抱してくれましたね」と新子から声をかけられたことなど、エピソードが披露されている。
「伝統と革新」という枠組みにまだ川柳人がとらわれていたころから、石部明にはそういう図式は無効であるという認識があったが、それがどこからきているのかが何となくわかる。
新子が亡くなったあと、樋口由紀子が「MANO」に新子論を書いているが、石部の現在の視点からのまとまった新子論を読んでみたい気がする。
◇ゼロ年代川柳のうねり
「MANO」創刊から『現代川柳の精鋭たち』『遊魔系』「バックストローク」の創刊、「セレクション柳人」の発刊と、現代川柳は動いてきた。川柳の「いま・ここ」を語るのに石部明の存在は欠かせない。トークの最後では注目している川柳人の名を挙げているが、石部自身もさらに前進していく気合充分である。『遊魔系』以後の作品をまとめた第三句集の発行を待望しておきたい。
4月10日の大会がすんで4カ月が経過して発表誌が発行されたが、現時点から振り返って大会のことを思い出してみることは参加した個々の川柳人にとって意味あることだろう。また、参加できなかった川柳人にとっては、大会の記録によっておおよその雰囲気を知ることができる。発表誌の役割とはそういうものだろう。
◇個人史と現代川柳史
大会第一部「石部明を三枚おろし」は小池正博・樋口由紀子の二人のインタビュアーが石部明の話を聞くという企画である。石部のトークには定評があり、放っておいても話は面白くなるが、聞き手の小池には年代順に進めていこうという意図があって、「ますかっと」「こめの木グループ」「岡山の風・6」「ふあうすと」などについて丹念に質問している。
川柳人にはそれぞれの個人史があるが、それが大きな意味では現代川柳史とつながっている。特に、現代川柳の流れの中心にいる石部のような川柳人の軌跡は、個人史と現代川柳史をともに語ることによってはじめて浮き彫りになるだろう。
「川柳で大嘘を書いてみたい」という石部の発言が流布しているが、それがどういう文脈で語られたのかもよくわかる。
大会の選者だった石田柊馬が選を終えてから途中で第一部に参加し、発言していることも、石部本人のトークとは別の視点を入れる意味でも興味深い。
◇時実新子
「川柳展望」「川柳大学」時代のことは、樋口由紀子が聞き手になって話を進めている。
「革新の時実新子」という石部の発言が新子を怒らせ、口をきいてもらえなくなったが、「火の木賞」授賞式では「長い間よく辛抱してくれましたね」と新子から声をかけられたことなど、エピソードが披露されている。
「伝統と革新」という枠組みにまだ川柳人がとらわれていたころから、石部明にはそういう図式は無効であるという認識があったが、それがどこからきているのかが何となくわかる。
新子が亡くなったあと、樋口由紀子が「MANO」に新子論を書いているが、石部の現在の視点からのまとまった新子論を読んでみたい気がする。
◇ゼロ年代川柳のうねり
「MANO」創刊から『現代川柳の精鋭たち』『遊魔系』「バックストローク」の創刊、「セレクション柳人」の発刊と、現代川柳は動いてきた。川柳の「いま・ここ」を語るのに石部明の存在は欠かせない。トークの最後では注目している川柳人の名を挙げているが、石部自身もさらに前進していく気合充分である。『遊魔系』以後の作品をまとめた第三句集の発行を待望しておきたい。
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