2023年1月6日金曜日

「江古田文学」特集・小栗判官のことなど

新年おめでとうございます。
今年も「週刊川柳時評」をよろしくお願いします。
まず、歳旦三つ物です。

歳時記の頁を繰れば初山河
 さあ召し上がれ福茶一服
NO WAR ロックの響き拡がりて

年末に届いた書籍・雑誌を読んでいる。
「江古田文学」111号の特集は小栗判官。「山椒太夫」や「信太妻」などと並んで有名な説経節の物語である。「信太妻」は葛葉狐の話で、かつて葛葉稲荷の前を通って毎日職場へ通勤していたことがある。「小栗判官」については、一昨年の和歌山の国民文化祭のときに熊野古道を歩き、湯の峰温泉のつぼ湯も見てきたので馴染がある。「江古田文学」の特集では、「小栗判官と照手姫・翻案朗読本」(翻案・上田薫)が収録されていて、熊野の場面は次のようになっている。

餓鬼阿弥殿を担いでいた道者は、湯壺の方に籠を降ろし、
「さあ、これが湯ノ峰温泉の湯壺でござる。これからこの餓鬼阿弥を湯壺にいれて、七七日の間、本復するのを待ちたいところだが、我らはこれから本宮、新宮を廻る道者であるからそれも叶うまい。これから先は、熊野権現様のご加護を祈り、湯守に預けていざ本宮に参ろうではないか」

餓鬼阿弥は病者となった小栗判官の姿である。さて、本誌には浅沼璞が「『をぐり絵巻』大和言葉の変奏—連歌ジャンルとの類似性を視野に」を執筆している。その中に寛正六年、朝倉敏景が杣山城を攻撃したときの陣中での連歌会のエピソードが出てくる。

朝風にもまれて落るかいて哉
 鶉に交る水鳥の声
沢沼のほとりかつかつ野となりて

発句の「かいて」は楓だが、敵の杣山城を守っているのが甲斐守祐徳なので甲斐手が掛けてある。朝倉勢によって楓が散るように敵が落城するということのようだ。さらに浅沼は一世紀後、三好長慶の連歌との類似についても言及している。

 芦間にまじる薄一村(「すすきにまじる芦の一むら」とする書もある)
古沼の浅き方より野となりて

花田清輝の「古沼抄」(『日本のルネッサンス人』)にもあるエピソードである。花田の文章は個人的には私が連句に関心をもつ根拠のひとつになっているので、この話題をもう少し続けると、吉村貞司の『桃山の人びと』では三好長慶の連歌会について次のように書かれている。
「三月五日、長慶は飯森城に弟冬康・連歌師牧宗養・里村紹巴などと連歌の会を開いていた。あたかもその時、弟三好義賢は岸和田城を討って出て、久米田に敵勢と激戦をまじえていた。長慶はその報を得ていたはずだ。しかし連歌をつづけた。そんなばかなことがあるものかという人もある。私も最初そう思った。私の頭には『太平記』の千早攻めがあり、長期にして無為に苦しむ包囲陣が、ひまつぶしに連歌を催したものぐらいにしか考えていなかった」
『常山紀談』では実休(義賢)討ち死にの報のあと連歌を止めて出陣したことになっている。それにしても、なぜ連歌なのか。吉村貞司は「彼らはいつ戦死するかわからない職業に従い、いつもおのれの死と対決していなければならなかった」「手段を問わず、おのれの存在を、運命を、意義づけるものにすがりつき、むさぼりつきたかった。それが禅であり芸術であり茶であり、花であった」と述べている。
「江古田文学」に戻ると、高橋実里の「自分自身に着地する—説経節『小栗判官』」や人形浄瑠璃猿八座公演「をぐり」の写真(撮影・笹川浩史)、ふじたあさや「御門から閻魔まで」(『小栗判官』に題材をとった『をぐり考』は1999年に熊野本宮大社の大斎原に野外舞台を組んで上演されたという)、三代目若松若太夫の語本「小栗判官一代記」などが掲載されていて、テクストと語り物、芸能とのリンクが総合的に見渡せる内容になっている。

川柳に話題を移すと、京都で発行されている川柳誌「凜」92号に村井見也子の「川柳三十年、この出会い」が掲載されている。京都の川柳界は1978年に「平安」が解散したあと、「新京都」「都大路」「京かがみ」の三つに分かれたが、「新京都」の北川絢一郎が亡くなったあと、村井見也子が「凜」を立ち上げた。村井は2018年に亡くなったが、今号に掲載されたのは村井が1994年9月に「京都新聞」に執筆した文章の再録である。村井が取り上げているのは次の四人の作者で、現在の川柳の傾向とは異なるところも多いが、先人の作品として知っておかなくてはならないと思われるので、紹介しておく。

百冊の本をまたいでなお飢えに  北川絢一郎
悲の面はたった一つで下りてくる 定金冬二

北川絢一郎は京都の革新川柳を牽引したひとり。北川絢一郎句集『泰山木』(1995年)から何句か抜き出してみよう。

庶民かな同心円をぬけられぬ      北川絢一郎
どの糸からもマリオネットは血を貰う
草いきれ一揆の性をもっている
川の向こうの影がときどき討ちにくる
灯を消せばきっと溺れるさかなたち

定金冬二は津山の出身。津山番傘川柳会を創立。富田林市に移住したあと、「一枚の会」を創立した。冬二の句集『無双』に寄せて北川絢一郎が次のようなエピソードを書いている。句会の帰途、いつもの喫茶店である女性川柳人が「どんなにしたら冬二先生みたいに川柳が上手になりますの…」と問いかけると、冬二は「それはなア、心にいっぱい悲しみを溜めてなアー」と言いかけて、あとの言葉が続かなかったというのだ。「悲の面はたった一つで下りてくる」は冬二の代表作で、確か津山に句碑が建てられている。

おんなとは哀しいときも何か提げ    定金冬二
穴は掘れた死体を一つ創らねば
にんげんのことばで折れている芒
折り鶴が翔ぶ青空が痛くなる

絢一郎・冬二に続いて、村井見也子は次の二人の女性川柳人の作品を引用している。

靴をそろえて償いが一つ済む   前田芙巳代
子を産まぬ約束で逢う雪しきり  森中惠美子

ここでは女性川柳人について述べる余裕はないが、時実新子とは異なる傾向の作者として、前田芙巳代、森中惠美子、村井見也子、渡部可奈子などがあげられるだろう。

付合文芸である連句(Linked Petry)も前句付をルーツとする川柳も言葉と言葉の関係性の世界である。今年も連句と川柳を両輪として表現活動をしていくつもりだが、断絶する言葉と人々を何がしかリンクすることができればいいなと思っている。

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