2021年3月19日金曜日

読書日記(コロナ禍の短歌と俳句)

3月×日
笹川諒の歌集『水の聖歌隊』(書肆侃侃房)を読む。2014年から2020年までの短歌を収録した第一歌集である。

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって  笹川諒

巻頭の一首で、読者をこの歌集の世界へといざなう作品になっている。椅子に深く腰かけることと浅く腰かけることは矛盾するようだが、あるデリケートな感覚を表現している。「椅子」は居場所のようなものだろうが、「深く」「浅く」が対比されているから、「この世」に対して次元の異なるもうひとつの世界があるのだろう。「あとがき」の言葉を使うと「言葉とこころ」「自己と他者」「現実と夢」ということになるが、夢や詩の世界には深く、現実の社会には浅く腰かける、というような単純なことでもないだろう。そこには「何かこぼれる感じ」があるので、それは比喩的には「水」のようなものかもしれないが、ズレや欠落感ではなくて、こぼれる感覚と言っている。それを言葉でとらえようとして、たとえば次のような歌がある。

この雪は僕らの原風景に降る雪と違ってたくましすぎる
触れるだけで涙をこぼす鳥たちを二人は色違いで飼っている
空想の街に一晩泊るのにあとすこしだけ語彙が足りない

笹川には「川柳スパイラル」8号にゲスト作品をお願いしたことがある。彼はこんな川柳を書いている。

世界痛がひどくて今日は休みます   笹川諒

3月×日
川野芽生の歌集『Lilith』(書肆侃侃房)を読む。ふだん読みなれている口語短歌ではなくて、文語・旧かなである。まず巻頭の「借景園」が魅力的だ。

羅の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし  川野芽生
廃園にあらねど荒ぶれる庭よわれらを生きながら閉ぢ籠めて
夜の庭に茉莉花、とほき海に泡 ひとはひとりで溺れゆくもの

廃園の美かと思ったが、この庭は生きている。藤棚は折れ、取り壊されて、借景もすでに失われてはいるけれど、まだ生きているのだ。
初出は「鹿首」12号。この号には川柳から八上桐子が参加していたはずだ。
完成度の高い美意識の世界とは対照的に、第三章では世界の現実と切りむすぶ作品が収録されている。

さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ

あとがきには次のように書かれている。
「人は嘘を吐くことがある、とはじめて気付いたとき、深い衝撃を受けたのを覚えています。人間がつねに真実を語ると思っていたわけではなく、むしろその反対で、ただ言葉の臣たる人間がみずからの思惑に沿って言葉を捻じ曲げうるなどとは、思ってもみなかったのです」
「言葉はその臣たる人間に似すぎていて、あまりに卑俗で、醜悪で、愚かです。人間という軛を取り去ったとき、言葉が軽やかに高々と飛翔するのであればいいのに」
『Lilith』(リリス)というタイトルを選んだのだから、先鋭な作者にちがいない。もしこの人が川柳を書いたらどんな作品が生まれるのだろう。

3月×日
短歌誌「井泉」98号が届く。リレー小論のテーマは【日常の歌を考える―コロナ禍に何をみるか】で、棚木恒寿と加藤ユウ子が書いている。引用されている短歌作品がコロナ禍の日常詠として興味深いので、ここに挙げておく。

人生のどこにもコロナというように開花日の雪降らす東京  俵万智『未来のサイズ』
あちらでは突き飛ばされた人が今マスクひと箱かかげてをりぬ  池田はるみ『亀さんゐない』
団栗をもらふリスなり届きたるマスク二枚をてのひらに乗す  栗木京子「黄色い車体」
緊急事態宣言の夜にペヤングをクローゼットの隙間に詰める  笹公人「ごはんがたけたよ」
公園にブランコは濡れ藤も濡れだれもいなくてだれもいらない  遠藤由季「マツバウンラン」
もう充分に家籠りしを更にまた東京人われら家に籠れと  奥村晃作「冬から春へ」
疫病のふちどる暮らしいつ死ぬかわからないのはいつもでしたが 山階基「せーので」

俳句の場合はどうかというと、ちょうど「俳誌五七五」(編集発行人・高橋修宏)7号の編集後記・日々余滴に次のようなコロナ禍の俳句作品が挙げられている。

コロナ隠みヰルス籠りの春愁       高橋睦郎
コロナとは鸚鵡の独り言殖えて      柿本多映
ペスト黒死病コレラは虎列刺コロナは何と 宇多喜代子
ウイルスのはびこる星よ蚊柱よ      大木あまり
吸う息に合わせ餓死風(やませ)もウイルスも 高野ムツオ
松の内どこでマスクをはずすのか     池田澄子
地球ごとマスクで覆う春の暮       渡辺誠一郎
マスク三百使い捨てたる柚風呂かな    高山れおな

これらの作品例だけで、短歌と俳句の切り口の違いをどうこう言えるものではないが、眺めているといろいろ考える材料になるかもしれない。

3月×日
岡田一実の第四句集『光聴』(素粒社)を読む。まず第一句集から第三句集までを振り返っておくことにする。

『境界‐border‐』(マルコポ.コム)より
焚火かの兎を入れて愛しめり
はくれんの中身知りたし知らんでも良し
快楽とは蜂ふるへたる花の中

『小鳥』(マルコポ.コム)より
木よ人よ漣すぎるものたちよ
ことは秘密裏に沈丁花沈丁花
小鳥遥かに星をたのしむ

『記憶における沼とその他の存在』(青磁社)より
コスモスの根を思ふとき晴れてくる
鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に
幻聴も春の嵐も臥せて聴く

今度の第四句集は「俳句らしい俳句」だなと思った。「あとがき」には「現場の理想化前の僅かな驚きを書き留めること、些末を恐れず分明判断を超えてものを見ること、形而下の経験的認識が普遍性に近づくその瞬間を捉えること、イメージを具象的言語表現で伝えることなどは山険しけれども古い方法ではなく、現代の俳句を切り開く方法の一つになり得ると思うようになりました」とある。作者の俳句観の変化・深化があったのだろう。「私の見方」から「ものの見えたるひかり」の方へシフトしているようだ。

夜光虫波引くときの一猛り
流れくる浮輪に子ども挿してあり
先ほどの茄子とは違ふ空の色
腹黄なるを見て翡翠を見失ふ

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