2020年11月6日金曜日

現代川柳とは何か

『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)が刊行されて、現代川柳に対して新たな関心が寄せられつつあるようだ。
現代川柳への関心はここ数年来じわじわと広がってきたという実感がある。今年前半には『金曜日の川柳』(樋口由紀子編著・左右社)が上梓され、句集についても『雨曜日』(広瀬ちえみ・文学の森)をはじめ注目すべき川柳書が発行されている。この流れは急に起こったのではなく、この5年間で言えば、『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房・川柳の選と解説:なかはられいこ)や八上桐子句集『hibi』(港の人)、樋口由紀子句集『めるくまーる』(ふらんす堂)などの川柳句集によって、現代川柳作品を読んでみたいという読者が徐々に増えてきた結果だと思われる。現代川柳の存在を発信するためには単独で散発的な仕事をしてもだめで、かたまりとしてアピールする必要があるのだ。(「川柳スパイラル」3号でも「現代川柳にアクセスしよう」という特集を組んで、アンソロジーや句集・評論集・ウェブサイト・川柳用語などの紹介を試みたことがある。)
現代川柳のアンソロジーと言えば、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000年)の存在が大きな意味をもっている。20年後の今年、『はじめまして現代川柳』が刊行されたことは偶然とは言え、現代川柳のリレーをつなぐ何らかの意味はあるだろう。『現代川柳の精鋭たち』の作者のうち10人が『はじめまして現代川柳』にも収録されている。

それでは、「現代川柳」とは何か?
定説はないが、「現代川柳」という用語は狭義・広義の二つの意味で使われている。

狭義の「現代川柳」 戦後から1970年代までの前衛的・革新的な川柳
広義の現代川柳   現代書かれている川柳というユルイとらえ方

狭義の意味の方だが、『はじめまして現代川柳』の「現代川柳小史」では「現代川柳」という呼称について河野春三の「我々の作品を今後、現代川柳という呼称に統一したい」(「天馬」2号・1957年2月)という発言を紹介している。「現代川柳」の「現代」は単に今の時代というのではなくて、「革新川柳」と同じ意味で使われていた。その中心にいたのが河野春三である。
広義の意味の方には「現代」とはいつを指すかという問題がある。「現代詩」の場合でも、昭和初年のダダやプロレタリア詩の時代、「荒地」の詩人たちなどの戦後詩、現代書かれている詩、などの様々なとらえ方ができる。読者の世代によって「現代」の範囲が動くのである。『はじめまして現代川柳』では厳密な定義を避けて、次のようなざっくりとした言い方をしている。
〈現在では伝統と革新ということはあまり言われなくなったが、伝統であれ革新であれ、文芸としての川柳を志向する作品を「現代川柳」と呼んでおこう。遊戯性は深い意味では文芸と無縁ではないし、川柳は文学か非文学かには議論もあるが、「川柳は遊び」という軽い意味のとらえかたはしないでおきたい〉

現代川柳史の時代区分についても簡単に触れておこう。
これも定説はないが、アバウトに次のように。

現代川柳第一世代 中村冨二・河野春三から墨作二郎・時実新子まで
現代川柳第二世代 石部明・石田柊馬から渡辺隆夫まで(1930年代~1940年代生まれ)
現代川柳第三世代 筒井祥文から清水かおりまで(1950年代~1960年代生まれ)
ポスト現代川柳世代 飯島章友・川合大祐から柳本々々・暮田真名まで(1970年以降)

世代で厳密に区切れるものではないし、個々の作者についてはいろいろ問題もあろう。特に中村冨二が本当に現代川柳なのかどうか(悪い意味ではない)、考えてゆけば興味深いところだ。
『はじめまして現代川柳』では現代川柳の源流として、新興川柳と戦後川柳の作者を挙げている。現代川柳と新興川柳には直接の関係はないと考える人もいるが、私は新興川柳(川上日車と木村半文銭)を現代川柳の源流として重要だと思っている。あと、「川柳ジャーナル」の作家の中から「言葉派」のルーツとして細田洋二の存在は見逃せない。
ともあれ、たくさんの読者に『はじめまして現代川柳』を手にとっていただいて、現代川柳作品のさまざまな可能性に触れていただければ嬉しい。

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