2018年11月18日日曜日

高田寄生木の軌跡

「おかじょうき」の掲示板によると、11月3日、青森の川柳人・高田寄生木(たかだ・やどりぎ)が逝去した。1933年6月生まれだから享年85歳。またひとり現代川柳の中核を担った川柳人がいなくなった。
私は2003年から川柳誌「双眸」(発行・野沢省悟)に投句していた時期があって、「風塵抄」の欄で寄生木の選を受けていたので、直接会ったことはないが、敬意をもっていた。
寄生木については、野沢省悟が書いた「北辺の大樹」(「凜」52号、「触光」31号)が詳しい。
寄生木は青森県むつ市川内町に在住。川柳をはじめたのは1960年のこと、1965年に川内川柳会の句会報「かわうち」を創刊した。1971年から「かもしか」と改称し、社名も「かもしか川柳会」となる。
1983年、Z氏(杉野草兵)の援助でZ賞が創設される。選者に橘高薫風・時実新子・岸本吟一・寺尾俊平・尾藤三柳・泉淳夫・奥室数市・片柳哲郎・山村祐・杉野草兵を迎え、全国的な川柳賞となった。第一回受賞者は細川不凍、以後、酒谷愛郷、古谷恭一、西山茶花、海地大破、桑野晶子、金山英子、長町一吠、西条真紀、加藤久子が受賞した。第11回以降は杉野草兵が単独でZ賞を続けた。
「かもしか」では「かもしか川柳文庫」を発行していて、Z賞受賞者の句集も含まれる。いま私の手元にあるのは、海地大破句集『満月の夜』、古谷恭一句集『枕木』、加藤久子句集『矩形の沼』などである。今でこそ川柳句集の出版が盛んになったが、Z賞受賞者に「かもしか川柳文庫」から句集を出してくれるというのは貴重な機会だっただろう。

板の間を匐ってくるのは母の髪   古谷恭一
箸を作らんと一本の樹を削る    海地大破
ばらの首畳の上の等高線      加藤久子

さて、寄生木の句集には『父の旗』『砂時計』『しもきたのかぜ』『夜の駱駝』があるが、東奥文芸叢書の一冊として刊行された『北の炎(ほむら)』(2014年)がよく読まれていることと思う。『北の炎』は「父の旗」「夜の駱駝」「北の炎」の三章から成り、「父の旗」「夜の駱駝」は既刊の句集から再録されている。句集『夜の駱駝』(1990年、あおもり選書4)にもそれ以前の句集作品が収録されているので、紹介してゆこう。

第一句集『父の旗』(1960年代の作品)より。

山頂に風あり人を信じます
しもきたのからす だあれもしんじない

相反することが書かれている二句だが、矛盾しているわけではなく、どちらも真実である。川柳では同一のことを別の角度から詠んでみせる場合がしばしば見られる。

第二句集『砂時計』(1970年代の作品)より。

砂時計 一滴の血を売りました
充血の目玉をてのひらにのせる
雪のんのんかすかにゆれる千羽鶴
つかまえた鴉は白くなるばかり
蟹歩き疲れてマンホールに墜ちる
しもきたのさる にんげんのかおにくむ
しもきたのゆきに うもれるはかのむれ
しもきたのうみ げんせんのかげをのむ

「しもきたの」ではじまるひらかな表記の作品を寄生木は書いていて、未見だが『しもきたのかぜ』はひらかな作品ばかりを集めた豆本ということだ。

『夜の駱駝』(1980年代)より。

ペンにぎる背に百鬼の深い爪
ひそやかに蝶のいのちをつつみこむ
鱗一枚 冬が近づく窓に干す
一本の樹の上にある競輪場
ゆきにうもれて ゆびおることばかり
あやとりをしている もんしろちょうのかぜ

『北の炎』(2000年~2013年)より。

コーヒーカップ溺死をせんとしてる自我
悪筆の小史と握手して帰る
吹雪する街まぼろしの馬の鈴
感謝するこっころの失せた虫と会う
一角獣の電話を聞いている午睡
とおいひのはしのむこうのさくらそう
おりづるのいきたえだえのかぞえうた

野沢省悟は寄生木の顕彰につとめていて、川柳誌「触光」でも寄生木のことを何度も取り上げているだけでなく、「高田寄生木賞」を創設している。この賞は2011年の第1回から作品賞だったが、2017年の第7回からは「川柳に関する論文・エッセイ」を対象とするようになった。
高田寄生木の川柳活動には青森の風土や地方性を感じるが、同時に川柳の世界全体を展望する視野があった。川柳では「県内」「県外」という言い方がされることがあり、県内で自閉する方向性と県外へと広がってゆく方向性とがある。寄生木はその二つのベクトルを兼ね備えた川柳人だったのだろう。彼の軌跡をたどってみると、Z賞の創設や「かもしか川柳文庫」の発行など、寄生木には単に自分の作品を書くだけではなくて、川柳発信のために取り組む先駆性があった。できることは行っていかなければならないと改めて思う。

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