2017年2月10日金曜日

墨作二郎の軌跡

2月9日に「点鐘散歩会」が開催され、京都の「可必館」の展覧会「黒から玄へ MAYA MAXX展」を見に行った。「現代川柳点鐘の会」主宰の墨作二郎が昨年12月に亡くなって、散歩会は今月で最終回になる。21名の参加があった。
「点鐘散歩会」の冊子(平成10年12月発行)を取り出してみると、平成8年3月に発足している。第一回は奈良町から新薬師寺へ行っている。それ以来、毎月実施され、21年間継続されてきたことになる。平日実施のため私はあまり参加できなかったが、世話役の本多洋子・笠嶋恵美子の長年にわたるご努力に感謝したい。
川柳では吟行はやらないのかと時々聞かれることがあるが、散歩会は川柳における吟行の方法であった。川柳は題詠が多いので、机の前で句作にふけりがちである。そこからの脱却を作二郎はめざしたのだろう。
前掲の冊子の序文で作二郎は散歩会の趣旨についてこんなふうに書いている。

「従来の勉強会だけでは不充分だった句作方法をより自在に拡大する方法である。室内と言う限られた場所と動かない体では句作は行き詰まってしまう。悪気を抜き邪気を払うには思い切り外を歩くことである」(「外へ出て書く川柳」)

当日の京都は雪。祇園の表通りから外れて裏通りの路地に入ると風情があった。MAYA MAXXについてはよく知らなかったが、女流画家だった。何必館には北大路魯山人の陶器も展示されていた。出句無制限なので、出された句数は約960句。そこから各自10句を選ぶ。当日の作品から何句か紹介する。

最後だというのになんてセロファンな日    岩田多佳子
明日欠ける部分がないとつまらない      北村幸子
白い蝶くらいなら連れて帰れます       清水すみれ
笑いすぎて龍にもなれない          内田真理子
対話する蟹が大きくなってゆく        街中悠
山奥の人にここから手を出して        辻嬉久子
もっと本気出して二月逃げなさい       八上桐子

ここで改めて墨作二郎の作品を振りかえっておきたい。
以前、私は「墨作二郎の軌跡」(『セレクション柳論』所収)という文章を書いていて、ほぼ同じようなことになるが、ご了解いただきたい。
作二郎といえば、次のような長律作品の書き手として有名である。

埋没される有刺鉄線の呻吟のところどころ。
秩序の上を飛んでゐる虫のきらめく滴化

残酷な市街の回転だと思ふのだろう。曲動と
尖つた鼻の行方には勢一杯の諧調の騎士

新鮮なる鍋底がかぶさつてゐるとしたら。砂
上の焚火をかこんでゐる天使の群の憂愁

『川柳新書・墨作二郎集』(昭和33年4月)に収録されている。「川柳」という固定概念を揺さぶるような、実験的な作品に見える。自由律川柳には短律と長律があるが、作二郎作品は三十音以上あり、長律に属する。これらの作品が発表されたときの衝撃はかなり強烈なものだったのだろう。
もっとも、作二郎は最初から長律作品を書いていたわけではなく、昭和20年代の句集『凍原の墓標』(昭和29年)では「凍原の墓標故郷に叛き得ず」などの定型作品を書いている。この時期の作二郎はスタイルを変貌させたのである。

『川柳新書』には「作者のことば」が掲載されていて、「兎もあれ川柳とは(私にとって)『寛容なる広場』」と書かれている。「寛容なる広場」は作二郎の川柳観を示すものとしてよく知られている。もうひとつ、作二郎が言っていたのは、「作二郎の句が川柳ではないと言われても何ら痛痒を感じない。作二郎の句に詩がないと言われると問題である」ということ。詩性に対するこだわりがあったのだ。

作二郎は川柳におけるモダニズムを体現していた。それは堺という風土とも関連している。堺は与謝野晶子の故郷として知られているが、現代詩では「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を書いた詩人・安西冬衛の存在が有名である。大連から引き上げてきた冬衛に作二郎は少年期に出会い、冬衛の詩集をもらったそうだ。
やがて彼は河野春三と出会う。春三は大阪市の生まれだが、堺市で育った。作二郎は昭和22年、川柳誌「私」に参加する。
作二郎の作品のなかでは次の句が最も有名かもしれない。難解句として有名なのだ。

鶴を折るひとりひとりを処刑する

昭和47年、平安川柳社創立十五周年記念大会で優秀賞を獲得した作品。選者は「平安」の中で伝統派と革新派をつなぐ役割を果たしていた堀豊次だと言われている。
作二郎作品の完成されたかたちを示している句集が『尾張一宮在』(昭和56年5月)である。

ばざあるの らくがきの汽車北を指す
蝶沈む 葱畠には私小説
放浪のおとうとたちの 鼻乾く
かくれんぼ 誰も探しに来てくれぬ
四月馬鹿 シルクロードを妊りぬ

形式の冒険を経て、この時期の彼は定型における作品の完成をめざしているように思える。次々と新しいスタイルを求めてきた作二郎だが、完成期に入ったのである。定型と自由律の区別はもはやなく、自在な川柳を書いていくことになる。
その後、作二郎は昭和62年、「点鐘」を創刊する。
『遊行』『伎楽面』『龍灯鬼』『伐折羅』などの句集を立て続けに刊行した時期もあった。
いちばん新しい句集が『典座』である。
私は前掲の作二郎論「墨作二郎の軌跡」の最後に次のように書いた。

〈 川柳内部の表現領域の拡大と短詩型文学全体の中で川柳を問う姿勢。川柳の内部と外部に眼を配り、常に「これからの川柳」のために作句活動を続けることが作二郎の作家精神である。自己模倣を乗り越えて書き続けるためには、川柳は日々更新されていかなければならない 〉

3月30日には「墨作二郎を偲ぶ会」(現代川柳 点鐘の会 主催)が堺市総合福祉会館で開催される。
「墨作二郎を偲ぶ」(森中恵美子)「墨作二郎の軌跡」(小池正博)「遺句集『韋駄天』について」(本多洋子)などのお話のほか句会も開催される。
兼題「遊」(筒井祥文選)
兼題「行」(桑原伸吉選)
兼題「点」(笠嶋恵美子選)
兼題「鐘」(徳永政二選)

40代以下の川柳人には作二郎と直接交流のない方も多いかもしれないが、墨作二郎の業績を知ったうえで、次の時代に進んでいってほしいと思っている。

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