3月27日に「日本連句協会」の全国大会が仙台で開催された。
この大会は例年、東京で開催されるのだが、それ以外の各地でも開催しようというので、2013年の大阪大会に続いて、今回は仙台で開催されることになった。
仙台の街は復興いちじるしく街並も美しい。そのことが逆に東北の他の地方はどうなのだろうと思わせる。仙台にゆく前に会津若松に立ち寄ったのだが、テレビでは福島県の「今日のシーベルト」の数値が地域ごとに毎日放送されていた。非日常が日常化されてしまうとしたら、それはそれでこわいことである。
仙台から大阪に戻ると「川柳杜人」249号が届いていた。
真っ先に佐藤みさ子の句を読む。
言い訳して歩く見知らぬ人々に 佐藤みさ子
言い訳にもいろいろある。家族に対する言い訳。恋人に対する言い訳。自分に対する言い訳。では、見知らぬ人々に言い訳するというのは、どういうことだろう?
言い訳などしない人が、言い訳ばかりしている人を批評的に眺めているのかというと、そうでもなさそうだ。
世間的な名誉を得ている人が内心では忸怩たる思いで生きているというのはよくあることだ。本来の自分ではない状態で暮らしているのだが、自分に対してはごまかせない。自分に向き合うのはこわいから、「見知らぬ人々」に対して言い訳するのかもしれない。
この指はほんとは何で出来てるの 佐藤みさ子
現実だけが本当の世界ではなく、もうひとつの世界がある。
現象の世界と本質の世界。世界は二通りに見える。
私たちは在りえたかもしれない本質の世界から、いま在る日常の世界に頽落している。
しかし、本当のことを言ってしまうと、世界がパックリ口をあけてその姿を現したりする。だから、それに気づかないふりをして、それを見なくてもいいように、いそがしく暮らしてゆく。
佐藤みさ子は本当のことを言う人である。こういう人に対して嘘をついても通用しないだろう。
「杜人」の「一句一遊」のコーナーでは、広瀬ちえみが次の句を取り上げている。
陰毛が生える 私を見捨てずに 久保田紺
この句について広瀬はこんなふうに書いている。
〈女性が「陰毛」ということばを使っている句を見たのは初めてだった。抗癌剤は全身の毛を奪う。陰毛を愛しいもの(喜び)として見ることができるまでの過酷な時間を思った。紺さんは丸裸の生命体として立っている。それを想像するとき、私は言うべきことばを失う。いのちと正面から向き合わなければならないとき、日常の何を取り、何を捨てるか突きつけられる。末期癌を告知されたとき、猛スピードで整理したという。それでも紺さんは川柳を手放さず「陰毛」さえも見つめて書いた。このことに泣けて仕方がなかった。でもほんとうを言うと、それから私はくすくす笑ったのよ、紺さん。捨てられなくて良かったねって〉
久保田紺の句と正面から向き合った受け止め方である。「くすくす笑った」というところに広瀬ちえみの川柳人としての正統性がある。
「川柳カード」11号にも「久保田紺 五十句」が掲載されていて、たまたま50句のなかに同句も収録されている。私は「杜人」と「川柳カード」がシンクロしたように感じた。
「川柳カード」、くんじろうの同人作品も久保田紺への追悼句になっている。追悼というより相聞と言ってもいいかもしれない。紺とくんじろうの句を並べておこう。
いけませんそこに触ると泣きますよ 紺
お酒持っていくからあんた泣きないな くんじろう
ライオンの歯型のあるおしりが自慢 紺
噛まれたかも知れへんおいど痛いもん くんじろう
『15歳の短歌・俳句・川柳③なやみと力』が発行されて、このシリーズが完結した。川柳の部分を担当した、なかはられいこの仕事に対して敬意を表したい。第三巻には次の句も収録されている。
わたしって何だろ水が洩れている 加藤久子
まだ来ない痛みを待っているような 佐藤みさ子
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