『松田俊彦句集』が「葉ね文庫」に置かれるようになって、改めて句集を読む人があったようだ。川柳人・松田俊彦は2012年8月10日に亡くなった。没後三年が経過したことになる。句集は2013年10月に発行された。表紙は大学ノート仕立てで、句集名はなく、「松田俊彦」の署名だけが印刷してある。松田は「バックストローク」の大会にも参加していたし、「浪速の芭蕉祭」川柳の部にも投句していたので、伝統派の川柳人でありながら、現代川柳全体にも目配りできる人だった。
待っている大きなものの名を忘れ 松田俊彦
きりんの死きりんを入れる箱がない
大至急会おう私であるうちに
他人ならここで手をふるだけでいい
海から先を考えていなかった
私は生前の松田とあまり接点がなかったが、「バックストロークin名古屋」で松田は特選をとっている。また平成24年・浪速の芭蕉祭の作品は彼の没後に応募葉書が届いたことを覚えている。
きっとならさっき誰かがもってった バックストロークin名古屋
ぎりぎりのところで水になっている 平成22年・浪速の芭蕉祭
間違えて押した小道具出てしまう 平成24年・浪速の芭蕉祭
「川柳木馬」145号(2015・夏)から何句かピックアップしてみる。
隈取りを描いて辞表を出しにゆく 畑山弘
仕事を辞めて第二の人生がはじまる。
誕生・結婚などと並んで退職は一種の通過儀礼である。大げさに言えば人はそこで変身するのだ。在職中は嫌なことやストレスがたまることもあっただろうが、辞表をたたきつけるのはさぞ快感だろうし、歌舞伎のように見得を切りたくもなるだろう。「ポケットの中のポケットより哄笑」「蓑虫の天地無用という姿勢」
排卵日有精卵の黄身を呑む 大野美恵
体内から出て行く卵と体内に取り入れる卵。
女の身体と自ら向き合って作句している。
今号の中ではこの作者に最も衝撃を感じた。
「突き上げる産道よりのレモン水」「逆上がり口から垂れる性癖」
林檎をおくと遅れはじめる時間 内田万貴
林檎をおくとなぜ時間が遅れはじめるのかという問いは無効である。
説明すればできるかも知れないが、句をつまらなくしてしまう。
物と意識の関係なのだろう。
「ああ人はむかしむかし鳥だったのかもしれないね」(中島みゆき「この空を飛べたら」)というフレーズが人の共感を得るのは、「鳥は空を飛ぶもの」というプロトタイプがあるからである。ペンギンはこの歌に疎外感を感じている。
「出自を問われ鳥図鑑あけている」(内田万貴)
どこからか雅楽 徘徊老人も 古谷恭一
「採桑老」という雅楽がある。
俵屋宗達の「舞楽図」にも描かれている。
不老不死を求める老人の姿。人は誰でも死にたくはないのだ。
かつて古谷恭一は「三姉妹」の句を書いた。今回は「老年」と向かい合っている。
「うつ伏せに眠る辺りは花畑」「老人を放つ残酷ゲームです」
ここに来て黙って座っていればいいのよ 西川富恵
何もしゃべることがない沈黙と語り出せばきりがないための沈黙とがある。
西川富恵は「川柳木馬」の創刊メンバー。
『現代川柳の群像』を開くと西川の次の句に出合った。
こころざし高く麦藁帽子一つ
石部明はこの句を西川富恵論のタイトルにあげている。
数日を群れてみせしめのダリア 清水かおり
ダリアが群生している。
数日経過すると中には枯れたり衰えたりするものも出てくる。
それだけなら単なる風景だが、「みせしめの」と入れることによって川柳にしている。
「みせしめ」と感じたのは作者の主観だが、何が(誰が)何に対する(誰に対する)見せしめなのかは微妙だ。
清水は巻頭言でこんなことを書いている。
「現代川柳は読者の読みに委ねられる部分が大きい。作者が読者の読みを否定することは、自身の力量を問われることでもある。しかし、一方で、作者は読者への委ねに凭れることのない意識を持って書くことが大切である。言葉と言葉を置けばそこに何かが生まれるだろうと思うのはあまりに楽観的すぎるからだ。理念などと大げさなものではないが、ただ、自分の中の核を意識して作品を創ることは忘れないでいたい」
正論であるが、こういう意識が逆に表現を縛ったり、作者にはね返ってきたりすると生産的でなくなるかも知れないと思った。
「万物の声に埋もれるまで神楽」「本音なら黒いズボンを穿いて来る」
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