今回は「川柳カード」8号に掲載されている畑美樹の作品を読んでゆきたい。
「三拍子」というタイトルの十句である。
雲梯をふわりと越えて波になる
小学校のころ校庭に雲梯というものがあった。
はしごを水平にしたような遊具でぶらさがりながら伝い進んでゆく。
今でも公園で見かけたときにやってみようかなと思うこともあるが、体重を考えて自重している。
語源は古代中国の兵器だったようで、雲に届くような梯子をかけて城攻めをするのだ。
この句では雲梯にぶらさがるのではなくて、ふわりと越えると言っている。身体の重さが消去されているのは、「雲」という字のイメージからだろう。
雲を越えたあとに波になるので、実体は感じられない。
あたらしい名前を売っている渚
名前と実体。
名前を変えると新しい自分になることができるのだろうか。
歌舞伎の襲名のように、名を変えることによって実体が名に追いついてゆくこともある。
渚では名前を売っているという。
買ってみようかなと思うが、迷うところだ。街の雑踏の中で売っているなら買う気がしないのだが。
納豆にからまりながら秋津島
秋津島は日本の古名。神話のイメージも感じられる。
日本という島が納豆のねばねばにからまっているというのだ。
本州が納豆ほどに縮小されている。
塩ふって島の意見を聞いていく
ここでは島に塩をふっている。
島の意見に味付けをする。悪意をもって。それとも味を濃くするために。あるいはナメクジのように溶かしてしまうために?
この句には時事を読み取らない方がよいと思う。
ここまで、波→渚→島という連想で句が続いている。
足首をくるりと回す精肉屋
精肉屋が何のために足首を回しているのかという問いは無効である。
「意味よりもほんの少し前に」という文章で畑美樹はこんなふうに書いている。
「意味がやってくる前に伝えられるもの。それは一体なんだろうか」
「コトバが意味を伝えてくるよりもほんの少しだけ前に、何かが届いてしまう、そんなかんじ」
「そこまで」という声がして匂ふ葱
意味より前にやってくるものと言うならば、それは音やリズム、感覚だろうと思って、私は畑美樹を川柳における感覚派ととらえている。
この句では声(聴覚)と匂い(嗅覚)。
「川柳カード」8号の合評会で、「匂ふ」の歴史的かなづかいが話題になった。
「そこまで」は過去をそこで区切っているのだという意見もあった。
顎の先つるりと滑らせてふたり
恋句かなと思ったが、そうではないかもしれない。恋句だとしても手がこんでいる。
足を滑らせるのではなくて、顎の先を滑らせている。あるいは、顎の先で二人が滑っている。そんなことは実景としてはないはずだが、残るのはつるりと滑る感覚である。
「ふわりと」「くるりと」「つるりと」、こういう擬態語の多用はこの作者の特徴だが、実のところ私はあまり好きではない。既成の擬態語や擬音語で感覚自体を表現するのはむつかしいのだ。
おぼろ月やがて水汲む人になる
水のイメージに戻る。
「やがて」に時間の経過がある。
「水を汲まない人」から「水を汲む人」への変化によって、何か新しいことが生まれたらいいなと思う。
水は畑美樹の原イメージである。
お前とかカワウソだとか綿の雲
水といえばカワウソでしょう。
すでにニホンカワウソは絶滅している。
この句は独白ではなくて、二人で会話しているような雰囲気が私には感じられる。
ことりことり新聞紙の三拍子
「こ・と・り」と分節すれば三拍子なのか。
新聞に書かれている内容が三拍子なのか。
小鳥・子盗り・ことり―意味はいろいろ代入できる。
わからないなりにおもしろいなと思った。
かつて私はセレクション柳人『畑美樹集』の解説で次のように書いたことがある。
「言葉と言葉の関係性や完成度に腐心している私には、言葉以前の感覚にこだわる畑美樹の作品は新鮮に見えるし、それがどのように川柳の言葉に定着してゆくのかにとても興味がある」
それから十年ほどが経過した。畑美樹が新境地を切り開くことを読者は待っている。
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