2015年1月16日金曜日

世界は広い El Mund es grande.

年末から年始にかけて、いろいろな句会やイベントに参加する機会があった。また手元の俳誌・柳誌などを読んでいると、さまざまな人がさまざまな発信をしていることがわかる。そういう刺激を受けながら今年のプランをさまざま考えてみたが、その中にはかたちになりそうなものもあるし、かたちにならずに消えてゆくものもある。まとまりがつかないままに、手元の俳句や川柳の諸誌を紹介してゆきたい。

阪神淡路大震災から20年が経過して、1月17日がまたやってくる。
神戸から出ている現代詩の同人誌「ア・テンポ」46号は小特集「阪神淡路大震災から20年」を掲載している。
その特集とは関係ないが、巻頭の赤坂恒子の俳句から。

炎ゆる残照へたむろして頬杖     赤坂恒子
一期なる彼のコスモスへ遠回り
ラスクサクサクサクと時雨のち晴れ
小雪の日は乱調の海に在り
長続きいたさぬ忿怒雪こんこ

昨年四月、高知の「川柳木馬35周年大会」に行ったときに、味元昭次と知り合った。それ以来「蝶」を送っていただいている。たむらちせいのあとを継いで、現在は味元さんが編集人・代表者である。
昨年11月に「第38周年蝶俳句大会」が開催された。味元はこんなふうに書いている。
「本誌はルーツである同人誌と結社誌の中間を行く俳誌だと私は認識しています。誌として〈俳句はこういうものだ〉といった硬直した考えを押し付ける俳誌ではありません。難しいことですが、一人一人が〈自分の俳句〉を自分の頭で考えて書いて下さるのが理想です」(味元昭次「蝶」211号)
「蝶」には土佐高校の十代の作者が育っている。

人間は細胞なのだ冬紅葉        川村貴子
テレビの中のみみずくがウオッと鳴く  宮崎玲奈

「蝶俳句会」発行の『昭和の俳句を読もう』は、「蝶」157号(2006年1月)からはじまった連載を冊子にまとめたものである。第一回の中村草田男をはじめ阿部完市、折笠美秋、中村苑子、林田紀音夫など昭和の俳人54人の作品が30句ずつ収録されている。
紹介文もおもしろく、例えば飯島晴子のページでは、「もし女がユーモアに溢れていれば、赤ん坊などというものはパン粉をまぶしてフライにしてしまうだろう」とか、常識的な俳句に対して「五七五の念仏の山」とか、知的操作だけの新奇な作品に対して「単細胞に電流を流したようなもの」とかいう晴子の言葉が紹介されている。
現代俳句のアンソロジーとして、俳句会のテクストにも使えそうだ。

みずぎわのはんもっくのようなひとがすき   須藤徹

「ぶるうまりん」は須藤徹没後も継続して発行されている。
その29号の巻頭に須藤徹の句が掲載されている。平成25年6月、須藤最後の句会での作品らしい。
この号には前号に続いて「まるかじりインタヴュー渡辺隆夫の世界(後編)」が掲載されている。聞き手は歌人の武藤雅治。武藤はこんなふうに発言している。
「隆夫さんは、非人称と無名性について触れていますよね。短詩型でいう人称は、多くは、一人称を指しているかと思いますが、一口に一人称と言っても『生身の我』『社会人としての我』『創作された我』と三つぐらいの『我』というものが考えられます。こういう人称を離れた非人称というのはありうるのか?」

川柳誌「凛」60号は渡辺自身の文章を掲載。
この時評でも取り上げたことがある「川柳使命論争」について、隆夫自身が書いている。
くりかえしになるが、経緯を紹介すると

ふる里は戦争放棄した日本   大久保真澄

について、隆夫が「この句には川柳の使命のようなものが濃縮されている」(「触光」37号)と書いたことについて、「触光」38号で広瀬ちえみや芳賀博子から「川柳の使命」という言い方に対する疑問が呈された。それを受けて、隆夫自身は次のように書いている。

「二人の女史に指摘されてはじめて、私は『使命』というコトバを安易に使用していたことに気がついた。『川柳とはなんでもありの五七五』などとチャランポランを吹聴してきた男が、『使命』などというウソくさい言葉を並べて、こりゃなんじゃらほい、と思ったに違いない。それほど、この戦争放棄の句は私をしてクソマジメな男に回帰させたのである」

「人間というものは気をつけていないと、すぐマジメになってしまう」とは隆夫自身の言葉だが、渡辺隆夫という人は自己を客観視できる人だということを改めて感じた。

「川柳・北田辺」第51回句会報。
くんじろうの「放蕩言」に曰く。
「…趣味の会だから本気で作らないのなら、そこから本物の川柳など生まれて来るはずがない。本物が出て来なければいずれ川柳は滅びる。何十万人の人が川柳と称して五七五を作ろうと、もはやそこに川柳は無かろう。昔良き時代に詠まれた先輩方の句をなぞって、さもそれらしい顔をしているだけなら、そこに独創性など存在するはずもない。決して伝統川柳を否定しているのではない。独創性の無さ、個性の乏しさを憂いているのである」
同句会報の作品から。

白鳥をたった一人で干している     榊陽子
貝塚の貝を全身貼りつける       竹井紫乙
半身はミイラ半身は国宝        田久保亜蘭
つぎはぎブギウギひょうたんつぎもどき 酒井かがり
口紅を狼煙にできるものならば     森田律子

今年も元気のでる川柳時評を書いてゆきたい。そのためには、まず自分が元気でなければならない。

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