2013年7月12日金曜日

佐藤みさ子は怒っている

短歌誌「井泉」52号の連載「ガールズ・ポエトリーの現在」で喜多昭夫が「ロスジェネ世代の共感と連帯」と題して佐藤晶歌集『冬の秒針』を取り上げている。喜多はこの歌集を「ロスジェネ歌集として位置づけることができる」とした上で、次のように説明している。

「ロストジェネレーションとは、1970~80年代前半にかけて生まれた世代をさす」
「1991年3月にバブルは崩壊し、状況は一変する。有効求人倍率がついに1を下回った1993年以降、この世代は就職氷河期に見舞われることになったのである。企業は正社員の採用をできるだけ押さえて、派遣社員や契約社員といった非正規雇用を増やす方向へ大きく舵を切り、その憂き目を一身に浴びることになったのが、ロスジェネ世代というわけである」

内面にかかわりそうな話題には興味ないってふりが礼儀で    佐藤晶
触れあえばその傷跡が残るだろう桃のようなるわれらのこころ

このブログ(6月21日)でも「失われた20年をどう詠む」という飯島章友の問題意識について述べたことがあるが、ロスジェネ世代の川柳人がほとんど存在しないのはやはり気がかりなことである。

「MANO」18号が発行された。
佐藤みさ子・加藤久子・樋口由紀子・小池正博の同人作品のほかに、佐藤が「『冬の犬』を読む」、加藤が「明さんへの旅」、樋口が「石部明という存在」を書いて、昨年10月に亡くなった石部明を追悼している。小池の「現代川柳の方法」は木村半文銭の新興川柳と現代川柳を重ね合わせながら、固有の川柳メソッドがありうるかを問う。
巻頭作品は佐藤みさ子の「探す」20句である。
宮城県柴田町に在住の佐藤みさ子は震災をテーマに作品を書くことが多くなっている。
震災から二年以上が経過して、佐藤は依然として怒っているのだ。その怒りは内面化され、射程距離の長い作品として結実しつつある。
今回は佐藤の句を中心に取り上げるが、刺身のツマとして小池の句を取り合わせることによって若干の立体化をはかってみることにしたい。

ゲンパツを抱くとポタポタ雫する   佐藤みさ子
ネオリベも躑躅も妙に生きづらい   小池正博

1年前の「MANO」17号で佐藤は「祈るしかないのだ水を注ぎこむ」と詠んでいた。
いま佐藤は「ゲンパツを抱く」と詠んでいる。2年経過しても事態は収束しないし、将来の見通しもはっきりしない。そんなことは誰も望んでいないはずなのに、私たちはゲンパツを抱きかかえたまま生きていくほかはないのかも知れない。ポタポタ落ちる雫にはもちろん放射能が混じっているのである。
ネオリベはネオリベラリズム(新自由主義)である。この用語の厳密な意味を承知しているわけではないが、「ネオリベ」と省略して使う場合は揶揄の気持ちが込められている。男女機会均等法以後、女性も男性と同じように職場で活躍することを求められている。また、「市場原理」優先の時代の中で日本全体に何ともいえない閉塞感が漂っているのだ。

和を以て地震津波の国である        みさ子
なぜ髭を生やさぬと鞭打ちの刑       正博

聖徳太子の制定した「十七条の憲法」の第一条は「和を以て貴しと為し」である。太子は地震や津波まで想定しなかっただろうが、地震があろうと津波が来ようと和をもってことにあたる国だというのは皮肉である。
イスラム圏に鞭打ちの刑がある。
アフガニスタンは多民族国家であるが、ハザラ人というモンゴル系の人々がいる。
テレビのニュースでよく見る長い髭を生やした典型的な男性とは異なって、ハザラ人は体質的に髭が伸びないのである。タリバン時代、髭を生やさない成人男子は鞭打たれることがあったという。髭を生やしていることがイスラムの象徴であったのだ。「いや、私たちは髭を生やしたくても生えないのだ」と言っても、聞き入れてもらえない。

千年に一度のゆめの遺族です        みさ子
木漏れ日に混じって劣化ウラン弾      正博

千年に一度の地震、千年に一度の津波だったという。
津波の映像はUチューブなどに投稿されたが、撮影しながら「夢みたい」と呟いている撮影者がいたのは印象的だった。実感だっただろう。人は信じられない現実を目の前にして、夢のようだと感じる。けれども、人の死は夢ではないのである。
アフガニスタンには不発弾が大量に残っている。
子どもたちは不発弾を玩具にして遊ぶ。
たくましいとも言えるが、ほかに遊び道具が何もないのだ。もちろん彼らはそれが危険な遊びであることを知っている。どうすれば爆発しないかを知っているのだ。
けれども、どんなに注意深く扱っても、爆弾は不意に爆発してしまう。
劣化ウラン弾というものもある。戦車や装甲車を撃ち抜くために使われたらしいが、放射能の影響が指摘されている。劣化ウランは原発の廃棄物だということだ。

頼むから口には花を詰めないで       みさ子
憤怒でしたか牡丹の手入れ怠って      正博

口に花を詰めるのは善意だろうか悪意だろうか。
花で飾るのだから善意かというと、本人は嫌がっていたりするから、無意識の悪意になってしまう。どういう状況が詠まれているかを考えると、作中主体はすでに死者であるのかもしれない。
一方、牡丹の手入れに余念のない人がいる。
何よりも大切な牡丹なのに手入れができないのは、憤怒にうち震えているからである。それほど怒るようなことがあったのだろう。

竹の子と木の子と人の子を探せ      みさ子
パートナー蜘蛛に噛まれた者たちの    正博

魯迅の『狂人日記』の最後は確か「子どもを救え」だった。みさ子は「人の子を探せ」と言う。
タランチュラに噛まれた者が狂ったように踊っている。噛まれた者は何人もいるから、彼らは仲間たちのように見える。

見あげると千手観音やまざくら     みさ子
神さびの森に尿意は谺する       正博

救済は人知を越えたところにしかないのかも知れない。
千手観音や神さびの森。
しかし、佐藤みさ子は怒っている。

何のための川柳なのか銃乱射      佐藤みさ子

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