2013年4月26日金曜日

石部明追悼川柳大会

4月20日(土)、岡山県天神山プラザで「石部明追悼川柳大会」が開催された。
昨年10月27日に逝去した石部明は現代川柳の有力な実作者であるだけでなく、「バックストローク」などを通じて後進を牽引してゆくリーダーでもあった。「バックストローク」終刊後、石部は「BSField」誌の編集に力を注いでいたが、今回の追悼会はその「BSおかやま句会Field」の主催によるものである。

第一部では、まず草地豊子が挨拶に立ち、石部明さんのご遺族からの手紙を代読した。また、BSField会員と有志によって『セレクション柳人・石部明集』から句が朗読され、北川拓治が石部明に宛てた追悼の手紙を読んだ。BGMは石部が入院中によく聞いていたという一青窈のCD「歌窈曲」だった。ちあきなおみの「喝采」のカバー曲が流れたとき、明さんはこの曲が好きだったのかと感慨深かった。
続いて「石部明を語る」と題して、小池正博と石田柊馬がそれぞれ15分ずつ語った。小池は現代川柳における石部明の位置を、俳句における水原秋桜子の位置にたとえた。秋桜子の「『自然の真』と『文芸上の真』」を応用して、石部明は「書くことによってあらわれる真」ということをよく言っていたからである。
石田は石部明が映画好きであったことを踏まえて、時代劇(チャンバラ映画)に対する石部明と石田自身の見方の違いについて語った。かつてのチャンバラ映画の主人公たちが腰のひけた立ちまわりをしていたことについて石田が否定的だったのに対して、石部はチャンバラ映画の主役は「白塗りの美青年」でよいのだという意見だった。このエピソードから、「リアリズム」と「勧善懲悪」は必ずずれる、石部明は現実と作り物との違いを常にわきまえて作品を書いていたのだ、と石田は述べる。この映画についての二人のやり取りは確か「バックストローク」の伝言板でも読んだことがあるように思う。
第二部は句会で、「握る」(柴田夕起子選)、「湾」(前田一石選)、「山羊」(松永千秋選)、「顎」(徳永政二選)、「にやり」(広瀬ちえみ選)、「妖怪」(筒井祥文選)、イメージ吟「石部明」(樋口由紀子選)。入選句はいずれ発表誌に掲載されるだろう。

大会が終わって改めて感じたのは、石部の選者としての存在感の大きさである。私自身も石部の選を受けることによって自句に自信をもち、前に進むことができた経験が何度もある。石部がもういないということは、選者層が薄くなることにつながってゆく。
当日、石田柊馬が述べたように、石部明の業績は繰り返し語り継ぐべきものである。川柳人は忘れっぽいから、在世中は大きな存在であっても、直接会ったことのない世代の人たちにまで継承されることは少ない。私の限られた経験の中でも、そのような事態を何度も見てきた。追悼会が終わったからといって、忘れ去られては困るのである。
「川柳カード」第2号では「川柳人・石部明の軌跡」を特集したが、改めて石部明の凄さを認識する契機になればありがたい。初期の石部明についても私には分からないことが多い。石部は人によって異なる姿を見せる複雑な存在だったから、語る人によってさまざまな石部像がありうるだろう。それぞれが文章化しておくことが望まれる。

大会翌日は有志で京都を散策した。
詩仙堂は新緑が美しく、風に揺れる木々はまるで言葉を発しているようだった。サツキにはまだ早かったが、そのため人が少なく庭園風景を満喫することができた。
東寺はちょうど毎月21日の弘法市が立ち、露店でにぎわっていた。ちょうど一年前のこの日、正岡豊と二人で東寺吟行をしたことを思い出した。講堂諸仏のうち、憤怒像もすばらしいが、私のご贔屓は帝釈天である。いつも堂内は暗いのだが、午後の陽光が仏像の姿をくっきりと浮かび上がらせている。阿修羅との永遠の闘争を続ける帝釈天の姿は、端正でありながらニヒルだ。
帰宅すると「垂人」19号が届いていた。

椅子がある千里歩いて来るひとの     広瀬ちえみ

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