2013年3月15日金曜日

「井泉」50号「ジャンルの境界性について」

山口昌男が亡くなった。
中沢新一は「山口昌男を悼む」(朝日新聞・3月12日)でこんなふうに書いている。

「私たちの世代にとって、山口昌男はじつに偉大な解放者だった。1970年代、世の中はきまじめであることが美徳とされ、自分のしていることは正しいと誰もが思いたがっていた。その時代に山口昌男は知識人たちに向かって、そんなつまらない美徳は捨てて、創造的な『いたずら者』になれ、と呼びかけたのである」

山口は文化人類学者として活躍、「トリックスター」「中心と周縁」などのキイ・ワードは一世を風靡した。『アフリカの神話的世界』『文化人類学への招待』などの岩波新書のほか、『道化の民俗学』『文化と両義性』などの著書がある。70年代・80年代のトップランナーの一人であった。けれども、知識人と時代との関係は微妙である。中沢は次のように書く。

「世の中が安直な笑いであふれかえり、矮小化された『いたずら者』が跋扈する時代になると、さすがのこの人も不調に陥った。ところがしばらくすると、今度は『敗者』に身をやつして再登場したのにはたまげた。負け組のほうが豊かな人生が送れるぞ。マネーや力の世界への幻想を嗤う、なんともエレガントな闘いぶりであった」

「敗者」に身をやつして再登場とは、『「敗者」の精神史』『「挫折」の昭和史』を指しているだろう。ともに1995年刊。私はこの時期の山口の本を読んでいない。「トリックスター」には興味があったが「敗者」には興味をもてなかったことになる。というより、「敗者」や「挫折」については読まなくてもよくわかっているような気がしていたのだ。
手元にある『文化人類学への招待』を開けてみると、冒頭で語られているポーランドの知的風土が印象的だ。マリノフスキーと友人のヴィトケヴィッチのことである。
「マリノフスキーとヴィトケヴィッチは、刎頚の友といっていいぐらいの仲だったのです。しかし、人類学者と芸術家の友情というものはあまり長続きしないものなのかもしれない。どちらも適当に頑固ですから」
オーストラリアを二人で旅行したときのエピソード。
湖に行き当った二人は右から行くか左から行くかで喧嘩を始めた。そこで、それぞれ右回り・左回りの別々の道を行くことにした。マリノフスキーが落ち合う場所に着いてみるとヴィトケヴィッチがいない。探してみると彼は棒の間に裸でしばりつけられ、原住民たちがタイマツを振りまわしている。驚いたマリノフスキーが鉄砲を持ちだしたところ、ヴィトケヴィッチは「よせよせ」とやめさせた。早く到着した彼は土地の人とすっかり友だちになっていて、体についたダニを火であぶって退治してもらっていたのだという。
この話は両者のタイプの違い(真面目と遊び)をあらわしている。
ヴィトケヴィッチは変った人で、自分のアパートの前に細かいスケジュール表を貼り出して、○○屋さんはいつ集金にきなさいとか書いてあったが、誰もその通りしなかったとか、フォーマルな場で芸術・哲学の話をするときは必ず酔って現われたとか、友人の点数表を作って点の上下を報告しては嫌がられていたとか、徹底的な意地悪で、人には絶対に通じない冗談を言って戸惑わせたとか、興味深いエピソードがいろいろ書かれている。エキセントリックなトリックスターである。

短歌誌「井泉」50号が届いた。
本誌は春日井建の没後、春日井の「中部短歌会」を継承する人々によって2005年に創刊された。
このブログでも何度か取り上げてきたが、「井泉」は巻頭の「招待席」に短歌だけではなく、俳句・川柳・現代詩を掲載してきた。川柳人ではこれまで樋口由紀子・筒井祥文・畑美樹・兵頭全郎・丸山進などが作品を書いている。
50号記念号の特集「ジャンルの越境性について」では、北川透・黒瀬珂瀾・坪内稔典・樋口由紀子の外部寄稿のほか江村彩・喜多昭夫・佐藤晶・彦坂美喜子の同人が執筆している。
まず、北川透(「『ダス・ゲマイネ』の他者」)は太宰治の小説を取り上げて、その境界性を論じている。

「詩における意味の切断は、どんな場合も、単に意味の省略、消去ではない。その都度、選択される語句が形成する文脈から落ちざるを得ない、表現し得ないものに触れる空白の表現だ。あるいは空白内部の見えないもの、触れることのできないものへ向けた矢印や触手でもある。そして、この空白に自覚的なスタイルを、わたしたちは詩的表現と呼んでいる」

詩は意味のネットワークの形成や説明的叙述に依拠するのではなく、逆にそこから私たちを解除し、自由にするはたらきを持っていると北川は言う。そのような「空白」に触れるための武器となるものが、句切れ、リズム、イメージ、ずらし、イロニー、パロディなどの詩的レトリックである。
北川は「ダス・ゲマイネ」三章のエピグラフ「ここを過ぎて、一つ二銭の栄螺かな」という俳句の韻律をもっていることを指摘している。
太宰と俳句・連句との関係はこれまでにも論じられている。『富嶽百景』が連句的であるほか、『思い出』の冒頭にある作品「葉」は連句的構成そのものである。そういえば、太宰には「道化の華」という作品もあった。

外はみぞれ。何を笑うやレニン像     太宰治

黒瀬珂瀾(「深井戸の底へ」)は、ジャンルの境界があるからこそ独自性が育てられるという面と、一方では表現の硬直化を招くという面との両面を指摘したあと、次のように述べている。

「あるジャンルの表現者とは、その表現に出会ってしまった運命の賜物として、そのジャンルに身を捧ぐ衝動を得ると同時に、出会ってしまった代償として、『越境性』の壁を高く仰ぐのだろう。このことを忘れたまま、単に他ジャンルとの並列を以て、境界性の打破を云々することは、悲しいが児戯に等しい」

そして、黒瀬が取り上げているのは、詩人・石原吉郎が晩年に残した歌集『北鎌倉』である。

北鎌倉橋ある川に橋ありて橋あれば橋 橋なくば川   石原吉郎

坪内稔典(「煙に巻いた?」)は大学生といっしょに短歌や俳句を読む、具体的な話に終始する。また、樋口由紀子(「両面がある」)は関西と関東では笑いのツボが違うことをマクラに中尾藻介・中村冨二の川柳、攝津幸彦の俳句、穂村弘の短歌を取り上げている。

ジャンルの境界性について考えるとき、私の出発点は広末保の「自律的ジャンル史観について」(『可能性としての芭蕉』所収)であった。ジャンルの純粋化をめざす自律的ジャンル論は、ジャンル内部の雑多な要素を排除するため、逆にジャンルの可能性を狭めてしまうことになる。「未分化な形式」と「分化した形式」との間で、広末は「未分化な形式」(たとえば「俳諧」)に可能性を見ていたのだった。
かつては「ジャンル越境時代」「シャッフルの時代」などの言葉に胸がときめいたこともあったが、川柳の実作を続けているうちに、私はジャンルの越境を楽しむという素朴な気持ちではいられなくなってきた。ジャンルの自律があいまいな川柳においては、まず川柳のジャンルとしての自律を当面の目標とせざるをえない。ジャンルを越境するためにジャンルを確立するというような二律背反を強いられるのである。

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