「川柳カード」創刊記念大会の翌日、上本町で一泊したメンバーを中心に奈良を散策した。大会会場の上本町からは近鉄線で乗り換えなしで行けるので便利である。参加者は青森・仙台・高知・福岡・熊本など関西圏以外の川柳人が多いので、奈良公園の定番コースを案内することにした。三年前の「バックストロークin大阪」のときは薬師寺・唐招提寺を案内して萩が満開だったことを思い出す。
まず興福寺国宝館の阿修羅像に会いにゆく。
興福寺国宝館には天龍八部衆・釈迦十大弟子・山田寺仏頭・天灯鬼・龍灯鬼などの名品がそろっている。改装中の2009年から東京をはじめ各地を阿修羅像が巡回し、盛況であったようだ。阿修羅が奈良に里帰りしたあとは、国宝館の回りに行列ができたが、それもいまは落ちついて静かに阿修羅と対面することができる。
改装以前の国宝館の様子について、「MANO」9号に加藤久子の次の感想がある。
「国宝館の奥まったところに阿修羅像は置かれていた。ガラスを隔てて、白っぽい光の中で、阿修羅像は人々の視線に曝されていた」
現在そんなことはなく、ライトが当てられる中に阿修羅は魅力的で美しくたたずんでいる。
高校生のころ、「倫理・社会」の教科書の口絵に阿修羅像の写真が載っていて、授業などそっちのけでその写真を見つめていたものだ。阿修羅は眉根をきゅっと寄せて必死に何かを求めている。本来、阿修羅は闘争の神で帝釈天との激しい戦いを繰り返している。その彼が善心に立ち戻って仏法に帰依しているのである。いつ訪れても阿修羅の前からは立ち去り難い。そこには少年のひたむきさがあるからだ。
もう一体、国宝館で私の御贔屓の仏像は龍灯鬼である。龍灯鬼を眺めていると俳諧性ということを思い浮かべる。水原秋桜子の『葛飾』には天灯鬼・龍灯鬼を詠んだ句が収められている。
人が焼く天の山火を奪ふもの (天灯鬼) 水原秋桜子
おぼろ夜の潮騒つくるものぞこれ(龍灯鬼)
格調高いがこの句だけから像そのもののイメージを思い浮かべるのは困難だろう。
平成10年に亡くなった「奈良番傘」の片岡つとむは奈良の仏像をよく詠んでいる。
仲良しになれそうなのが龍灯鬼 片岡つとむ
まなざしがどこか阿修羅に似ている娘
こちらは親しみやすいが平俗な感じ。片岡つとむはこの他に千手観音や執金剛神像、十大弟子、広目天なども詠んでいる。
木心乾漆孔雀の翅のよう千手 片岡つとむ
憤怒像執金剛に尽きるとか
十大弟子のひとりは髯を蓄える
邪鬼二匹踏まえ広目天の筆
国宝館を出て、戒壇院へ向かう。当初の予定では奈良博物館の敷地にある森鷗外の旧居跡を通ってゆこうと思っていたが、時間が押しているのでカットした。鷗外は帝室博物館の館長として奈良に滞在しており、東京の自宅に送った手紙は鷗外の家族愛を伝えるものである。いま残っているのは旧居の門だけである。
戒壇院へ行く途中に写真家・入江泰吉の家がある。亡くなったあとも「入江泰吉」の表札がかかったままになっている。奈良を撮った写真は土門拳と並んで有名だが、知らない人は通り過ぎてしまいそうな、さりげないたたずまいだ。
戒壇院の四天王像のうち、私のお目当ては広目天である。阿修羅像の少年のまなざしも愛惜すべきであるが、人はいつまでも阿修羅のような表情ができるわけではなく、やがて中年になってゆくのである。広目天は中年の叡智を感じさせる像である。阿修羅と広目天、この二人の間にある人間の幅広さ、深さを思う。
堀辰雄の『大和路・信濃路』では広目天の印象をこんなふうに語っている。
僕は一人きりいつまでも広目天の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈しい。…
「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的にできあがるはずはない。…」
そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。
堀辰雄は誰を想像したかは書いていない。
あと、会津八一の『鹿鳴集』の中に有名な歌がある。
びるばくしや まゆねよせたる まなざしを まなこにみつつ あきの のをゆく
「びるばくしや」は広目天のこと(梵語らしい)。
四天王の着ている鎧の肩口にはライオンの顔のデザインになっている。ヘラクレスの獅子退治に遠源をもつ、シルクロードにつながる意匠である。獅噛(しがみ)だったかな。生半可な知識で同行の人たちに説明したのだが、あとで戒壇院の栞を読むと「身にまとう甲冑は遠く中央アジアの様式で、文化の広大なることを物語っている」とあってホッした。
次に挙げるのは今回の奈良行とは関係なく、2006年11月の「点鐘散歩会」の作品から。
広目天の筆ぬけ落ちるイジメ対策 本多洋子
増長天ジョニーデップの瞳です 阪本高士
二歳から聖徳太子だったんだ 吉岡とみえ
最後の句は興福寺国宝館の聖徳太子像を詠んだものだろう。
戒壇院を出たあと、一行は二手に分かれ、先に駅前の昼食場所へゆく方と足をのばして二月堂までゆく方とになった。
東大寺大仏殿の裏側を回って、講堂跡の礎石を眺めながらゆく。奈良でもっとも廃墟という感じがする場所である。
そして、二月堂の回廊をゆっくり上がってゆく。お水取りのときに、練行衆が松明をもって上がってゆくように。
二月堂からは奈良市街が一望できる。
小林秀雄は一時期、志賀直哉を頼って奈良に滞在していたことがある。長谷川泰子、中原中也との三角関係に疲れ、東京から逃げてきた小林がプルーストの原書を読みながら寝転がっていたという茶店が確か二月堂のあたりにあったはずだ。
高畑の志賀直哉の旧居は、今回のルートから外れるので案内できなかった。
タクシーで奈良駅前に戻った私たちは、一足先に昼食場所に来ていた先発グループと合流した。前夜の大会の懇親会ではあまり上等のお酒が飲めなかったので、ここで奈良のお酒をたっぷり飲もうというわけである。私のお勧めは春鹿と豊祝。
前日の大会の余韻のなかで、川柳の友人たちと歓談は続くのであった。
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