2010年12月3日金曜日

川柳における自由律

「俳句界」12月号の特集「こんなに面白い!現代の自由律俳句」は、「座談会」「自由律俳句 句セレクション」「論考(永田龍太郎)」「私の好きな自由律俳句」から構成されている。自由律俳句といえば放哉・山頭火や住宅顕信がよく話題になるが、現代の自由律作品が取り上げられるのは珍しい。
「句セレクション」「私の好きな自由律俳句」のコーナーから何句か引用する。

生返事の口紅つけている         岡田幸生
どの蟻もつかれていない隊商のラクダだ  塩野谷西呂
今宵さくらと残業いたします       湯原幸三
あじさいといっしょに萎びる       湯原幸三
裸 星降る               中原紫重
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル      近木圭之介

また同誌ではレポートのコーナーで藤田踏青が「でんでん虫の会」について書いている。今年9月19日の句会についての報告である。

少し死に少し生まれて透明都市      藤田踏青
エコー飛び交う海底臓器販売書      吉田久美子
それでも素通り出来ぬポルノ館      前田芙巳代
アリエッティの腸内旅行 本日曇天    吉田健治

これらの句はブラジルの現代美術家エルネスト・ネトの「身体・宇宙船・精神」のイメージ吟であるという。

さて、川柳においても「自由律川柳」の長い歴史がある。
川柳における自由律について展望するのに便利なのは、『自由律川柳合同句集Ⅰ』(昭和16年1月発行、平成5年3月復刻版)の巻末に掲載されている鈴木小寒郎の「自由律川柳小史」である。というよりこの文章以外にはほとんど資料らしいものがないのだ。小寒郎の文章をもとに、自由律川柳の歴史を素描してみよう。
小寒郎が自由律川柳前史として取り上げているものに、井上剣花坊が「江戸時代之川柳」で述べた「破格より向上へ」の理念がある。

年々歳々人同じからず債鬼       井上剣花坊
母のきんちやくから黒い銀貨が出た

剣花坊調と呼ばれる「怒号叱咤的風格」は柳樽寺系破調・自由律川柳に流れている性格であるという。
大正時代に自由律川柳として突出した作品を書いたのが、川上日車である。

信州小諸ただそれだけでよし    川上日車
焔をつかんでは捨てる
鋏できつてしまつた

大正7年1月、岡山で「街燈」が創刊され、河野鉄羅漢・中原我楽太・亀山寶年坊によって自由律川柳が推進された。小寒郎はこの「街燈」を自由律川柳の意識的出発とみなしている。しかし、「街燈」は1年後に休刊し自由律川柳は「分散時代」に入ることになる。

昭和6年、観田鶴太郎は「ふあうすと」誌上に「寺から帰る母へ月夜となつた」「毛糸買ひに出る妻へ時雨れる」などの自由律作品を発表した。「ふあうすと」内部の自由律派の誕生である。やがて鶴太郎は「ふあうすと」を脱退し、昭和10年3月、神戸で自由律川柳の専門誌「視野」を創刊する。
大阪では昭和8年に「手」が、京都では昭和10年に「川柳ビル」が創刊されている。
小寒郎はこの時期を「分散時代」から「集中期の段階」へ入るものと述べている。

貰って来た大根の寒さである      小寒郎
人の噂にならうとする林檎さくりと噛む 鶴太郎
犬は犬の尾に甘んじてゐる       豊次

小寒郎の記述は昭和10年代で終わっている。
戦後の自由律川柳としては、墨作二郎の長律作品が注目されるが、定型とは異なる「一人一律」「一句一律」の可能性は「短詩」誌における短律派と長律派との分裂などを経て、次第に風化していった。
現在、川柳の世界で自由律が論じられる機会は少ないが、実作者としてどのような立場をとるにせよ、自由律川柳の歴史そのものに対して無関心であってはならないだろう。

土ほれば 土 土ほれば土と水     日車

0 件のコメント:

コメントを投稿